October 27, 2014

【025】家内移住

温暖で快適ゆえ、猫有り。
ゆえに我、捗らず。
かない、じゃなくて「いえない」。

2階建ての我が家。年間を通じて1階は低気温、2階は高気温。
特に2階の南側の部屋は冬でも昼間は暖房いらず(家内温暖地域)。
逆に1階はどんなに暖房を入れても入れ足りない(家内寒冷地域)。

机と椅子とパソコンがあればそこがオフィスなので、季節ごとにオフィスを移住。快適快適。

こういう時に物が少ないと便利だなと思う。
シンプルな暮らしで移住楽々。

October 26, 2014

【024】『2014年』のsekenism


庭から見える景色。
毎年寒くなると恒例なのだけれど、薪ストーブが欲しくなる。
年々、設置してもいいんじゃないかという期待の度合いが高まってきている。
今年こそは、と思ったけれど、うっかり「薪ストーブ 苦情」で検索してしまって、この国の支配者の存在に気づく。
天皇陛下でも総理大臣でもない。
この国を実効支配しているのは「偉大なる世間様」である。
世間様の治める世間主義(sekenism)国家である。
(架空小説『2014年』より)
まるで、ジョージ・オーウェル『1984年』の「偉大なる兄弟(ビッグ・ブラザー)」のようにあまねく人々を監視している「偉大なる世間様」。

と妄想が膨らんで近所の街並みが別の世界に見えてくる遊びをして楽しむ秋。

夜長にまた読もうかな『1984年』。
旧訳版。 新訳版。

【023】いさぎわるいから生きている

新月を撮ろうとした写真。
中央の白いのが新月、ではなくたぶん飛行機雲。
前回の続き。

僕には「残るということへの執着と罪悪感がある」。

「残るということへの執着」と書いたけれど、執着そのものが残ることであるから、執着は省略できて「残ることへの罪悪感」。

逆に残らないこと、つまり「消えることは潔い」と思っている。
これも言葉としては冗長で、消えることそのものが潔い。
潔いという言葉の一例として消えることがあるのではなくて、消えることそのものが潔い。だからこれも省略できて「潔い」だけ。

その「潔い」の逆だから、残ることは「いさぎわるい」。

「いさぎわるい」という言葉はないので「潔くない」ということだけど、罪悪感も合わせた表現として「いさぎわるい」という言葉がしっくり来る。そして、罪悪感というもの自体も「いさぎわるい」に含むことができる。

どんどん言葉が省略されていって、最終的に僕も消えてなくなれば、単に「いさぎわるい」。

世界で最後に残るのは「いさぎわるい」だけ。

『はてしない物語』 で虚無によってファンタージエンは砂の一粒まで追いやられた。その一粒は「いさぎわるい」だろう。

この世界のすべてのものは「いさぎわるい」から派生している。
まず光があったわけではなくて「いさぎわるい」があったのだろう。

なぜ生きているのかという問いが時々僕に襲いかかる。
それは前回の回答を更新すべき時が来たということ。
大体10年周期ぐらい。

「悲しむ人がいるから」の次が「死ぬ理由がないから」。
そしていまは「いさぎわるいから」。

これでまたしばらく時間が進む。

October 25, 2014

【022】残すの熱

消えそうな虹の写真。
写真は消えない。
「残す」は時間と空間を移動して存在すること。
それは強烈な力の源で、発電所の炉の熱から電気が作られるように、そこからさまざまな力を生み出す。
未来、計画、安定、所有・・・

本を書くのはその時点での視界を残すこと。
もやもやとしたものを言葉として取り出し文字として定着する。
本はフリーズドライになった仮死状態の著者の視界。
読む者は自分の体験という温かなお湯をかけて仮死状態の著者の視界をよみがえらせる。
時間を超えて読む人が書いた人になる。他人の視界を得る。
これも「残すの熱」がもたらしたもの。

その時間を過去からも未来からもどんどん縮めて、今、ここに到達すると、残すの熱は失われ、書くことは話すことに、読むことは聞くことにたどり着く。

October 12, 2014

【021】無縁の場は現代でも存在しうる

パイプは縁のイメージ。
けんちゃんのこの論考、面白い。
円坐(エンカウンターグループ)と無縁の原理

なぜなら、
アジールは存在できないーーそれが現代人の「常識」である。その常識はメディアや教育や家庭をとおして、子供の頃から私たちの心に深くすり込まれている。(中沢新一『僕の叔父さん 網野善彦』p69)
アジールは無縁と読み替えられる。ここで中沢新一はカギカッコの「常識」と書いている。中沢自身は常識だと考えていないが、世間一般の「常識」という意味だと思う。

この「常識」に対して、
 「おじちゃん(網野善彦)の考えでいくと、縁を断ち切った無縁を原理にすえても社会はつくれる、ということだよね」
 「ああそうだ。無縁になってしまった人間たちを集めて、権力によらない自由な関係だけでつくられた社会空間というものは、実際に存在することができるはずなのさ。(略)」(同p97)
と無縁(アジール)が現代にも存在しうると網野善彦は言っている。
円坐を空間と時間を区切った一つの社会だとすれば、円坐は網野善彦の言葉を実現している。
「・・・そういう空間が長い時間にわたって永続できるかどうかってことが、難しい問題になるわけさ。君はそういう実例を知らないかい。社会的な縁を否定してつくられている集団なのに、長いこと持続もできるというような人間関係って、(略)」(同p98)
と無縁の実例を切望した網野善彦が円坐を見たらどう思うのだろう。

無縁という語が一般に否定的文脈で使われていたというのは、中世のころからすでにあったし、それは網野善彦も認めている(網野善彦『増補 無縁・公界・楽』p367など)わけで、そこをあえて肯定的文脈で使っていた証拠を集めているというのが『無縁・公界・楽』のすごいところ。

現代において、「今やお金で買えないものなどないのか、いやあるのか」といった議論が起こるとか、身寄りのない人が増えてきたというNHKの『無縁社会』とか、そういった否定的文脈だけでなく、けんちゃんのように自らの営みの中で無縁を肯定的文脈で捉えることは、網野善彦が浮かび上がらせたいきいきとした無縁が現代にも存在しうる証拠だと思う。


October 6, 2014

【020】死者の言い分

父の書斎。
片付けるのは容易ではない。
5月に父が死んだ。僕は生まれて初めて喪主をした。通夜の後、葬儀場に泊まりようやく時間ができて、喪主とは何かを一晩考えた。

そもそも、この葬式は父が死んだから引き起こされたことで、父が当事者である。死んでいるからこちらに何かを伝えることはできないけれど、今起こっていることの主であることは間違いない。意思が伝達できない状況にあるからといって、その人がいないことにはならない。喪主はあくまでも生者の代表でしかない。生者は誰も死んだことがないから死者の側にある言い分を正確に知ることはできない。死者の言い分は、生者の代表たる喪主よりもさらに「前に」ある。喪主は死者と最も近いが不完全な〈代理人〉である。

そうわかったからといって大したことができるわけではなくて、その時点で僕にできたのは、通夜のレイアウトでは参列者が父から遠すぎたので、式場に無理を言って翌朝の葬儀の椅子の並べ方を変えたぐらい。そんなことを父が望んだかどうかはもちろんわからない。

すでに死んだ人、まだ生まれていない人、生きていないけれど言い分はある。

October 5, 2014

【019】〈大ストーリー〉への憧れとメタ僕

風が吹いていれば自分が止まっていても安心できる。
さらに続き。

軽薄で表面的な暮らしと書いたけど、僕はこの軽薄さを気に入っている。と書いたけれど、なかなかそこで終わらない。

森のなかに小屋を建てて住んでみたいと思ったりする。しかし、その理由は、猫を外に出せる、焚き火で煙も出し放題、周りに気にせず木槌の音を出せるといった、今住んでいる家では制限されているものからの解放でしかない。今の家でもそれらができるようになるなら、移る必要はなくなってしまう。

軽薄で表面的な暮らしを望むのであれば、「必要はなくなってしまう」と悲観することではない。

しかし、どこかで僕は、それらの具体的な制限要因が全てクリアになることはもちろん、それどころか僕のすべてを包み込んでくれるような〈大ストーリー〉があって、それを僕は進んでいるはずなのだと思ってしまう。まだ見えない幻想のストーリーの中に入りたがる。

でも、やっぱりそんな都合の良いストーリーはない。だから、目の前にあるシーンの解像度を上げるしかない。と思考が輪廻する。

軽薄で表面的な暮らしを気に入っている僕と生き方のすべてを精細に導いてくれる〈大ストーリー〉を望む僕がいて、その両方を行き来する僕を優柔不断な奴と眺めるメタ僕がいる。

October 3, 2014

【018】砂のふりかけ

できたばかりの若い空き地もまた良い。
昨日の続き。

深遠なる構想(ストーリー)を持って生活しているのではなくて、軽薄で表面的な暮らしと書いたけど、僕はこの軽薄さを気に入っている。

というのも以前ストーリーに依存してうまくいかなかったからだ。例えば、

あるとき美緒(澪)が、糠でふりかけができることをきいてきた。炒って塩を混ぜると確かにふりかけだった。このころは節約とかもったいないとかそういったストーリーに依存していた。

その展開から、出がらしのお茶がらでも作った。美味しいかと言われると微妙だが、ふりかけにはなった。ストーリーへの依存は強い圧力を持って僕達の背中を押していく。お茶でもできるんだから、コーヒーかすでもできるんじゃないかと僕は思った。そうすれば、毎日発生するコーヒーかすをきれいに活用できると思った。期待は大きかった。コーヒーかすと醤油を鍋にいれて火にかけた。

結果、食べ物とは言えないものができあがってしまった。でも、ホッとした自分もいた。もしこれがうまくいったら、僕は次に庭の砂を炒り始めたはずだから。

こういう時、ストーリーへ依存してしまっている僕は、自分自身を見ることができなくなっていて、途中で止めることができない。「節約のためにならなんでもやるべき」となってしまう。いつの間にか自分自身から乖離していて、それどころか人間からも乖離するところまで行こうとしてしまう。ストーリーの中にいると、自分がいったいどこで乖離したのかすらわからなくなる。

という話を澪にしたら、それは小林けんちゃんの話にあった一節を思い出すといった。

小林 ミッションがこうで、
   このためにこういう事業計画があって、
   具体的にはこういうタスクがあって、
   で、これやる人は?
   って言った途端、
   「いやいや、どうぞどうぞ」って感じで、
   誰もやりたがらない(笑)
   なんじゃそりゃって感じだよね。
ほんとだ。
この場合、ミッションがストーリーとなり、そこへ依存してしまっている。そして、そこにいる人から乖離している。

ストーリーかシーンかで言えば、僕の場合はシーンに依存するほうがうまくいく。だからといって全くストーリーがないかというとそうではないけれど、ストーリーに乗る時は自分自身からの乖離がないかどうかを注意深く見ている。

今では糠もお茶がらもコーヒーかすもなんのためらいもなくコンポストに入れている。コンポストが美味しそうに食べてくれるシーンの楽しさは以前にも書いたとおり

と、ここまで書いて思い出した。最初に勤めていた会社で僕は毎日終電まで働いていた。病気で入院もした。社会的に意義のある仕事だと思っていたから、どこまでもやれたし、やらないといけないと思っていた。しかも最悪なことに僕はそんな働き方を同僚たちへも暗黙のうちに求めていた。自分の依存するストーリーに他者を巻き込んでいた。ストーリーへの依存が進んで僕は人間としての感覚を失っていた。「人間に戻れなくなる」ところまで、僕は僕が作り出したストーリーに潜行していた。

【017】シーン先行型の暮らし

刃物を研いで使うというシーン。
岡田斗司夫が、「エヴァンゲリオンはシーン先行型で作られている。これでもかこれでもかとかっこいいシーンを繰り出してくる。ストーリーは二の次」というようなことを言っていて、あぁそうかと思った。

僕らの暮らしはシーン先行型だ。

例えば、
七輪でサンマを焼いて食べるシーン。
火鉢であったまりながら本を読むシーン。
万年筆にインクを吸い上げるシーン。
シーンは何かが有ることで作られるだけではなく、
電子レンジがないことで生じるシーン。
なんていうのもある。

シーンと言っても、画的なものだけではなくてもう少し概念的なものもある。
オーダーして作った足にピッタリの靴を履いてどんどん歩くシーン。
新品よりも使っていくことで良くなっていく道具のシーン。
講読ゼミで本を読みながら仲間と真剣な話をするシーン。
それぞれのシーンは、そのシーンにおいて最適化されていくから、例えば庭で七輪に火をつけて秋刀魚を焼く工程はどんどん洗練されていく。もともと魅力的だと思うから作り上げたシーンはそれなりの強度と魅力を持って僕の暮らしに存在し積み重なっていく。しかし、その七輪シーンとペンキを塗り直し作り上げた部屋の中の喫茶店シーンの接続はかなり強引になる。

また、やってみたいと思っても実現できないシーンもあった。なんで、できないんだろうと思ってたけど、そりゃ無理だ。すでにでき上がっているシーンに必要な設定や小道具と新たにつくろうとしているシーンに必要なものが大きく食い違っているのだから。

そんなわけで、ずっと僕が暮らしに持っていた違和感の正体がわかった。

ストーリーは二の次だったのだ。

例えば、エコロジー、ロハス、田舎暮らし、節約、のんびり、などなど。
そういったストーリーで僕らの暮らしを説明しようとすると、おかしなことになってくる。

特に、つい最近まで僕が信じ込んでいたストーリーがミニマリズム。
とにかく家の中にある物の数が少ないほど良いと思い込んでいたし、そう言ってきたし、そう行動してきた。

そのつもりだった。
でも、やっぱりおかしい。

普通の人の家にない七輪みたいなものがなんであるの?
ガスコンロを使わないならミニマルといえるかもしれないけど、ガスコンロあるし。

これはミニマリズムでは説明できない。
ある程度まではうまくいくのだけど、最後まで行けそうな気がしない。

ストーリー先行型であれば、次にどういったシーンが来るかは、ストーリーを読み進めることで作られる。でもシーン先行型は、とにかくかっこいいシーンを思いつかないと次のシーンは出てこないし、逆に、突然思いついてしまったシーンを強引にでもやってしまう。

外からは、なにやら深い意味がありそうなライフスタイル(ストーリー)に見えていたのかもしれないけれど、実はとっても軽薄で表面的。そういうことがわかって、自分で笑えた。

そんなわけで、つい2日ほど前に思いついた新たなシーン。
ハンモックで本を読んだりコーヒーを飲んだりしながら、うとうとしたい。
これ、近いうちにやってしまう可能性が高い。

きっと、スモールハウスも強烈な魅力と長い尺を持つ大きなシーンだから、惹かれるんだろうな。

とにかく、僕らの暮らしのシンプルなんだかカオスなんだかわからない状況は、シーン先行型というメタストーリーである程度説明がつく。今の住環境でやれる新たなシーンがなくなった時、僕は別の舞台へ移動するのだろう。


追記:このエントリーを読んだ山根澪に「これじゃぁ、私がやったことが暮らしの中に入っていない」というクレームを受けたので、3箇所の「僕の暮らし」を「僕らの暮らし」と修正しました。