December 27, 2022

【866】お餅つき、やりました。

12月25日に念願のお餅つき、できました。楽しかった! 参加いただいた皆さん、ありがとうございました。子供と大人合わせて20人以上で、わちゃわちゃしながらも、二升を5回で十升搗きました。十升は一斗。


午前11時ぐらいからはじめて、片付けが終わったのが2時ぐらい。3時間ぐらいかかりました。そこそこハードな本格餅つきだったかもしれません。臼を運んだり、何かと力仕事で、お父さん達が大活躍でした。


年末のお餅つきについて調べてみると、大体、家族単位で丸一日餅つきをして年越ししていたらしいです。手際よくやれば、朝から夕方までで、三升を十回ぐらいで三斗ぐらいでしょうか。もう少し頑張れば四斗(一俵)で切りが良いかも。一俵は約60kgです。これぐらいあれば、昔の大家族でも、かなりの食糧になります。10人で一月分ぐらいの炭水化物かな。


単位の話を続けると、十斗で一石(いちごく)。「加賀百万石」などの「石」です。

1000合=100升=10斗=1石=150kg

伏見の十石舟は、20人乗りなので、一人75kg✕20人で1500kg=十石。

さてさて、1月21日土曜日にも、旧暦の年末版、お餅つきしますよー。




December 23, 2022

【865】おむつなし育児への2つの誤解。

 11月26日に生まれた葉(よう)も「おむつなし育児」を始めました。上のアラタのときもやっていて、とても良かったからです。おしっこやうんちの世話が大幅に楽になりおむつが取れる時期も早まるのですが、何より赤ん坊のおむつかぶれのおそれが減るのがとてもありがたいです。

 ところで「おむつなし育児」をやっていて、実感として2つ大きな誤解というかイメージの違いがあるように思います。あくまでもうちのやり方の上でなのですが、説明します。

誤解1 必ずしもおむつをしないわけではない。

 1つ目は、「おむつなし育児」という名前そのものなのですが、うちの場合、実はおむつは「しています」。これはたぶん、おむつなし育児への定番の疑問だと思うのですが、おむつなし育児は必ずしもおむつをしているかどうかが問題ではなかったりします。

 どういうことかというと、例えば葉ちゃんの場合ですが、生後23日目から始めていますが、布おむつを普通につけています。

 それで、それまで気持ちよく寝ていたのに、機嫌が悪くなって泣いたりします。このとき、だいたいまずは、おむつをチェックします。

 ここで濡れていたら普通に取り替えます。

 もし濡れていなかったら、おむつを外して抱きかかえて、おまるの上に持っていきます。するとおまるにおしっこをしてくれます。終わったらまたおむつをつけます。これだけです。

 泣かなくても、ちょっと落ち着かなかったり、前のおしっこから時間が経っていたりすれば、おまるのところへ抱えていくと、だいたいしてくれます。

 はじめて4日ですが、今のところおまるでできる割合は1/3から1/2程度ですが、続けていけば、この割合が上がっていって、そのうちおむつをする必要がなくなります。失敗しても着替えさせればいいやと親が思える程度に成功率が上がれば外せます。

 おむつなし育児かそうでないかのポイントは「排泄をするときに」付けているおしめにするかしないかです。なので失敗したときの保険のために普段はつけていても、おむつなし育児はできます。

誤解2 赤ん坊は最初から「漏らして」はいない。

 上記の説明を読んで、そんなに簡単にできるわけないと思うかもしれません。あるいは、そんなにタイミングよく「キャッチ」できるわけないと。

 僕もやる前はそう思っていたのですが、今ではそれは間違ったイメージだったと思います。僕は「赤ん坊はおしっこを漏らしている」と思いこんでいました。うまく出せなくて、漏らしてしまうからおしめが必要だと。

 実は、赤ん坊は最初からおしっこもうんちも「漏らしているわけではなく」、大人と同じように自発的かつ能動的に「している」と思います。

 ただ、「下腹部に直接くっついてるおしめ」にしている。正確には、おしっこやうんちをそもそもどこにしているのかということに、赤ん坊自身の意識が向いていないから、どこにしようがいつしようが気にしていない、ということだと思います。

 けっして壊れた蛇口から水があふれるように「漏れて」いるわけではないです。

 いつ落ちてくるかわからない隕石のようなものをとっさの反射神経や第六感的なセンスで「キャッチ」しているわけではないので、実は「タイミング」というほどシビアなものではありません。ごく普通に、大人が、そろそろおしっこ溜まってきたなとか、うんこでそうだなとかいうときに、トイレまで行って、然るべき服装になって、その体勢をとって、そういうふうに力を入れて出す、というのと変わらないと思います。ただ、赤ん坊は、自分でトイレに行ったり服を脱いだり、そういう体勢をとったりできないので、それを親がやる。

 排泄物がある程度溜まっている必要があるとは言っても、時間的には十分な余裕というか幅のあるもので、その幅のなかに収まっていて、赤ちゃん自身が出そうと思って力を入れれば出ます。

はじめてやるなら、おまるがあったほうがいい。

 ということで、やってみると意外に簡単です。というか、たいして特別なことではないです。

 僕がやってみて、一つだけコツというか、幸運だったなと思うのは、うちになぜか「おまる」がすでにあったことです。以前、そうとは知らずに、洗面器代わりに入手していたものが実はおまるでした。


 これがなかったら、ひょっとしたら途中で挫折していたかもと思います。

 抱きかかえてやるうちは、洗面器やバケツや風呂場や庭でなんとかなる気がしますが、子供が自分で座ってやるようになったとき、おまる以外だと高さやバランスが微妙にうまくできないかもしれません。子供にとってははじめての経験なので、最初に躓くとやめてしまう可能性があります。子供が「自分でおしっこやうんちをする自分のイメージ」を掴むためにおまるはとても良くできた形、材質、重さです。物自体にそれっぽさがあります。保育園でも同じものを使っていたのでたぶん定番なのだと思います。

 ということで、「おむつなし育児」楽しいしおすすめです。

December 20, 2022

【864】近況報告

近況報告です。

11月26日に女の子が生まれました。

予定日を過ぎてもなかなか生まれなくて、今日か今夜かと落ち着かなかったときに、美緒と新と三人で散歩をしていたら、萬福寺の銀杏が黄色く素晴らしく輝いていて、生まれたあと名前を考える段になって、その黄色い葉っぱを思い返して「葉(よう)」と名付けました。

来年4月の芸術祭の紹介動画ができました。

それぞれの出展者の9月時点での「企み」の発表から動画を作成しています。編集は実行委員の山本明日香さんです。


念願のお餅つきは12月25日と1月21日。

とりあえず2回やります。お餅、とてもとても美味しかったので、もっとやりたい。



1月22日(日)にピアノ・レクチャーコンサート開催。

定期開催している山本明日香さんのレクチャーコンサートです。今回はドビュッシー。

毎年恒例の味噌づくりも2回やります。

一緒に作りたいという人が集まって味噌作りしています。今年は2回。1月29日と2月11日の2回開催。まだ若干、参加者に空きがあるので、作りたいという方はお問い合わせください。大豆1キロ単位(味噌総量4から5キロ)での申込みです。

いろいろありますが、ともあれ、元気にやっています。

November 18, 2022

【863】セイロで肉まん。

餅つき用に購入したセイロ、なるべく活躍させたいので肉まん作ってみました。


美味しくできました。


これまでは大きめの鍋を蒸し器代わりにしていました。セイロだと鍋のように高温になりにくいから触ってもそんなに熱くないとか、そんな感じで使いやすいかも。


本領を発揮するのは大量に蒸す場合だと思います。セイロを重ねれば次々と連続的に蒸せるので、大人数で大量の肉まんを作って食べるときとかに良さそうです。

November 11, 2022

【862】年末にお餅つきやります!

 立派な臼と杵をいただいて、必要な道具類を少しずつ集めて準備してきました。年末にいよいよお餅つきやります。
 臼と杵をいただいたり、道具を揃えたりした顛末は以下にあります。



日時

2022年12月25日(日)
10時30分からお餅をついて食べる
13時から15時すぎ萬福寺の裏山へ散歩(お餅つきだけの参加もOKです)

参加費(材料費等)

2歳未満 無料
2歳から小学生 一人500円
中学生以上 一人1000円

場所

まるネコ堂

申込み

大谷までメッセージかメール(marunekodo@gmail.com)で。

November 10, 2022

【861】餅つきの面白さ。

 いろいろと準備を進めながら、餅つきの面白さってなんだろうなと思って考えてきました。まず、お餅をつくときのダイナミックさというか、人がたくさん集まっているお祭りの感じ、お餅が美味しい、そういう表舞台の面白さがあります。

 と同時に、実際に臼と杵をいただくところから一つ一つ必要な道具類を揃えたり、使ってみたりしてわかってくる面白さもあります。表舞台というのは別の言葉で言えば「ハレ」ですが、その裏側の「ケ」の面白さ、日常の面白さです。

 餅つきに使うものは臼と杵がまさにそうなのですが、とても大きくて重くて、道具というよりは設備といった感じがします。また、餅つきに必要な工程は、臼と杵で搗くだけでなく、もち米を大きなセイロで蒸したり、搗いた餅をのし板の上で丸めたりと、一人で全部をこなすのがそもそも難しく多人数でやることを前提にしています。餅つきは大きな設備を多人数で運用してようやくできることです。

 餅つきの当日は「ハレの日」ですが、それを成り立たせるための基礎としてケの重要性があります。

 大きな設備がちゃんと稼働するように、他の用途にも使って良い状態を保っておいたり、手入れをしたり修理したり、人が集まれるように日頃から生活をその場所で営んでおいたり、餅つきにはそういったケの魅力、様々なものが重層的に連携した分厚い日常の魅力があります。

 もともと僕は「ケ」や「日常」が好きなのですが、ケに血が通うためにハレがあってそれらは表裏の関係にあるということが、お餅つきの準備をすることで、とても実感できるようになりました。祭り好きの人たちは、年に数日程度のハレの日のための、その他の360日ぐらいのケも楽しんでいたのだと思います。

 母方の親戚の「おじちゃん」(祖母の兄弟)がまさにそんな人でした。宴会場を経営していましたが、一年中「たなばた(地域の夏の祭り)」のことで頭がいっぱいの人でした。祭りの当日は、嬉しそうに山車に乗って提灯を振っているだけで、大したことは何もしていませんでしたが、それ以外の日をずっと祭りの裏側の日常を仕事としてやっていたんだろうと思います。

 大きな設備をうまく稼働させ続け、色んな人にやってきてもらえるまるネコ堂になればいいなと思っています。

 いよいよ、年末のお餅つき、やります。

November 2, 2022

【860】筵の保管方法。

 餅つきのときに臼の下に敷くために買った筵の保管方法について考えました。筵は藁で編んだものなので、杜撰な保管だとカビが生えたり虫がついたりしそうです。

 友人のご実家で農作業用に使っている筵の写真を見せてもらったところ、納屋の小梁に引っ掛けて保管されていました。おそらく湿気を避けるために、高所で風通しの良い状態にしてあるのだと思います。

 ということで、うちの筵の保管もできるだけ似た感じにしてみました。


 臼杵の上に天井付近からぶら下げてあるのが筵です。適当な場所がなくてあんまり見栄えが良くないのですが、今までは無造作に突っ込んでいた湿っぽくて風が全く通らない階段下のデッドスペース保管よりはましだと思います。これで様子を見てみよう。

 ちなみに友人のご実家の写真、筵6枚を納屋に敷いて種籾の乾燥に使われていたのですが、もうかっこよかった。納屋全体の感じがそうなのですが、一見単純に見えるけれど、重厚で、役割に対してちょうどよい道具たちがしっかりと活躍している場所はとてもかっこいい。

October 31, 2022

【859】筵を買いました。「むしろ」と読みます。

 餅つき用品で意外な盲点だったのが、臼を安定させるために臼の下に敷いておく敷物です。石の臼の場合は木製の脚を使うので、必要ないものですが、木の臼だと要ります。前回の練習のときには段ボールを何枚か敷いてやりました。

 十分と言えば十分なのですが、見た目はかなり悪いです。You Tubeで餅つき動画を見るとだいたい段ボールを使っているようです。ただ、段ボールなんてそんなに古いものではないので、昔はどうやっていたのか調べると出てきたのが筵(むしろ)でした。

 せっかく木の臼でやるんだからと買うことにしました。筵と一口に言っても用途によっていろいろあって、臼用にはある程度厚みがあるものが良いみたいです。


 なかなか雰囲気があって、藁の匂いもいい感じです。しかし、餅つき以外に使わないとなると、一年の大半をどこかにしまい込んでしまうことになるので、カビが生えたり虫が湧いたりが心配です。

 何か他の用途にも使えたら良いのだけれど。

 とりあえず、墨書して掲げれば筵旗なので、一揆ができます。

October 27, 2022

【858】大谷の仕事「文章面談」

 僕の仕事に「文章面談」というのがあります。「書くことと読むことが面白くなる個人面談」という言い方をしていますが、もう少し説明をしてみようと思います。

 一般に「文章教室」や「作文指導」では、書いた文章を添削したり、ここはこう書くと意味が伝わるという提案や指導をしますが、僕の文章面談ではほとんどやりません。

 では何をやっているかというと、レビューという言い方をしていますが「あなたが書いた文章は、このような姿をしています」というのを書き手に返すことをメインにやっています。レビューを含めた書き手とのやり取りの中で、書くこと自体を面白くしていこうということをやっています。

 レビューについてもう少し詳しく言えば、「明るい」とか「傾いている」とか「高い視点から見えている」とか「雲の中のような場所にいる」といったような、文章が読み手にもたらしている「総合的な出来事」を述べていきます。

 なぜこういうことをやるのかといえば、文章の良し悪しという基準は、それほど単純なものではないと思うからです。文章の面白さというのは、わかりやすさやインパクトだけではなく、もっと根本的な書き手の世界の捉え方自体が、読み手に迫ってくるものだと僕は思っています。

 自分でもなんだかうまくいえないけれど、とても大切に感じたり、なにか核心に少しだけでも触れたと思ったりするような、おぼろげな体験の雰囲気をなんとかして書いたものを、「わかりやすかった」「情景が鮮やかに思い浮かんだ」というふうに簡単に読み取られることは、必ずしも「うまく書けた」ことにならないと思います。

 自分が表したかった何かをどのように読者に生じさせるかという問題は、意味の伝達の適切さや、構築されるイメージの鮮明さといった明瞭な指標によってだけで評価されるようなものではありません。

 自分が書いた文章の姿がどのようだったのかを返すことで、書き手は、それならばこうしてみようとか、ああしてみようとか、自分で判断することができるようになります。試すことができるようになります。それ以前に、自分がそんな風に世界を捉えていたのかということを改めて知ることは、自分が生きていく上での下支えになります。

 面談のゴールは「文章を自分で書いていくこと自体が面白くなるようにする」というのを一応の目標に置いています。書くということを通して、自分自身が変化していって、この世界の捉え方自体も変わっていくような状況です。書くことそれ自体から書くことの面白さを汲み出すことができる状況です。

 自分の文章の可能性を広げたり、文章を生き生きとさせたいと思っている方はもちろん、書くことに対して漠然とした興味があって、心の何処かで書いてみたいなと思っているのだけど、どうすればよいのかわからないというような方にもおすすめしています。

文章面談

October 23, 2022

【857】餅つきできました。

立派な臼と杵をいただいたので、年末にお餅つきをやろうと思っています。今日はその練習というか、年末にいきなりやる前に不安だったのでやってみました。

ちょくちょく遊びに来てくれる保育園や近所の友だち家族に手伝っていただいて、総勢17人で二升を3回。道具、材料、段取りともだいたい問題なくできました。手伝っていただいた皆様ありがとうございました。

天気も良くてとても楽しかった。子どもたちも遊び回っていて賑やかでした。お父さん友達も増えたというか、話がいろいろとできてよかったです。

年末にはもう少したくさんお誘いしてみようと思っています。

October 21, 2022

【856】臼と杵で五平餅。

頂いた臼と杵で餅つきをしたい。というわけで少しずつ準備を進めています。


立派な臼と杵なので、できるだけ慣れていければいいなと使い道を探っています。冷やご飯を使った五平餅は、割と簡単に臼と杵を使えるし、材料も手頃で準備が少なくていいみたい。

臼と杵の準備の基本は、半日ぐらい前から臼に水を入れておくこと。杵も濡らしておきます。こうすると臼も杵も柔らかくなって、ぶつかったときに欠けたりしにくいのかな。

さて、五平餅を作ります。

まず、臼に入れておいた水を汲み出して、手ぬぐいで拭きます。そこに冷やご飯を入れます。最初は杵でこねる感じで米をまとめて、その後軽くついていきます。五平餅を作るぐらいなら杵は30センチぐらい持ち上げて落とすので十分。

餅を搗くときもそうなのですが、杵は「持ち上げて落とす」ものらしいです。振りかぶって叩きつけると、臼も杵を傷めてしまう。持ち上げられればいいので、力はそんなに必要ないです。


適当に米が潰れたら、平たく丸めて、焼いて味噌ダレをつけて食べる。


五平餅を作るのに臼と杵(と七輪)なんて過剰なんですが、今は臼と杵が使われているだけでうれしくなります。

October 20, 2022

【855】セイロで蒸して赤飯を作りました。



 餅つきをするために買ったセイロを使って赤飯を作ってみました。


 ちょっと固めだったけれどとても美味しくできました。赤飯ってこういう感じだったなと思い出します。作ってるところの写真はまたも撮り忘れて、できあがりだけ。胡麻塩も塩水で煮詰めて作るやり方で、これも美味しかった。

October 13, 2022

【854】家の測量。


 からっとした今日の午前にふっちゃんがやってきて、家の測量をした。ふっちゃんは時々やってきて、家のあちこちを測る。それをもとに図面を起こして、30分の1の模型も作った。一階ができたので、今日は2階を測りにきた。

 来年の春のまるネコ堂芸術祭の作品作りのためだけれど、家の模型の作品を作りたいわけではない。展示場所であるまるネコ堂の家の感じをつかむためにやっている。

 こんなふうに、人がやってきてなにやらやっているのは楽しい。

October 12, 2022

【853】臼と杵で五平餅をつくる。

頂いた立派な臼と杵で、年末に餅つきをしたい!
ということで、少しずつ準備を進めています。

これまでの流れ

【849】臼と杵をいただきました。年末ぐらいに餅つきします。
【850】餅米を蒸すための羽釜を入手。
【851】臼の掃除。
【852】餅米を蒸すためのセイロを買いました。

今回、写真を撮るのを忘れてしまいました。

臼は掃除して綺麗に拭いたのですが、木屑が出たりしないかどうかを餅つき前にちょっと試すために、五平餅を作ってみました。というか、もっと単純に、臼の中にご飯というか食べ物を入れてみたいと思ったというか。

まず、数時間前から臼に水を張っておき、杵もそこにつけておきます。

臼から水を出して拭いて、玄米(うるち米)の冷やご飯を入れて、杵で軽くつきます。それを丸めてから平らにして、網で焼きます。あとは、味噌ダレをつけて食べる。

臼と杵は問題なく使えて、木屑が出たりもせず、美味しく食べられました。

これなら味噌づくりのときに大豆を潰すのにも使えるのではないかと思って、調べてみると、やはり臼と杵を使って味噌づくりをしている人は結構いるようです。

味噌づくりは毎年やっているので、この冬の味噌づくりでも使ってみようと思います。他にも使い道があるのかもしれない。臼と杵の活躍の場が増えるのは楽しいです。

October 6, 2022

【852】餅米を蒸すためのセイロを買いました。

頂いた立派な臼と杵で、年末に餅つきをしたい!
ということで、少しずつ準備を進めています。

これまでの流れ

【849】臼と杵をいただきました。年末ぐらいに餅つきします。
【850】餅米を蒸すための羽釜を入手。
【851】臼の掃除。

今回は、餅米を蒸すためのセイロの入手です。

いつものようにネットのオークションやフリーマーケットで中古品を探しても良かったのですが、セイロは使ったことがない物で良し悪しの判断に不安があったため、思い切って新品を買うことにしました。


丸いセイロ(和セイロ)にしました。きれい。
臼はたぶん二升用だと判断し、セイロも二升用を二つ。

二つ用意したのは、餅を連続して搗く場合に、次に搗く分を蒸しておくためです。蒸し時間はだいたい50分程度かかります。

左上がセイロのサイズに合う釜蓋で、新品を購入。右上の鉄釜は、先日ネットオークションで手に入れたもの。鉄釜もセイロの外寸に合わせて探しました。セイロの右にあるのは蒸かし布2枚。

コンロにセットしてみるとこんな感じで、なかなか壮観。羽釜の背の分、高さが出てしまっていますが、安定性はたぶん大丈夫。羽釜の下は業務用の鋳物コンロなので、火力も問題なしでしょう。

これで、主な道具は揃いました。近いうちに一度練習で餅つきしてみる予定です。楽しみ楽しみ。

October 5, 2022

【851】臼の掃除。

年末の餅つきに向けて、少しずつ進めています。

ここまでのエントリー

【849】臼と杵をいただきました。年末ぐらいに餅つきします。
【850】餅米を蒸すための羽釜を入手。

今回は、頂いた臼の状態の確認と掃除。


臼に水を張って水漏れを確認。全く問題なし。
内側と外側を水拭きしつつ、虫食いなどの状態も見ていきます。こちらも問題なさそう。
砂ぼこりを拭き上げてきれいになりました。

ほんとに立派な臼で、活躍がますます楽しみです。

次は、餅米を蒸すためのセイロを入手します。

September 27, 2022

【850】餅米を蒸すための羽釜を入手。

 臼と杵を頂いたので、餅米を蒸すために必要なものを集めていきます。

 まず手に入れたのが羽釜。ネットのオークションで中古を探しました。鉄製です。

 釜の口径は約30センチで、上に載る予定のセイロのサイズに合わせました。セイロは二升用を買う予定。頂いた臼は二升と判断しました。

 この羽釜自体でももちろんお米は炊けるはずです。その場合はたぶん三升ぐらいだと思います。炊き出しができそう。味噌づくりのときに大豆を煮るのにも使えそう。

 今の生活だと三升炊きの釜なんて業務でしか使わないけれど、江戸時代ぐらいまで遡れば、家庭用の普通サイズなのかも。一日一回、朝に炊いて、毎食一合ずつ食べて、一人一日二、三合。一つの家に二世帯プラスαで住んでいて10人ぐらい。これで二から三升。そんな感じではなかろうか。違うかな。

 餅つき準備、まだまだ続きます。

September 26, 2022

【849】臼と杵をいただきました。年末ぐらいに餅つきします。

臼と杵をいただきました。友人の実家にあったものを譲っていただきました。ありがとうございます。本当に感謝です。

臼の外径が約60センチ、重量約80キロ。たぶん二升用。杵は重量4キロぐらい。どちらもとても立派で存在感がすごいです。

これでいっぱい餅つきをやろうと思います。

まずは掃除したり手入れしたり、あと、他に必要なせいろや羽釜を調達していきます。いろいろやることがあって楽しい。

September 15, 2022

【848】大谷美緒の「絵を描く会」やります。

 久しぶりに「絵を描く会」です。

 絵を描いて、描いた絵を見て、それについて話す会です。

 まるネコ堂にて。

 詳しくはこちら


ーーー

【近くあるまるネコ堂の催し】

9月27日(木) 絵を描く会 ※日程変更になりました。

11月5日(土) 読書会#4 千葉雅也著「デッドライン」

その他、まるネコ堂ゼミ表現研究会もやってます。

問い合わせは、大谷まで(marunekodo@gmail.com)。


August 30, 2022

【847】アラタの絵本づくり。第二、第三作目。

以前作った絵本。本人はそれなりに気に入ったようだったので、続編。

今回は、

  1. アラタがべらべら喋っていた物語を書き留めて、
  2. 縦書きに印刷し、
  3. 四つ目綴じで製本してみた。

絵本と言いながら、絵はないけど。


「ハイカン寺」と「くつのお話」。「ハイカン寺」は第一作とは別のお話。

中身はこんな感じ。「くつのお話」より。




前回の大学のレポートみたいなのよりはそれらしくなった。

内容は、特に「くつのお話」が面白かったので、一挙全文掲載(編集者権限)。

===

「くつのお話」 おおたにあらた文 


くつがはいてくれなきゃ、
さみしかって、
お部屋の中に入っていって、
机にきいてみました。

長細いのがいいかなぁ。
短いのがいいかなぁ。
どっちがいいかなぁ。
短いのがいいや。

くつはいてくれるかな。
くつはいてくれなきゃだめなんだけどなぁ。
それなら、お散歩に行こう。

てっとこ、てっとこ、とことことことこ。

お父さんとお母さんがお部屋の中に入っていったら、
くつと机がなくて、
びっくりしました。

とことことことことこ。

その時にぽっちゃんと音がして、
それかなあと行ってみました。

ああそれだ。

うちのきれいな机とくつだ、と思いました。

出ておいで。
出てこれないなぁと思いました。
じゃぁどうしたらいいのかなあ。

おしまい。

===

アラタは、毎晩絵本の読み聞かせで寝る。今夜この二冊を読んでみる予定。

作ってみた段階で思ったことを書いておくと、

自分のお話を読まれるのは楽しいみたい

以前、既存の絵本(バージニア・リー・バートン「ちいさいおうち」、長新太「ころころにゃーん」)の絵にアラタが自分でお話をつけて喋っていたので、それを書き留めて、もとの絵本を開きながら、アラタバージョンのテキストを読んであげると喜んでいた。自分で喋ったお話が他人に読み上げられること自体が面白いのだと思う。今回も多分、キャッキャと喜ぶはず。

絵をどうするか

自分で思い描いたものを、絵として描くのはどうやら難しいらしい。お話はしょっちゅう一人でべらべらと喋っている。このへんは個人差があるのかもしれない。そのうち絵も描いてくれるようになれば、より楽しそう。

四つ目綴じは優れた簡易製本

製本しておくと、寝る前の読み聞かせがしやすいし、本棚に他の本と一緒に並べておける。自分で読みたい本を選んで持ってくるので、本棚に置けるのは重要な要素。四つ目綴じ(和綴じ)は、針と糸と目打ちがあれば簡単にできるのがいい(他にダブルクリップが2つあると便利)。ボンドや糊を使わないので修理もしやすい。シャツのボタン付けぐらいには普及していい技術だと思う。

August 17, 2022

【846】芸術祭について、今考えていること。2「やりたいことの罠」

 まるネコ堂芸術祭をやってきて、今僕自身が考えていることを書いています。

1「漠然とした方向感で」の続きです。

「やりたいこと」の罠

 やりたいことをやるのは意外に難しいという話をします。

 前回は「どうやってやるのか」という作品作りについて僕なりに手に入れた経験を書きました。これは、その前段という感じです。

 ここでいう「難しい」というのは、やりたいことに対してその実行に障害物があるから実現が難しい、というのとは全く別種の困難です。この障害物は「やりたいこと」の外側にありますが、「やりたいこと」に内包されている困難のことです。

 一般に、やりたいことをやる、といったときに、直ちに生じるのが、「では、私は何がやりたいのか?」という問いで、これが実は難問です。

 この問が立ってしまうと、「やりたい」が、「何」という対象に、すなわち「やりたいこと」という目的に、覆い隠されてしまいます。

「やりたい」は、まず背景として「ある」

 少なくとも僕にとっての「やりたいことをやる」は、そうではなかったです。そう気がついてきました。この問いが立ってしまう時点で、もうすでに、別の道に踏み入れてしまっている感じです。

 まだ生じていない目的を、すでにあるはずだと探すような順序の逆転が起こります。「やりたい」は、まだ、対象ではないのに、対象として探してしまうことで自動的に難問になります。探せば探すほど「やりたくなくなり」ます。やがて「私にはやりたいことはなにもない」か、「やりたいことがどこかからやってくるまで待つ」という結論に至ります。

 そこで、少し巻き戻します。そもそも「やりたい」というのは、
  • 対象そのものではなく、対象として見出される前の背景のようなもの。
  • 背景を見ているうちに何かが見出されそうな予感のようなもの。
  • 「やりたいこと」が出現する対象化プロセス自体を支えているもの。
 例えば「なんかウズウズする」感じ、のような、「なんだかわからないけどワクワクする」とか、そういった理由や根拠が漠然としているにもかかわらず自分に生じていく現象が「やりたい」で、それが「何によってもたらされているか」というのは、むしろあとから生まれる。そう思ったほうが、実感と合う気がするのです。

 「やりたいことをやる」というのはつまり、漠然としたぼんやりとした背景的にある「やりたい」という現象を継続しつつ、そこから何かを対象として見出したり、削り出したり、捏ね上げたりすることそのものを「やる」となります。

 こうして、前回の「漠然とした方向感でやっていく」というアプローチにつながっていきます。

 僕が実行委員の一人として何かしらの役目があるとしたら、こういったことが出展者に感じてもらえるような場所として芸術祭を進めていくということかなと今は思っています。

終わり

前回

August 16, 2022

【845】芸術祭について、今考えていること。1「漠然とした方向感で」

 これまで2年間、まるネコ堂芸術祭をやってきて、どんなことを今考えているかを書いてみます。

漠然とした方向感でやっていく

 僕自身も一人の出展者として作品作りをやってきました。それで得た最大のものが、「漠然とした方向感でやっていく」ということです。

 作品を作る、となると、なにか明確な最終形、目的があって、それに向かってやるものだ。そういった最終地点が見えてくるまでは、作品作りはスタートしていないのだ、とそれまでの僕はどこかで思っていたように思います。

 そうではなかったです。

 一方で、反対側にある「何も決めずに、まったく即興的に、場当たり的にやる」というのでもありません。

 僕はこれだと、一度目は良いのですが、二度目以降興味が急降下して、長続きしません。この方法で長くやれるパターンは、習慣化してしまうことですが、それだと「何も決めず」と自由度の高さを謳っていたはずが、意外にも狭い領域をぐるぐるまわるだけの、やりなれた習慣的領域で「手なりでやる」ことに閉じ込められていくような感覚になります。そして、あるレベルになると、やる前から結果がわかっていることをやっている感じがしてきて、楽しさも面白さもなくなってしまいます。

 ということで、そのどちらでもないアプローチなのですが、それが、漠然とした方向感でやっていくということです。

視界を扇型に保って

 漠然とした方向感は、視界を扇形を保って見え続けている感じです。視界の中の特定の目標物(オブジェクト)を目指すのではなく、背景として「視界に入ってくる」ものから、対象(オブジェクト)となりうる可能性をできるだけ「試していく」やり方です。

 目的を目指すのではなく、背景的な景色に踏み入って無数の目的可能性自体を試していくという感じです。

 なので、作品作りというのは、「なんとなくこっちの方が面白そうかも」という漠然とした方向へ扇形に視界を保ってできるだけ大きく可能性を保ちながら、そこから目的になるかもしれないものを試行していく、その連続そのものということになります。

 大きく確保した可能性を、大量の試行によって、一つ一つ潰していくというプロセスが、作品作りそのものになっていきます。僕は、一つ一つの試行をノートに書き出していって、なぜそれでは「だめ」なのかを検証していくのですが、それが楽しくて面白いのです。それが楽しくて面白くなるような方向へと扇形そのものを舵取りしていきます。

 検証の結果、試行が不採用になる理由は、例えば「予算が足りない」「そのための特定の能力が今はない」「時間が間に合わない」などです。逆に言えば、予算や能力や時間があればその方向は継続されます。

 途絶える方角にも、実は先があり、条件が変われば、そちらへ進むことはできます。だから「今はできない」ということがネガティブではなく、ポジティブに捉えられます。結果的に不採用にはなるものの、試した分だけ、自分の地図が書き込まれていく感じがします。僕自身が変化していく感じがします。

プロセスもオブジェクトも

 こういったやり方でやっていけばいいという実感と実践とが得られたのが、芸術祭を通して得たといえる一番大きなことです。以前の僕が、スタート地点と捉えていたものは、実はフェイズとしてはかなり終盤であり、しかも、いくつもある試行の「枝」にそれぞれあるものでした。

  • スタートとエンド(殆どは失敗)は一つの作品作りの中で無数にある。
  • 作品作り自体は、もっと前から始まっていた。
  • 一つの展示物(オブジェクト)は、扇形の面的に広がっていた可能性の試行錯誤的な虱潰しプロセス全体が、一つの表現として結晶したり転写されたものだった。

 といったようなことを自分で手に入れる幸せな2年でした。

 何よりも嬉しいのは、こういった徒労的で、無駄の多いプロセスにもかかわらず、そのプロセスの内部はずっと楽しく面白く続けることができて、なおかつ、まだ見ぬどこかにも通じているのだという終点への興味も保ち続けられたことです。

 これで僕はやりたいことをずっとやっていけると思えたのです。

2へ続きます

【告知】第3回まるネコ堂芸術祭の出展者を募集しています。8月31日締め切りです。


August 4, 2022

【844】父親の記憶。遺品整理。

 父親の遺品整理を、もう何年もかけて少しずつやってきたが、なかなか進まなかった。遺品の大半は実家の父親の書斎にある膨大な量の本や資料類だ。

 父親は文系の学者らしく研究のための資料を大量にファイリングしていた。分野と年度別にタイトルが貼られたファイルがならんでいる。専門書も古本屋並みに積み上げられている。見る人が見れば貴重なものかもしれない。しばらくはどこかに必要としている人がいるかもしれないと、手がつけられなかった。

 考え方が変わったのは最近で、もしも、この遺品に価値を見出す人がこの世のどこかにいるとすれば、それは誰よりもまず僕である。この遺産で何かを得ることができるとしたら、最も多く得るのは、僕である。

 役に立つかどうかわからない膨大な資料類を贈られてありがたいと思う研究者が仮に居たとしても、その人が父の遺品から得る感謝より、僕がその人から得る感謝のほうが大きい。僕は僕の父親の仕事に今更新たな価値付けをしてくれる人を望んでいる。それを与えてくれる人に僕は感謝する。

 だからもしも、そんな奇特な研究者がいたとして、僕はその人よりも恩恵を受ける。遺品から最大の価値が生じるとしたら、僕がその価値の最大値を決めることになる。僕自身が、その価値を最大化することができる。

 そうわかってから、手を付けることができるようになった。この遺品類が何かしらの役に立つことがあるとしたら、まず何より僕の役に立つのだから。

 そうして、僕は、僕のために父親の遺品をどうにかしようとしはじめる。

 現状、足を踏み入れるのも躊躇するようなホコリまみれの空間をまずなんとかしたい。ホコリはすべてのファイル、すべての書籍にもれなく堆積している。書類は膨大にあるが、現在もたやすく入手可能なものも多い。それらを処分して、まずは作業スペースを確保する。

 企業の組合活動の調査から父親の研究はスタートした。組合の分厚い年史(10年史など)が大量にある。これらは発行部数も多くないだろうし、古書店での扱いもなさそうだ。しかし、情報の集約度は高く史料的価値は高い、かもしれない。なので、この手の資料はまとめてアーカイブしておく。僕自身にとって直接価値があるものではなくても、それに価値を置く人にとっての価値の密度を上げておくことは、僕にとって間接的な価値がある。

 企業の組合活動の年史類をまとめた本棚。まずは、これを作ろうと思う。仕事が一つ増えた。僕以外にやる人のない仕事があることは良いことだ。

July 29, 2022

【843】「山本明日香ミニレクチャー・コンサート、ショパン エチュード祭り」9月18日

 定期開催できるのがうれしい山本明日香さんのミニレクチャー・コンサートです。ショパンです。会場はまるネコ堂別館と呼んでいますが、大谷の実家でごく普通の一軒家です。その居間で開催します。演奏者が近いところにいるピアノコンサートというのも、意外に貴重なのではないでしょうか。

 なお、本館では当日、「第2回月刊まるネコ堂原画展」(入場無料)も開催中です。合わせて観に来ていただけるとうれしいです。

日時

9月18日(日)11:00~11:45

場所

まるネコ堂 別館
(本館の斜め隣です。本館へのアクセスはこちら。)

参加費

投げ銭

内容

今回はショパンのエチュードから何曲か抜粋で解説、演奏します。エチュードとは「練習曲」のこと。「別れの曲」や「革命」など、テクニックもさることながら、音楽的にも完成された珠玉の数々をお楽しみください。

【山本明日香プロフィール】

群馬県出身、大阪市在住。A型、魚座。東京学芸大学G類ピアノ科修了。大学卒業後大阪に移住。2015年にSAKURAGAWA PIANO ROOMを立ち上げ、「誰でもわかる 楽しいレッスン」をモットーに、毎月20名以上の指導にあたる。ピアノや音楽に関して思うことを「Column」として少しずつ書き綴っている。

July 28, 2022

【842】「第2回月刊まるネコ堂・原画展」9月2日から18日


 まるネコ堂では、月刊まるネコ堂という、ちょっと絵本のようなポストカード通信を毎月新月にお送りしています。文章を大谷隆が書き、絵を大谷美緒が描いています。その原画展です。原画はA4サイズで、それなりに見応えがあると思います。
 今回は、去年の葉月号から今年の文月号までの一年分の中から6から8点を選んで展示します。観に来ていただけるととても嬉しいです。

会場

まるネコ堂(京都府宇治市)

会期

2021年9月2日(金)〜9月18日(日)

入場無料  

時間

平日10:00ー16:00は通常開いています。
催し開催などのため対応できない場合がありますので、遠方の場合はご連絡の上お越しください。
土日やその他の時間帯も可能な場合があります。お問合ください。

最終日9月18日(日)『山本明日香ミニレクチャーコンサート』も開催。

まるネコ堂別館にて11:00~11:45です。
申し込み不要、投げ銭です。

問い合わせ

marunekodo@gmail.com

July 26, 2022

【841】まるネコ堂読書会9月3日開催、#3サン・テグジュペリ『人間の土地』堀口大學訳、新潮文庫。

 まるネコ堂読書会3回目はサン・テグジュペリ『人間の土地』堀口大學訳、新潮文庫です。他にも訳があるようですが、今回はこれで。

 僕もまだ読んでいないのでどんな本なのかは説明できないのですが、訳者の堀口大學はちょっと興味があります。といっても、彼の詩を読んでいるというわけではなく、彼をモデルにした矢作俊彦の『悲劇週間』という小説で、なんとも言えない雰囲気のある青年に描かれていたという理由なのですが。

 よろしければ読書会。お待ちしております。

 まるネコ堂読書会

July 21, 2022

【840】今度の土曜日、読書会2回目。

 今度の土曜日(7月23日)は、二回目の読書会です。本は千葉雅也「現代思想入門」で1回目と同じ本でやります。

 1回目のときに僕が出した読書メモを読書会のサイトに公開しています。(汚い手書きですが)

 2回目に向けてまた読み直しているのですが、やっぱりいろんなことを思い起こしたり、考えたりして、面白い本だと思います。


 読書会まだ参加間に合いますので、気になる方は読書会のサイトからお申し込みください。


June 29, 2022

【839】好きとはどういうことか。表現研究会を始めるにあたって。

 自分の好きな作家や作品について、自分なりの好きな点を発表する「表現研究会」というものを始めようと思います。

 その始まりにあたって考えたのが「好きとはどういうことか」です。おそらくこれも研究会をやっていく中で変わっていくと思うのですが、現時点でできるだけ言葉にしておこうと思います。

辞書的には、
 
すき【好き】
1 心がひかれること。気に入ること。また、そのさま。「好きな人」「好きな道に進む」⇔嫌い。
(デジタル大辞泉)

 こんな感じですが、例によって、辞書でその言葉の「意味」に迫ろうとすると無限連鎖に陥ります。「心がひかれる」とはどういうことか、「気に入る」とはどういうことか、「心」とはどういうことか、「気」とはどういうことか・・・。それぞれの項目を辞書で調べれば、そこにまた新たな未知なる言葉が現れていきます。

 なので、辞書に頼るという方法はとりあえず置いておいて、アプローチ方法そのものを考えます。

 まず思いつくのが「ある種の状態があって、その状態になることが「好き」ということ」という方向で説明できるかどうかを考えます。

 例えば「風邪」という病気は、「熱がある」「喉が痛い」「鼻水が出る」「咳が出る」「体がだるい」などの状態になれば、それは「風邪だ」ということが言えます。何らかの普遍的な基準があって、その基準に適合すれば「好き」ということになるという説明のアプローチです。これは可能でしょうか。

 僕の直感ではこの方向はかなり難しそうです。「身の毛もよだつ残虐シーン満載のバイオレンス映画」を好きな人もいますし、「心ときめく、甘く切ないラブストーリー」が退屈でしかない人もいます。「好き」の要素を誰しもが当てはまるような普遍的な基準で示すことはできそうに思えません。

 少なくとも「どのようなことを好きと言っているのか」は個人的な気がします。

 では、それぞれの個人に「自分なりの好きの基準」があって、その基準に適合すれば「好き」だと言えるのでしょうか。

 実は、これも僕は難しい気がします。

 僕は寿司と保坂和志の「カンバセーションピース」と夜の散歩が好きですが、これらの「好き」から共通の要素を見つけ出すのは難しい気がしています。そんなに「僕というもの」は安定していないというか、確たるものだという自覚がありません。「好き」という言葉自体が、基準化以前の状態にあるという感じです。

 「好き」ということに対して僕はもっと、それが自分にとってたった一つだと言いたくなるような、かけがえのなさを感じるのです。

 もう少しわかりやすく言えば、「寿司が好き」「保坂和志『カンバセーションピース』が好き」「夜の散歩が好き」というそれぞれの「好き」は、僕とその対象との結びついた状態がそれぞれあって、それらは別の状況だという感じがしています。

 しかし、これだけでは、なぜ別々の状況を「好き」という一つの言葉で意味しうるのかが説明できません。ただ、少なくとも今言えることとしては、個別で具体的な「僕がそれを好き」という事象から始まり、それが「好き」というなにかに、普遍的に抽出されていくという順序で説明したほうが、通りやすい気がしています。

 というわけで、ともかく個別具体的な作品・作家について、自分なりの好きな点を発表してみるという表現研究会の企画に結びつきます。

 表現研究会を進めていくことで、なにかが変わるような気がします。興味を持たれた方は大谷(marunekodo@gmail.com)までお問い合わせください。


June 12, 2022

【838】アラタの絵本づくり。第一作「ハイカン寺」。

 アラタが絵本を作りたいと言う。

 任せろ。こう見えても本職の編集者だ。

 というわけで、第一作は「ハイカン寺」。適当に家にあった紙を使って、製本も思いっきり簡易なので、絵本と言うよりは大学のレポートになってしまった。けれど、楽しかった。表紙+本文17ページ。

 「ハイカン寺」というのは、アラタの空想上のお寺で、奈良にあるけど六地蔵からバスで行くらしい。いつもこのお寺の話をする。イマジナリーフレンドならぬイマジナリーテンプル。



 本人も気に入ったようで、保育園の友達の家にまで持っていって、無理やり読ませたりしている。
 次回作への意欲もあるので、次はもう少し紙や製本を検討します。

June 11, 2022

【837】山本明日香、ピアノ・ミニレクチャーコンサートやります。6月19日。

 レクチャーコンサートというのは、演奏者がレクチャー(解説)もして、演奏もするコンサートです。僕はこれがとても面白いと思っていて、どう面白いのかを書いてみることにします。

 僕にとってレクチャーコンサートの良いところは、音楽というものが、実は、聴こえてくることと聴くこととのかなり複雑な重なりというか絡まりだというふうに実感できるところだと思っています。そのような状況として、音楽と僕とが共にいることができるようになる感じがあります。

 音楽というものが、受動的でも能動的でもある、自分に起こる出来事になるという感じです。

 こんなことは、ひょっとすると音楽家や音楽が好きな人にとっては当たり前のことかもしれません。あるいは、全く見当外れかもしれません。でも、いずれにせよ、僕にとってはそれがなにか特別な体験として、レクチャーコンサートでは起こります。それが素敵です。

 6月19日はショパン「雨だれ」を中心に。今からとても楽しみです。


日程

2022年6月19日(日)11:00~11:45

参加費

投げ銭

申込

不要。直接会場までお越しください。

場所

まるネコ堂別館(本館に隣接)
京都府宇治市五ヶ庄広岡谷2-163

問い合わせは、大谷まで。
marunekodo@gmail.com


June 10, 2022

【836】第3回まるネコ堂芸術祭、出展者募集、開始しました。

 まるネコ堂芸術祭は、京都府宇治市の、普通の一軒家(とオンライン)を会場とした芸術祭です。2020年のゴールデン・ウィークに「第0回」をオンラインで実施し、その後も回数を重ねて、2022年4月に第2回を開催しました。

 近所の方もいらっしゃれば、遠方からはるばる泊りがけで観に来てくださる方もいて、特に天候の良かった最終日はとても賑わいました。

 この芸術祭の特徴は、出展者を募ってから、約10ヶ月かけて、いくつかのプログラムを進めていきながら、他の出展者や実行委員と意見交換などをしつつ、作品づくりを進めていくことにあります。

 ぜひ、今はまだ、漠然として、うまくつかむことができない、あなたのなかの何かを、一緒に試行錯誤して、表現してみませんか。
 
 来年2023年の出展者募集を開始しました。出展申込みの締切は8月31日です。

June 9, 2022

【835】第2回の読書会も千葉雅也「現代思想入門」です。


 先日、初めての読書会をやりました。千葉雅也著『現代思想入門』について、みんなで話したのですが、思っていた以上に盛り上がってしまって、時間切れで終了となりました。

 ということで、同じ本で二回目をやることにしました。

 現代思想・哲学というものが、それぞれの内容はともかく、それ以前に「一般の人には難しいもので、それを読み解いた一部の専門家だけが語ることを許されているのだ」という、現代思想が置かれた状況そのものをひっくり返してしまおうというのが、著者の千葉雅也さんの「思想」なのかなとも思える本で、単なる「紹介本」に収まるものではない、とても力の入った本だと思います。

 読むとなにかが起こる、喋りたくなる、本だと思いますので、ぜひお読みいただき、読書会にもいらしてください。

まるネコ堂読書会
#2 千葉雅也「現代思想入門」その二

June 3, 2022

【834】気取らずに生きていきたいという言葉がすでに気取っていると感じる。

 タイトルから書き始めてみます。タイトルぐらいしかないのですが、こういう底が抜けた感じに僕は時々なります。なんでしょうね。

 言葉というものがすでに持ってしまっている「業(ごう)」のようなものなんでしょうか。さみしいです。

 「気取らず」って書いてあるんだから気取ってないんだよと思うのですが、そうはならないという、恋の駆け引きみたいなものです。

 なんでこんなことを書いているかといえば、たぶん、ちょうど今、来年の芸術祭向けのサイトづくりを進めているところで、表現や芸術ということそのものに思いを馳せているからだと思います。

 第1回や第0回のサイトを見返したりするのですが、どちらも冒頭に新型コロナウイルスによる変更についての但し書きがあります。その事情説明の短い文章を読むだけで、心動かされます。記録や記憶は意外なところに強く深く刻み込まれていると思います。作品や創作ってなんだろうと思うには十分なほど何かが揺さぶられてしまいます。

 ひょっとすると、芸術とか表現とかって気取ってやがる、と僕が思っていて、だからわざわざ「素直な芸術祭」と書いたのか。僕自身、芸術や表現や創作は、好きなことだし、やりたいことでもあるので、その分、勝手にこじらせていたりするのかもしれません。これについてはもうしばらく考えてみようと思います。また一つ、長い付き合いが始まったのかもしれない。

 ともあれ、楽しく面白くやります。やりたいんです。


追記:
まるネコ堂芸術祭のサイト

第3回(2023年春開催)に向けてリニューアルしました。
出展者募集も開始しています。上記サイトより御覧ください。

June 2, 2022

【833】ここから何処かへ行けるし、帰っても来るだろうハブ空港のような本。『現代思想入門』



 千葉雅也著『現代思想入門』。ようやく第五章まで読みました。このぐらいの新書なら、通常は二時間ほどで読み終えてしまうのですが、この本は驚異的に時間をかけることができています。もう三週間ぐらい読んでる。

 数ページ読むだけでたくさんのことに思い当たって、いろんなことを考えたり思い出したりする。新しい世界の広がりを感じたり、これまで思っていたのとは違うように世界が塗りかわったりする。ここからいろんなところへ行くことができ、いろんなところからここへ戻ってくることができる。

 そんな結節点の本。ハブ空港のような。ワクワクする。何度も読むことになりそうで嬉しい。何度も来ることで踏み固められていくだろう場所。こういう感じがとても好ましい。

 「この哲学者に興味を持ったなら、この本も良いよ」と紹介されている本がみんな魅力的に見えてくる。その中にはすでに読んだことがある本もある。でも、千葉さんは僕よりもっと面白く楽しくその本を読んだのだろうなという感じする。それなら、もう一度読み直してみようかと、こんなことが起こるのは、本当に素晴らしいこと。

 読むことが「消費」や「処理」ではなく、むしろ「創造」というか「増殖」というか、読むことで残りがさらに増えていく感じがとてもうれしい。ノートをとりながら読むのが楽しい。千葉さんはEvernoteユーザーだとなにかで読んだけれど、そういう感じもなんとなくわかる。いろんなことがつながったり、つなぎかえられたり、断ち切られたりする動的なノートの楽しさ。

 もういろいろあって、読書会が楽しみです。

ーーー
参加者募集中です。
#1 2022年6月4日土曜日 千葉雅也著『現代思想入門』

June 1, 2022

【832】本を読む前に面白いとわかる現象の説明。

 まるネコ堂ゼミでメルロ・ポンティの『知覚の現象学』を読んでいるのですが、面白いです。まだ第一部の半ばなのですが、この本を読んで、本好きならおそらく思い当たるであろう現象が少し説明できるのではないかと思ったので、やってみます。

 本屋さんで本棚を見ていると、著者もタイトルも初見にも関わらず、この本は絶対に面白いと思えることがあります。そして、その本を買って帰って読むと、必ず面白い。

 「本に呼ばれる」「本が自分から手の中に飛び込んでくる」「その本だけ浮かび上がって見える」といったような言われ方も聞いたことがあります。

 オカルトめいた話ですが、これを「知覚するとはそもそもどういうことか」について論じたメルロ・ポンティをヒントにすると、こんなふうに説明できるのではないかと思います。

 まず、オカルトめいて聞こえる理由を改めて記述します。

 該当する「その本」という対象に関する情報がタイトルと著者名しかない。強いて言えば、ブックデザイン、表紙デザインといったものも入れても良いかもしれませんが、いずれにせよ、極めて少ない情報から、本の内容を予め読み取っているかのように聞こえるからだと思います。

 しかし、実は、この状況そのものの捉え方自体に「見落とし」があります。

 現象としてもう少し詳しくこの状況を記述すると、

  1. その本屋にいる。
  2. その棚の前にいる。
  3. その棚の他の本が見える。

と、こうやってすでに該当本に辿り着く前に多くのものを得ています。例えば、

  1. その本屋がどのような品揃えの傾向なのかをある程度知っている。
  2. その棚がどのようなジャンルの棚か知っている。
  3. その棚に並んだ本のうちいくつかは読んだことがあるか、内容を知っている。

 こうして「その本」にたどり着きます。そして何らかの意識の契機によって、それまで漠然としていた本の並び、棚の配置などが「背景」となり、「その本」が「対象」となります。

 この「対象」と「背景」の構造自体をその時に「僕」が作り出します。

 言い換えれば、このときに「僕」に起こっている現象は、対象である「その本」に関する諸情報の入手だけではなく、その背景としての、店、棚、他の本などの多くの情報と、さらに僕自身の過去の読書歴とが交錯した大きな雲のような「本に関するネットワーク」のようなものがうごめいているものを含んだ、対象と背景を含んだ構造自体を作り出しているということになるからです。

 「見落とし」がちな点は「背景」というものそのものです。この背景は、対象である「その本」ほど意識的に見ているわけではなく、それこそ、絵の背景のように「目に入って」いるだけだったり、無意識的な探査を向けられる記憶でしかありません。そのため、背景は意識上には明瞭に捉えられていません。僕の意識はただ、「その本」がその他から区別された特別さを持って現れたかのように捉えます。意識や背景とは、そもそもそのようなものだからです。

 簡単に言えば、対象となる本のタイトルと著者名といった僅かな情報から内容を得ているわけではなく、実は、僕の読書歴、読書傾向や好みといった大きな意味での読書経験の大半とその本が置かれた店や棚の状況すべてから、その本を「僕が意識に切り出して」きています。たとえ僅かな情報であろうとも、それがその本屋のその棚のその並びにあることを顧みれば、十分に「僕にとっての面白さ」の判断が可能になるというわけです。

 これで、だいたい説明できる気がします。

 しかし、それでもまだ説明し足りない領域があって、それはもう少し原理的なものです。

 そもそも僕がどういうことを「面白い」と思うか、ということ自体の「可変性」のようなものを説明しなくてはいけないはずです。

 簡単にいえば、僕にとっての「その本の面白さ」というのは、「その本」を読む前の僕が完全に規定できるものではなく、「その本」を読むことで変化してしまった僕によって事後的に「面白かった」と振り返られるものであるような気がするからです。この辺はもう少しうまく書けるようになったら、書いてみたいと思います。

 いずれにしても、メルロ・ポンティの『知覚の現象学』の範疇のように僕は思っています。


ーーー

まるネコ堂ゼミ

現在、以下のゼミが進行中です。途中参加可能です。

・メルロ・ポンティ『知覚の現象学』

・スピノザ『エチカ』

May 31, 2022

【831】「自己肯定感」という言葉の使われ方。

 特に心理学的な素養があるわけではなく、単なる言葉として見た場合の「使われ方」に対する考察です。

 「自分はすごい」「自分は正しい」「自分は間違っていない」と「感じる」といったような意味合いで「自己肯定感が高い」と使われている場面を目にするのですが、僕が言葉から感じるものとは少しずれているように思えます。こういった少しのズレは、ニュアンスとでもいうようなものなので、なかなか言い当てにくいのですが、その違和感について書いてみます。

 まず「自分はすごい」というような感覚自体が大切だということはそうだと思いますが、これを抽象的な名詞として名指しするのだとすれば、僕なら「自己賞賛感」といった言葉にします。というか、わざわざ作らなくても「誇り」とか。「誇りを持とう」「誇り高き」といった感じで。

 また、「自分は正しい」「自分は間違っていない」と「思うようにする」、みたいな「感覚」は、少し意地悪な言い方かもしれませんが「自己正当化感」とでも言ったほうがいいかもしれません。

 いずれも、僕が「自己肯定感」という言葉から受ける印象からすると、付加価値が乗っかってしまっているように感じます。クラッカーの話をしていたら、レバーパテがないとダメだよね、というような話をされたような違和感です。

 僕の実感として、単なる言葉として見た場合の「肯定」は、もう少しフラットに「その通りだ」といったことで、否定である「そうではない」とに対立しています。

 これで行くと「自己肯定感」という言葉は「自分がその通りだと感じる」といった程度の意味になります。特別な解釈が必要なものというよりは、ごく当たり前に「自分というものがある感じ」です。これをわざわざ「自己肯定感」という言葉で取り出して概念化した結果、そういった抽象化と概念化の「手間」に対する「ご褒美」として「付加価値」をもってしまったのかもしれません。

 それで。

 「自分はすごい」「自分は正しい」「自分は間違っていない」というのを付加価値的に捉えられてしまった結果、よく見かける「自己肯定感を高めよう」というフレーズが「自分に新しい付加価値をつけよう」というように扱われて、「自己肯定感を高めるセミナー」といったような、一種の「習い事」化まで行ってしまう。

 しかし、自己肯定感が言葉上では「自分がそのとおりだと感じる」ということだとすれば、よりくだけた言い方をすれば「自分がいると感じる」といった程度で、むしろ、あらゆる価値観の前提となる「自分」の存在の「肯定」を「実感する」ということに思えます。前記の「付加価値」を含んだすべての価値判断の「前提となる自分」というもののレベルの話です。

 ときに「自分はすごい」と思ったり、「自分は駄目だ」と思ったり、「自分はありふれている」と思ったり、「自分は正しい」と思ったり、「間違えてしまった」と思ったりといった諸々の「思ったり感じたりする」ことの「土台となる自分(自己)」が「存在する(肯定)」「よね(感)」ということが自己肯定感という言葉の意味なのではないかと。どうなんでしょう。

 前提の話をしているのに、いつの間にかその前提に乗っかっちゃったものの話になってしまっている、という感じで、僕はこれが結構気になるのです。乗っかっちゃものの話がどうころんでも、前提はそのもとで話題に上ることなく省みられることなく静かにそこにあり続けているんだよね、という僕の違和感の話でした。

May 30, 2022

【830】家で芸術祭をやる理由。

 まるネコ堂と称している自宅で芸術祭をやっています。他にも、合宿や講座などの催しもやっています。さらに、「キャラペイス」という名前でやっている革製品の製造販売も同じ空間を工房として使ってやっています。最近では庭で畑もはじめました。

 こうやっていろんなことを自宅でやっていることの理由はいくつかあります。そのうちでおそらくこれが一番大きいと思うのは、この場所の隅々まで生きている状態にしたいということかなと思います。

 芸術祭にしろ合宿や講座、工房も、そのいずれに対しても「何かをやるための場所」という意味では必ずしも自宅が最適なわけではありません。それぞれに適した場所があって、それを探してそこでやるほうが効率的だったり効果的だったりします。この事自体は、その通りだと思っています。

 言い換えれば、なにかやりたい目的化された対象が予めあって、それを実現するための道具として「自宅」を選んでいるわけでは、必ずしもありません。そうではなく、あるいは、そうでありつつもむしろ、この家やこの場所が活性している状態である、その状態を好ましいと思っていて、それによってやりたいことが派生していっているということになります。

 もちろん「目的があって手段を選ぶ」という順序で物事を行うという意識もあるのですが、それだけではなく、その「目的」やそれ以前の「何かをやりたい」という意欲が生み出されてくる土台としての場所をやっている感じです。

 そのために、家でやることは何でも良いわけではなく、これがやりたいと心から思えることである必要があって、そうでないと「隅々まで生きている」という感じにはなりません。「やりたさ」が含み込んでいる爪の先まで行き渡っていく「貪欲な繊細さ」が重要なのです。

 基本的にいつも感じていることとして、この家は僕たち家族が現代的な日常生活を送るためだけには、大きすぎるし広すぎます。ごく普通の古い建売の一軒家なのですが、そもそも家や場所というものの潜在的な力(可能性)は「こんなものではないはずだ」という気がするのです。

 この家とこの場所のもともとの力を発揮したいし、発揮できる状態にしておきたいと思っています。これが今のところ言葉になる、僕が自宅でいろいろやることの理由です。

 こうやって言葉にすることで、ここから先が見えてくるのですが、この家やこの場所を活性させるために、家にこもっているだけのほうがいいのかというと、たぶんそうではなく、外に出ることで家に呼び込むようなこともしたほうがいい気もしてきます。そういうフェイズもあるだろうなと思っています。

May 29, 2022

【829】本を読むことの面白さをできるだけ言葉にしてみる。

 好物があったとして、そのどこが好きかを言うのはなかなか難問なのですが、あえてやってみようと思います。

 本を読むということで僕自身に何が起こっているのかを記述してみるというアプローチで考えてみます。

 まず、「知りたいことを知ること」や「知らなかったことを知る」といったときの、ぱぁっと明るくなる感じがあります。これが楽しいしうれしい。

 知りたかったことや知らなかったことは自分の外側にすでに在って、それが自分へと合流してくるような感じもあります。

 これを一言で言おうとしたときに僕が一番近いと思うのは「消化」です。食べ物を口に入れて、それが自分に「なっていく」感じです。

 難しい哲学書などは消化の難しい食べ物という感じで、歯が立たなかったり、丸呑みしても消化しきれずにそのまま出てきちゃったりする。少しでも自分の顎で噛み切れたり、噛み砕けたり、胃腸で吸収できたりするとうれしい。

 この「消化」で読書の面白さの半分ぐらいが説明できている気がします。問題は残りの半分。

 こっちは、「何かが呼び覚まされた気がする」「何かがはじまってしまう」「悩みや問題が生じる」といったときの、ゾワゾワとした居心地の悪さです。本を読むことで、それまでは無かったものが生じてしまう。これが面白くてワクワクする。

 この「何か」は自分の外側にすでに在るのではなく、自分から生み出されるような感じです。

 これを一言で言おうとすると、なかなか難しいのですがあえて言えば「受胎」です。あるいは「出産」。自分の中で自分から自分ではないものが生じて、生み出されていく感じです。

 難しい哲学書をどうにか消化できるとパァッと明るくなるのですが、同時的にその裏側でこのゾワゾワとしたプロセスが生じています。

 この二面性が、今、言葉にできる本を読むことの面白さです。こうやって二つに分けて説明することでだいぶわかりよくなりますが、僕自身には、これらが一つのこととして起こっています。二面が絡み合っているといえばいいのかもしれません。紙の表と裏のように、もともと一体のものを視点によって分けて見ているだけで、紙自体は一枚という説明がスマートかもしれない。

 さて、このように僕の語彙だと「消化と受胎・出産」となりますが、一般的には「理解と発見・気づき」などになると思います。意味としては同じようなものかもしれませんが、雰囲気は違っていて、僕にとって本を読むことの「面白さと楽しさ」は、ぬめぬめとやわらかく、生温かい、内的でプライベートなイメージを伴うものです。変わってしまえばもとには戻れないようなことを強く意識したりもします。性的な領域での出来事とも言えるのかもしれません。

 そういうわけで、10代前半のころは、好きな本について話すなんてことは、共通の読書趣味を持つ友人とこっそりうちわでやってしました。「公開の場」で自分の読書体験を話すなど、とてもできなかった。今でも、かなりドキドキではあるのですが、そんな僕が読書会やゼミを喜んで主催しているわけで、いよいよ露出趣味も極まったなと、感慨深いものがあります。

ーーー

まるネコ堂読書会 参加者募集中です。

#1 2022年6月4日土曜日 千葉雅也著『現代思想入門』


May 28, 2022

【828】コーヒーの一部をどくだみ茶にリプレース。

朝、アラタを保育園に送り出し、掃除や洗濯を終えて一杯。

昼食後に一杯。

おやつとともに一杯。これは無いときもある。

夕食後に一杯。

と毎日3、4杯飲んでいたコーヒーの一部をどくだみ茶に置き換えてみています。とりあえず夕食後の分から。

コーヒーは今でも好きで、特に体調に影響が出ているわけでもないのだけれど、そんなに飲まなくてもいいかなとは思うようになってきていました。朝のコーヒーは素晴らしいけれど、流石に4杯目ぐらいにもなると美味しさの感動は減るわけで、その残念さが残念。

ドクダミは庭に元気に生えていて、刈り取って吊るして干して焙煎してお茶にします。焙煎はしなくてもいいのだけれど、焙じた味が好みなので。こういう工程を一つ一つ進めていく楽しさがあります。

夕食後のコーヒーをどくだみ茶にしはじめて二週間ほど経ちますが、どくだみ茶でも十分に満足です。夜中にトイレに起きることがなくなったのが嬉しい誤算。朝のコーヒーのありがたみもこれまでより増して、これも嬉しい。

もう一杯分ぐらいリプレースできるかもしれない。

May 27, 2022

【827】芸術祭の記録動画と図録できました。

 先月開催した第2回まるネコ堂芸術祭の全出展作品を紹介した動画と図録が完成しました。


図録pdf


芸術祭の雰囲気や何を重要だと思ってやってきたかなどをできるだけ残しておこうと作ったものです。ご覧いただければうれしいです。






May 26, 2022

【826】ノートをとりながら本を読む楽しさ

  • 自分ではうまくできない。
  • 僕のようなタイプには不要だ。
  • でも、やっている人を見るとうらやましい。

僕にとって、以上の3点を満たす典型が「ノートをとる」で、僕は本当にノートをとってこなかった。未だに、うまくできないし、心の何処かで「僕はそういうタイプじゃない」と言い訳しつつ、でも、素敵なノートを見ると羨ましい。

一応、ライターという仕事をやっていたので「メモをとる」のはできる。たぶん得意。でも、メモとノートは違うと思う。

メモは、
  • 一時的に、
  • 原稿という完成物を作る「ための」中間物で、
  • 用がすめば捨てる。
これでいい。

ノートは、
  • 「それ自体として」作っていくもので、
  • そこで何かを「生み出していく場所」だ。
ああ、ノートって素敵。ノートとってみたい。

ということで、6月に読書会を始めるので、せっかくだから読書ノートをとってみることにしました。

今はこんな感じ。

これでも自分ではかなりうまくできていると思ってます。

ノートをとる初心者として気が付いたポイント

1 字はていねいに
2 わからない漢字は調べる

これは大切、だと思う僕、小学生。

読書会、第一回は6月4日土曜日、千葉雅也著『現代思想入門』です。面白い本です。

追記:スピノザ「エチカ」ゼミのためにグーグルドキュメントでノートをとっていますが(これはわりと得意)、紙のノートとは別物だと思う。

May 24, 2022

【825】まるネコ堂読書会のサイトを作りました。

読書会、6月4日に第一回として千葉雅也さんの『現代哲学入門』をやります。ちらほら申し込みを頂いていてありがたい限りです。

本について話すことができる場所は、ずっとやりたいと思っていて、これまでにもいろいろとやってみているのですが、できるだけシンプルに長く続けられらばいいなと思っています。

読書会のサイトを作ってみました。シンプルすぎて怪しい感じですが、このサイトも読書会の変化に合わせて、少しずつバージョンアップしていこうと思っています。

まるネコ堂読書会 


May 13, 2022

【824】読書会の告知です。千葉雅也著『現代思想入門』

 久しぶりに新規の催しをしたいと思います。

 本です。千葉雅也著『現代思想入門』

 まだ半分も読んでないのですが、面白すぎてしばらく読み終わらなそうです。

 新書なので分量は少ないし、文章もわかりやすく書かれているので目を通すことはすぐにできるはず。なのになかなかそうならない。少し読むたびに、内容に関係することや、そこからズレたこと、全く関係なさそうなことまで、次々と立ち上がってしまって、気がつくと本を置いて部屋をぐるぐる歩き回って考え事をしている。

 これまで当たり前だと思っていたことが、そうではないかもと、別のところに繋ぎ変えられてしまう。まさに聞きたかったことを聞かされたり、ずっと聞きたくないと思っていたことを聞かされたり。ウズウズ、ゾワゾワ、すっきりしない。大きくなったり小さくなったり、うねりとさざなみが消えることなく続く。

 これらは、僕にとって面白い本を読んだときに共通することです。こういう本はあんまりないです。

 簡単に読み進められないけれど、だからといって難しい内容ではない。読み終わる目処も立たない、立てたくない。読み進むことが正しいという気もそもそも起きず、気がつけば、本と関係がないようなことをついつい始めている。

 ということで、だれかとこの本について話をしたいととても思います。読書会をやります。

 シンプルに、本を読むことが楽しくて面白いと思えるような会にしたいと思っています。興味持った方が気軽に来ていただければうれしいです。なぜかうちのイベントは敷居が高いと思われがちなのですが、ふらっと迷い込んでください。

■まるネコ堂読書会#1 千葉雅也著『現代思想入門』

日時:2022年6月4日(土) 13:30-16:00

会場:まるネコ堂+オンライン(Zoom)

参加費:1000円

内容:本について参加者で自由に話します。聞いてるだけでも大丈夫。

推奨すること:

1 本を読む。

 読んでなくても参加可能ですが、読んでおいた方が楽しめると思います。

2 読んだ感想などのメモやレジュメ(形式自由)を作って提出。

 なくても大丈夫ですが、なにか思ったことを自分なりに書き留めておくと読書自体の雰囲気が変わるし、読書会で喋るときも喋りやすいと思うのでこちらもおすすめ。

3 会場での参加。

 来場可能な方はぜひ会場へ。オンラインだと参加の目的がはっきりしすぎて、それ以外の想定しない出来事が起きにくい傾向があります。自分自身で思ってもみなかったことが起こってほしいなという方は、ぜひ会場に。

申込み:

 まるネコ堂の大谷までメール(marunekodo@gmail.com)かメッセージで。


May 2, 2022

【823】第二回まるネコ堂芸術祭、閉幕。

 第二回まるネコ堂芸術祭が4月30日に無事閉幕しました。

 最終日は特に天気もよく、多くの方にご来場いただきました。ありがとうございました。本当にうれしいことです。来場できなかったけれど、気にかけてくださってご連絡いただいた方もいらっしゃって、これもまたとても励みになります。改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。

 2020年の3月、新型コロナウイルスによるこの「特殊な事態」も、ひと月も経てば元通りだろうというとても甘い見通しで、その年のゴールデンウィークに最初の芸術祭開催を企画しました。しかし、そうはなりませんでした。結局、当初想定したごく普通の「有観客」での開催が実現したのは二年後となりました。

 やりたいこと、やってみたいと思うことをやろうとした途端に、一歩目から躓くというのは表現の世界ではよくあることですが、この芸術祭そのものがその典型かもしれません。躓いて転びながらその都度どうにか起き上がって、また歩きはじめ、躓く、ということを繰り返して、ようやく、最初に見えていた、とりあえずあそこまで行ってみようというところまで、やってきました。「会場に作品を展示して、直接見てもらう」。こうして言葉にしてみると「芸術祭」としてほとんど最低限でしかないようなことに二年がかかったわけです。

 さて。

 少し顔を上げて、ここから見えるものを見ながら、また一歩、進めていきたいと思います。

 一緒に芸術祭を作ってきた出展者、実行委員には、ただただ感謝です。これからも、よろしくおねがいします。

2022年5月2日

まるネコ堂芸術祭実行委員 大谷隆


第二回まるネコ堂芸術祭

April 25, 2022

【822】まるネコ堂芸術祭、開幕。

 初日。あいにくの雨ですが、それでも来ていただいたお客さんに感謝です。

 2年前の2020年のゴールデンウィークに「10年10回はやりたい」とはじめた芸術祭ですが、今から思えば芸術祭を始めるには最悪の時期でした。新型コロナウイルスは2019年末に世界的流行が始まりました。僕の記憶では年末時点に中国で原因不明の肺炎として発見され、2020年1月に日本でも感染が確認され、世界が変わっていきました。

 そんなとき、とても甘い見通しを持って、この芸術祭は企画されました。2020年の3月に予定していた山本明日香さんの「レクチャーコンサート」が新型コロナウイルスの感染拡大によって中止せざるをえない状況になり、とはいえ「5月には収まってるよね」と、この芸術祭の「第1回」は企画されました。その後、誰もが知るように、コロナ禍は2ヶ月では収まらず、オンライン開催を余儀なくされ、「第1回」は「第0回」へと変更されました。

 第0回の案内ページを読み返すと、今でもその当時の緊迫感を思い出します。開催日直前の実行委員によるギリギリの状態での深夜のメッセンジャー会議を思い出します。

 2021年の「第1回」も似たような状況でした。直前まで出展者が会場での展示プランを進めていましたが、ギリギリで「無観客開催」となりました。

 そのような経緯があるので、今年、会場に多くの作品が展示され、お客さんがそれを観てくださるというのは、もうそれだけで感慨深いものがあります。

 表現というのは、とても壮大なものでもあるのですが、同時に、自分でやるしかないものでもあります。どのような環境であれ、そのなかで自分がどうするか、ということが問題です。困難な状況を理由に「環境が整わないから表現ができない」と意識してしまうと、環境が表現の外部にはじき出されしまいます。こうなると表現は始まりません。我々が現実に生きているという状況はとてもノイジーで、理想とはかけ離れています。表現は、この、何も整わない、なんの才能も材料も環境もないところから、始まらざるをえないものです。材料も才能も技術も環境も、その表現の内部にあって、「それをやる」ということにまつわるあらゆる抵抗を表現は含んでいます。

 といったことをとても実感できるようになりました。「コロナだからできない」というよりは、「コロナでもやるにはどうすればいいのか」です。

 やりたいことをやろうとすると数々の困難に直面しますが、その困難たちはすでに表現のなかで表現を刺激して、活性してくれるものだと、本当に思います。

第二回まるネコ堂芸術祭 2022年4月24日から30日

April 22, 2022

【821】いよいよ、今週末24日日曜日から芸術祭。

  明日が搬入日。僕は一足先に昨日作品設置を完了し、明日は家具移動などをする予定。

 ともあれ、明後日から第2回まるネコ堂芸術祭。一週間やります。前回までは、単発イベント的だったけれど、今回からは、なんと「会期」があります。そして、今年こそは念願の「有観客」開催ができそうです。

 毎回少しずつアップデートしてきている芸術祭ですが、今回の変更の一つとして、11月にイン・プログレス・クリティーク、1月にプロポーザル・レビューを入れたことがあります。前者は制作の途中経過を出展者同士で発表して意見交換すること、後者は出典内容のプレゼンテーションです。これがどうだったのか、というのは出展者それぞれで異なると思いますが、僕自身の経験としてはとても有意義でした。

 「プランニング」というものの意味合いが広がりました。

 表現というものは、不測の事態が多いです。というよりも不測の事態へ向かうことと行ってもいいぐらいです。そういうことに対して、予め計画をたてるということは果たして有効なのか。以前の僕は、さほど有効ではないと思っていたように思います。しかし、今は逆になりました。先行きがわからない、不透明だからこそ、プランが有効なのだと思うようになりました。

 プランとは「その時点」での見通しです。この見通しは、不測の事態に遭遇すれば、変更を迫られることになります。当初のプランがそのまま最後まで通用することはほぼないと言ってもいいです。しかし、だからといってプランがなくていいかというとそうではない。実は、プランがないと、始めることがとても困難で延期がちになります。「はじまり」が偶然の産物でしかなくなってしまうからです。「はじまり」は、様々な要因の複合的事象ですが、ここに「自分」を関与させる方法としてプランニングというものを意識することができるようになりました。

 プランは、現在から最終結果までを確定するものではなく、なにかをスタートするためのものです。プラン変更は消極的妥協というよりは、出発点では見ることができなかったことが見えるようになった進捗の証拠であり、歓迎すべきことなのだと思うようになりました。

 作品表現もそうですが、芸術祭自体も試行錯誤の連続で、毎年少しずつチャレンジを続けています。

第2回まるネコ堂芸術祭

January 5, 2022

【820】芸術祭出展者インタビュー動画、公開中です。

  2022年になりました。おめでとうございます。

 まるネコ堂はどちらかというと旧暦で動いているので、まだ師走が始まったところなのですが、この新暦の年末年始は結構たくさんの方に遊びに来ていただいてちょっとにぎやかでした。少しだけコロナ前の雰囲気に戻りつつあります。

 ゴールデンウィーク頃に開催するまるネコ堂芸術祭の準備が着々と進んでいます。いよいよ各出展者による展示のためのプロポーザルが提出され、その検討が今月行われます。展示場所や展示内容について出展者全員で調整がなされます。

 第2回こそは会場にお客さんをお呼びして体験していただきたいのですが、どうなりますか。

 出展者のインタビュー動画を順次公開していっています。どんな展示なのか、5分程度でそれぞれの出展者が話していますので、ぜひ御覧ください。興味のある出展者や出展内容については、芸術祭のサイトにて詳細を掲載しています。

出展者インタビュー(公開順)