August 29, 2016

【催し】言葉の表出、冬合宿2016。やります。


【おかげさまで満席となりました。以後「キャンセル待ち」となります。9/25】

夏合宿に引き続き、冬合宿を開催します。

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言葉による表出(表現)に挑みます。「書く」ことです。

小説、詩、随筆、戯曲、映画脚本、評論、論文、歌詞、キャッチコピーなど言葉の表出であれば何でも。

大量の「ナニカ」を費やして、ほんの少しでも表出できたらそれはすごいことだと思います。自分の言葉を自分の表に出すという「契機をつかむ」ことができれば。

1 初日(23 日)の9時からオープニングミーティングをします。
2 最終日(25日)の8時から20時まで、それぞれが表出した作品を発表し、全員で「ただ」読んでみます。
3 それ以外の時間は自由です。書いたり読んだり話したり聞いたり寝たり起きたり、ただ居たり居なかったり。

参加費 13,000円
(まるネコ堂宿泊費と食事代込。アルコール代は別とします。通いもOKです。)

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2016年12月23日(金・祝)9:00~12月25日(日)20:00
自分の筆記用具をお持ち下さい。プリンタ・印刷用紙はあります。

場 所:まるネコ堂
    京都府宇治市五ケ庄広岡谷2-167
    http://marunekodoblog.blogspot.jp/p/blog-page_14.html
    宿泊は、雑魚寝になります。
    遠方の方は前泊・後泊可能です。申込時にご連絡ください。
注 意:猫がいます。アレルギーの方はご注意下さい
定 員:3名
主 催:大谷隆、鈴木陵、山根澪
お申込:mio.yamane@gmail.com (山根)まで
    お名前
    電話番号
    その他何かあれば

関連情報:
・言葉の表出、夏合宿 2016
https://www.facebook.com/events/1103888469683307/

・雑誌『言語』
2号まで刊行中。
http://gengoweb.jimdo.com/

・読む・書く・残す探求ゼミ
http://marunekodoblog.blogspot.jp/2015/10/2.html

・日本国憲法と改正案をバカ丁寧に読む会
https://www.facebook.com/events/1657877521201973/

August 28, 2016

【361】柿渋を作ってみる。その1

思い立って柿渋を作ってみることにする。
実家の柿の木に結構柿がなってる。

まずはグーグル。
農文協のサイトの説明がなんとなく適当にできそうに書いてあってやる気になる。

あれやれ、これだめとしきりに書いてあるとそれだけでやる気がそがれるので、最初にやってみるというときに、そういうサイトは参考にしない。

大して大きくもない樹だけど今年はよく成った。
例年であればそのまま放置される柿。

バケツ一杯分ぐらい。
叩いて潰す。
こんなかんじ。

このあと、水をひたひたまで入れるのだけど、水道水は殺菌力が強いので発酵に必要な菌が死にやすいらしいので、日向水を作ることに。

とりあえず今日はここまで。

つづき。
【361】柿渋を作ってみる。その2

二年後、熟成したものはこちら。
【444】柿渋を作る。

August 20, 2016

【360】天皇の〈眼差し〉。

8月16日 終戦記念日の翌日に玉音放送をバカ丁寧に聞き読む会」が終了した。

「バカ丁寧に」というのは、関連する歴史的事実やそれに対する歴史観、イデオロギーなどはなるべく脇において、ただ文章を読んでみるという意味で、今回も玉音放送にこれまで持っていた散発的で周辺的なイメージが変わっていったり、それまでなかった実感が立ち上がったりということが起き、とても面白かった。

最初に正午の時報から始まる当日(1945年8月15日)のラジオ放送の音源を聞く。アナウンサーの「只今より重大なる放送があります。全国の聴取者の皆様御起立願います」からすでに現在ではなかなか無い感じの雰囲気。君が代に続いて、肝心の詔書のレコードが再生され、再び君が代。その後アナウンサーによる「奉読」と続く。

詔書部分は文体のせいもあるが、一度聞くだけでは理解し難い。なので、詔書のみの比較的音質の良い音源をもう一度聞く。それから、僕自身で音読してみる。参加者の一人も音読。その後30分ほど黙読する時間を取って、それぞれが思ったことを共有する。こういう流れでやってみた。

自分の声で音読するというのは、なかなか緊張感のある独特な体験だった。僕にとって音読というのが、僕自身にかなり強い作用を及ぼすことはすでに知っていて、今回も憑依感に近いような感覚を持った。

特に最後「爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ」という命令文は、意味としては「あなたたち臣民はこの私の意図するところをよく理解して行動するように」というようなことだと思うけれど「朕カ意ヲ體セヨ」というのは、そういった理解や行動というレベルではなく、「私と一体であれ」という感じがする。僕がこれまでまず体験したことのない感じだ。これほど一方的な立場、絶対的な立場から何かを言うという体験がまずないのだと実感した。

その後の、30分間黙読していくなかで、文体から感じたのは、天皇は「臣民のこと」だけをずっと考えている、あるいは思っている、ということだった。ここでいう「臣民のこと」というのは、すなわち国であり、そのすべてを一体化したものを「國體」というのではないか。天皇によって思い、思われるものの統合として「國體」が存在する。

権力者や支配者というものに対する僕のこれまでのイメージとは違っている。絶対的な立場でありつつ、その立場からどこまでも民のことを考え続けている。支配欲や権力欲、さらに広く、私欲と言えそうなものは全く感じられない。

ここでいう支配欲や権力欲というのは、悪い意味の側面だけではなく指導欲といったような意味も含んでいるし、私欲といった場合も必ずしも「私腹を肥やす」ような意味ではなくて、人としてどうしても持ってしまうある方向性のようなことなのだけど、そういったことの主体がこの玉音放送からはほとんど感じられない。

この主体の感じられなさは、「私と一体であれ」という強力で一方的なメッセージに対して意味的には矛盾している気もするが、だからこそ言えるのだ、という気もする。たとえて言えば、聖書の「汝の隣人を愛せよ」というようなメッセージに似ているのかもしれない。強い絶対的な命令としての言葉が、どの「汝」とも違う立場から「汝」のことを考え続ける、ということそのものによって発せられるというような。

つまり僕は、天皇制の「宗教」としての側面というものに直接触れる体験をしたのだと思う。

天皇が持っている支配のうち、強力な権力機構によって人々を主従的に支配する側面ではなく、この地に住む人々のことをただずっと思う「眼差し」的存在として神聖的に支配する側面が宗教的な側面で、この側面によって、天皇制はこれまで幾度もの危機を生き延びたのだろうと思わせる。

この辺まできてようやく、僕自身が天皇という立場をどう思うのかということが言える気がする。

僕は、「私と一体なのだ」という僕自身の存在のあり方に対する侵入を許容できないが、「民のことを思っている」というあたたかな眼差しに対して拒絶するのは難しい。

この点で、2016年8月8日、今上天皇による「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」は、71年前の玉音放送とは文体として大きく変化している。

「爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ」に該当する部分は、「国民の理解を得られることを,切に願っています。」となり、「私と一体なのだ」という位相は鳴りを潜めている。同時に「民のことを思っている」というあたたかな眼差しは、「天皇として大切な,国民を思い,国民のために祈るという務めを,人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは,幸せなことでした。」としてさらに強く僕達の身近に接近している。

僕にとって、許容できない部分が鳴りを潜め、拒絶できない部分が拡大している。僕だけでなく、天皇制に対して保守と革新との間の中間的なイデオロギーを持つ多くの現在のこの国の民にとって、これは当てはまるだろう。

天皇とはまさに、多くの民にとって心地よく望ましい自らの位置を考え続けてきた。天皇のもつ神聖王としての側面の〈原点〉は、神話的な無限遠点にあるが、天皇のもつ神聖王としての側面の〈現在〉は、民のことを思い続ける〈あたたかな眼差し〉によって常に更新され続けている。

もしも将来、この国の民が天皇制を廃すという決断を下す時が来るのだとしたら、最後に残るのは、この神話的無限遠点から照射される〈あたたかな眼差し〉そのものだろう。断裂的で暴力的な拒絶によるのか、静かに息を引き取るような消滅になるのかはわからないが。

August 19, 2016

【359】能代

米代川(よねしろがわ)。
左のほう、もう少し行くと日本海。

秋田県能代(のしろ)市。
8月6日から二泊していました。

バスケットボール好きなら能代工業、
鉄道好きなら五能線で有名ですが、
それ以外の人にはほとんど知られていない街だと思います。
奥羽山脈から流れる米代川が日本海に注ぐ河口の小さな港です。

なぜこんなところに行ったかというと、
ここは僕が生まれたところだからで、
その時、第一子を出産するために母親が里帰りしていました。
今でも祖母や親戚が居ます。

秋田県といえば米どころ・農地の印象が強いですが、
もともと能代は秋田杉などの良質木材の集積地で、
多数の材木屋が栄えた木都でした。
北前船の寄港地でもあります。

港なので荷揚げ荷降ろしする人足もたくさんいたはずで、
人足を斡旋する手配師もいたでしょうし、
賭場も開かれ博徒もいたでしょう。

大坂などから買い付けに訪れる材木商も多く、
料亭が立ち並び、芸妓が呼ばれ、
材木屋との連夜の宴が繰り広げられました。

農民ではない海民、商人、漂泊民たちが活躍した街です。

僕の亡くなった曾祖母もそんな料亭の女将です。
材木屋として一旗揚げた男の妾でした。

8月のこの時期、能代では能代役七夕と言われる祭をやります。

かん高い悲鳴のような笛が流れ、地響きのような太鼓が鳴り、
「ちょーれーちょーれー、ちょごれごれごれん、ちょごれごれんれんれん」と
掛け声が聞こえ始めると城郭をかたどった大きな灯籠が引かれてきます。
灯籠の幅は道幅いっぱい、
高さは2階の屋根を超えるため、
電線をくぐる時には、上部のシャチを倒して進みます。
町ごとにいくつもつらなって進みます。


能代役七夕。
夕方から市内を回丁する。
曾祖母の息子で料亭を継いだ
僕の大おじにあたる人はこの七夕が大好きでした。
日頃の仕事も七夕の人脈をつくるためにやっていたのではないかと思います。
敵も多かったかもしれませんが、体が大きく、威圧感があって
七夕の灯籠に乗って提灯を上げ下げする姿はよく目立ちました。

能代役七夕の由来は諸説ありますが、
阿倍比羅夫、坂上田村麻呂が蝦夷征討の際に灯籠を使ったのが起源という説があります。
この説からすると、
それまでこの地にいた部族を征服した中央の側を称える祭なのですが、
単純にそうとも言い切れない何かを秘めているように感じます。

たしかに灯籠の城郭部分には宮廷の美人画や武将の武者絵が描かれていて、
雅な都の宮廷世界を思わせます。
しかし、その城郭の上には、
不釣り合いに巨大な二匹のシャチが乗っかっています。
目を見開き、歯をギラつかせ荒々しくそびえ立つシャチの姿は、
むしろ「反雅」です。
激しい太鼓、郷愁を誘う笛とあいまって、
祭は野蛮さと切なさをまとっています。

1日目、大きな交差点に集まり、太鼓。

「ノシロ」が歴史文書に登場するのは古く日本書紀で、
まさに、658年に阿倍比羅夫の蝦夷征討に降った「渟代(ヌシロ)」として登場します。
日本書紀によれば、「渟代」はこの時、比羅夫の軍船180隻を恐れ、戦わずして降伏しています。

ある日、征服された部族がいたとして、
その部族はその瞬間から征服した者と同じ帰属意識を持つわけではない。
征服者はその部族の上に、かろうじて支配という網をかぶせたに過ぎない。
その網の下では長く反抗の血が流れていたのではないか。
七夕はそういう祭なのではないか。

それでも、やがて血は交じり合っていく。
その事自体への反抗なのかもしれません。

2014年、日本創生会議は大潟村を除く秋田県全域を「消滅可能性都市」としました。
ここでいう「消滅」は、そこにいる人が消えるわけではなく
「自治体としての機能を失う」ことですが、
阿倍比羅夫から1300年を経て、
この場所は再び、
中央朝廷の力のおよばぬところに戻るのかもしれません。

August 10, 2016

【358】ありえそうな話。

細野晴臣っぽい人が、ただし20代で、その人を含め3人(時に4人)で、自分たちがやっていたバンドがいかにして誕生したか、どのようなことをやってきてそうなったかを自分たち自身で伝記的に書き残そうとしている。細野っぽい人はそれを熱心に進めようとしているが書いているのは別のメンバーである。

3人はひたすら話をしている。大学生のころにそのバンドを始めたらしい。バンドを始めた動機は基本的には女の子にもてたいということで、それも具体的なあの子やこの子とどうやって仲良くなるか、みたいなことをひたすらやってきた。時にバンドではなくて自主制作映画を作っていることになったりもする。くだらないことを不器用に何度もやってきている。女の子にもてるということ自体はあまり成功していない。

それをただずっと3人で、思い出すために話をしていて、書く担当になったメンバーがそれをどうにかまとめていく。

時々原稿が進んでいくようだが、書く担当のメンバーはもともと書くのが得意というわけでもなく、本当にこれで良いのかわからない感じである。

大して面白くもない冗談を言いながら、3人の作業は進んでいく。話している内容も大して面白くもない話ではあるが、不思議な魅力がある3人で、自分たちがやってきた音楽(か映画)はとても重大なことなのだということを醸し出している。ある意味とてもまじめに、この、とても成果を結びそうもない自分たちによる伝記づくりを続けていく。

やがて、数週間か数ヶ月か、何度も開催された話し合いは終わって、書く担当のメンバーはそれを書き上げる。細野っぽい人は真面目にそれを読んで、「これはとてもよく僕達の持っているものが書き残されているんだけど」と言って、原稿の束を持ち上げる。その束は一抱えもある段ボール箱サイズになっていて冗談っぽく「はい。テストはここから問題出すよー」と言ってみせる。ようするに多すぎて「ただこの分量だと誰も読んでくれない。もしよかったら僕が少し削って一冊の本にするけれど、それでいいかな」と書いたメンバーに言って了承を得る。

細野っぽい人は「あくまでもその過程の中から書かないといけなくて、その過程が今のバンドにつながっているんだ、だからすごいんだというようにしないといけないから」と言って、その「過程」の外にあるような描写を削るつもりだと匂わせる。

僕はといえばそれをずっと、少し離れたところで見ている。喫茶店の隣のテーブルで聞き耳を立てている感じで、細野っぽい人たちのグループは僕のことを認識していない。僕は、馬鹿っぽいこの大真面目なやり取りをずっと聞きながら、この人達は後に本当にすごい人たちに、それこそYMOのような世界的なバンドになるということを知っていて、面白がりつつも尊敬を持ってことの成り行きを見守っている。

最後は、結局、その本ができあがり、まさにその本によってこのバンドは一躍脚光を浴びていくのだ、という気分がしてきたところで、目が覚めた。とても切りの良い終わり方だった。

全体の雰囲気は、昭和の漫画っぽい線画で、時々新聞の4コマ漫画的なデフォルメも受ける。大友克洋の初期の短編のような「どうしようもなさ」がにじみ出ていた。

自分たちがやっていることのすごさ、今現在はそういう評価は得ていないけれど、それでもすごいのだという確信を持っていることや、そのすごさ自体を自分たちで本として書くというやり方、しかもその内容がグダグダな感じであること、それにもかかわらずこの人達は後に高い評価を得るのだということ、それらが混ぜ合わさり、起きた時には憧憬となっていて、強烈に書き残しておきたくなってこれを書いた。