October 31, 2018

【473】煮魚部の活動(生後55日目)

煮魚部とは

スーパーで安くて美味しそうな魚があれば、たとえ食べたことがなくても臆することなく買って帰り、醤油と味醂で煮る部活である。「にざかなぶ」と呼ぶ。2日に一回、あるいは3日に一回程度、活動する。


本日の活動はアカガレイ。

しばらく活動しているとわかるのだけど、だいたいカレイである。エテガレイ、ミズカレイ、アカガレイと種類が豊富。エテガレイが安いことが多い。他にはニギス、スルメイカなど。基本的に魚は大きい方が美味しいので、なるべく大きなのを買う。(小さいのがいっぱい入って安いパックは買わないほうがいい)

予算的には二人分で198から398円。あるいは、そこからの2割引きから半額ぐらい。

煮る方法はだいたいいつも同じである。

一、フライパンに魚を並べる。


重ならないようにという注意書きをよく見かける。たぶん火の通りが均一になるからだろう。

二、水、みりん、醤油を同量入れる。


基本的に味はだいたいこれでいい。活動を進めていくうち好みや魚に合わせてバランスを変えていけるようになる。量は魚の身が半分程度浸るぐらい。だから、たとえば大さじで、水・みりん・醤油、水・みりん・醤油と入れていって適当なところでやめればいい。

三、煮る。


中火ぐらい。煮汁をおたまやスプーンでかけながらやると、上の面にも火が通る。魚は結構すぐに火が通る。5分とか10分とか長くても15分とか、そんな程度。途中でちょっとつまんだりして様子を見ると良い。ひっくり返すことはあまりしないけれど、身が厚い鯛とかだと返したほうが火が通る。まぁ、新鮮であれば多少生でも大丈夫。

四、盛り付けて、食べる。


煮魚は、一見難しそうに思うかもしれないが、短時間でできて手間がかからず失敗が少ない料理。味付けも醤油味醂同量を基本にすれば、だいたい美味しく食べられる。慣れてくると自分なりの工夫をすればいい。煮魚部のおかげでスーパーの鮮魚コーナーが楽しみになった。

で、子育てとどう関係があるのかといえば、母乳の出が良くなるらしい。これに、ニア玄米と純粋味噌汁をつけるとさらに良い、ような気がする。

部活化の経緯

澪は煮魚をあまり食べたことがなかったらしく、自分でもほとんど作らない。当然、好きな料理でもなかった。僕は煮魚が好きだったから、それなら僕が作って食べさせればいいと思って、部活化してみた。今では澪も煮魚好きになってちょくちょくリクエストが出る。

October 30, 2018

【472】ふた家族分の味噌30キロを作る。(生後54日目)

澪となっちゃんで、味噌を作るというので、小林家の3人、けんちゃん、なっちゃん、いぶきがやってくる。その味噌の量というのが合計30キロで、でかい業務用の寸胴鍋でまる二回分大豆を煮る量である。

ここに写っているのだけで15キロ分。
これを2回やった。
澪もなっちゃんも味噌作りの経験は何度もあるから手際が良いというのはあるのだけれど、それぞれ1歳3ヶ月と生後54日目の子供がいる状況で、この量の味噌を仕込もうというのだから、これはなかなかすごい。

1歳児ともなるとこうやって共同作業に加わろうとする。
僕とけんちゃんは主に子供の守りをしていたのだけど、特に役割分担をしたわけでもなく、なんとなくそうなっていた。

こんな感じでゆるくやって、夕方には30キロちゃんと作り終わる。その後お茶を飲んだり晩御飯を作って食べたりもした。

平成最後の年の昭和以前の風景。
これって結構すごいことなのではないだろうか。なにがどうすごいのかよくわからないけれど、それでももう一度言っておくと、これってやっぱりすごいことだと思う。

こういうこと、つまり日常的にやっているわけではない、ちょっと特別で負荷が高いことを、小さな子供がいて何かと時間とパワーが取られがちな状況なのに、わりとさらっとできるようになること。このことのために、僕たちはたくさん考え、たくさん試してきた気がする。

発揮のしどころもはっきりしないタイプの能力なのだけど、我が家も小林家もともにこの能力値はかなり高い。この手のことをやっていくことには、もうすでに年季が入っている。

家という場所のもっている力は、複雑で相互に関連しあっている。
家という場所は、単純ではなくて、たぶんまだ全容が解明されていない。
だから保坂和志は「カンバセーション・ピース」を、家を主人公にして、書いた。

October 29, 2018

【471】好きであることと心地よいことの交点。(生後53日目)

新(あらた)は、多少ぐずついていてもベビーカーに乗せて、ガタガタと動き出すととたんにおとなしくなる。家の中とは違う外の雰囲気と移ろいゆく景色に注意の全部が支払われていて、泣いている場合ではなくなるようだ。

こういうのを見ていると、普通に「新は散歩が好きなんだ」と思うし、そう口に出しても言う。しかし、新自身にとっては「好き」と言いきれるほどの体験とは言えない。もう少し違う言葉が適切な気がする。

空気の匂い、風、温度、目に映る風景、車や人の音、顔に当たる日差しと影のコントラスト、そういったものが次から次へと洪水のように押し寄せているのだろうから、大人なら例えばジェットコースターに乗っているようなものかもしれない。あるいは、ものすごくテンポの早いドラマや映画を観ているようなものかもしれない。

ベビーカーが家の前の道を左に進んで、突き当りをもう一度左に曲がると、かなり急な坂を下ることになるのだけれど、このあたりまで来るともう、新は、押し寄せる刺激に疲れるのか、だいたい眠ってしまう。だから、洪水のような刺激は、この時点では、眠気を誘う快適さに取って代わられている。

好きだということと心地よいこととは、必ずしも一致しない。好きであるからといって心地よいとは限らない。心地よいからといって好きであるとは限らない。好悪と快不快は別である。この2つの間には、距離がある。この隔たりの間に、何かがある。あるいは、こういうイメージでも良い。好きであるという軸と心地よいという軸が直角に交差しているその交点に、何かがある。大人になっても。

【470】自然発生的フリーマーケット

昨日のこと。

澪が赤ん坊を連れて散歩に行ったと思ったら帰ってきて「すごいから来て」というので、ついて行ってみると、すぐ近所の人が家の前に棚を置いて本を並べて「ご自由にどうぞ」とやっていた。

以前からうちでちょくちょく出しているガレージセールとそっくりのスタイルである。


うれしくなって我が家も出店する。


同じ道沿いで、ほんの30メートルほどの距離に似たような本棚。通りかかった人はちょっと驚いたと思う。

カラーボックスやいらなくなった棚を使うと、ダンボール箱などに入れるより、それっぽくなって楽しい。今日のように天気が良くて風が強くない日曜日は「ご自由にどうぞ」に最適である。

これ、みんなでやれば、市が自然発生するかもしれない。なんだか楽しい。

参考エントリー
【437】カラーボックス一個からできるガレージセール。


October 28, 2018

【469】おしっこがおしっこ臭くなってきた。(生後52日目)

無色透明無味無臭だったおしっこが、あ、いや味は知らないけど、おしっこ臭くなってきた。心なしか色もついてきた気がする。

うんちもだんだん固まってきたし、だんだん内臓が働き出してきた。手足はまだ思うようには動かせないのだから、解剖学者の三木成夫的に言えば、まずは体壁系よりも内臓系から整っていくということだろうか。

ここのところ、抱っこの要求が増えてきた気がする。正確には「抱っこをしてほしい」という欲求が独立して現れてきたというか。以前は、抱っこは、授乳や睡眠といった欲求に付随するものだったのが、抱っこそのものがほしいという感じに変わってきている気がする。

生まれた直後はとても単純に、お腹が減ったときだけ泣いて、お腹がいっぱいになれば直ちに眠っていたのだけど、その後だんだんとお腹がいっぱいになっても眠らないことが例外的に出てきている。やがて、お腹がいっぱいであることと寝ることのあいだの直接的な関係は薄れていくのだろう。

こういうこともひょっとすると、おしっこやうんちに色や形がついてきたこと、つまり内臓の発達と関係があるのかもしれない。

October 27, 2018

【468】意外にも大きかった鼻くそがとれた。(生後51日目)

昨夜。寝ている新(あらた)の鼻がズーゴーズーゴーいって苦しそうで、寝入ってもしばらくすると起きてしまう。鼻の穴を覗くと、乾いた鼻くそが息のたびにヒコヒコと動いてはいるものの、それ以上奥は見えない。ティッシュでこよりを作って少し突っ込んでみたりするものの、取れそうにないので、仕方なくそのままにしておく。

朝になっても、まだズーゴーズーゴーと苦しそうで、機嫌も悪い。どうしようかとまた鼻の穴を覗いてみると、今度は昨夜とは違って湿っぽくて粘っこいものが少しだけ見えていて、生きのたびにわずかに出たり入ったりしている。

そこで、ベビー用の綿棒で、その粘っこいものだけでも取れないものかと、左の穴に軽く突っ込んでみる。

すると、ズルリとゲル状の鼻水というか鼻くそが綿棒について出てきた。小さな鼻に似つかわしくない、全長1.5センチはありそうな巨大な鼻くそで、びっくりした。

右の穴を覗いてみるとこちらも同じように小さな鼻くそがヒコヒコ動いている。で、こちらにも綿棒を入れてみると、またしてもズルンと同じ大きさのウェットな鼻くそが出てきた。

これで、すっきり鼻が通ったのか、気持ちよさそうな顔をしている。

体の大きさに似つかわしくない巨大な鼻くそだったが、そういえば、響き渡る重低音サウンドのおならも、大人顔負けの立派さである。

【467】だいたいずっと家にいる。豊かな生活のために家に居ること。(生後50日目)

うちは、僕と澪が一日中家にいる。二人で、家事と子育てと若干の仕事をやっている。新(あらた)の生後50日たって、最近はだいぶ落ち着いてきたけれど、最初の二週間はかなりきつかった。

もし、これで僕が外へ働きに出ていたとしたら、生活も子育ても相当に厳しい状況に置かれたと思う。たとえ、布おむつを紙おむつに、母乳をミルクに、買い物を配達に変更して、負担を下げたとしても。

だから、たとえ、料理がうまく作れなくても、掃除や洗濯をやったことがなくても、人がいるというだけで、かなり助かる。家事というのは、下手でもなんでも、3日もやれば、だれでもそれなりにできるようになるものだし、完成度が低いことによる弊害は大きくない。

新生児から目を離すのは短時間でもリスクがあって、精神的な負担が生じる。一人だとゴミの日にゴミを出すことすら一大事となる。ほかにも、授乳中は母親は身動きが取りにくいので、ガーゼを取ったり、おくるみをセットしたり、買い物に行ったりと、普段ならどうということのない簡単なことをする人が家の中に増えるだけで、大きく助かる。

現時点で、僕が考える子育てに必要な人的資源は、24時間平均して家の中に2.0人、できれば2.5人以上だと思う。これは必ずしも赤ん坊の親やその親族である必要はない。

一つの家の中にいる人の人数というのはこの100年で大きく減少したはずだ。よく言われる核家族化もそうだけれど、それだけでなく、家族ではない人が家にいるということ自体がまずなくなった。これが結果的に、現代的な社会問題の多くの原因になっていると思う。子育てに限らず、あらゆる福祉的な面や災害時対応など。

家に人がいるということの影響は、生活や子育てという、主にソフト的な面だけでなく、それだけでハードとしての家がメンテナンスされていくことにつながる。家に人がいること自体を、家の消費として捉えるのではなく、家の維持だと思ったほうがいい。家にいる人数が多いこと、それだけ多くの営みがなされる。その営みの大きさが、家のハードもソフトも豊かにしていく。家を維持し、より豊かにするのは、修理代や改築費といったお金ではない。どれほどのお金があろうと、人のいない家は貧しい。営みのない家に豊かさはない。

単純な話で、営みというのはそれがなされている場所を豊かにするのだ。

外に働きに出てお金を稼ぐということ自体を否定するつもりはまったくないのだけれど、外で働いているその営みは、外を、つまり職場を豊かにすることになる。定年退職したのに、同じ職場に再就職してしまう人がいるのは、長い時間を過ごした分、自分が職場を豊かにしたという自負があるからだろう。職場の豊かさのために自分の時間を費やしたという実感がそうさせるのだと思う。

そんなわけで、みんな、もう少し、家にいるということが成し得ることを見直したほうがいいですよ。と、ほぼ一日中家にいる僕は主張したい。今という時代、家にいることが過小評価されすぎているように思える。もっとも、気分転換は必要だけど。

家でなくても、その場所を豊かにしたいと心から思える場所があるのならば、その場所で営む時間を増やすことにどんな後ろめたさも感じる必要はない。たっぷりとその場所に自らの養分を滴らせていけばいい。

October 25, 2018

【466】うんちの出し方わかった、かも(生後49日目)

昨日はうんちだらけだった。

午前にお腹のマッサージをするが、このときは出なかった。午後2時頃、顔を赤くしながら盛大におならを繰り返すので、これはもしかしてと、綿棒でお尻の穴を刺激すると、すぐに大量に出始める。

もう終わったかなと思ってから、もうひと踏ん張りしてドバっと出す。これでもう終わったかなと思ったら、またひと踏ん張りしてドバっと出す。

かなりの量が出たので、今日はもうこれで十分だろうと思ったていたら、夜お風呂に入る前に普通に出す。さらに、お風呂に入って、沐浴ではなく、普通の浴槽で出す。本人は満足そうにしているが、浴槽は溶き玉子状態。

で、さすがにもうこれで終わったと思ったら、その後布団の中でまたブリブリ音をさせるので、まさかと思って開けてみたら、また大量のうんち。

たぶん、うんちの出し方を習得したのだと思う。終わったあとの妙に誇らしい表情がそう言ってる。

October 24, 2018

【465】顔面、傷だらけ。(生後48日目)

爪は割とこまめに切ってやっているつもりではある。

なのに気がつくと顔面、傷だらけである。一日ほどで治るのだが、翌日には新しい傷が必ず増えている。


今日は鼻血かと思う傷までつくっている。心なしか、まぶたも腫れている。これは、もしかして、我々が目を離したすきに街の不良の二、三人でもノシてきたのかもしれない。

あまり危ないことはしないでもらいたい。

October 23, 2018

【464】子育てハック。寝付かせ抱っこ。(生後47日目)

長時間の抱っこの末、ようやく寝付いたと思って布団に寝かせた途端、発動して泣き出す「背中スイッチ」 への、まるネコ堂式の対処法です。

まず「背中スイッチ」が、なぜ起こるのか。第一に考えられるのが、寝付きが浅いから。つまり、抱っこで寝付かせる時点でもっと深く眠らせてしまえばいい。

というわけで「寝付かせ抱っこ」。

前半は、抱っこして寝入らせますが、このとき、少ししっかりめに抱っこして、赤ん坊の体勢がやや丸く縮こまっている感じにします。こうすると抱きしめられている安心感から、寝入りやすくなります。

しかし、この縮こまった体勢のままでは、より深く寝入ることができません。このタイミングで布団に寝かせようとすると「背中スイッチ」が発動します。

そこで、寝入ったあとに、抱っこしている腕を少し広げるようにして緩めていきます。こうすることで、赤ん坊の首、腕、脚が伸びて全身から力が抜けていきます。これでより深く寝入っていきます。寝息がゆっくりになっていくのが確認できればOK。深く寝入ってしまえば「背中スイッチ」は発動しにくくなります。

まるネコ堂の子育てハックでした。

October 22, 2018

【463】病院へ行ったり、二階へ引っ越したり(生後46日目)

右耳から大量の耳垂れ。一応、中耳炎なども疑って近所の小児科へ。澪が連れて行ってくれる。そういえば鼻水も出てる感じだし、咳もしてるから風邪でもひいたかもしれない。

と思ったが、結果は違ったようで、耳の汗腺が腫れているらしい。大したことはないようで、塗り薬をもらう。鼻水もまぁこういうものらしい。

どちらにせよ掛かりつけの小児科は探しておかなければならなかったし、予防接種の予約もできたので、ちょうどよかった。顔などの湿疹の対策は今のままでよいとのことで安心する。

で、昼からは、二階への引っ越しを敢行することに。

まるネコ堂の一階はとにかく寒い。夏場は良いのだけど、これからの季節は毎年、二階の南向きの部屋に移動して生活するようにしている。一階には、食事と風呂とトイレに降りてくる感じ。

二階は、窓を開けて風を入れても、日差しが入るので十分に暖かい。新(あらた)くんも気持ちよさそうにしている。

おしめや子供服、バスタオルなど必要なもの一式をボテ箱に入れて二階に持って上がっている。

ちなみにボテ箱とは、こういう箱のことで、まるネコ堂では洗濯かごにしたり、適当にものを入れたりして、複数個が活躍している。便利で丈夫で格好も良いので、道で落ちてたりしたときは拾っておくとよい。うちにある「ファインインキ」の黄色いのボテ箱は道で拾った。「欲しい方どうぞ」と張り紙がしてあった。

October 21, 2018

【462】赤ん坊から魚の臭いがする(生後45日目)

干物っぽいやつ。

なんだろうと思ったら、耳の後ろから湧き出てきていたアブラの臭いだった。昨日あたりから、左右両方ともジュクジュク出てきていて、「油田」と呼んでいた。

なるほど、このアブラ(脂)は、先日までは、頭、額、頬などから吹き出物として吹き出していたやつで、今度は、耳の後ろから吹き出したというわけだ。しかも、もう、ダイレクトに液体のまま出てきている。吹き出物が石炭だとすれば、確かにこれは石油である。油田もあながち間違いではない。

頭、額、頬についてはすでにピークを過ぎていて、ほぼ新規の吹き出しは無い。一時期と比べてかなりきれいになってきた。今は、耳の後ろがメイン、あとは首まわりや脚にも少し。

このまま体中を一巡りすれば、それで鉱脈も枯れるのかもしれない。

いろんなことがほんの数日のうちに移り変わっていく。

October 20, 2018

【461】初笑いか。(生後44日目)

10時ごろ、抱っこしてスクワットしていたら「えへへへ」と聴こえる。眠そうにしながらも笑顔が出ている。笑い声らしきものとしては初めて。新生児微笑ではないはじめての「笑い」かもしれない。

声、というか、 声的な声といったらいいのか、音韻的な声といったらいいのか、「はーい」「あー」「んー」など、鳴き声・叫び声や唸り声とは違った普通に人が話すときに出すような声は、ちょくちょく出るようになっていた。

ここ数日、ベビーカーで散歩によくでかけるようになり、〈世界というもの〉が広がったことも影響しているのかもしれない。

それまでできなかったことができるようになることは、原理的な歓びであるが、それは必ずしも子供だけの特権ではなくて、大人にももたらされると思うし、年老いて死ぬまでそうであると思う。思いたい。僕はずっとネオテニーでいい。

【催し】2019年元旦に持ち寄り食会やります。

元旦、特に予定がないよ、という方、まるネコ堂で持ち寄り食会やりましょう。予算は1500円。持ち寄り食会としては結構豪華なので、立派な新年会になると思います。

詳細は、山根みおのブログにて。

持ち寄り食会、未経験の方も気楽にどうぞ。

October 19, 2018

【460】断片化する時間の影響(生後43日目)

赤ん坊と一緒にいるとどんどんと時間が断片化する。

おしめがぬれた、お腹が減った、と泣き出すたびに、何かしらの対応が必要になるし、静かにしていたら静かにしていたで、不安になって様子を見に行ってしまう。

見に行けば見に行ったで、気になることは増えるし、つい遊びだすと可愛いし、面白いので、いろいろやってしまう。

単純に時間が取られるというのではなく、時間が断片化し、時間の質が変わる。そうなると相性の悪いことも出てくる。

本を読んだり、文章を書いたり、考え事をしたり。つまり、これまで僕が潤沢に浸りきっていたタイプの時間は難しい。すくなくとも以前のままでは難しい。

というわけで、これまでごく当たり前にやってきていたことも当然変質を受ける。

その筆頭として、こうやって書いているブログの記事の書き方が変わってきた。以前はパソコンの前でわりとゆっくり書いていたけれど、今はスマホで、しかも出先で書いている。

きっと文体にも、内容にも影響があると思う。どんなことになっていくのか、僕にとっての書くということが、どのように変わるのか、変わらないのか、楽しみではある。

October 18, 2018

【催し】最後の「読む書く残す」と「音読」の言語合宿

言語合宿をやります。
年末、クリスマスのあたりの2泊3日です。

案内文にもあるように「読む書く残す探求ゼミ」という名称でやってきた講座は、これで最後になります。その後は、枠組みを変えてやっていく予定にしています。

最後となると「後がない」が故に、だいたい羽目を外すことになるのですが、今回も思いっきり楽しみたいと思っています。

===
「読む書く残す」では、テクストの中に深く潜り込むことします。言葉によって生まれる特別な空間と時間を〈体験として読む〉こと、その体験を言葉にして話すこと。これを複数の人がそれぞれに行うことで、テクストが多重露光され立体化していきます。一般に持ち込み文章を募集するスタイルの「読む書く残す探求ゼミ」としては最後の開催となる予定です。後継の講座については別途お知らせします。

音読講座は、テクストの世界を、自分の身体を使い音読によって現実に出現させる講座です。テクストが持つ言語空間を現実の空間に現すことで引き起こされる大きな効果を体験します。声をなじませること、繰り返し練習すること、様々な声を試すことなどを行います。

どちらも〈読むということ〉の深さと広さをたっぷりと感じていただける内容です。両講座を連続で受講されることが望ましいですが、単体での受講も可能です。

▶日 程:2018年12月22日(土)11時頃~24日17時頃(月祝)

▶講 師:大谷隆(精読)、小林健司(音読)

▶内 容:
 読む書く残す(22日、23日): 参加者が書いた文章を読み込んでいきます。
 (※持ち込みは最大4名まで)
 音読(24日):講師が指定した文章などを音読します。
 ※上記を基本に参加者に合わせて当日のスケジュールは変更する可能性があります。

▶場 所:スペースひとのわ アクセス
     滋賀県大津市北比良970-174

▶注 意:幼児(1歳半)がいます。講座中は支障の出ないようにしますが、
     食事は一緒に、宿泊も人によっては同じ棟になる可能性があります。

▶参加費:25,000円(宿泊、食事込)
     原則全日程参加となります。部分参加はお問い合わせください。

▶定 員:6人程度

▶お申込:kkenjik@gmail.com(小林)までメールかメッセージで。
 ・お名前
 ・電話番号
 ・その他(何かあればご自由に。文章持ち込み希望。
  前泊、後泊もできますので希望される方はその旨も。)

▶参考サイト
 読む書く残す探求ゼミ https://yomukakunokosu.wixsite.com/yomukakunokosu
 雑誌「言語」 http://gengoweb.jimdo.com/

〈大谷隆のプロフィール〉
宇治市出身。「まるネコ堂」代表。編集プロダクションとNPO出版部勤務を経て2010年5月フリーランスの編集者として独立。自宅のまるネコ堂で、読む書く残す探求ゼミ、講読ゼミ、雑誌「言語」発行、考え事などを庭をうろつきながらしています。
・言葉の場所「まるネコ堂」 http://marunekodoblog.blogspot.jp/
・まるネコ堂ゼミ http://marunekodosemi.blogspot.jp/

<小林健司のプロフィール>
愛知県春日井市出身。大阪教育大学在学中に教育関係のNPOの起ち上げに関わり、卒業後も含めて約十年勤務する。ソーシャルビジネスの創業支援をするNPOでの勤務を経て独立し、大阪を中心に活動。2016年、滋賀県(琵琶湖の西北西あたり)にセルフビルドのログハウスを建て、2017年に第一子(男の子)が生れる。近所でバイトをしたり、執筆や子育てをしたり家の裏にある山や琵琶湖を散歩したりしながら、新しい暮らしをつくっているところ。自他ともに認める音読マニアで音読の会を開催。
・人とことばの研究室 http://hitotookane.blogspot.jp/

【459】夜好きの兆候(生後42日目)

午前中、澪が病院へ。そのため初めて新(あらた)くんと2人きりに。

大丈夫かなとちょっと身構えていたけど、9時くらいに澪が出ていき、1時くらいに帰ってくるまで、ほぼ寝てた。

11時半頃、お腹が減ったらしくミルクを作って飲ませたぐらいで、拍子抜けする。陽当りの良い窓際で、グーグー気持ちよさそう。

だいたい新は夜型である。

夜型というか、夜好きで、日が暮れて暗くなると目がぱっちりと開いて、いかにも興味津々。抱っこして肌寒い中、家の周りを歩いてやると、静かに音を聴いている。

抱っこしていると、そのうち寝入るのだけど、布団に寝かせても10分くらいで起きてしまう。再び、抱っこして寝かせても、また起きる。これを0時くらいまで続ける。

その分、朝が遅くて、だいたい午前中は寝ている。誰に似たのか。まあ、僕だろうな。

もう少し大きくなったら一緒に夜中の散歩に行こうと思っている。夜中の沈みこむような気配をきっと新も気にいるだろう。

October 17, 2018

【458】保健師の訪問(生後41日目)

保健師の訪問日。体重を測ってもらう。5,660g。一日60g増。案の定「十分に体重は増えているのでミルクはなくてもいいですよ」と言われる。

ここ二日ほど、ミルクは一日1回までに減っている。抱っこバリエーションを増やしたり、散歩を取り入れたりして赤ん坊の欲求を紛らわしつつ、澪は澪で腕を回して肩こりをほぐして母乳の出をよくしてきた。そういったことが功を奏しつつある。母乳への完全移行が見えてきた。よかった。

おでこ、頭、頬の湿疹というかカサつきは、やはりちょっと「肌がデリケート」らしい。こちらも、2日ほど前から沐浴のときに石鹸でよく洗うようにして、かなり症状が良くなってきていた。あとは保湿。とりあえずベビーローションで良いようなので、塗ってみて様子を見る。「ひどくなるようなら〈早めに〉病院へ」と言われたので、一般的なレベルよりは気にしておいたほうがよさそう。

その他は特別、問題はなし。うつ伏せにしてあやしてみましょうと言われたので、やってみることにする。

だいたい、専門家からやってみろと言われたことは、一度やってみて、結果を検証するというやり方を僕たちはしている。専門家の強みは、知識と経験の多さで、大量の赤ん坊を見てきた(実際に経験として見たものと体系化された〈知〉として見たものの合計)ことに起因する。一方で、僕たち当該者の強みは、たった一人であるがゆえの接触と観察の濃度である。

何事も独自であることという縦糸(自己表出)と、体系的・集団的であることという横糸(指示表出)の織りなす布である。

October 16, 2018

【457】記録を継続する(生後40日目)

右が病院でつけていた「おっぱいノート」。
出生時からしばらくは看護師さんがつけてくれていた。
左は今日から使い始めたノート。記入形式は若干変更している。
生まれた病院でつけるように渡されていた「おっぱいノート」というものがある。「おしっこ」「うんち」「おっぱい」「ミルク」「沐浴」など、赤ん坊がなにかしたり、赤ん坊になにかしたときに、時刻と一緒にに記録しておくもので、病院では看護師さんたちはこれを見ながら、「うんち出てませんね」とか「おしっこ大丈夫ですね」とか、やっていた。

このノート、印刷用紙に罫線を印刷して綴じただけの簡易なものなのだけど、退院時にそのまま渡されたので、家に帰っても引き続きつけている。当初は、健診のときに持っていけば、なにかの役に立つかもぐらいに思っていたけれど、特段のトラブルは起こっていないためか、ノートを参照するようなことは今の所ない。

そろそろ、なんのためにつけているのかと言われるとちょっと困るような感じになっているのだけれど、つけること自体が楽しくなってきているので、やる気が無くなるまでは続けてみようと思っている。

今日から、以前知人にいただいた立派な日記帳にバージョンアップした。紙質がいいので万年筆で書くのが心地よく、書くこと自体がさらに楽しくなってうれしい。今の所、出生時から一日も欠かさずつけている。

要らないと言われるかもしれないが、大きくなったときに本人に渡そうというぐらいのロマンチックな夢は、僕にだってある。

October 15, 2018

【募集】読むこと書くことが面白くなる「文章の家庭教師」始めます。

当初予定していた人数に達しましたので、いったん募集を停止します。
希望される方がいらっしゃれば、ご連絡ください。再開時に優先的にお知らせします。

===

「文章の家庭教師」あるいは少人数制の「読み書きの教室」のようなものをやってみます。

「書くって実はこんなことだったのか!」「読んでるだけなのにこんなことまで起こるのか!」と、驚くような体験 を文章は引き起こします。その体験を積み重ねながら、読む書くという魅惑の〈場所〉へ向かいます。

対象は、小学生から大人まで。

形式は、
・マンツーマンか少人数(最大3人程度まで)
・一回90分程度
・毎週か隔週を基本に

やることは、
・自分の文章を書くということのきっかけ(契機)を一緒に考えてみる。
・受講生の文章の〈文体〉を捉えたレビューと助言。
・言葉・文章による創作、評論のサポート。
・読みたいと思っているけど読めない本(難しい本など)を一緒に読み進める。
・面白かった本や文章についてマニアックに話す。
・その他、やってみたいと思うことを相談しつつ一緒に試してみる。

興味を持たれた方、メッセージください。
marunekodo@gmail.com

<講師紹介>
大谷隆 言葉の場所「まるネコ堂」代表
フリーランスの編集者です。執筆、編集、出版実務の経験有り。講読ゼミ、読むこと書くことの講座など講師経験も多数。
詳細はプロフィールを御覧ください。

【456】乳児湿疹?、便秘、母乳(生後39日目)

今、赤ん坊のことで気になっているのは、

1、乳児湿疹?

頭、おでこ、頬がひどくウロコ状というかかさぶた状というか。体にも少々。調べてみると対策はだいたい、石鹸の泡で洗って清潔にして、ワセリンなどで保湿。清潔と保湿。というわけで、沐浴以外では、顔をガーゼで拭いたりしている。保湿に関しては、馬油をつけていた時期があるのだけど、ひどくなっている気がして今は休止中。2日ほど前からベビーローションに切り替えてみていて、ちょっとよくなったかも。

2、便秘

一昨日は出たのだけど(大量に)、昨日は一日出なかったので、今日の午後に綿棒でお尻を刺激して出す。刺激をすれば割とすぐに出るのだけど、あまりやりたくはない。明日はどうだろうか。

3、母乳の量

そして母乳の量。だいたい3ヶ月ぐらいでミルクを使わなくなれば良いよう。今のところは毎日、1回か2回、ミルク。昨日も結局、ミルク登場。まぁ、これに関しては、長期的に。

で、取り立てて深刻なことはないのだけれど、細かく気になることは気になるし、たぶん子供というのはずっと気になり続けるものなのかもしれない。

親の疲労については、かなり蓄積してきているけど、どうにか持ちこたえられそうな感じ。状況は上向き。先日、けんちゃんがベビーカーを持ってきてくれたので、昨日からベビーカー散歩を開始。澪が連れて行っているのだけど、かなりごきげんらしい。両親から散歩好きが遺伝したかも。親子で気分転換できるので、ベビーカーは強力なツールだと思う。

ところで、乳児湿疹のことをネットで調べていたときに、症例として上がっている赤ん坊の顔写真に目線(目のところを四角く隠してある)が入っていて、ちょっと変な気分になってしまった。「マナー」としてやっているということだと思うけれど、一般的な人間として、そもそも生後数ヶ月の時点でもう個人特定ができるものなのだろうか。たしかに、親なら自分の子供と他人の子供は区別可能だけれど、それ以外の人にとって、赤ん坊の顔ってどれぐらい判別がつくものなんだろう。大人の顔の判別よりは断然難しい気がする。グーグルやフェイスブックのAIは、新生児でも「顔認証」可能なんだろうか。技術的に難易度の差はあるんだろうか。

October 14, 2018

【455】おっぱい対決、37連敗中(生後38日目)

できるだけ母乳で育てたいと思っているが、足りない分は仕方なく粉ミルクで補っている。

新(あらた)くんの食欲は旺盛で、これまでのところ母乳だけで足りた日は一日もない。つまり、37回戦って、新くんの全勝である。ぶくぶく、いや、すくすく育ったその体は、もはや横綱の貫禄すら漂っている。

助産師さんにも言われたし、ネットなどでも書かれていることだが、赤ん坊が泣いているときの欲求は必ずしもお腹が減っているというだけではないので、なるべくいろんな手段でそれを解消してあげることが重要らしい。何でもかんでも母乳やミルクで解決するなと。

一応、そう思っていろいろとやってはいる。抱っこのバリエーションを増やしたり、散歩をしたり、お腹や足ををマッサージしたり、温めたり冷やしたり、転がしたりしている。そして、それなりに成果も出ている。

しかし、それでも、どうにもならないときがある。明らかに「おっぱい口」でエアー・チュパチュパをやっている。で、母乳をやる。しかし、母乳にも限界がある。できるだけの増産体制はとっていて、母乳がよく出るように、水分をできるだけとったり、栄養の有りそうなものを食べたり、肩こりのツボをマッサージしたりしているが、それにもかかわらず、新くんは、あっという間に飲みきってしまう。

生まれた直後よりはずっと澪の母乳の出はよくなっている。だがしかし、それ以上に消費が急増している。追いつかないのだ。母乳だけで間に合うようになる日は、果たしてやってくるのだろうか。

本日現時点(14時)では、まだ粉ミルクに手を出していない。今日こそ、横綱に土がつけられるか。

October 13, 2018

【454】便秘対策、そして出た。(生後37日目)

出た。

今日の午前中、大量に、自発的に、マッサージをしたわけでもなく、綿棒でグリグリやったわけでもないけれど、出た。うんち。

昨日、綿棒の刺激で大量に出たにもかかわらず今日はそれを上回る量が出た。

これまでの便秘対策についての流れは以下を読んでください。

【450】赤ん坊の便秘対策をしてみる。(生後33日目)
【453】便秘その後。(生後36日目)

今日、やってみたこととしては、ちょっとくしゃみが多いので、いつもの服の上にもう一枚厚手の服を着せたこと。さらに、日当たりの良い部屋に寝かせていたこと。

つまり、体温が上がる状況にしてみた。

新生児、最初の1ヶ月の便は、本当に水のような便なのだけど、それが一月ほどたつと、ねっとりとしたものなってくる。今回は、そのねっとりタイミングと気温の低下が重なったため、便が出にくくなったのかもしれない。

実際のところはわからないけれど、生まれた直後の赤ん坊の成長の変化のペースと季節の移り変わりによる気温などの変化のペースは、同じような周期を持っている。この2つの変化が同時に起こっていくわけで、かなり複雑に状況は変化していく。そこに赤ん坊独自の要素、体重などの変動要素が加わってくるわけで、全体としてみた場合、新生児の育児というのは、とても検証がしにくい事象となる。

赤ん坊の育児に関するノウハウや情報が、多様で、時として矛盾しているのはこういう複雑さが影響していると思う。体重や成長速度が全く同じ赤ん坊であったとしても、6月に生まれるか9月に生まれるかで全くことなる現象が起こったりするだろうし、その対策として、真逆なものが功を奏す可能性もある。

数年後、幼児と呼ばれる状態になれば、成長の変化速度が季節変動よりも長くなり、新生児期、乳児期に比較して、対策の多様性は収束するのではないかと思っている。

何しろ、もうすでに50サイズの服やおむつカバーが使えなくなって、60サイズに移行している。早い。早すぎる。いろいろと追いつくのが大変である。

【453】便秘その後。(生後36日目)

赤ん坊の新くんが便秘気味だというのは以前に書いた。

【450】赤ん坊の便秘対策をしてみる。(生後33日目)
で、その後。

一応ネットで調べてみると、この時期の排便周期は個人差が大きいようで、一日7、8回の赤ん坊もあれば、2日に一回ということもあるらしい。それはそれでその赤ん坊のペースなので無理に出さなくても良いと。

で、2日ほど様子を見ていたのだけど、やっぱり出にくい。というか出ない。時々、顔を真赤にして、理由のわからない暴れ方というか泣き方をするのは、お腹が張って気持ち悪いのではないかと思えてくる。

毎日しているお腹のマッサージを今日もするけれど、それでももう少しというところで出ない感じ。なので仕方なく綿棒でお尻の穴をぐりぐり、しばらくやると、出た。

練り辛子みたいな色、かつホイップクリームみたいな形状で、ニュルニュルニュルニュルと。かなり大量。やはり詰まっていたらしい。

便秘については今後も要観察。

October 11, 2018

【452】抱っこのバリエーション(生後35日目)

と言っても、横抱きとか縦抱きとかそういうことではない。「抱っこスクワット」「抱っこ散歩」「ドラクエの船抱っこ」「ピンボール抱っこ」などのことである。

抱っこスクワットは、簡単に言えば抱っこしながらスクワットすることで、難しく言っても同じである。本気で膝が90度になるぐらいまで腰を落とすときつすぎるので、そこまではしない。赤ん坊にとっては横になっている状態で背中の方へ垂直落下して、その後垂直上昇するので、絶叫マシン的な興奮があるらしい。そんな顔をしている。

抱っこ散歩は文字通り抱っこして散歩することである。生後一ヶ月ちょっとなので、基本的には室内散歩になる。抱っこしながら、部屋の隅々行く。特に窓際が良い。窓のギリギリまで近づいてやると外の音を聞いている。あとは、浴室の方へ行ったり、物置スペースの方へ行ったりする。ちょっと場所が違うだけで音も光も温度も湿度もかわって、散歩の醍醐味が味わえる。

ドラクエの船抱っこは、前述の二つの抱っこを合わせたものである。スクワットをしながら一歩一歩、あちこち歩く。歩くたびに上下動があり、ちゃらーちゃらーちゃちゃちゃーなど適当なBGMを口ずさみながらやるとドラゴンクエストの船っぽくなる。

ピンボール抱っこはかなり激しい。抱っこしながら直線移動し、壁や棚などにぶつかった瞬間に、バボン、ガコ、ガンガン、などと音響効果を伴いながら、跳ね返り移動していく。机と壁に挟まれた狭いところへ行くとスリリングで、ガゴガゴン、ガゴンガゴガゴなどと小刻みで激しい動きになる。抱っこ者にかなりの負担がかかるのが難点だが、被抱っこ者には好評である。

October 10, 2018

【451】絵本と児童文学に対する僕の不満。(生後34日目)

この時期、目もだいぶ見えるようになってきた様子だけど、やはり断然聴覚優位である。抱っこして窓の近くに行くと、外の道を通るバイクの音に耳を澄ませ、バイクが走り去っていく方向に目を動かしている。バイク自体は窓からは見えない。雨が降っているとその音を聞いている。台所で料理しているとそれを聞く。匂いがどの程度わかっているのかは判断が難しい。

人の話声への反応も強い。話しかけているだけでおとなしくなることも多い。先日のイベント「本好きが本の話をする時間」は約2時間、そばでおとなしくしていて、これには結構驚いた。

というわけで、読み聞かせもしている。読み聞かせといえば絵本なのだけど、僕も澪も絵本があまり好きではない。というか、絵本は長新太しか許容できない。絵本や児童文学全般に言えることなのだけど、どうしても入り込んでしまう「教訓性」や「社会適合性」などに我慢がならないからだ。

わかりやすいところでいえば、「そらいろのたね」のキツネに対する社会的な罰などがそうで、モラル好きな大人が自分で読むには文句はないのだけれど、これを僕自身が子供として強制的に読まされたいとはまったく思わない。このある種のモラル臭は、「ぐりとぐら」での、「みんなで」ホットケーキを作って食べることへの報酬感(罰との対置)としてもわずかに混じりこんでしまっている(「ぐりとぐら」は「そらいろのたね」と比べると断然良いのだが、それでも、である)。

なので、僕が読み聞かせるものとして、読めない。「大人の都合による社会性」とでもいうべきもの要素が、大半の絵本と児童文学にどうしても滲んでしまっている。もちろんすべてがそうだというつもりはないが、「子供向け」という観点が自ずと持ってしまう大人のモラルの視点はそう簡単に消し去ることはできない。

児童文学で言えば、この点を明確に言及している作家として「オズの魔法使い」のライマン・フランク・ボームが挙げられる。ボームは、同書の序文で、(児童文学にこの手の「序文」をつけるということ自体、変わっている気がするが)
現代の教育には、すでに道徳が組み込まれています。したがって、現代の子供は、童話にひたすら娯楽性を求めます。彼らにとっては、わざとらしい不愉快な挿話(インシデント)など、なくてさいわいなのです。『オズの魔法使い』の物語は、こういったことを念頭に、今日の子供たちを喜ばせることのみを目標として書かれたものです。驚きと喜びはそのままに、心痛と悪夢を取り去った現代版おとぎばなしーーそれがこの一遍なのです。(佐藤高子訳)

と書いている。ここにある「挿話(インシデント)」は直前に「個々の物語にふくめたおそろしい教訓(モラル)を強調せんものと著者たちがひねり出す、血も凍るような挿話」(同序文)のことである。

この序文通り、「オズの魔法使い」には、モラルを強調するようなところはまったくないし、読者に心痛や悪夢をもたらしそうな危機シーン(罰と報酬を生み出す仕組み)はあっけにとられるほど 軽く解決される。例えば、悪い魔女との「対決」は、靴を返してくれない魔女に対して、ドロシーがかんかんに怒って、そばにあったバケツの水を浴びせかけて終わる(なぜか悪い魔女は水に弱いことになっている)。このバカバカしいほどの気楽さと気軽さの連続がこの物語の醍醐味である。

もっとも「オズの魔法使い」という物語自体は多くの商業的利用にさらされ改変を受けてしまっている。たとえば、アメリカを代表する劇中歌「オーバー・ザ・レインボウ」を生んだミュージカル映画「オズの魔法使」では、この原作者の序文が完全に無視され「血も凍るような挿話」が挿入され(原作にはない「砂時計の砂が全部落ちるとドロシーは死んでしまう」という演出など)、ラストシーンは「夢オチ(全部、ドロシーがみた夢だった)」という大人の都合に堕している。

原作のラストは「夢オチ」などという物語の終端処理としての薄っぺらなソレらしさを優先したものではなく、あくまでもドロシーがオズの世界を旅してきたことが、事実として扱われている。

ドロシーが戻るのは、「たつまきにさらわれあとにヘンリーおじさんが建てた、新しい百姓家」である。もどってきたドロシーに対してエムおばさんは、
「うちのかわいいこ!」おばさんは叫んで、少女を腕にだきしめ、顔中にキスをしました。
「いったいぜんたい、どこからかえっておいでだえ?」
と尋ねる。つまり、たつまきのあと、新しい家が建つまでの一定期間、ドロシーは〈現実に〉行方不明になっていた。さらに、
「オズの国からよ」ドロシーが、おごそかなようすでいいました。「それから、ほら、トトもいっしょよ。ああ、エムおばさん、あたし、うちに帰れてほんとにうれしいわ!」
ここで終わるのだ。このドロシーのセリフ、ドロシーの立場で終わる。これを読んできた子供(僕)にとって、これほどうれしいラストはない。ドロシーとともにあった冒険のすべてが、現実であった、事実であった、と刻んで終わっている。夢や幻などでは断じてないという宣言である。

この宣言は、読者と主人公のかけがえのない物語時間を「夢でも見ていたのか」と、こともなげに処理し、社会適合の認識(御伽ばやしや夢の世界とは違う「現実」があるのだという認識)を強制させる大人の都合を、断固拒否している。

この点で「ふしぎの国のアリス」のラストは興味深い。アリスが昼寝をしながら夢を見ていた(つまり「夢オチ」)としながらも、そのアリスが話してくれた夢の世界に、聞いていた姉が再び入り込みそうになっている。「そうして彼女(姉)は目を閉じてすわったまま、自分もまた不思議国にはいり込んだような気持ちになっていた」(柳瀬尚紀訳)。単純にアリスの夢・幻だったで終わるのではなく、むしろワンダーランドを現実に逆流させようとしている。ここに、アリスら姉妹の傍らにいるものとしてのキャロルと、物語の著作者としてのキャロルとの間の葛藤がある。

さて、当初書こうと思っていたことから大幅にずれてしまった。読み聞かせる時、絵本や児童文学など「子供向け」に作られているものにとらわれる必要はない(ひたすら植物図鑑を読んで欲しがる子供もいる)。「子供向け」ということ自体が、本来は慎重に検討されるべき危うい強制力を持っている。

澪はこのブログの「子供日記」のエントリーを読み聞かせていて、新(あらた)もそれなりに聞いている。僕はアドリブで話を作って聞かせているが、そろそろまとまった文章を聞かせたい気分にもなっている。まずは吉本隆明の「言語美」でも試してみようかと思っている。

October 9, 2018

【450】赤ん坊の便秘対策をしてみる。(生後33日目)

新くんはこのところ便秘気味で、なかなかうんちが出ない。

昨日は澪にお腹をマッサージしてもらって、それでも出ないので綿棒をお尻の穴に入れてぐりぐりやって、出た。今日も同じようにお腹をマッサージして、綿棒もやる。少しだけ出る。

この時期の赤ん坊は仰向けに寝て、手や足を動かすぐらいしか体を動かせないので、運動不足で便秘になりがちだという説がある。そうかもしれない。

というわけで、ダンスでもさせてみようと思う。足をもって揺する。BGMは、僕の下手なヒューマン・ビート・ボックスである。激しめのヒップホップは割と好みのようで楽しそうにしている(泣き出しはしない)。ノイジーなサウンドでギクシャクとしたアニメーションダンスをやってみると、これもなかなかいいみたい。

あとは、全身マッサージもしてみる。お腹のマッサージだけでなく、背中の便秘のツボ、足のツボ、太もも、肩など、全身なでたりさすったりしてみる。これは相当気持ちいいらしく、泣いている赤ん坊を泣き止ませることができる。バタバタ動いていた手足もピタリと止まる。つまり「おっぱい」や「だっこ」に相当する効果がある。単にびっくりしているだけかもしれないが。

というわけで、果たして便秘解消なるか。

October 8, 2018

【449】気に入らなさの複雑化。赤ん坊が泣く理由。(生後32日目)

赤ん坊は泣くのが仕事、などと言われる。では、その仕事内容を見てみよう。

うちの新くんの場合、

まず、生まれてすぐに分娩室で泣いていた。何もかもが子宮の中とは違うということに対しての「泣き」であって、この「泣き」は全てに対する「泣き」である。このとき、泣く理由があるとすれば、それはたった一つ。何もかもが変わったということである。自らの誕生とそれと同義である世界の誕生に対して泣いているとも言える(※)。

そのあと、すぐに、たぶん生まれたその日のうちに、もう「おっぱいがほしい」というか「お腹が空いた」といって泣くようになる。世界(ととも)に〈生〉まれ、〈生〉きていくことが始まる。そのために仕事をしなくてはならない。だからこの泣きは、生活のための仕事である。

入ったものは出てくるわけで、次に来る仕事は「オシメが濡れて気持ち悪い」から泣く、である。うちは布おむつを使っているので、濡れるとわりとすぐに違和感が出るはずだが、それでも、生まれた直後は、オシメの状態で泣くことはなかった。たぶん1週間ぐらいから、そういう泣き方もする場合もあるようになって、3週間ぐらいして、ほぼ確実にオシメが濡れて泣くようになった。

この「オシメ通知」と並行して「抱っこ」の泣きも出てくる。「抱っこ」も当初は、単に抱き上げればよかったのが、だんだん分化していき、「抱っこしてゆっくり揺する」「抱っこして部屋を歩き回る」「抱っこして外を散歩する」と高度化し、射程が伸びてていく。必要だから泣く、不快だから泣くというレベルから、より快適さを求めて泣くという高度化、つまり文化の始まりである。

ついこの間まで、彼の具体的な仕事内容は、このぐらいだったが、現在の最先端の業務として、これらの範疇に入らないものが出つつある。彼にとっての気に入らなさは日々進化しつづける。生活と文化の担い手として彼は今日も仕事を継続するとともに、新たな仕事を生み出し続ける。

ところで、赤ん坊は泣くときに涙を流さない。少なくとも、生後一ヶ月の新は流していない。いつから人は泣くときに涙を流すようになるのだろう。一度、涙を流すようになると涙を流さずに泣くことはできなくなるのだろうか。自分が泣くときを考えると涙は必ず流れている、あるいは流れそうになる。泣くことと涙とはどういう関係があるのだろう。

※ そういえば赤ん坊は子宮の中で泣くことはあるのだろうか。たぶん泣かないと思う。しゃっくりはしてたけど。

【448】山根澪との会話「良い美術展とモネすげぇ」

山根澪と特にテーマを決めず話をしたものを再構成しました。

美術展の良し悪しがわかるようになってきた

山根:
 去年の9月ぐらいから美術館にいっぱい行くようになって。多いときは月10回以上。以前は、興味のある作品が展示される美術展だけ観に行ってた。

 作品自体は行く前に何があるか分かるから、その作品を観ること自体は展示に行ったら絶対達成されるんだけど、それ以外のことですごいがっかりしたり、おお!と思ったりするようになった。意図を持ってちゃんとやってる美術展は面白い。

 例えば、目玉になる一枚があるとすると、企画した人にとって、その一枚が面白く見えてる面があるはずで、それが分かるように他の作品を並べてきたり、文章で説明したり、そういうことをやってる。展示自体は、展示をした人の作品、「キュレーターの作品」って気がする。一枚だけ絵を観るっていうのと全然違う。

大谷:
 骨董市とかで、古い汚い壊れたザルとか売ってて。それ見て「こんなのはウチにもある」って思うんだよね。それが「こんな高い値段で売られているなんて」って。

 でも、よくよく考えると、物置とかに使わなくて放ったらかしになっていることと、古道具屋さんが店にそれを出すっていうことは全然違うことなんだよなって思う。この汚いザルが、実は、古道具としてかっこいいのだ、商品価値があるのだ、と古道具屋さんは言ってる。それって簡単にはできない。古道具の面白さって、そういう価値の提示にある。

 優れた美術展はそういうことをやっているのかなと思った。

山根:
 そういうがスパッと見える展示はやっぱりかっこいい。この一年だと「バベルの塔展(国立国際美術館)」ぐらい。

 バベルの塔自体がすごい有名な絵で、何をしてもそこそこ集客できる絵だと思うけど、ちゃんとした展示だった。その画家自身(ブリューゲル)の絵も、その前の時代の人の絵も結構集めてきていて。その時にすごいスタイルが変わったことがわかる。神話に出てくるバベルの塔をどう捉えたかが、ちゃんと観たらちゃんと分かる。展示の裏側に膨大な知識を感じる。

大谷:
 優れた美術展は批評を含んでいると思う。ただ並べて観せるだけじゃなく。こういう観点から作品を観れば、作品がもっと面白くなるんだよってことを提示するのが批評だと思う。

モネすげぇ、と思った

山根:
 そういう感じの挑戦をしてる展示が面白い。何年か前、モネ展を京都市美術館でやっていて。それまであんまりモネは好きではなかったんやけど、モネすげぇって思った。

 「モネは光を描こうとした」と言われたりするけど、それが本当に、最初の若い時から死ぬまで生涯を通してそれをやろうとしてたっていうのが、作品を観ればわかるように展示されてて。

 展示を最後まで観て思ったのは、晩年、モネが達成したのは、光をとらえる瞬間「だけ」を描いたって感じ。何かを見たときに、物体として「これは木だ」とか、そういう、物と自分の関係を結ぶ前の、パッと見た時の光の印象。そこだけで終わらせるような絵を、最終的にモネは描いた。

 でも、そこに到達するまでは、モネもやっぱり物を描いちゃう。光をとらえるのと物を描くっていうのはちょっと違うのだけど、どうしても絵としてそうなってしまう。最後までいってそれがわかる。そこに行くまでにモネが試していったことが見えてくる。

 だから、これそんなに良くないかもって思うのも、途中にはあって。水の下にある藻を描いているやつとかは、これは失敗だなって。でも実験でこれをやったんだねっていう、そういうのがわかってしまうように並べてある。モネだから全部すごいだなんて思わせない。

 よく「印象派は感情を描いた」みたいことが、言われてたりはするけど、でもそうなんかなぁ。感情をとっぱらった時にどうやって描くかみたいなことを、少なくともモネは挑戦したんじゃないかって思う。

 たとえば、花でも見て描いたりする時に、こう、スイートピー綺麗だから、可愛い感じとか鮮やかな感じに描こうみたいな、そういう描き方じゃなくて、その感情が発生する前に、ただ光が網膜に来てるはずだから、それをどうやって描くかというのを、モネは突き詰めて行ったんじゃないか。見たままを描いてて感情がない。感情と切り離してるって思う。ただパッと見たときにこう見えましたっていう新しい写実性というか。その一瞬に忠実であるからできることとしての写実かな。

 言葉でたくさん説明した展示ではないんやけど、真面目な展示、モネ入門みたいな感じですごくいい。あの展示を観たから、モネだったらいろんな美術館に一点とか二点とかあったりするけど、そういうのも面白く観えるようになる。そうなれる展示だったなと思って。それからモネ好きになって、一点でも観に行ったりする。

大谷:
 モネは、見るっていうことのプロセスを細分化していくようなことをやろうとしたってこと? 何かを見たときにそれがなんであるかっていうことの認識が発生するけど、その前の段階で。

山根:
 最初に思ったのは、絵が溶けてるって感じがした。「柳」とか「太鼓橋」とかタイトルは付いてるんだけどもう、柳の木を見たって思う前ぐらいで、像をむずばせない。暗い部屋から明るい外に出たときに、ちょっとまだ暗さの標準をあわせていく途中というか、そういうところの瞬間を描いてる。じっと絵を見ていてわかるとかそういうもんじゃなくて、見てたらもう何だかわかんない感じになって。

大谷:
 視覚から意識に至るプロセスをある段階で止めるのって、大変だと思う。

 たしかに、庭でボーッっとしているとそういうふうに見えることがある。何かに集中していない、何にも焦点が合わないような見え方。でも、すぐに何かを見てしまう。何かに焦点があってしまう。意識の焦点が合うと同時に、視覚の焦点も合ってしまう。見るって言う行為はそういうふうになってる。ただ、意識が何も照準しない瞬間っていうのはあるから、その瞬間の視界をイメージとして記憶してしまえば、あとから描くことはできなくはない気もする。でも、再現するのも相当難しい。何か見ているようで何も見ていない、集中(照準)していない視覚のイメージ。

 ゲルハルト・リヒターがピンボケ写真みたいな絵を描いていたけど、あれもモネとは違う意味で視覚というものの構造をとらえた絵画なのかなって思った。リヒターのピンぼけの絵は、普通にピントが合った状態に描いたあとでピンぼけにする処理をしている。最初からピンぼけに描いてはいない。当たり前だけど。もしそれをもともとピンぼけに描くとしたらどうなるんだろうって思う。さっきのモネの「物と自分の関係を結ぶ前の、パッと見た時の光の印象」っていう話はそういうのかなと思った。

山根:
 そういうことかもしれない。どうやって描いたんだって、すごい思う。

 東京で美術館行ったときに、子供とボランティアガイドが話しをしてて、絵って近くで描くしかないから、子供に近くでどう観えるってきくと「ぐちゃぐちゃ」って、じゃぁ離れてみてみようって、そしたら「めちゃきれい」って。

 離れたら写実的に見えるんだけど、近づいて精密に描いた写実とは全く違う。それこそ人間の目に逆に近いような感じを受けさせる。どうなってんだって、何回見ても思う。できんわ、これはって。

(収録日 2018/07/02)

October 7, 2018

【447】赤ん坊の観察。(生後31日目)

赤ん坊の新(あらた)くん、一度に寝る時間がだいぶ長く伸びてきた。3時間ぐらい寝ていることも多い。親にとってはまとまった時間がとれるようになるのでありがたい。

今日ぐらいから、新の口から、泣き声、しゃっくり、あくび、ゲップといった生理的な音以外の、「あー」「あ」「ほうーん」といった声に近いようなものが聞こえるようになってきた。

いずれ言葉、つまり音韻になっていくのはこういう音の出し方なんだろう。

「あー」「あ」などは泣く前の音というか、泣き声になっていきそうなところを途中でやめたような音で、「ほうーん」は中途半端なあくびのような感じ。

まだできないけれど、笑い声が出せるようになれば飛躍的に音のバリエーションが増える気がする。

ところで、新。母乳やミルクを飲むときにかなり空気を飲み込んでいるようで、ゲップがやたらと出る。赤ん坊はそういうものだと説明されているレベルではないと思う。呑気症って生まれたときからあるものなのだろうか。

あと、すぐに噎(む)せる。気管の通りが良くないようで、寝ているときに時々無呼吸になったり、口呼吸になったりする。くしゃみや咳が苦手で呼吸器系が弱い僕には、こういうのは見ているだけでつらい。いずれ緩和されるようなのだけど気にはなる。

成長自体は順調で、すでに5kgは超えている。毎日平均60グラム以上増加中。体全体がソーセージみたいにプリンプリンである。

October 4, 2018

【446】子供が生まれて一ヶ月たった。(生後28日目)

9月6日に男の子が生まれた。名前は新(あらた)と名付けた。

難産だった。助産院だったので、僕も3日間そばにいた。二日目の夜中、陣痛が始まってから24時間から30時間ぐらいの間が一番つらかった。澪の分娩段階は全く進行せず、ただただ10分おきに声を限りにうめいて激痛に耐える。それが深夜6時間続いた。「痛くて気が狂いそう」という言葉は言葉通りに突き刺さってくる。

朝になったら提携先の病院に電話をかけて転院を相談できるということだけが希望だった。病院に行けば陣痛促進剤が使えるようになる。陣痛段階が進む。「朝になったら」というのは、緊急事態でない以上は病院側も深夜に搬入対応はしないからで、つまり、このときできるのは、ただ激痛に耐えて朝までの6時間という時間を潰すことだけだった。昼間であれば対応はもっと迅速に行われたと思われるけれど、誰も悪いわけではなく、ただタイミングが悪かった。

僕にできることは限られていた。少しでも痛みを逃がすために、呼吸のタイミングを伝えようと自分も一緒に吸ったり吐いたりした。腰をさすったり押したり、力いっぱい腕を握られながら体を支えたりした。できる限りのことはやったつもりだけど、やればやるほど、僕にできることはこの程度なのだと思い知るばかりだった。無力だった。

悪夢のような6時間、僕が考え続けていたのは、もし、この出産が無事に終わったら、それでも結局、僕は僕のできることをちゃんとやるしかないんだということだった。それが僕にしかできないことなのかどうかは、どうでもよい。自分にできることを全部やっても、大したことが起きないということを思い知った分、逆説的だけれど、僕にできることがもっとあるのではないかと思った。

翌朝、助産院から転院した。病院的には通常はありえない妊婦の状態だったのだろう、搬入された分娩室はまるで『ER』みたいにバタバタだった。最初はそれでも元気づけようとするスタッフの余裕ある軽口が聞こえたが、やがて、点滴で入れている陣痛促進剤の効きが間に合わないとか、子宮が疲れすぎていて押し出す力が弱いとか、時間を追うごとにシリアスなフレーズだけになった。

途中、僕だけ分娩室の外に呼び出され、医者に「本人にはまだ伝えませんが、帝王切開の可能性も頭に入れておいてください」と言われた。時間との戦いだったということに気がついたときにはもうすでに、その時間はオーバーしてしまっていた。すべてが後手後手に回ってしまった、もう少し早く来ていればよかったと思ったがどうしようもなかった。あとは、医者が自然分娩を諦める判断をすれば、その時点で帝王切開に切り替わる。

難産という出来事も、帝王切開も、その他の医療的オプションも、それ自体はそれほど稀なことではない。けれど、僕たちにとっては重大なことだった。気がつけば助産院での「より自然な出産」という当初描いていたものからは遥かに遠くまで押し流されてしまっていた。状況が追い込まれ、そのたびに取りうる選択肢は減り、起こりうる結果も変質していった。もっと早い段階で別の決定をしておくべきではなかったかという後悔が膨れ上がっていき、このままどこまで遠く離れてしまうのか。僕たちは再び家に帰ることができるのか、そんなことまで考えた。

この段階にいたって、僕にできることはもうほとんどなかった。陣痛に合わせて分娩台の上の澪の手を握って「フーーッ」とできるだけ長く息を吐いてみせるだけ。もう体を支えることもできない。ほぼ3分間隔で来る一回一回の陣痛がだけが頼りだった。次の陣痛は弱くなってしまって、もう二度と産むだけの力が出ないかもしれない。この一回の陣痛を大切にして、できるだけ長く息を吐いて、いきむ時間を伸ばす。もう次はないかもしれないと思いながら、僕は澪と一緒に息を吐いていた。生み出すということが前向きな出来事であるというよりは、残された機会が確実に減っていく、後のない崖っぷちの出来事だった。

結果、子供は自然分娩で生まれてきた。澪の頑張りが引き寄せた奇跡だと僕は思っている。心底よかった。今になっても、母子ともに無事だった、と言える気がしない。

明日、一ヶ月検診に行く。