March 14, 2017

【394】ドラマ『99.9 刑事専門弁護士』。仲間とは何か? もう一つの痛快さ。

ドラマ『99.9 刑事専門弁護士』を観た。

例によってけんちゃんが面白いと教えてくれた。
とても面白かった。けんちゃんはいつもいい仕事をする。

「有罪率99.9%という刑事裁判を専門とする弁護師たちの物語」であり、当然主たるテーマはこの高い数字の不自然さ、異常性、その原因である検察の腐敗を描いているのだけれど、僕にはもう一つのテーマが隠されているように見える。このテーマが僕には優れて現代的に思えて、それがとても面白かった。

主人公である深山たちは斑目法律事務所に新設された刑事弁護専門チームに所属している。と一口に言ってしまえるほど実はこの「チーム」、普通ではない。深山はもちろんその上司にあたる佐田も立花という同僚も、言ってみればいわゆるチームプレイはしない。佐田が馬主でもあるほど競馬好きなことを比喩に、チームメンバーは競馬馬に喩えられることが多いが、この馬たち、常にそれぞれまったく別々の方向を目指して走っている。あるいはお互いに競っている。

中でも「僕は事実が知りたいんだ」という深山は「依頼人の利益などどうでもいい」と言い捨て、逆に「依頼人の利益こそ最優先すべきだ。事実などどうでもいい」という佐田と終始衝突し続ける。佐田役の香川照之は僕の好きな役者だけれど、今回もとてもいい。深山に対するイラツキを隠さない佐田の演技は絶品だ。この演技のお陰で、このチームがいかに一般に言われる「チーム」や「仲間」というもののあり方からズレているかが描けている。

この「佐田ファーム(馬主であることから)」に対して、敵役の検察はどう描かれているか。組織として一体であり、一丸となって「正義」を貫くという看板を掲げてはいるが、内部的には上司の顔色を伺い続けた挙句事実を捻じ曲げ、冤罪被害者を生み出している。検察チームメンバーたちの関心は事件そのものよりもドロドロした人間関係に集中し腐心し続けているように見える。その結果、組織も腐敗している。

つまり「チーム」や「仲間」というものの描き方が正反対になっているのだ。

そして、有利な立場にもかかわらず、組織を挙げて一丸となっている検察チームは、それぞれがバラバラに走り回る佐田ファームに負け続ける。

このドラマの制作者が設定したもう一つのテーマはここだと思う。

チームとはいったい何か。
仲間とはいったい何か。

この着眼点が優れて現代的だと思う。言うまでもなく、組織や仲間内、ひいては社会の中で他人の顔色を伺い続け汲々とせざるを得ない「絆社会」の姿を鋭く描いているように僕には思える。

「絆(きずな、きづな)は、本来は、犬・馬・鷹などの家畜を、通りがかりの立木につないでおくための綱。しがらみ、呪縛、束縛の意味に使われていた。」(ウィキペディア

馬だけに絆とは、うまいね。エヘッ、エヘヘ。
5点。

制作者はたぶんこう言いたいのではないだろうか。

チームや仲間、組織、社会、そういったものは本当は佐田ファームのようであってもいいのではないか。それぞれがそれぞれの利益を求め、100人いたら100通りある別々の信念を追い、ただ自分自身を使って一つひとつのことを確かめていく。仲間やチームや組織を接合させる人と人との絆の強さを前提にするのではなく、全く異なった一人ひとりの人間自体を前提としそれらが触れ合うことで成立するチームや仲間だってあるのだ。そういうチームや仲間こそが本当なんじゃないの。何よりそっちの方が強かったりするんだよね。

と。

いやぁ、とても面白い。
つうか、痛快? エヘッ、エヘヘ。


March 9, 2017

【393】『この世界の片隅に』は「反戦映画」ではない。

決定的なネタバレを含みます。

この世界の片隅に』を観た。

終盤のあるシーンまでとても良いと思った。これは良い映画を観たと、あとで思うだろうなと思って観ていた。しかしそうではなかった。

問題のシーンの直前のシーンはこうだ。

すずと周作が原爆が落ちて焼け野原となった広島市内の橋の上にいて、その後ろを「バケモノ」が通り過ぎていく。「バケモノ」の背負う籠からワニが顔を出す。

このシーンで映画は終わるのだと思った。ここで終わって、この映画は、原爆以前の広島の日常を丁寧に描いた貴重な記録映画として、一人の女性の普通の生活と戦争という大きな流れが同居する物語として、完成されると思った。

しかし、終わらなかった。

問題のシーンはその直後に来る。ある母子が被爆し、壮絶な生死としてわかたれる。このシーンのカメラの視点は、突然挿入された未知の視点だ。それまで物語中に登場した誰の視点でもなく、またそこに描かれている母子もそれまで物語中に登場した誰でもない。

僕はこのシーンに強烈な違和を覚えた。この後、この孤児がすずと周作に出会い、二人とともに呉へと行き、北條家の一員として迎えられ物語が終了していく展開を、だから僕はほとんど冷静に観れていない。エンドロールでこの子が成長していく様を観ながら、行き場のない憤りでほとんど震えそうになっていた。

いったいあの子はなんなのだ。

あまりに唐突すぎてついていけない。監督はいったい何がしたかったのだ。

もしもこうなら話は早い。時限爆弾で爆死した晴美の喪失に対して、その母親である径子の悲しみが十分に回収できていない。だからその回収のために孤児が必要だった。あるいは、原爆を描いた映画であるにも関わらず、原爆の描写のインパクトが今ひとつだった。だから凄惨さを追加した。

こういう理由で「橋」以後のシーンを追加したというのであれば、何の事はない失敗だ。もっとうまくやる方法はいくらでもある。あの唐突さで付け加える必要性はない。

しかし、そうなのだろうか。その直前のシーンまで、これほど見事に積み上げてきた映画がそんな失敗をするだろうか。そんなはずはないんじゃないか。ではいったいなんなのか。それがわからないまま、僕の目の前で映画はあっさりと終わってしまう。そのことに僕は憤っていた。

映画館を出て、階段を降り、一緒に見ていた澪と近くのマクドナルドへ行き、いったい何だったのかという話をしだして、ようやく僕は落ち着いてきた。そして、結果としてあのシーンはただのやり損ねた追加ではなく、この映画全体の大きなチャレンジに気づかせるための重大なシーンだと思うようになった。そう思ったとたん、映画中の幾つかのシーンが蘇った。

玉音放送を聴いたすずが猛烈に怒る。最後の一人まで戦うと言ってたじゃないか。だから自分も必死に戦ってきた。それが勝手に負けたとはどういうことか。ここにまだ5人いるじゃないか。地面に突っ伏して大粒の涙をぼろぼろと流す。

この映画は終始すずの視点で描かれている。そのすずはごく普通の女性としてごく普通に戦争中の広島に生きている。ぼーっとしたところはあるけれど、とても優しくとても魅力的なすず。そのすずがそう怒っている。最後の一人まで戦うことを信じて生きていたのだ。

僕たちはともすると、戦争中の一般人は権力層の暴走の犠牲になったと思いがちだ。もっと直接的な言い方をすると「騙されていた」「洗脳されていた」と。だとすれば、このすずはその典型になってしまう。

また、物語中、時折、年月日が入る。それが現れるたび、観ている僕たちはある予感が生じる。広島という場所が暗示する「ある日の出来事」に向かう予感。世界史に刻み込まれるある出来事。年月日のテロップはそれへ向かう物語上のメタファーとして機能してしまう。

しかし、物語中のすずたちにとって、その年月日はただとにかく毎日を生きていくことの連続の結果に過ぎない。増えていく空襲警報の記録文書は、すずたちにとってはただ起こったことを書き留めたものにすぎない。だれも、いずれ訪れる壊滅的な出来事を予感してはいないのだ。

この映画の描写は、とても注意深く史実を追うことで、すずたち登場人物の視点に懸命にとどまっている。それなのに、観ている僕たちはどうしようもなく「運命の日」への途上として観てしまう。僕達が「原爆」と呼ぶその出来事以前の日付としてテロップを観てしまう。

日常が描かれているだけに過ぎないのに、僕たちはある未来の決定的な出来事から逆算するように観てしまう。感じてしまう。何も知らない純朴なすずたちに哀れなフィルターを掛けて「モノクロ」の画像として観てしまう。

どうしてそう「観てしまう」のか。暗示として「感じてしまう」のか。そのこと自体をこの映画は問おうとしている。僕達が戦争中のこの場所を薄暗いフィルターごしの景色として見てしまうのはどうしてなのか。

もし軍部の暴走を防げていれば、もし列強とうまく折り合っていれば、もしもっと早く講和が成立していれば、もし・・・。

こういう仮定の不幸な選択の連続によって、日本という国はあの悲惨な戦争に突入し、悲惨な結末に行き着いたのだと、僕たちは思いがちではないか。つまり、もっと賢ければよかった。もっと周りを見れていればよかった。なのにそれができなかった。それができない不幸な時代の不幸な人々だった。だからあんなことになったのだ。と。

しかし、本当はそうではない。そう見てしまってはその時生きていた人の目の前にあったものを見ることはできない。

もしその子を握る手が右手ではなく左手だったら、もし下駄をすぐに脱いで全力疾走すれば、もし爆風に乗って板塀の隙間を通り抜けていれば、もし・・・。

晴美が爆死したあの時、どこにもすずと晴美の居場所がなかったように、その時日本という国はそうだったのだ。

この映画は、僕達が戦中戦前にかけてしまいがちなフィルターそのものを顕在化しようとしている。戦中戦前を醜化するのではなく、かといってもちろん美化するのでもなく、ありのままに映し出そうと精一杯作られた映画。それをあなたはありのままに観ましたか、という問いが練り込まれている。

その最大のシーンが、あの母子の被爆なのだ。

映画を観ている僕達にとって、それまでまったく物語に登場しなかった視点と人物が映し出された凄惨なそのシーンは、すずたちのどうしようもなく連続する日常にとって、突如出現した凄惨で非常な出来事に該当する。僕が感じた憤りや戸惑いはすずが直面した憤りや戸惑いだ。日常の中に突如として出現した、それまでとは全く異なる視点と状況への憤りと戸惑いである。その後の孤児の成長は、あとからどう言われようと、どう解釈されようと、ただそれは紛れもなく突如起こった重大な出来事によるものであり、重大な出来事によって「その後」は出現してしまう。

監督は、原爆とこのシーンを両義的な「gift」(英語で「贈り物」、ドイツ語で「毒」)と位置づけたのではないか。僕たちは原爆と敗戦によって生まれたあの孤児なのだ。原爆で親を失った孤児が新たな家族として迎えられ、育っていくのは、この日本という国が、あの瞬間以降そういうふうに育ったということなのだ。戦中戦前という過去の歴史を観ていたはずなのに、あのシーン以後、今の自分へと連なるドキュメンタリーにすり替わった。そのことに僕は動揺したのだ。

もし、「新型爆弾」以前のすずが、僕達の今の暮らしを観たらきっとこう思うだろう。あなたたちの暮らしは、新型爆弾と敗戦によって生じた。あれから70年たったとしても、私達には、新型爆弾と敗戦が暗喩された景色としか見えない。町並みも生活もあなたたちの暮らしのどこをとってもそれを感じずにはいられない。あなたたちが、わたしたちの暮らしを戦中戦前の薄暗がりに感じるように。

シネコンで映画を観たあと、マクドナルドでコーヒーを飲み、アップルパイを食べる僕は、そうかもしれないけれど、そうじゃないんだ、たしかに原爆と敗戦は大きな出来事だった、しかしそれだけではない、僕たちは毎日を生きている、なんとかどうにか生きている、それをそのまま観てくれないか、と「この世界」の片隅からすずさんに答えたい。


追記:
片渕須直監督がこの映画について「理念で戦争を描くのではなく実感できる映像にしたかった」(ウィキペディア)と言っていることと、スタンリー・キューブリックが『フルメタル・ジャケット』を(反戦映画という意識はなく)「戦争そのものを映画にしたい」という意図でつくった(ウィキペディア)ことは、僕が見る限り同じ意識のもとにあると思われます。その意識で戦争を市井の視点から描いたのが『この世界の片隅に』で、軍の視点から描いたのが『フルメタル・ジャケット』です。

March 7, 2017

【392】矛盾の距離。

言葉というのは高濃度に矛盾を含んでいる。許容しているとも言える。

「相手のことを考えなさい」という言葉を発する話者は、その言葉を言う相手のことを考えているようには見えない。どちらかというと自分自身の苛つきや怒りに重心があって、それを相手にぶつけることが主眼になっているように見える。この自家撞着は中距離のループを描いている。つまり投げつける相手を想定し、経由している。

「自由でなければいけない」という言葉は、自由についての言葉であるよりは禁止についての言葉である。この自家撞着はとてもコンパクトで、ほぼ最短のループを描く。この言葉だけで完結でき、それを聞くものを経由する必要がない。

ある考えをずっと伸ばしていったとき、気がつくと元いた場所の裏側であるという長い距離の自家撞着はその経路で少しずつ弧を描き戻ってくる。

言葉は、矛盾というものについて濃淡や距離といった豊かさを含んでいる。言葉は論理を基盤としない。論理が言葉の豊かさの中に育った希少種に過ぎない。

ということを論理的な文体で書くことの無意味さよ。

March 3, 2017

【391】ダンスのようなもの

ダンスはいいよね。

音楽に合わせてついつい体が動くよね。


踊ってると楽しい気分になるよね。


ダンスって情熱的だよね。


ダンスやりたいな。