June 25, 2015

【192】岡本勝『禁酒法 「酒のない社会」の実験』

アメリカ合衆国憲法修正第一八条、いわゆる「禁酒法」は、1919年に確定し1933年に廃止された。14年間の「高貴な実験」は何だったのか。
十九世紀末に誕生した反酒場連盟の指導者と、それを支援した企業家などプロテスタントを中心とした市民ーーその多くはワスプーーが、禁酒法運動を通して求めたものは、一言でいえば「改革」だった。それは、十九世紀的社会から二〇世紀的社会への変化に対応するためのものと見ることができる。十九世紀のアメリカは、産業革命が始まり、都市化の進行など近代化を経験したが、基本的にはいまだ小社会的な地方の時代だった。[199]
第一八条とヴォルステッド法が目的としたものは、酒造業者と酒場を淘汰すること、そして一般国民、特に労働者階級に属する人びとの飲酒量を減らすことの二点で、これらの改革は紛れもない社会統制の側面を持ち合わせていたのである。[202]
腐敗の温床としての酒場を淘汰すること、機械化が進む産業社会に労働者を適応させるために「素面」を徹底させること。だとしたら前近代は、もっと「酔った」社会だったのか。実はそうらしい。
産業革命以前のアメリカ社会では、農場や仕事場で一日二回の休息時に酒を振る舞う習慣があり、これは賃金の一部と見なされた。しかし、黎明期とはいえ効率を重視する産業社会において、この「酒類配給(ラム・レーション)」は、黙視できない悪習と考えられた。[26]
本書はあくまでも「禁酒法」の範囲での記述だから、以下は僕の妄想だけど、前近代的な社会は今よりもっと、全体的にぼーっとしていたのではないかと思う。

仕事中の酒も、考え事も、うたた寝も、くだらないおしゃべりも、今よりもっとありふれていたのではないか。

今日も暑くなってきた。風に吹かれて、眩しい窓の外を遠くに見ながら、昼寝をするのも仕事のうちだったのではないか。


June 24, 2015

【191】コロッケ。

手で食べてみた。
じゃがいもと玉ねぎとキャベツをいただいたので脊髄反射でコロッケを作る。美味しい。
5個食べてコロッケで満腹。

June 23, 2015

【190】たとえばこんなふうに書いてみる。

たとえばこんなふうに書いてみる。
どんなふうかというと、
まさにこんなふうに、
今こうして書いているように、
書いてみる。

こうして書いているともうすでに、
いくらかのものが書かれているのを
読むことができる。

読んでいくとやがて、
今読んでいることが今書いているところに追いついて、
今読んでいるところが今書いているところになる。

さっき読んでいることはさっき書いていることで、
今読んでいることは今書いている。

さっき書いたことを今読むと、
こんなふうに書いてみるということを
さっき書こうとしていたかのように読めるけれど、
そうではなくて、
今書いたことを書き続けているうちに
こんなふうに読めるものが書かれている。

書くということと読むということは、
同時にできるし、
書いたことを読むことは、
書いた時から、ずれて読むこともできる。

だんだんと書いていることが長くなると、
そのずれは大きくなっていって、
さっき書いたときの書いていた気分は、
ずっと遠くになっていて、
さっき書いたところを読んでみると、
その遠さが際立つ。

今こうして書いていることは、
今書いているこの一文字の、
次の一文字のことを見ているから、
今こうして書いた一文字はもう書いた瞬間から
たちどころに後ろにずれ始めていく。

ずれ始めた文字たちから発せられる信号のようなものが合わさって、
それが波のようになって、
その波が追い風になって、
次へ次へと文字を書くことを駆り立てるけれど、
ふとした時に、
その風は消えてもう、
次の文字は現れない。

そうしてまた、
風を感じたくて、
さっき書いたところを読む。

読んでいるうちに、
また風が立ってくるけれど、
それはその読んでいるところを
書いていた時に吹いていた風ではなくて、
別の風で、
別の風は過去の風で、
そのことがわかっているから、
もう切ない。


こんなふうに、こんな風に書いてみる。 

June 22, 2015

【189】本当に危険な場所は見知らぬ土地ではなくて自分の家である。

昨日、まるネコ堂、つまり自宅で円坐をやった。

出かけて行ってどこかでやるのと違って、どこまでも自分との縁がある場所。いたるところにその縁が露出している場所。ここに居る以上、縁から逃れることができない場所。それが家である。

家が寛げるというのは、自分との強い縁によって生じている。過去にあったモノゴトが、今もあり続けている。その時間軸を貫くつながりこそが縁であり、家にいるだけで、家にあるモノゴトとの縁は一瞬ごとに強くなり続けている。

しかし、網野善彦によれば、そもそも家は無縁でありアジールだった。

ある場所を仕切り、そこが誰のものでもないということを宣言することによって、その人のものになる。その人の家になる。
土地・人間・を問わず「私的所有の原点」は、まさしく家にあることは疑いない。[「増補 無縁・公界・楽」p222]
無縁から有縁が生じる。無所有から私的所有が生まれる。

この無から有というプロセスを逆にたどるようなこととして、円坐を設定するということがある。家を再び、誰のものでもないと宣言すること。円坐を開くということはそういうことで、「私的所有の原点」での円坐は、だから原点への回帰であり、最後の場所での円坐である。ここより向うはまだ名付けられていなかった、対比されるもののない原無縁だけが広がる。

June 20, 2015

【188】Googleフォトに全部突っ込む。

整理が苦手だから、家にあるものはみんな見えるようにして、それ以外のものは可能な限り処分するということにした。

のと関係あるかどうかわからないけど、もう写真はGoogleフォトで良い。全部突っ込んどくだけにする。アルバムとかセットとかそういうのもどうでもいい。考えてみれば写真の整理ほど苦手なこともない。万単位の枚数でデジタルだとなおさら。

個人情報をGoogleに握られるとかなんとかあるにはあるけど、今まではFlickrだったわけで、そんなに変わらない。(Flickrはproからfreeに変更してしばらく残すけど)

情報流出や情報の二次利用などのリスクは会社や事業が傾いた時に顕在化するから、結局今はGoogleで良い(なげやり)。

なげやりの反対は思いやりだって言ってる人がいたな。

June 19, 2015

【187】備蓄品大量購入日。

楽天市場がセールなので備蓄品を大量に購入する。
今回購入したのは以下。

■こめ油 一斗缶
本当は1.5kgのボトルがいいのだけど、テレビ放映以来の値上がりと品薄により探しまわるのに疲れ果てて一斗缶で購入。これで当分、探しまわらなくていい。以前も一斗缶で買ったことがあるのだけど2年ぐらいで使いきったはず。あと、白絞油じゃなくてサラダ油なのも妥協ではあるけれど、そもそもどう違うのかはよくわからないから、もうこれでいい(投げやり)。
築野食品工業株式会社 米サラダ油 16.5KG
築野食品工業株式会社 米サラダ油 16.5KG
価格:5,724円(税込、送料別)

■ディ・チェコ リングイネ 10個
いつも使うパスタ2種のうちの一つ。カルボナーラとトマトソース用。
もう一種類はフェデリーニだけど、フェデリーニはまだ在庫豊富なので今回は見送り。

■トマト缶 48缶
24缶でもいいのだけど、どうせ使うから48缶。
到着直後は置き場所にちょっと困るけど、
頑張って並べるとアンディ・ウォーホル的光景で楽しくもある。
カットトマト缶 CHOPPED TOMATOES 48缶
カットトマト缶 CHOPPED TOMATOES 48缶
価格:4,095円(税込、送料込)

■おからの猫砂 7L×6袋
これも定期的に備蓄。
コンポストに入れられるようにおからにしている。

時々、こうやって大量のお金を動かすとそれはそれでストレス発散になる。
セールだからポイントが貯まるという、冷静に考えるとそれほどでもないインセンティブも、それなりに心地よく機能してくれる。

ともかく、これでまたしばらく買い物から解放される。

June 18, 2015

【186】G・マクドナルド『リリス』

何日か間を置きながら、時にうつらうつらしつつ読み終えて、こんなものがあるのかと思った。圧倒的なイメージの氾濫。非現実的なのに具体的な景色がこれでもかこれでもかと繰り出される。イメージの豊穣性。種を蒔いた土から、次々に芽が出て双葉を広げ、蛇のように首を持ち上げ、茎を伸ばし、無から花を、その花びらが予め折りたたまれていたかのように、色彩を開かせる。美しさと同じぐらい醜さ、おぞましさもその豊かなイメージで溢れさせる。

このイメージの氾濫と同時に、時間軸の氾濫もとても激しい。様々な時間を行き来するとか、時間が意味をなさない部屋があるとか、そういう物語としての大きなレベルでの氾濫もそうだけど、もっと小さな、文章のレベルでの時間軸の氾濫も甚だしい。

 なにか恐るべきものが到来しようとしていた! 雲みたいな存在が明滅し、震えた。足なしトカゲに似た銀色の生きものが、かれらのあいだから這いだし、ゆっくりと土の床を横ぎって、火のなかにはいっていった。わたしたちは身動きもせずに坐っていた。なにかがいよいよ近くへやってきた。
 だのに時は気まま過ぎて、深夜が近づいたけれど、あいかわらずなにも起こらなかった。夜はほんとうに静まりかえっていた。沈黙を破る音ひとつなかった。火のなかからも、木の落ちる音ひとつ響かない。板からも梁からも、軋みひとつ聞こえてこない。ときどき体がもちあがるような感じがした。けれど大地にも空気にも、そして地中深く眠る水にも、さらにわたしの体にも魂にもーーとにかくどこであろうと、それらしい原因は見つけられなかった。恐ろしい審判の感覚が、私を襲った。けれど怖くはなかった。なぜといってわたしには、行わなければならないこと以外に気になることはなにひとつなかったからだ。
 とつぜん深夜が訪れた。布を巻いた女性は立ちあがり、しとねに向かった。[401-402]
ここで読み手の時間は、「なにか恐るべきものが到来しよう」としている直前の高まりからはじまり、「なにかがいよいよ近くへやってき」てとさらに一段と煽られて、しかし次の瞬間、「だのに時は気ままに過ぎて」しまう。それが文字通り「とつぜん、深夜が訪れた」ことになる。走りだそうと身をかがめて、あとは号令を待つだけという筋肉の緊張をあざ笑うかのように待ったをかけ、不意打ちのように過去の出来事にする。

この読書感は、現代の小説では「読者が置いていかれている」として好まれない要素ではないかと思う。現代の文学は、読者の文章を読む視線の動きを把握し、その文字を認識してからイメージが立ち上がる反応までをスムースに制御することを求められる。意図的に断裂を作ることはあっても、それは、それが断裂による効果を持つことが計算されて書かれている。このことから、現代の文学はそういった読者の読み進む視線の動きを、そこから予め読者が予想する文脈までをもコントロールするように進化した、と言うこともできるかもしれない。しかしそれは例えば、近年の映画やTVが、その創生期の頃に比べて、緊張感を持続させ画面以外へと集中が逸れないように、つまり「タイト」になってきたことと同じで、このことを表現の進化と呼んでしまうのは「進化前」の表現を「進化後」の世界から見るものの特権あるいは傲慢で、その表現がなされた時に生きてその表現に出会ったとしたら、それを「ルーズ」だったり「雑」だったりと感じるわけではない。

だから、この「リリス」で描かれる時間軸の氾濫は、これが書かれたころの人々の時間軸ではごく正常に受け取られている可能性があって、さらにその可能性は、圧倒的なイメージの氾濫さえも、現実の認識としてあり得たというところまで届く。


June 17, 2015

【185】東山の梅雨。粥状の目的類。

一昨日から東山の和室に来ている。

6月分の家賃を遅くなってしまったけれど、払いにきたというのが目的なのだけど、これは「弱目的」である。こういう時は、だいたいこの弱目的以外の自覚的でない未だ現れていない「未目的」が有る。

未目的が目的化するのは、だいたい行動が終わってからで、その時、未目的は既に達成され、まさにそれをするためにここへ来たのだという気分を伴う「既目的」となる。

弱目的によって誘われて行動することで、未目的が既目的となるようなことが起こっていくこのプロセスでは、本来の意味での目的が目的という状態で出現することはなく、目的は表面には見えない水面の底で目的という形を取らずただ粥のようにドロリとゆっくり流れている。

生きていることの根本がこの粥状の目的類そのもので、生きているという実行の中でそれがその都度、少しずつ水面に現れて波を立てる。

June 13, 2015

【184】メールをinboxに変えた。

身も蓋もないinboxの画面。
メールソフトというか、メールを扱うインターフェイスというかそれを、gmailからinboxに変えて2週間ほどたった。

inboxというのは、とにかく見ないでいいものは見せないということをやっていて、それが何か新しいものとして提示してある。似ていて先行したものにMailboxっていうアプリがあって、iPhoneを使っていた頃は使っていた。機能としてはとても似ている。でももう、スヌーズとか無理に使わなくていいよ感がinboxでさらに上がった気がする。

たくさんの情報の中から自分に必要な機能や要素を選び出して「これだ!」と決定論的にクリックして行為するということが情報技術周りでは時代遅れになってきているんだと思う。

あるいは、何もかも隅々まで見て把握しなきゃダメ、っていう時代ではなくて、大体メール見てなくても、Facebookでだいたいわかるし、直前になったらLINEとか、メッセージとか、最悪は音声通話でかかってくるだろうというような、情報伝達経路の冗長性も上がっているから、メールごとき見逃したり、読んだ内容やそれどころか読んだこと自体を忘れたりしても、今どき致命的なことは起きないでしょと。

メールなんて頑張って使わなくてもいいよ。
ざっと目を通して「完了」して目の前から消しちゃえよ。
必要ならそのうち他の方法で思い出させるから。

そんな感じ。

何が致命的なことなのか。
何を落とすと大変なことになるのか。
そういう事を考えること自体がもうぼやけてきている。
ある意味アナログ。

そんな世界。

【183】文字がないと同じことを話していたのではないか。

全くの憶測だけど、
無文字社会では同じことが話されていたのではないかと思う。

毎日、同じことを話し、毎日同じことを聞く。
季節が変わっていくとそれが少し変わってくる。
やがて季節が一巡りするとまた同じ内容の会話に戻る。

子供たちは毎日、毎年、同じことを話す。
青年たちも毎日、毎年、同じことを話す。
大人たちも毎日、毎年、同じことを話す。
老人たちも毎日、毎年、同じことを話す。

子供が青年になっていくとそれが少し変わっていく。
変わっていって青年の話をするようになる。
青年は大人になり、やがて老人になっていく。

一生が終わって、また生まれてくると、
子供の話からやり直す。

人々は、誰もが同じ話をしていることを知っていて、
しかし、それが当然であるとして聞く。
共同幻想としての会話。

こういうことが起こっている時間を円環的時間というのかもしれない。

ひるがえって、文字社会では違うことを話しているのかと言うと、
実はほとんどの部分では無文字社会と同じように
同じことを円環的に話しているし、書いてもいる。

ただ、文字というものは、
それが過去に書かれたものと同じことであるということを
厳密に突きつけてくる。

そこから、過去から少しだけ変化を生み出そうという意志が生じる。
たとえばそれが文学というものの誕生ではないだろうか。

全くの憶測だけど。

June 12, 2015

【182】文字「起こし」は現代のケガレ。

人の死や産はそれまであった人の関係、つまり社会というものに乱れを生じさせる。この現状のシステムに対する撹乱がケガレである。というようなことを山本幸司は『穢と大祓』で書いていた。

人の暮らしに近い牛や馬といった家畜の死もその「社会」に入りうるけれど、人の死ほど大きな影響はないから、ケガレの等級は下がったりする。

さらには、この世の中がなんとなくうまくいっているという意味での「自然」に対しても、その撹乱はケガレとして扱われる。大きな木を切ったり、大きな石を動かしたりする行為は自然を乱すからケガレである。

網野善彦は職人歌合に出てくることから「農人」すら(歌合の時期には)ケガレと見ている。土を起こす、土地を乱すという意味で。

田起こしという言葉もあるけれど、起こすというのは文字通り寝ているものを呼び覚ますことで、自然に対して「起こす」ということは天変地異である。

人の力を超えている仕組みである自然が乱れること、つまりこの天変地異の引き金がケガレであり、畏怖の対象となる。

そういう意味であれば、話された言葉を記録して文字に起こすという行為もまた、自然に消え行くものを引き止め、呼び起こしている以上、ケガレに属する行為なのかもしれない。文字が人の力を超えた神の領域のもの、つまり無縁として扱われたのはそういう理由なのだろう。

吉本隆明の183講演」の文字起こしをしながら、たしかにこれは何かを「起こし」てしまうかもしれない、それは今の状況に撹乱を生じさせるかもしれない。そんなことを考えた。

June 11, 2015

【181】猫2匹、避妊手術から戻る。

メス猫のチビとシロの避妊手術をした。

二匹のお腹の傷。
首に巻かれたカラー。
落ち着かずウーウー唸り続けるシロ。
お腹が痛むのかじっとうずくまるチビ。
落ち着かない二匹の間で静かに落ち着かないオス猫のシッポ。

回答も解答もあるわけではなく、そこに近づくわけでもない。
そういうことに普段は直面しないですんでいるけれど、
実のところ、この世はそういうことばかりがある。

June 10, 2015

【180】大量消費と大量破壊の料理、カレー。

挽肉のカレー。
立派な唐辛子は昨日まゆさんに頂いたもの。うれしい。
カレーを作る。

作ると書いたけれど、カレーは破壊と消費の料理である。

2.5kgの玉ねぎを切り刻んでダッチオーブンで炒める。最初は鍋のふちギリギリまで玉ねぎがあってかき混ぜるのも大変な量なのだけど、焦げ茶色のオニオンフライになると、鍋底から1センチぐらいにまで減る。最初、玉ねぎとしてあった存在が、どんどんと細切れになり、小さく小さくなっていく。
大量破壊、大量消費の現場。
変化していく玉ねぎの匂いをアテにウイスキーが進む。
同時に七輪で燃やしている薪の山もごっそりと減る。

この消費破壊感覚を得たくて、カレーを作っている気がする。玉ねぎを炒めている間、消費と破壊の欲望が煽られているから、新たな薪を切ったり割ったりもしたくなるし、庭の草取りといった自然破壊が捗る。
オニオンフライ。
トマト缶を入れてさらに炒めるとカレーベースが完成。
消費というのは自然のシステムへの介入であり、その分解機能の加速である。コンポストの生ごみがじわじわと分解されていくのが自然の速度だけど、ここでは燃焼が一気に加速させて、その様子を眺める楽しみとして消費がある。

あとで出来上がるカレーはだから、目的ではあるのだけど、どちらかというとオマケというかボーナスというか、そんな存在で、たっぷりとした消費破壊行動で満足して疲労した体へのさらなるご褒美である。

【179】面白いことしか話していない。

昔は話すことが苦痛だった。

どうして自分でくだらないとわかっている話をし続けないといけないのか。
そんなことを思っていたような気がする。

今は全くそういう感じがなくて、楽しいと思うことしか話していない。

と書いて、上の一文を読み直すと、嫌なことは話さないでいるように読める。

そうではなくて、話している内容自体は楽しいことだけに限らないし、むしろ、昔の話すことが苦痛だった頃のほうが、話の内容自体は楽しいことを話していたように思う。

今は、そういうことはあんまり考えずに話していて、それでも結果として楽しい。

その、結果として楽しいということになるようなことしか話していないから、話している時点では、それが内容として楽しいことなのかどうなのかは判断できない。

と書くと、話している時点から見て一旦未来に自分をおいてそこから振り返ってみて楽しかったと言えるような話をしていると読めるんだけど、それも違っていて、そういう話したことによる結果というものを考えて話しているわけでもない。

と書いてきて、最初の文章まで読み戻して、こう書くのが一番すっきりすると思える文がわかってそれは、

自分がその時に面白いと思っている話しかしていない。

でも、相変わらず不思議なのは、話というのは相互的なので、あるいは、話というのは相互的なのか、今、僕に話をしてくれる人がみんな僕が面白いと思うことばかりを話すということで、一体これはどういうことなのかと思う。

そしてこれは話す、話されたもの、ということからさらに離れて、書く、書かれたもの、というところまで起こっていて、最近は圧倒される文章しか読んでいない。

今日もそんな一日だった。

June 8, 2015

【178】一人でいるとお腹が減らない。

一人でいるとご飯を作る気にならない。そもそもお腹があんまり減らない。

普段僕がご飯を作ったり、お腹が減ったりするのはたぶん、一緒にいる澪が定期的にお腹が減るからではないだろうかと思う。

僕は、ご飯を作ること自体はわりと好きで、作り始めてしまえば、作っている間のあの何かテキパキと自分が動く感じも心地よい。僕にとって空腹は珍しく動力源となりうることで、ご飯を作ることに関してはとても生産的で効率的で段取り良くできるのだけど、こうして一人でいるとそれが機能しない。

だいたい空腹にならない時というのは、過集中のような状態にあるときがそうで、お腹が減っていることに気がつかないみたいなことになる。

そう思って今の状態を見て思ったのだけど、こうして一人でいるというのは、それ自体で何かに集中してしまっているのかもしれない。ボーっとしている時間が多くて、自分自身でも何かの作業に集中しているという実体はないのだけれど、それでも考え事はやめられないから、たぶん、考え事に集中しているのだと思う。自分でそれを集中している状態だと意識したことはなかったけれど、そう思えばしっくりくる。

他人と一緒にいるとそれだけでだから、集中状態に撹乱が生じる。その撹乱による集中の隙間から空腹が現れて、僕はお腹が減っていることに気がつき、ご飯を作る気にもなる。

人間は一人では生きていけない、なんてことをいうけれど、こういう意味でなら、そうかもしれないと思える。

そんなことを考えていたら、ちょっとすっきりしてきて、お腹が減っていることに気がついて、ご飯を炊いた。大根おろしで食べよう。

June 7, 2015

【177】土すごい。

少し前に澪が庭や畑に未分解の堆肥を撒いていたのだけど、それが臭って、ハエもたかっている。未分解って要するに、猫の糞がそのまんまの形で残っている状態で、そりゃ臭うし、ハエもたかる。ハエは家の中にも入ってきて、10匹ぐらいでダンスを踊っている。

なので何とかしようと思って昨日堆肥、いや、糞に土をかけてみた。

で、今日、庭に出てみると見事に臭いは消えてハエも減っている。

土すごい。

ほんの少し、表面が見えなくなるぐらいにかけただけなのに。

そういえば、昔仕事でメールアドレス占いを作った時に、土って地味だなぁと思っていた。占いの素養が全くなかったので、それっぽくするために陰陽五行説を調べてそれを下敷きにして、木火土金水にメールアドレスを当てはめて、五行の関係性を使って相性が良い悪いとかやってたのだけど、土ってぱっとしないよなぁ、火とか水とかはかっこいいのにとか考えていた。

当時の同僚たちが喜んで占って、妙に当たると騒がれたりした。この時から僕は決定的に占いを信じなくなり、コピーライティングの影響力を思い知った。

占いの原稿は、都合よく受け取れるように、複数の要素をそれぞれ受け入れやすい(そうありたいと思う)表現で書くのがコツで、要素間の多少の矛盾は許容できる。

いつのまにか占いの話になっていたけれど、土だ。

野生動物が病気になると土を食べる、みたいなことをきいたこともあるし、僕が病気になったら土を食べればいいのかもしれない。あるいは土をかけてもらうか。

澪が「焼かれるより埋められたい。」と書いていたけれど、確かに木火土金水のうちでもっとも心地良さそうなのは土だと思う。

June 6, 2015

【176】他者がいないと自然に飲み込まれる。

昨夜、澪が友達の結婚式に出るからといって夜行バスに乗りに行って、数日は僕一人で家にいる。

一人でいると、家で起こることは自分で引き起こさなければならない。逆に言えば、澪という他者がいる間は、他者によって撹乱が与えられていた。猫が3匹いるけれど、それ以上にはるかに、人一人のもたらす撹乱は大きい。

一人でしばらくいると、自分がこの家という空間での事象の生起者であるということが明確になって来て、こういう時に例えば、大きな音で音楽を鳴らしたりする行為は、この空間の事象への影響力を空間隅々まで行き渡らせるような効果を持つし、あるいは、没頭できるような読書にふけることは、自分のいる空間そのものを絞り込んでその本の空間の中で、文字を読み進むということによって自分の事象の生起力を空間全体に満たすことになる。

そういうふうに、人はその空間の中の事象を引き受ける努力をしいられる。もしも、そういう努力を怠るとどうなるかというと、事象の隙間から自然がぞろりと這いずり込んで来る。

自然というのは、放っておいてもそうなるということである。お前など居ても居なくても同じである、お前によって生じたものはない、ということである。

自然は、いつも事象の舞台裏で舞台そのものを仕立てていて、人と人によるお互いへの意思の発露というお芝居の影にいる。他者の意思の発露、つまり自己にとっては撹乱が、自己の視界を覆っていて、その舞台上しか見えなくしている。意思の途切れた瞬間にふと、それが舞台であることを知り、その当然の帰結として舞台裏を連想させるが、すぐにまた舞台上へと視線は戻る。しかし、一人でいると舞台が生じない。お互いにとっての観客であり演出家であり共演者である他者の存在がないからである。

這いずりまわる自然がやがて、僕という自己による事象に、覆いかぶさってくる。自然が僕の意志を飲み込んでいく。それは、僕という意思によって生起されたはずの事象を、自然が生じさせたことであるというふうに意思の上塗りを始める。やがてすべてを飲み込んで自然は僕を取り込んでしまう。その時僕は自然の一部に過ぎず、自然と一体化している。

人が他者を求めるのは、この自然への畏れから発している。書くことへの困難は、この自然に飲み込まれ、自然に対する自分の陳腐さを思い知ることである。

June 5, 2015

【175】猫の避妊手術を決める。

3匹いるうちの2匹。去年の4月、生まれた直後に保護して1年と少したった猫の避妊手術をすることにした。どちらもメスで、今年の春ぐらいから発情期に入った。

発情期特有の鳴き声は、最初はちょっと気になったが慣れてしまえばどうということはない。背中を床にこすりつけるようにしてゴロゴロと寝転がっていたり、ロードーシスと言われる背中を平にしてお尻を上げてオスを誘うような仕草も人間にとって何も不都合はなくて、「このやらしいメス猫め!」なんてことを言いながら首をかいてやったりする。

ただ、どうしてもつらいのが、スプレーという行為で、おしっこをところかまわずする。オスを惹きつける匂いを出しているらしいのだけど、もう何にでも引っかける。携帯電話も壊されたし、最近では、自分たちの水飲み用の容器にまでするようになって、しょっちゅう水をかえてやらなければならない。

スプレーがありとあらゆるものに及ぶので、人と同じ空間にいることが難しい。それまでは寝るときは一緒に布団に入れたりしていたけれど、今は別々の部屋にいる。ただ、手術をすれば確実にスプレーしなくなるかというとそういうわけでもないらしく、そのあたりも難しい。

残りの一匹はオスだけど、こちらは去勢済み。3匹とも家から出すつもりはないので、メス猫2匹が妊娠する可能性はない。

最初から何もかも人間の都合にすぎないのだけど、人間の都合というものによってこの猫はここにいるのだから、その人間の都合というのをギリギリまで見るしかなくて、それは主に人間の側にある。

できれば飼い猫というよりも半野良猫として生きていければいいのだろうけれど、ここにいる限りもうそれは望めそうにない。そもそも野良猫が野良猫として人とともに生きられる世界というのが今や幻想にすぎないのか。たとえ猫エイズや伝染病が広がっていなかったとしても、それはもう不可能なのだろうか。この社会の中で人が感じる生きにくさというものが野良猫の生きにくさと関係があるのか。

そんなことを考えながら手術の日を待つ。

June 4, 2015

【174】書くことは手応えを前提としない。

書くことと話すことの大きな違いとして、反応がある。

書くことは話すことに比べ、圧倒的に反応が少ない。少なくとも反応までの時間が長い。この時間的な距離は書くことを決定づけている。反応が得られるまでに無限の時間がかるかもしれない。

無限まで行かなくても、数十年も経てば書いた人は物理的に死んでいる。また、生命として生きていたとしても、読まれるまでに必然的に生じる時間的距離によって、それを書いた時点での意思は失われていて、書いた人は死んでいる。

書くということは、反応、あるいは手応えと言っていいかもしれないが、それを前提としない表出である。誰にも伝わらず反応がなくても表すことである。誰もがすでに知り尽くしているありきたりのことをそれとは知らず、あたかも自分が初めて発見したかのように表すことである。そのことを恐れると書くことができない。

書くことにとどまらず、話すこと、描くこと、奏でること、つくること全てにおいて言えることだけれど、人間の表出など、歴史的と言えるごく一部の表出を除いて、陳腐である。だからこそ、人は少しでも自分の領域にあると思う方法、よりマシだと思う方法で表出しようとする。

相手の反応を前提としない表出として、書くことはある。
伝わることを前提としない表出として、書くことはある。

そのため、自分が何かであることを他者の反応の結果として確かめるために書くわけではなく、自分の表出をそのままの形でできるだけ遠くへと響かせるために書くことはある。
それが独自であるかどうか、正しいかどうか、ウケるかどうかとは無関係に。

書くことによって負うべきことすべては書いた者に帰属する。そのことによって書くことは他者に対して、つまり他者の反応、手応えに帰属しないことによって、自由である。

June 3, 2015

【173】その人の行動原理。

ぱーちゃんのブログを読んで思い出した。

その人がどういう人なのかということを僕が説明できることを僕はその人の行動原理と呼んでいる。

ぱーちゃんの行動原理は「助走をつけない」。
けんちゃんの行動原理「行動が先に立つ」。

その人がどういう人なのかを説明するものとして例えば、優しいとか正義感があるとか正直であるとか決断力があるとか、そういう言葉が使われることが多いのだけれど、僕にはこういう類の人の性質を表す形容詞が「いつもそうであるとは限らない」という理由で受け入れがたい。

もちろん、ある人のことを優しい人だなと思うことはあるけれど、それはその時、その人が優しいと僕が思うような表層を見せたということにしかならない。

一方で、僕が行動原理というふうに言っているものは、何かに邪魔されない限りは基本的にその人はそのように行動するというもの。行動を引き起こす原理。結果としての行動の内容や性質についてではない。

不思議なことに、その人がその人の行動原理にしたがって行動した時には、ほぼ間違いなく問題となるようなことが生じないように見える。それどころか、その行動によって引き起こされるかもしれない不都合というものそのものをその人は考えてもいないようにも見える。つまり、不安がない。

その人にとって他にどうすることもできないようなもの、拭い去ることも付け足すこともできないものである。年齢によって少しずつ変化していくものかもしれないけれど、子供の頃から大きくは変わらないと思う。

行動原理が見える人について、僕はその人のことが好きで、つまり、魅力的にうつる。その人がその原理に従っている限り、僕はその人の行動を無条件に受け入れている。

June 2, 2015

【172】影響の影響。

影響を与える。
影響を受ける。
影響を与えられない。
影響を受けたくない。

そういう影響の影響、
影響というものの影響の中にある。

影響があること自体を無いことにすることはない。
ただ影響があることからの影響をなくせばいいのだけど、
それもまた無限後退に陥る。

伏見稲荷の連なる朱い鳥居のように
影響というものの影響というものの影響というものの影響というものの。

無数の影響のトンネルがうねりくねりして分岐と接続が繰り返されている地下鉄で混雑したりすいたりしている電車に乗りかえながら乗っている。

新たなトンネルを掘るのは容易ではないが、
そういえばトンネルを掘るぐらいしかやることもない。

June 1, 2015

【171】暑くて何もできそうにない。

午前中は涼しくて、澪と納豆を作った。庭で七輪で薪を燃やして、ダッチオーブンで大豆を煮る。納豆作りのコツはひたすら煮て、柔らかくする。だから、薪が大量に消費できて嬉しい。

とはいえ、炎にあたっていると疲れる。理由はよくわからないけれど。

昼過ぎに煮終わって、あとは似た大豆を納豆と混ぜて保温しておく。

午後は湿度と気温が上がって、もう何もできない。本も読めない。考え事もぶつ切れになる。こうなるともうだめで、どうせだめならとラジオを付ける。拒否できない撹乱が皮膚と耳にへばりついてくる。

こうして夕方、気温が下がるまで停滞の中に埋まっている。

【言葉の記録5】コトバのキロク公開収録その2 第13回

第13回 生者のコミュニケーション、死者のコミュニケーション。

大谷:
記録っていうのも、そうだと思う。
生きているこの今の状態で僕がけんちゃんに関わるっていうことと、
ちょっと違う関わり方。

小林:
うん。

大谷:
その、死んでる側の僕、
死んでる側の僕というか。

小林:
死んだコミュニケーションね。

大谷:
死んだコミュニケーション。

小林:
いま、完全に頭狂っている人だと思われてるわ(笑)。

まぁ明らかに違うよね。
話してる生者のコミュニケーションと。
僕も、大谷さんのブログ読んで、
(大谷さんが)僕のブログ読んでってやってるこの交流みたいなのが、

大谷:
そうそうそう、違うでしょ。
あの感じ。

小林:
違う部分でのアクセス、してるよね。

大谷:
そういう感じが。あってね。

なんか非常に、邪悪な力だと思う。
呪いとか、
それこそ、祝福とかも同じなんだろうけども、
そういう領域の行為だと思う。

小林:
だから最初に言ってたような文字を書くこと自体が
そもそも神とかね、人じゃない領域に近かった。

という見事なオチがついたところで
そろそろ、お時間となりました。
(終)

【言葉の記録5】コトバのキロク公開収録その2 第12回

第12回 文章って書いた次の瞬間にはもう別人だから、死んでるんだよ。

大谷:
お金を稼ぎたい人が、
なんでお金なんですかって聞かれて、
答えるようなことと似ているかもしれない。

小林:
うん。

大谷さんが好きな人というか、
大谷さんが書く文章もそうだけど、
なんつったらいいんだろうな、網野善彦なんかもそうだけど、
なんか、網野善彦が言っていることが
本当に全部事実かどうか僕は調べるすべはないけれど、
自分なりに事実に対してすごくこう、
謙虚に接しようとしているというか、
しようとしている感じがするし、
あの、スモールハウスの人、Bライフか、の人とかも、
結構世界の事実に対して謙虚に、
自分なりの人生をかけて携わっていて、
それを尚且つ、発信、ふたりともそうだけど、
書き記そうとしている。

大谷さんが書いている文章とかも、そういう似た質感を感じる。

大谷:
あぁ。

小林:
なんちゅうのかな、影響力といってたけれど、
それはまるで、それこそ古文書みたいな形で残した時に、
そういう意味でこう、まぁ今の人に向けて書いているけれど、
今の人にだけ向けているわけではない、
というと少し大げさか、
まぁまぁ、そんな感じもして、
ちょっと興味があって、きいてみた。

大谷:
あのね、
あの、死んでる人。死んでる・・・。

文章ってさ、書くと、書いた瞬間の自分は、
次の瞬間にはもう別人じゃん。
だから、死んでるんだよ。書くと・・・。
書いたら、死ぬの。

本は、死人が書いてる。
生きている人が書いても、
もうその本を書いた時のその人ではないわけだから、死んでる。
その著者って。
古文書も死んでる。当然ね。

死者になる感じ。どんどん死んでいく感じ。
自分が死んだけれど、その影響力、
それに何かがあるっていう状態が好きなんだと思う。

小林:
うん。

【言葉の記録5】コトバのキロク公開収録その2 第11回

第11回 残されたものによる影響力みたいなものを行使したい。

(沈黙40秒)

小林:
大谷さんが言葉を残したり、
編集したり、記録していくということにはなんか、
どういう企てなの?

大谷:
どういう、うーん。

(沈黙40秒)

大谷:
文字、言葉とか文字、
その残されたものによる影響力みたいなものを行使したい。

小林:
残されたものによる影響力みたいなものを行使したい。

大谷:
だと思う。

小林:
前、言ってた支配欲みたいなの?

大谷:
支配欲みたいなのもある。
影響力というか、
沢山の人に伝えたいというのとは違うんだけど、

(沈黙10秒)

大谷:
衝撃を、

小林:
うん。

大谷:
与えたいんじゃないかな。

文字からの影響をたくさん受けたんじゃないかな。逆に。
まぁ無理やり説明をするとしたら。

小林:
ふふ。

【言葉の記録5】コトバのキロク公開収録その2 第10回

第10回 運命というよりメカニズムに近い感じ。 構造自体。

大谷:
ホントの最初の最初に、
こう、何かが企てられた瞬間に、全部、もう要素があるみたいな。

だから途中で終わったんだったら、
途中で終わることまでもその瞬間にあったっていう、
なんかそういうものが企画とか企てみたいな、感じがしてね。

長続きしない、頑張って続けなきゃみたいな、
なんかあんまり、
そうやる気がないものを続けるっていうメンタリティが僕には無いけれども、
でもそれはそういう始める時からすでにそう、
みたいな感じがあってね。

だからその瞬間の、
最初何か思いつく感じの捉え方、
それをどういう風にばっとこう表すかっていう、
なんかそういうのがね、面白い。

重要って言うと、そこを頑張らなきゃってなるけど、

小林:
うん。
なんか重要も何ももう、どうしようもできないみたいな。
企てた瞬間に決まっちゃうわけだから。

大谷:
そうそうそう。

小林:
その企て方を工夫すること、結構無理というか難しい。

大谷:
そうなんだよ。
なんかでも、こういうふうに話すと運命論に聞こえるんだよな。
始まった時にすべてが決まっていますとか、聞こえて。
そういうことなんかなぁ。

小林:
運命というより、さっきのメカニズムに近い感じがするけどね。

そういう生き物というか。構造自体、そうだよね。
企ててるわけだから。
そっちの方が予定通りだよね。
無意識も含めてだと思うけど、
そうなることを含めて企ててるわけだからさ。
当初の予定と違って、みたいなことも起きるだろうけどね。
それも込みで最初に企てたんだろうみたいな話になるともう、
わけわかんない。

大谷:
わけわかんないんだけどね。

小林:
似た話なんかどうかわかんないんだけど、
なぜか話そうと思ったから。

なんか目的、がどうだとか手段がどうだとかっていう話をするじゃん。
組織だったりとか仕事したりとかで。
なんちゅうのかな、ま、どこか旅行くとして、
目的地があって、
あぁ、ちょっとむずかしいな、これ。

そういうことを話したいわけではないかもしれない。
話そうと思ったら前ブログに書いたことと
同じことをなぞりそうになったから、
なんかつまんなくなっちゃった。

【言葉の記録5】コトバのキロク公開収録その2 第9回

第9回 立ち上げてきた時からあったものをなくすから、ぜんぜん違う表面の表れ方になる。

小林:
ログハウスのね、
部材、キットを販売しているところが山口県にあるんだけど、
8月に寄れる機会があるからよってきたのね。

70すぎぐらいのおじいちゃん、お盆休み中だったんだけど、
電話したら、
家近くだからせっかく来てくれたんだったら会いに行きますよって、
会ってくれて。

ほんで話したんだけどね。
いやぁ、もう好きではじめたことだから、
なかなかやめられなくてって。
もう息子さんが社長なんだけど、
暇を見つけちゃぁログハウス建ててるところに写真撮りに行ったりとか、

ログハウス:小林夫妻は滋賀にログハウスを建てる予定。

大谷:
うん。

小林:
で、おやじもうそんな年なんだから来るな、
と言われてるかどうかは知らないけど、
でもまぁそんな雰囲気でね。

でも好きだからいろんな地域のイベントやったりとか、
ニュースレターみたいなのを封筒で、
それ以来送ってくれるようになったんだけど、
それも全部手作りで、その人が作ってるんだけどね。

なんかさっきの「ミッションがどうで」っていうのと、
逆というか違うパターンの企てだなと思って。
はなっから、ミッションがどうでって言ってる場合はもう、
代表が自らやったことだから、立ち上げた人がやって、

大谷:
うん。

小林:
組織おっきくなってきたらもうそれを手放して、
だれかに引き継ぎをするというか、任せてね、
自分はもうちょっとこう、次のステージに行くというか。

大谷:
うん。

小林:

次のステージのことをやりたいというのが本体だよね。
最初のはとっかかりに過ぎなくて。

でもその団体の核心部みたいなのは立ち上げたところにあるし、
多くの場合はそこにミッションみたいなものが込められているから、
そこにすごく重要性がある。

僕も前いたところで、
一番最初に立ち上げのときにやっていた事業を畳んだら、
やっぱりそこから変化した感じがあってね。
その団体のカラーというか質感というか。

表面が変わるからだよね。
それまで立ち上げてきた時からあったものをなくすから、
ぜんぜん違う表面の表れ方になる。
最初にやってたあれはもうやってませんよ、と。

違う団体になりました、
ということを直接言わなくてもそういうメッセージになる。

けどその、じいちゃん、
じいちゃんていうほどじいちゃんぽくはないんだけど、
なんか快活な感じで。
そのログハウスの人とあった時、すごくいいなぁと思って。

大谷:
うん。

小林:
なんか、好きでやったことだからやめられないんだよねっていって、
30年とか40年前にやったこと、
いまもなんかやっちゃってるんです、みたいなね。
それでもう満足して死んでいけるみたいな。

大谷:
ログハウスを建ててるところに
年とってから写真を撮りに行くというところまでも、
企てられていた感じはあるんだよね。

小林:
後付だとしても、そういう、企て、だよね。
最初からね。

【言葉の記録5】コトバのキロク公開収録その2 第8回

第8回 何かを企てることっていうのがもう実行されているっていうか。

(沈黙25秒)

大谷:
企画って、言うでしょ。
企画する。企画して実行する、か。

「企(たくら)む」とか「企(くわだ)てる」とかってこと。
その影響力というか、
それが企画が大事ですよっていうような意味ではなくて、
大事も何もなく、それがほとんどみたいな。

全て・・・でもまぁ全てかもしれない。
何かを企てることっていうのがもう実行されているっていうか。

小林:
うん。

大谷:
前にけんちゃん、
「ミッションがこれで、だからこういう目標で、こうやって」で、
「じゃぁこれ誰がやるの」って状態になるのことがよくあるけど、
それはもう、そういうものが企てられちゃったからそうなったわけで、
最初からもうそういうふうになるっていうのが、

小林:
うん。

大谷:
着々と実行されたっていう、
そういう感じがするんだよね。

小林:
うん。

大谷:
企てるみたいな、企画っていう言葉の意味ってさ。
始まっちゃったらどうしようもないみたいな。

【言葉の記録5】コトバのキロク公開収録その2 第7回

第7回 ご飯の影響力の大きさを感じて。

小林:
表面的というか表面に本質があるということを思っていて、
というか、くにちゃんが言って、
わりとそこに影響を受けてる感じがするけど。

そういう表面だよね。
だって、これ(箱)もそうだし、さっきの編集もそうだし、
それにもろに影響を受けているというか。
それで全部変わっちゃうんだから。
本質なのか何なのかわかんないけど。

大谷:
本質っていうものが無いのかもしれないよね。

小林:
ふふふ。うん。

大谷:
「中身があると思っている」と思っていることが、
本質っていうものの言い方。
それは外からは見えないよ、
みたいな意味合いの意味かもしれないけど、無い。
本質というものが無いという。

小林:
表面だけで作られている。

(沈黙1分15秒)

小林:この前、石切で宿泊型のイベントというか企画をやったんだけど、
その時のご飯の影響力の大きさ、

大谷:
うん。

小林:
みたいなのを感じてね。

フェンスワークスの女性3人が、御飯作って出すっていう、
ただそれだけなんだけど、
結構色々買い出し行くのに、
お互い気を使いながら言ったり、
味付けでちょっと揉めるじゃないけど、
話し合いが、
ま、揉めたりね。

大谷:
(笑)

小林:
(笑)
そういうふうに作られたご飯を食べて、
しかも非構成的なことをやるからさ、
そのすごい影響力が出るなぁと思って。

大谷:
うん。

小林:
ご飯が雑だからグループが雑になるとか、
そういうことではないんだろうけど、
その質感みたいなものは影響するだろうなと思って。
だから良いも悪いも無いというか、

大谷:
うん。

小林:
そこで作った人間関係みたいなものも全部ひっくるめて、
こうご飯として影響していくから、
そこから変化してくと思うんだ、影響しあってね。

それが、揉めたりしてたのがちょっとチームワーク良くなってきて、
味がマイルドになったりすると、
なんかその場にいる人もなんかマイルドになって話をするとかね。

そういう意味では、
場のファシリテーターとかなんとかって言ってたけど、
宿泊でやってる場合に、もっとも影響を受けているもの、
みたいなのでいくと、
果たして本当にファシリテーターなのかみたいなのが、
怪しいなぁとか思ったりしてね。

大谷:
うん。

【言葉の記録5】コトバのキロク公開収録その2 第6回

第6回 舞台というものがあるということによって何かが発生してしまう。

大谷:
文字とかお金っていうものも、
舞台とか誌面、編集とか、ある形式によって、
それによって人間がある行動をしてしまうものだよね。

別にお金が何かを命令しているわけではないし、
文字が何かを命令しているわけではないんだけれども、
でもそれによって、勝手に動く。

お金というものがある時点でもう、心地よさとか、
心地悪さみたいなのが発生している。

見出しっていうのが立った時点で、
これが揃ってないと気持ち悪いとか、
舞台というものがあるということによって何かが発生してしまう。

おんなじ感じがするんだよね。

小林:
うん。うん。

大谷:
網野善彦、すごく面白いと思うのが、
例えばお金とか、着てるものとかを読み解く。

柿色の衣とか覆面とか、
そういうのを絵巻から見つけてこれはどういう意味だってやる。
その服装が何かを意味している。

小林:
うん。

大谷:
一揆をするときに非人の格好をするとかね。
それは普段着ているものとは違う格好をわざとして、
みんなそれに合わせて一揆をする。

これはどういうことかというと、
そういう格好をすることで
自分たちが絶対にそれをやりとげる意志を持つみたいな。
それは格好がそうだからっていう。外見。衣装。

絵巻の端っこに描かれている人がどんなことを考えていたかなんてことは
どこにも書いてないから、
そういうものの見方をせざるを得ないんだろうけど、
衣装がそうだっていうところからしか読み取ってなくて。
そういうすごい見たまんまの話。

こういう格好の人はきっとこういう立場にあったに違いない
みたいなことでしょ。

それって今生きてる人間に対してするとすごくぎょっとする行為だけど、
でも、ほんとそれだけのことをやっている。

表面的なことしかやらなくても
すごくいろんなことがわかってしまうっていう。
それが面白いなって思う。

【言葉の記録5】コトバのキロク公開収録その2 第5回

第5回 マネジメントのうまい人は、ものすごくマニアックに操作できちゃう。

大谷:
ほんで、だんだん、そういうのがなるべく無いような、
「言葉の記録」もそうだけど、
言ったことからしか無いというか、
ちょっと見出し立ててるけど、
いわゆる型にはめた編集をしないというようなことを
僕もやろうとしていて、同じ感じがした。

編集がうまくなるってどうすればいいかっていうのを考えると、
そういうときは3つにしましょうとか、
言いたい論点が10個あると多すぎるから減らしましょうとか、
そういう、テクニックっていうのはいっぱいあるし、
そういうのを身につけることはできるんだけど、
それはそのぐらいのことっていう感じが、
それぐらいのことなんだけど、
それが全て。

小林:
うん。

大谷:
こんだけ紙があったら、どんだけタイトルの面積を取るかとか、
それだけの話。

で、文字の小ささどれぐらいにするか。
一つの話でどれぐらい段落取るかとか、
そういうことだけの話。
舞台とかとおんなじぐらいの様式というか。

小林:
それだけで出来てるんだものね。

大谷:
それだけで出来てるんだよ。
何にも隠せない。全部見えているから。
舞台裏もなんもないっていう。
そういうのがね、ちょっとあらわになった感じがした。

小林:
聞きながら「募金箱は透明な方がいいですよ」っていう話を
思い出していたんだけど、
マネジメントとかがうまい人とか結局、
人間のメカニズムというか、
こういうふうにしたらこう動かざるを得ないみたいな、
人を操作するすべみたいなのを
ものすごくテクニカルに知っているというか。

大谷:
具体的なんだよね。すごく。

小林:
うん。

大谷:
人の性質を具体的に知っている感じ。

小林:
うん。だから、めちゃくちゃ細かく知ってるじゃん。

だからものすごくマニアックに操作しようとすると
できちゃうんだよね、人とか。

人間疎外みたいなのが起こってくるわけじゃんか。
もう、その人を資源として見るわけだから、
その人が最大限パフォーマンスがいいようにマネジメントする。

少ない資源でお客さんとか、まだ見ぬ誰かさん、
みたいな人にパフォーマンスを伝えるように管理するわけでしょ。
それ自体はテクニックであって、
いいも悪いもなくて
単にそういう事実があるなんだろうなと思うんだけど。
それをうまくやる。

どういったらいいのかな。
なんか片手落ちというかそういう感じがあってね。

僕はNPOに関心があるんだけど、
「誰かのために」とか「待っている人のために」
そういう技術を使っているから、
それはそれで技術だけのためではないんだけど。

【言葉の記録5】コトバのキロク公開収録その2 第4回

第4回 今のその舞台の話と編集って、全くおんなじ感じがする。

大谷:
なんかさ、今のその舞台の話を聞いててね。
編集ってさ、全くおんなじ感じがするんだよ。

最近鞄を売らなきゃいけないから、
鞄のホームページを作ろうっていって。
パートナーの澪が鞄を作っているから、
原稿も書いてっていって。

小林:
うん。

大谷:
でも澪はそんなの書いたことないからさ。

でき上がってきた文章を何とかしようとして思ったのが、
あぁ編集ってこういうことかって。
例えばホームページだったら、
タイトルみたいなのがあって、
見出しがあって、文章があって、
また見出しがあって。

で、何個か説明したいことがあって、
例えば3つってあったら、
お伝えしたいことは3つですみたいな。

1、2、3って見出しがあって、
その下に、1の説明、2の説明、3の説明ってあって。

小林:
うん。

大谷:
で、結局さ。

何が書いてあるかじゃなくて、
パッと見た時に3つ並んでいたら、
こことこことここの文字の並び、
文字数とか、後ろに丸がついてるかとか、
「です」があるかないかとか、何行か、
みたいなので決まる。

小林:
へぇ。

大谷:
でも澪は書いたことがないから、
バランバランなんだよね(笑)

小林:
あぁー

大谷:
で、これだけのことを結局、
編集者はやってるんだという感じがしたの。

見出しの文末がバランバランだった時点で、読めない。
人間耐えられない。

小林:
パッと見た時、

大谷:
パッと見た時に。

視覚なんだよ。と思ったの。
そんなんさもう、中身の話じゃないじゃん。
そこの前の話で。

でもそういうふうにして、
ホームページにしろ、誌面にしろできている。
舞台と一緒というか。

ここは舞台ですよっていう設定されているかされてないかとか、
その舞台の仕切がこうなっているっていうことでしか
無いっていう。

そんなんをずっと考えながら、原稿を伸ばしたり縮めたりしてた。

小林:
ふうん。

【言葉の記録5】コトバのキロク公開収録その2 第3回

第3回 成長のみに頼っていく浅はかさみたいなものを感じてきている。

(沈黙1分30秒)

小林:
ちょっと関係ないのかもしれないけど、
どっかで繋がりそうな気もしつつなんだけど、
やっぱこの舞台設定が面白いなと思ってて、
めちゃくちゃ安心してこの箱
(小林・大谷と参加者を隔てるように置かれたマイクの置き台)
の後ろにいられる感じがして、前回と違ってね。

このままずっと黙っといたろうかなということさえ、
強気に思えたりして、
この場の居心地がそんなに良くないですと言われたとしても、
全然、ここ(箱のあるライン)でカットされてる感じがあって、
ほんとこれ一個だけなんだけど、ものすごい意味を持つなと思って。
間にあるとね。

前回は、それがそのままストレートに僕とか大谷さんの感覚に
入ってきたんだから、ごちゃまぜだよね。

なんかさっきの儀式みたいな、これ一個置くか、
置かないかみたいなことでも、
場を開くとか場を持つとか言った時に、
文字が読めなくなっちゃうみたいな、
なんかそういう要素ってあるなぁって思ったりして。

昨日も大学で大学生相手に研修して、
学生団体とかそういうので頑張ってる人向けの研修をやってきたけど、
そういう予め、その場合は設置されているものがある状態だよね。
そこから何を取り除いて、
新たにどういう舞台設定みたいなのを持ってくるか、
そういうのを配置できる人が、
舞台設定とか場を開くみたいなのに興味があるんだなと思ったりして。

そういう環境を設置できたらもう、
あとそこで何をやってももうそんなにおっきな結論変わんない気がして。

だから武道でいう型とか能とか芸能の世界でも型と言われるのは、
その型によって全部動きが
決まっちゃうからなんだろうなぁと思ったりして。

そういう意味で最大限昨日もそういうふうな場作りをしたし、
すでにある構成されているものから、
できるだけ非構成的にというか僕が僕のまま関われるような形で、
そのまま関わりきったんだけど、
やっぱりどっかこう設計にミスというか、
もう一個僕が見えてないなんか設定があった感じがして。

今までは、
僕がどうやったらあの場がもっとうまくいったんだろうとかいって、
結構反省モードになるんだけどなんか、
僕がうまく出来たかどうか、
僕の振る舞いがどうだったかとかそういう、
個人に所属するような、
僕の能力が高いからうまく出来ましたっていうこととは全然関係ない。

この箱一個置くかどうかだから。
ま、それを置けるかどうかみたいな意味での能力と言ったらそうだけど。
これは能力じゃないよ、だって、箱を持ってきておいてるだけだから。

その考え方とか人間観とか、深まる感じ、
もう一個僕が深めるために
何が見えていないんだろうかみたいなところに興味があって、
成長というと積み重なっていく感じがあるんだけど、
そっちじゃないなぁと思って、
その限界というか浅はかさというか、

成長のみに頼っていく浅はかさみたいなものを、
この6年とか7年とかそのレベルで感じてきているので、
そういう意味では全く別のベクトルというか、
深めていくベクトルに興味があって。

昨日もマネジメントとかファシリテーションとかが大好きで、
いろんな人のやつ見ている人からしたら、
なんていう下手な場の仕切り方をしてるんだと、
たぶん見られているようなやり方をしてて、

大谷:
うん。

小林:
事実僕、そういう技術に関しては
どんどん下手になってるなと自覚もあったりして、

大谷:
うん。

小林:
学生が見るに見かねて
「僕、模造紙に言ってること書きましょうか」とか
何人か手伝ったりして

大谷:
うんうん。

小林:
ありがとう、助かるとか言って、
全然それに平気で甘えられちゃう自分みたいなのも
ちょっとおもしろかったりして。

【言葉の記録5】コトバのキロク公開収録その2 第2回

第2回 網野善彦は文字の均一性みたいなことを言ってて、

(沈黙20秒)

大谷:
文字の話でさ。
網野善彦は、歴史の史料をたくさん読むんだけど、
なぜ昔の文字が読んでわかるのか。
例えば、昔の九州の人の、
九州で見つかった木簡とかに書いてある文字とか、
北海道、北海道はなかったかな、まぁ東北とかね。
なぜ読めるのかということを言っててさ。
話されている言葉ってほとんど聞き取れないでしょ。
東北弁とかそうなんだけど、わからない。
でも、文字だとそれが読める。のはなんでかっていう疑問に、
ある日突然気がついたって言ってて。

それがそうだよなと思って、で、
網野善彦は文字の均一性みたいなことを言ってて、
話される言葉っていうのは不均一、
それぞれ土着のバラバラなんだけど、
文字っていうのはそれを均一にする。

そういう力というか、作用があって。
だから同じように読めるんだって。

そういう、面白いじゃん。

で、そのあとお金の話でさ。
お金はね、尺度となるみたいなのがあって、
全然別のモノ、この(敷いてある)マットの価値と
この(目の前においてある)マイクの価値は?
って言われた時に比べられないけど、
お金だと比べられるっていう
そういう価値の尺度みたいなのが当然あってさ、
それが似てるんだな、文字と、

小林:
あぁ。均一性みたいなところがね。

(沈黙5秒)

大谷:
そういう共通性みたいなのがさ、
一冊の本の中に並んで出てきたっていう、
ところで似ているところがあるのかなと思った。

(沈黙35秒)

大谷:
もう一つ面白かったのがさ、
ある時代までの文字ってめちゃめちゃ綺麗なんだって。
すごく読みやすい。

文章とか、
普通の農家の人が訴えるために書いた文章とかがあるんだけど、
ほんとに芸術品のようなのが残っている。

小林:
訴えるために書いたの。

大谷:
それがある時期からすごく乱雑になるんだって。

もう走り書きみたいな文字になって、読めなくなっちゃう。
で、そのころから文字を書くっていう行為が軽くなってきた。

それまではわりと文字を書くって、
こう、神の領域とかそういう感じの行為だっていう意識が
おそらくあって、
だから疎かに書けないみたいなのがあるんだけど。
ある時期からほんとに記号みたいに成って
全く読めない木簡とか出てくる。

小林:
字が汚すぎて

大谷:
汚すぎて。

汚すぎてっていうか省略されすぎて、
ぺぺぺってなってて、

小林:
はぁー。

大谷:
そういうのと、お金っていうのも、
お金もお金そのもの、
硬貨だったら硬貨に何か呪術的なまじない的な力があるとされていて、
それがだんだん消えていくんだけど、
そういうのも文字とお金は似ている、みたいな。

小林:
ふうん。

【言葉の記録5】コトバのキロク公開収録その2 第1回

懲りずに『コトバのキロク 公開収録その2』です。

収録から掲載まで時間が開いたのは、僕(大谷)の中でこれをどう扱えばいいのかうまく捉えにくかったからですが、半年あいて読み返すと掲載したくなりました。

話し手:小林健司、大谷隆
場所:studio CAVE(フェンスワークス)
収録日:2014年12月1日
まとめ:大谷隆