January 29, 2017

【387】「読む・書く・残す探求ゼミ」でドラッカーの『非営利組織の経営』第1章を読みました。

1月28日の「読む・書く・残す探求ゼミ」は、けんちゃんがしばしば見せる鋭いひらめきによって急遽ドラッカーの『非営利組織の経営』第1章を読みました。

この本は昔読んだ記憶があるのですが、その時以上に刺激的でした。こんな本だったのか。

ドラッカーがどのような意識で、どのような人に向けて、どのような世界を志向し、この本を書いたのか。

成功が絶対的善であること。
成功とそれ以外は明瞭に二分法で峻別されるということ。

そのような世界認識によって「非営利組織」では(であっても)、「機会」すら選択的な対象としてリーダーが決める。

20世紀的なアジテーションを思わせる壇上の演説めいた文体は、翻訳家の意識によって選択されたものかもしれないけれど、だとしたら翻訳家にはドラッカーの意識が忠実に浸潤していたのだと思う。リーダーたちのリーダーたるドラッカーの「カリスマ的」リーダーシップに貫かれた文は、圧倒的な力強さによってあらゆるものを押し流し、読者はその快感に浸ることができてしまう。

このドラッカーの意識によってアメリカの医療や教育機関、そして「非営利組織」たちは現在果たしてどんな情況になっているのだろう。たしかに「成功」はしたかもしれない。けれども、それはその組織のはじまりからどれほど隔たったのだろう。

いいタイミングで読んだなと思いました。

【386】「読み明かす会」のはじまりに寄せて


トップページにいきなりけんちゃん(小林健司さん)と僕の名前が出てきたのもあってドキドキしている。あぁこんなふうに思ってもらっていたのかとうれしい。海底深くもぐっていくイメージは本当にそうで、そうそう、そうなんだよという気分になる。そう書いてくれていることにうれしい。

そのあとを読んでいくとそのうれしさを追いかけるように焦りが出てくる。すでに、こんなにも鮮やかに文字にできていることに嫉妬が交じる。そして改めて「読み明かす」なんていうとても素敵な言葉まで掲げていることに、もうくやしい。

一冊目の本を選ぶ動機に「この本以外にすることは可能だったけど、そうゆうわけにはいかなかった」とある。「そうゆうわけにはいかなかった」確からしさというのはどこにも紐付けられていない。こうだから確かという「こうだから」がない。それを支えているのは確からしさがただあるということ。未だ無いことを決めるというのはそういうことだ。可能性という無限の無から、何かがただ出来(しゅったい)する。

この根拠がない、なんの頼りもない確からしさによって決めることが、それまで存在しなかった世界へ自分を押し出していくことを僕たちは知っている。世界が「あける」。

アロー(中川馨さん)とはまこー(濵田恒太朗さん)に僕たちが何かしらの影響を与えたのだとしたら、それは僕たちが僕たちの確からしさを確かだと思っていることだ。

何かがはじまるとき、それまでのすべてによって支えられてほんの少しだけ「あける」。ほんの少しだけれど紛れもなくそれは一つの世界である。こうして二人の何かがはじまるのだなと思う。

中川馨、濵田恒太朗「読み明かす会」

January 19, 2017

【385】freetelの「節約モード」でGoogleドキュメント。

freetelの節約モード。
MacBook Airをテザリングで使った場合。
使用スマートフォンはPuriori3 LTE。
(2017年1月19日時点)

できること

・Googleドキュメント
・Googleスプレッドシート
・Bloggerの投稿(画像を扱わない場合)

いずれもMac版Google Driveはインストールせず、ブラウザ(Chrome)上での動作。
最初の読み込みに時間がかかるけど作業自体は問題なさそう。

できるかもしれないけどやりたいと思わないこと

・フェイスブック

画像の読み込みがかなり遅れる。

できそうにないこと

・YouTube動画閲覧


January 14, 2017

【384】「日本国憲法をバカ丁寧に読む会」第4回の感想。

7回シリーズで行っている「日本国憲法をバカ丁寧に読む会」。

第2回の第一章天皇、第二章戦争の放棄の感想は、こちら
第3回の第三章国民の権利及び義務の感想は、こちら

第4回(2017年1月12日)は、第四章国会。

無味無臭の手続き感に裏返された思想性


第三章までは思想性とも言うべき、「良いこと」への方向感が濃厚にあった。例えば、

第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。
など。日本という国にとどまらず、世界、それも今はまだない理想の世界への夢想を思わせるような思想性は、第四章では、ところどころ落ち切らない汚れのようにこびりついて残っているだけに思えてくる。例えば、

第四十四条 (略)但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない。
と但書のレベルにまで劣化する。その分、前に出てきているのが「手続き」そのものである。

手続きの持つ無味無臭感の最たるものは、「バカ丁寧に読む会」参加者の多くが指摘したように「数字が目立つ」ことだ。数字の持つ客観性の強さがそれまでの「言葉」主体の主観性の強さに比べて、大きく異なった印象を与える。

さらに、具体的に数字が記されている箇所を見ていくと、この章で記載されている数字は、大きく二種類にわけられることがわかる。

一つは、期間、期限を表すもの。

第四十五条 衆議院議員の任期は、四年とする。
第四十六条 参議院議員の任期は、六年とし、三年ごとに議員の半数を改選する。
第五十四条 衆議院が解散されたときは、解散の日から四十日以内に、衆議院議員の総選挙を行い、その選挙の日から三十日以内に、国会を召集しなければならない。
第五十四条 (第三項)次の国会開会の後十日以内に、
第五十九条 (第四項)六十日以内に、
第六十条 (第二項)三十日以内に、

もう一つは、割合。

第五十三条 いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、
第五十五条 出席議員の三分の二以上の多数による議決を必要とする。
第五十六条 その総議員の三分の一以上の出席
同(第二項) 出席議員の過半数
など
ここで一つ疑問が出る。こうやって具体的な数字が上がっている条文がある一方で、いくつかの条文では「法律でこれを定める」と憲法そのものには具体的数字を挙げていない。

第四十三条 両議院の議員の定数は法律でこれを定める。
つまり議員定数を変えることは法律の変更で可能だが、第五十四条の「十日」を「十一日」にするには憲法改正が必要になる。

何を憲法に直接書き込み、何を法律で扱うことにするか、という問題は、憲法というものの存在に対して「致命的な」ことであるはずだ。国会が「唯一の立法機関」と憲法に書かれているように、国会という機関は超法的な存在の側面がある。「法律の定めるところ」というのは、極論すれば「国会の自由になる」ということで、そのために「国会の自由にならない」部分として、憲法に直接書き込まれた文言、特に数字が意味を持つ。

そういう意味で見た場合、本章に出てくる二種類の数字「期間・期限」と「割合」の持つ意味に何が込められているかが感じられてくる。

「割合」の方は、論理性というかある種の普遍性を表している。過半数、三分の一、五分の一、三分の二といったそれぞれの割合は、人類にとってある普遍的な割合として機能するのだというロジカルな意思を感じる。賛成反対のどちらの立場にたったとしても、「過半数という割合は人間として納得性がある数字だ」と言った具合に。

一方で「期間・期限」を示した数字は、そういった人類にとっての普遍性を標榜しているのだろうか。たしかに、人間の寿命は歴史的にそう大きくは変化しない。そこからの逆算として、国会議員という立場に立ちうる期間の一区切りが「四年」だったり「六年」だったりというのは、人間の寿命に対する割合として合理性がある、ということだろうか。もしそうだとすれば、任期が四年あるいは六年であったり、通常国会の開催が年一回であったり、予算が年一回策定されたりすることを根拠にして、相対的に「六十日」や「三十日」や「十日」という日数がロジカルに算出されているのだろうか。

おそらくそうではない。

この絶対値としての日数や年数の意味は、議決に必要な議員など「割合」の数字と根本的に異なっている。その鍵は、この章全体に漂う無味無臭な硬質な手続き性とも関連がある。

現実の国会議員がどのようかはともかくとして、この条文を読む限り、議員というものになることのメリット、魅力は全く感じられない。むしろ高いリスクを感じる。国会という場は「唯一の立法機関」であり、超法的な存在だからだ。

国会という場に立ったときに想定しうる最も危険な状況は、自分自身とそれに同調する人たちが法律から疎外されることだ。国会で多数派になった場合、少数派を根こそぎ「逮捕」できる法律すら作りうる。この時、少数派を守ってくれるものは何もない。

にも関わらず議員になろうとする人にとっては、「四年」や「六年」という期間が、「法律ではなく」「憲法の上で」確保されているというのは極めて重要なことだ。また、国会という場が開かれる日数が、「三十日」「六十日」と確保されているのも同様、これがなければ恐ろしてく議員になりようがない、という意思を感じる。それは憲法の意思と言ってもいいものだろう。

それが対立する緊張として現れるのが、議員の不逮捕特権で、

第五十条 両議院の議員は、法律の定める場合を除いては、国会の会期中逮捕されず、会期前に逮捕された議員は、その議院の要求があれば、会期中これを釈放しなければならない。
憲法が認める「特権」であることと、「法律の定める場合を除いては」という法の下への従属とがギリギリでバランスしている。

この緊張は、憲法と法との対立の緊張であり、理想と現実との対立の緊張である。「良いこと」へ向かおうという思想と、情況がギリギリまで押し込まれた妥協との対立の緊張である。

つまり、前文、第二章、第三章によって「近代民主主義によって目指された世界」があり、それが逆向きに縮退した民主主義の限界的状況として第四章国会はあるといえる。

January 13, 2017

【催し】「ぼくたちの一年会議」のご案内

日程を毎週水曜日に変更しました。(2017年4月18日追記)

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小林健司と大谷隆が続けてきた「会議」はちょっと変わっています。

一年ほど前、二人で「ナニカ」をしようという漠然としたスタート地点から、ほとんど毎週、ただカフェでお茶を飲んだり、河原でお酒を飲んだり、ときには全く何も話さない「会議」をしてきました。他の人からはただダラダラしている二人組にしか見えず、とても会議をしているとは思われなかったでしょう。自分たち自身でさえも何もしていない気がして幾度も不安にかられました。

しかし、振り返ってみると驚くほど豊かな事実がぼくたちの足跡のまわりに転がっています。雑誌「言語」発行、東京での「読む・書く・残す探求ゼミ」、「日本国憲法をバカ丁寧に読む会」など、たくさんの自分の人生に欠かせない出来事が起こりました。

今もその歩みの途上にいるわけですが、こうして二人で会って話し合うとなぜかナニカが形になっていく、という現象を繰り返し目の当たりにする中で「これはどうやら間違いないぞ」と思えるようになったことがあります。

それは、本当にじぶんに一番近いことを決めたり話し合ったりするときには、目的とか議題とか話の整理などといった、いわゆる「良い会議」の手法は邪魔になる、ということです。

理由は簡単で、自分から離れているものなら、いくらでも整理したり分解したり、合理的な判断の元で意思決定したりすることはできますが、自分に近いこと、とりわけ自分自身でもはっきりと分からないくらい自分の中心をなしていることについて、安易に整理や分解をしてしまうと、ほんのちょっとの事実を全てだと勘違いしたり、表面だけしか見ていないような結論に達したり、自分自身とかけ離れたことを話し合うことになるからです。

何かを決めるということは、目の前の世界をよくよく見た結果「そうせずにはいられない」状態になることです。あとになって「すべてこのためだったのか」と思うようなことです。自分自身そのものにとって、予め目的や議題はありません。

本当に自分自身にとってこうとしか見えないようなこと、そうとしか感じられないこと、どうやってもこうやってしか考えられないこと、そういうものの中に豊かさが詰まっている。しかもそれは自分だけじゃなくまわりにいる人まで豊かにする。なぜなら、自分にとってあたり前の世界が、他人にとってあたり前の世界と触れた時に初めてあたり前じゃないことが分かって、触れ合った分だけ世界が広がるから。

ぼくたちは、こんな「会議」を延々続けて、多くのことを実現してきました。その土台を元に、もう少し一緒に参加する人が集まったら面白いんじゃないかと思い、一年という期間の会議をここに宣言いたします。

場所:まるネコ堂 もしくは 参加メンバーが合意したどこか。
   (第一回目はまるネコ堂で開催)

期間:2017年4月1日のキックオフ会議が第一回(終了)
   2018年3月末までの予定。
   毎週水曜日13時ごろから17時ごろまで。

定員:各回3名程度。
   キックオフ会議、クロージング会議のみ8名程度。

参加費:一回3000円のチケット制(どの回でも参加可能)
    11枚綴り30,000円

主催:大谷隆、小林健司


申し込み:大谷(marunekodo@gmail.com)までメールで。

January 6, 2017

【383】久しぶりにラーメンズ「銀河鉄道の夜のような夜」。

ラーメンズと言えば傑作「銀河鉄道の夜のような夜」。

傑作すぎて途中で見ていられなくなる。何かがギリギリまで張り詰めていく。この張り詰める感じは宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」と同質のもので、予感と予兆、つまりあらかじめ起こってしまっていることへ向かってしまわざるを得ない感じと兆しの密度だ。


コント中盤でお母さんの声が舞台全体に響いて、しかもなんとも怪しく、本当にそれがお母さんなのか、本当にそこにいるのかわからない感じで演出されているのだけれど、これは僕が宮沢賢治の原作を読んだときに像を結んでいたお母さんの声やその「見えない姿」と極めて似ている。
この物語はそもそも誰の物語なのか、誰が生きているのか、そういうことがあやふやなものとして、しかしあらかじめ起こってしまっている。

January 5, 2017

【382】無題

言葉の表出、冬合宿2016」で僕が書いた文章です。
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大谷 隆

もうこれでおしまい。たったいま書き終わった。書き終わる直前は息が止まっていて、とてもくるしいからもうこれ以上無理だと思う。けれどまだ書き終わっていないから終わらないと思っている。息の根が止まらないとと思う。息ができなくてくるしいのに息の根が止まることを望んでいる。のは困る。といっても息を止めていることなんて思ってもみないのだから困っていることも思ってもみない。だってまだ息が続くと思っている。まだまだ続くと思っている。まだまだ何もできていない。まだまだだからこれからと思って途方にくれている。なにしろ先なんて見えていないし、存在すらしていないのだから、どこへ行こうにも一寸先すら無い。ただこれまで歩いてきたあとが後ろにはある。でもそんなものはなにもなっていやしないのじゃないか。間違ったところへ来てしまった。でも間違うも何も何もなかったんじゃないか。最初は。そもそもはただ空っぽだった。白紙の紙の束になにも無い。まだ一文字すら書いていない。なにからはじめようか。なんでもはじめられる。なにもはじまっていないことの前にはすべてがある。こんなにいっぱい。山ほど。抱えきれない。ダラダラとあふれこぼれ落ちているたっぷりから。

January 2, 2017

【催し】『無為の共同体』ゼミ


おかげさまで満席となりました。
以後キャンセル待ちにて受付いたします。
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研究のためでもなく仕事のためでもなく「ただ読むこと」を通して本を体験します。

ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』
アマゾン http://amzn.to/2hJpGCT

第1回 2月11日(土)
 第一部 無為の共同体 46ページ 7行目まで

第2回 3月11日(土)
 第一部 無為の共同体 46ページ 8行目から第一部最後

第3回 4月8日(土)
 第二部 途絶した神話

第4回 5月20日(土)
 第三部 「文学的共産主義」

第5回 6月3日(土)
 第四部 〈共同での存在〉について

第6回 7月1日(土)
 第五部 有限な歴史

各回 13時から17時ごろ

参加費:6回通し 15,000円 各回単発3,000円
    もしくはそれに準ずるもの。
場所  まるネコ堂(京都府宇治市五ケ庄広岡谷2-167)
http://marunekodoblog.blogspot.jp/p/blog-page_14.html
定員  5人程度

申込:大谷 隆 (Ohtani Takashi)までフェイスブックのメッセージかmarunekodo@gmail.comまでメール下さい。

・本を読んできてください。
・各回ごとにレジュメ(形式自由、A4最大2ページ程度)を提出できます。

注意:猫がいます。ゼミ中は会場には入れませんが、普段は出入りしています。アレルギーの方はご相談ください。

参考:
まるネコ堂ゼミ
http://marunekodosemi.blogspot.jp/

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【381】本をすすめる。『無為の共同体』
「『無為の共同体』ゼミ」に出ようと思っています。(山根澪のブログ)