May 31, 2022

【831】「自己肯定感」という言葉の使われ方。

 特に心理学的な素養があるわけではなく、単なる言葉として見た場合の「使われ方」に対する考察です。

 「自分はすごい」「自分は正しい」「自分は間違っていない」と「感じる」といったような意味合いで「自己肯定感が高い」と使われている場面を目にするのですが、僕が言葉から感じるものとは少しずれているように思えます。こういった少しのズレは、ニュアンスとでもいうようなものなので、なかなか言い当てにくいのですが、その違和感について書いてみます。

 まず「自分はすごい」というような感覚自体が大切だということはそうだと思いますが、これを抽象的な名詞として名指しするのだとすれば、僕なら「自己賞賛感」といった言葉にします。というか、わざわざ作らなくても「誇り」とか。「誇りを持とう」「誇り高き」といった感じで。

 また、「自分は正しい」「自分は間違っていない」と「思うようにする」、みたいな「感覚」は、少し意地悪な言い方かもしれませんが「自己正当化感」とでも言ったほうがいいかもしれません。

 いずれも、僕が「自己肯定感」という言葉から受ける印象からすると、付加価値が乗っかってしまっているように感じます。クラッカーの話をしていたら、レバーパテがないとダメだよね、というような話をされたような違和感です。

 僕の実感として、単なる言葉として見た場合の「肯定」は、もう少しフラットに「その通りだ」といったことで、否定である「そうではない」とに対立しています。

 これで行くと「自己肯定感」という言葉は「自分がその通りだと感じる」といった程度の意味になります。特別な解釈が必要なものというよりは、ごく当たり前に「自分というものがある感じ」です。これをわざわざ「自己肯定感」という言葉で取り出して概念化した結果、そういった抽象化と概念化の「手間」に対する「ご褒美」として「付加価値」をもってしまったのかもしれません。

 それで。

 「自分はすごい」「自分は正しい」「自分は間違っていない」というのを付加価値的に捉えられてしまった結果、よく見かける「自己肯定感を高めよう」というフレーズが「自分に新しい付加価値をつけよう」というように扱われて、「自己肯定感を高めるセミナー」といったような、一種の「習い事」化まで行ってしまう。

 しかし、自己肯定感が言葉上では「自分がそのとおりだと感じる」ということだとすれば、よりくだけた言い方をすれば「自分がいると感じる」といった程度で、むしろ、あらゆる価値観の前提となる「自分」の存在の「肯定」を「実感する」ということに思えます。前記の「付加価値」を含んだすべての価値判断の「前提となる自分」というもののレベルの話です。

 ときに「自分はすごい」と思ったり、「自分は駄目だ」と思ったり、「自分はありふれている」と思ったり、「自分は正しい」と思ったり、「間違えてしまった」と思ったりといった諸々の「思ったり感じたりする」ことの「土台となる自分(自己)」が「存在する(肯定)」「よね(感)」ということが自己肯定感という言葉の意味なのではないかと。どうなんでしょう。

 前提の話をしているのに、いつの間にかその前提に乗っかっちゃったものの話になってしまっている、という感じで、僕はこれが結構気になるのです。乗っかっちゃものの話がどうころんでも、前提はそのもとで話題に上ることなく省みられることなく静かにそこにあり続けているんだよね、という僕の違和感の話でした。

May 30, 2022

【830】家で芸術祭をやる理由。

 まるネコ堂と称している自宅で芸術祭をやっています。他にも、合宿や講座などの催しもやっています。さらに、「キャラペイス」という名前でやっている革製品の製造販売も同じ空間を工房として使ってやっています。最近では庭で畑もはじめました。

 こうやっていろんなことを自宅でやっていることの理由はいくつかあります。そのうちでおそらくこれが一番大きいと思うのは、この場所の隅々まで生きている状態にしたいということかなと思います。

 芸術祭にしろ合宿や講座、工房も、そのいずれに対しても「何かをやるための場所」という意味では必ずしも自宅が最適なわけではありません。それぞれに適した場所があって、それを探してそこでやるほうが効率的だったり効果的だったりします。この事自体は、その通りだと思っています。

 言い換えれば、なにかやりたい目的化された対象が予めあって、それを実現するための道具として「自宅」を選んでいるわけでは、必ずしもありません。そうではなく、あるいは、そうでありつつもむしろ、この家やこの場所が活性している状態である、その状態を好ましいと思っていて、それによってやりたいことが派生していっているということになります。

 もちろん「目的があって手段を選ぶ」という順序で物事を行うという意識もあるのですが、それだけではなく、その「目的」やそれ以前の「何かをやりたい」という意欲が生み出されてくる土台としての場所をやっている感じです。

 そのために、家でやることは何でも良いわけではなく、これがやりたいと心から思えることである必要があって、そうでないと「隅々まで生きている」という感じにはなりません。「やりたさ」が含み込んでいる爪の先まで行き渡っていく「貪欲な繊細さ」が重要なのです。

 基本的にいつも感じていることとして、この家は僕たち家族が現代的な日常生活を送るためだけには、大きすぎるし広すぎます。ごく普通の古い建売の一軒家なのですが、そもそも家や場所というものの潜在的な力(可能性)は「こんなものではないはずだ」という気がするのです。

 この家とこの場所のもともとの力を発揮したいし、発揮できる状態にしておきたいと思っています。これが今のところ言葉になる、僕が自宅でいろいろやることの理由です。

 こうやって言葉にすることで、ここから先が見えてくるのですが、この家やこの場所を活性させるために、家にこもっているだけのほうがいいのかというと、たぶんそうではなく、外に出ることで家に呼び込むようなこともしたほうがいい気もしてきます。そういうフェイズもあるだろうなと思っています。

May 29, 2022

【829】本を読むことの面白さをできるだけ言葉にしてみる。

 好物があったとして、そのどこが好きかを言うのはなかなか難問なのですが、あえてやってみようと思います。

 本を読むということで僕自身に何が起こっているのかを記述してみるというアプローチで考えてみます。

 まず、「知りたいことを知ること」や「知らなかったことを知る」といったときの、ぱぁっと明るくなる感じがあります。これが楽しいしうれしい。

 知りたかったことや知らなかったことは自分の外側にすでに在って、それが自分へと合流してくるような感じもあります。

 これを一言で言おうとしたときに僕が一番近いと思うのは「消化」です。食べ物を口に入れて、それが自分に「なっていく」感じです。

 難しい哲学書などは消化の難しい食べ物という感じで、歯が立たなかったり、丸呑みしても消化しきれずにそのまま出てきちゃったりする。少しでも自分の顎で噛み切れたり、噛み砕けたり、胃腸で吸収できたりするとうれしい。

 この「消化」で読書の面白さの半分ぐらいが説明できている気がします。問題は残りの半分。

 こっちは、「何かが呼び覚まされた気がする」「何かがはじまってしまう」「悩みや問題が生じる」といったときの、ゾワゾワとした居心地の悪さです。本を読むことで、それまでは無かったものが生じてしまう。これが面白くてワクワクする。

 この「何か」は自分の外側にすでに在るのではなく、自分から生み出されるような感じです。

 これを一言で言おうとすると、なかなか難しいのですがあえて言えば「受胎」です。あるいは「出産」。自分の中で自分から自分ではないものが生じて、生み出されていく感じです。

 難しい哲学書をどうにか消化できるとパァッと明るくなるのですが、同時的にその裏側でこのゾワゾワとしたプロセスが生じています。

 この二面性が、今、言葉にできる本を読むことの面白さです。こうやって二つに分けて説明することでだいぶわかりよくなりますが、僕自身には、これらが一つのこととして起こっています。二面が絡み合っているといえばいいのかもしれません。紙の表と裏のように、もともと一体のものを視点によって分けて見ているだけで、紙自体は一枚という説明がスマートかもしれない。

 さて、このように僕の語彙だと「消化と受胎・出産」となりますが、一般的には「理解と発見・気づき」などになると思います。意味としては同じようなものかもしれませんが、雰囲気は違っていて、僕にとって本を読むことの「面白さと楽しさ」は、ぬめぬめとやわらかく、生温かい、内的でプライベートなイメージを伴うものです。変わってしまえばもとには戻れないようなことを強く意識したりもします。性的な領域での出来事とも言えるのかもしれません。

 そういうわけで、10代前半のころは、好きな本について話すなんてことは、共通の読書趣味を持つ友人とこっそりうちわでやってしました。「公開の場」で自分の読書体験を話すなど、とてもできなかった。今でも、かなりドキドキではあるのですが、そんな僕が読書会やゼミを喜んで主催しているわけで、いよいよ露出趣味も極まったなと、感慨深いものがあります。

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まるネコ堂読書会 参加者募集中です。

#1 2022年6月4日土曜日 千葉雅也著『現代思想入門』


May 28, 2022

【828】コーヒーの一部をどくだみ茶にリプレース。

朝、アラタを保育園に送り出し、掃除や洗濯を終えて一杯。

昼食後に一杯。

おやつとともに一杯。これは無いときもある。

夕食後に一杯。

と毎日3、4杯飲んでいたコーヒーの一部をどくだみ茶に置き換えてみています。とりあえず夕食後の分から。

コーヒーは今でも好きで、特に体調に影響が出ているわけでもないのだけれど、そんなに飲まなくてもいいかなとは思うようになってきていました。朝のコーヒーは素晴らしいけれど、流石に4杯目ぐらいにもなると美味しさの感動は減るわけで、その残念さが残念。

ドクダミは庭に元気に生えていて、刈り取って吊るして干して焙煎してお茶にします。焙煎はしなくてもいいのだけれど、焙じた味が好みなので。こういう工程を一つ一つ進めていく楽しさがあります。

夕食後のコーヒーをどくだみ茶にしはじめて二週間ほど経ちますが、どくだみ茶でも十分に満足です。夜中にトイレに起きることがなくなったのが嬉しい誤算。朝のコーヒーのありがたみもこれまでより増して、これも嬉しい。

もう一杯分ぐらいリプレースできるかもしれない。

May 27, 2022

【827】芸術祭の記録動画と図録できました。

 先月開催した第2回まるネコ堂芸術祭の全出展作品を紹介した動画と図録が完成しました。


図録pdf


芸術祭の雰囲気や何を重要だと思ってやってきたかなどをできるだけ残しておこうと作ったものです。ご覧いただければうれしいです。






May 26, 2022

【826】ノートをとりながら本を読む楽しさ

  • 自分ではうまくできない。
  • 僕のようなタイプには不要だ。
  • でも、やっている人を見るとうらやましい。

僕にとって、以上の3点を満たす典型が「ノートをとる」で、僕は本当にノートをとってこなかった。未だに、うまくできないし、心の何処かで「僕はそういうタイプじゃない」と言い訳しつつ、でも、素敵なノートを見ると羨ましい。

一応、ライターという仕事をやっていたので「メモをとる」のはできる。たぶん得意。でも、メモとノートは違うと思う。

メモは、
  • 一時的に、
  • 原稿という完成物を作る「ための」中間物で、
  • 用がすめば捨てる。
これでいい。

ノートは、
  • 「それ自体として」作っていくもので、
  • そこで何かを「生み出していく場所」だ。
ああ、ノートって素敵。ノートとってみたい。

ということで、6月に読書会を始めるので、せっかくだから読書ノートをとってみることにしました。

今はこんな感じ。

これでも自分ではかなりうまくできていると思ってます。

ノートをとる初心者として気が付いたポイント

1 字はていねいに
2 わからない漢字は調べる

これは大切、だと思う僕、小学生。

読書会、第一回は6月4日土曜日、千葉雅也著『現代思想入門』です。面白い本です。

追記:スピノザ「エチカ」ゼミのためにグーグルドキュメントでノートをとっていますが(これはわりと得意)、紙のノートとは別物だと思う。

May 24, 2022

【825】まるネコ堂読書会のサイトを作りました。

読書会、6月4日に第一回として千葉雅也さんの『現代哲学入門』をやります。ちらほら申し込みを頂いていてありがたい限りです。

本について話すことができる場所は、ずっとやりたいと思っていて、これまでにもいろいろとやってみているのですが、できるだけシンプルに長く続けられらばいいなと思っています。

読書会のサイトを作ってみました。シンプルすぎて怪しい感じですが、このサイトも読書会の変化に合わせて、少しずつバージョンアップしていこうと思っています。

まるネコ堂読書会 


May 13, 2022

【824】読書会の告知です。千葉雅也著『現代思想入門』

 久しぶりに新規の催しをしたいと思います。

 本です。千葉雅也著『現代思想入門』

 まだ半分も読んでないのですが、面白すぎてしばらく読み終わらなそうです。

 新書なので分量は少ないし、文章もわかりやすく書かれているので目を通すことはすぐにできるはず。なのになかなかそうならない。少し読むたびに、内容に関係することや、そこからズレたこと、全く関係なさそうなことまで、次々と立ち上がってしまって、気がつくと本を置いて部屋をぐるぐる歩き回って考え事をしている。

 これまで当たり前だと思っていたことが、そうではないかもと、別のところに繋ぎ変えられてしまう。まさに聞きたかったことを聞かされたり、ずっと聞きたくないと思っていたことを聞かされたり。ウズウズ、ゾワゾワ、すっきりしない。大きくなったり小さくなったり、うねりとさざなみが消えることなく続く。

 これらは、僕にとって面白い本を読んだときに共通することです。こういう本はあんまりないです。

 簡単に読み進められないけれど、だからといって難しい内容ではない。読み終わる目処も立たない、立てたくない。読み進むことが正しいという気もそもそも起きず、気がつけば、本と関係がないようなことをついつい始めている。

 ということで、だれかとこの本について話をしたいととても思います。読書会をやります。

 シンプルに、本を読むことが楽しくて面白いと思えるような会にしたいと思っています。興味持った方が気軽に来ていただければうれしいです。なぜかうちのイベントは敷居が高いと思われがちなのですが、ふらっと迷い込んでください。

■まるネコ堂読書会#1 千葉雅也著『現代思想入門』

日時:2022年6月4日(土) 13:30-16:00

会場:まるネコ堂+オンライン(Zoom)

参加費:1000円

内容:本について参加者で自由に話します。聞いてるだけでも大丈夫。

推奨すること:

1 本を読む。

 読んでなくても参加可能ですが、読んでおいた方が楽しめると思います。

2 読んだ感想などのメモやレジュメ(形式自由)を作って提出。

 なくても大丈夫ですが、なにか思ったことを自分なりに書き留めておくと読書自体の雰囲気が変わるし、読書会で喋るときも喋りやすいと思うのでこちらもおすすめ。

3 会場での参加。

 来場可能な方はぜひ会場へ。オンラインだと参加の目的がはっきりしすぎて、それ以外の想定しない出来事が起きにくい傾向があります。自分自身で思ってもみなかったことが起こってほしいなという方は、ぜひ会場に。

申込み:

 まるネコ堂の大谷までメール(marunekodo@gmail.com)かメッセージで。


May 2, 2022

【823】第二回まるネコ堂芸術祭、閉幕。

 第二回まるネコ堂芸術祭が4月30日に無事閉幕しました。

 最終日は特に天気もよく、多くの方にご来場いただきました。ありがとうございました。本当にうれしいことです。来場できなかったけれど、気にかけてくださってご連絡いただいた方もいらっしゃって、これもまたとても励みになります。改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。

 2020年の3月、新型コロナウイルスによるこの「特殊な事態」も、ひと月も経てば元通りだろうというとても甘い見通しで、その年のゴールデンウィークに最初の芸術祭開催を企画しました。しかし、そうはなりませんでした。結局、当初想定したごく普通の「有観客」での開催が実現したのは二年後となりました。

 やりたいこと、やってみたいと思うことをやろうとした途端に、一歩目から躓くというのは表現の世界ではよくあることですが、この芸術祭そのものがその典型かもしれません。躓いて転びながらその都度どうにか起き上がって、また歩きはじめ、躓く、ということを繰り返して、ようやく、最初に見えていた、とりあえずあそこまで行ってみようというところまで、やってきました。「会場に作品を展示して、直接見てもらう」。こうして言葉にしてみると「芸術祭」としてほとんど最低限でしかないようなことに二年がかかったわけです。

 さて。

 少し顔を上げて、ここから見えるものを見ながら、また一歩、進めていきたいと思います。

 一緒に芸術祭を作ってきた出展者、実行委員には、ただただ感謝です。これからも、よろしくおねがいします。

2022年5月2日

まるネコ堂芸術祭実行委員 大谷隆


第二回まるネコ堂芸術祭