October 11, 2016

【371】完了感と突破。

料理はわりと好きだ。僕にとって料理の良さはその完了感にあると思う。料理を作り、食べるという一連の流れの終了に「食べた」という完了の感じが伴っている。

完了感には二つの要素があって、一つは終了、途絶である。これについては説明がいらないと思うけれど、ある流れの終了、その途絶だけでは完了感には足りない。もう一つの要素は、その終了、途絶を持って、それ以前の過程がすうっと静まる感じ、鎮静である。

料理を作り、食べ終わったときに、それを作っていた過程、食べていた過程が、その終了、途絶に対して、すぅっと静まり、鎮静する感覚が立ち上がる。この時、僕は完了感を味わっている。

完了感自体には心地よいとか心地悪いとかはない。いや、どちらの要素もあって、心地よい感じの方に重心があれば、その完了感は達成感と言えるだろうし、その時すぅっと静まっていく過程に対しては「報われた」という感じがするだろう。

心地悪い感じの方に重心があれば、あぁ終わってしまったという「惜(お)しい」感覚をその過程に対して感じるだろう。ただ、いずれにせよ、終了・途絶という現象と、その現象に向かって過去のプロセスが打ち寄せ、プロセス自体は鎮静していく感覚が、完了感としてある。

もしも、ある流れがただ終了、途絶するだけで、それ以前の過程が静まるような感覚がなければ、そこには完了感はなく、ただ、呆然と未来の消失があり、その時過去のプロセスは静まらずそのままになる。

完了感を伴う流れには、反復性がある。完了感は反復を促す。完了した行為を、またあとでもう一度やってみたいという感じが立ち上がる。料理して食べるということに関してはこれは良い方向に働く。反復すれば料理すること自体にも食べるということ自体にも、修練として働いて、より大きな完了感、そして達成感を与える。そしてその完了感はさらなる反復を促していく。

完了感によって、同じことの繰り返しとして、仕事や作業をする人は、反復によって作業を身体化し、それによって「身につく」「上手になる」という「上達」を得る。

この世の中の多くの仕事、作業は、このような完了感を持った反復の積み上げによって構成されている。

その仕事、その作業について完了感、できれば達成感を得られれば、その仕事、その作業はその人にとって「向いている」と言える。反復によって、さらに増幅されていく。逆に、その仕事、その作業について完了感を得られない場合は、その人にとってその仕事、その作業は「向いていない」と言える。

「向いている」仕事をしている人は「幸運」だと僕は思う。

僕にとって、書くことはほぼ常に完了感を伴わない。料理を作って食べるような完了感はない。書くことの終了、途絶は、もうこれ以上は「どうしようもない」という諦めによって訪れる。この時、書いていた過程は鎮静せず、隙きあらば襲いかかろうとする野獣のような熱を帯び続けている。本当はこうではない、もっとこうだったはず、もっとこうできるのに、という不全があり、しかし、その不全は「どうしようもない」という諦めの前にうちしおれる。次に書くときは、反復ではなく、その不全の十全を目指すようなものとして、発生する。うちしおれた意識がもう一度息を吹き返すまでの重い時間がある。

だから僕にとって書くことは「向いていない」。

と、ここで終わってしまうとなんとも物悲しいだけなので、もう少し頑張る。

完了感を伴わない「向いていない」仕事をする人というのは、その仕事を一つの終わりなき継続として捉えることもできる。完了しないのだから、終了、途絶もしていないのだ、と。

完了感を伴わない人は、反復は存在せず、ただ「どうしようもなさ」への無防備な盲進によって、進まざるを得ない。ここには「身につく」「上手になる」といった「上達」ではない、方向がある。

ある仕事やある作業に対して、革新的な突破というのは、この盲進的な方向が必要であることが多い。完了感のない、拠り所のない、永久的な持続感覚の時間と空間のなかで、ある局面を突破するほんの小さな一歩が記されていく。もちろん、大半の一歩は何も引き起こさないまま消えていく。膨大で無方向な一歩の果てに、小さく突破する一歩が現れる。

これは「向いている」仕事をしている人にも実は訪れうる。「向いている」ことで上達していった先に、もはや完了感を得ないような領域が広がっている場合がある。そのとき「向いていた」はずの仕事は、もはや「向いていない」。完了感と引き換えに「向いていない」という無方向感を得たのだ。そうして、そこから新たな突破する一歩のために膨大な右往左往が始まる。そういう人が局面を切り開いていく。

October 10, 2016

【催し】よその〈国〉の憲法を読む朝


僕たちが、日本人として「日本」という国を思い浮かべたときのあの感じは、他の国の人たちが自分の国について思い浮かべている感じと同じなのだろうか。そもそも、僕たちが「国」といったときにイメージするあの感じは、他の「国」の人たちも同じなのだろうか。

憲法というその国の基本構造となるものを読むことで、そういうことがなんとなく感じ取れるとしたら、これはちょっとおもしろいと思う。

想像だけれど、たぶん「人が集まっている」という、そのことそのものについての感じもきっと違うんじゃないだろうか。僕たちが「共同体」というような言葉でなるべく無味無臭に言おうとしているものは、もっといろんな味や匂いがするんじゃないだろうか。

外国というものがどういうものかを体験するために、僕たちには物理的にそこへ行くという方法がある。それによって僕たちは多くのことを知りうるだろう。

でも、物理的にそこへ行くことではなく、その場所の根幹に触れる体験ができるとしたら、僕たちは「よその国」との関わりのあり方そのものを更新できるかもしれない。

そして〈国〉というものとの関わりのあり方そのものすら更新できるかもしれない。

とにかく憲法を頼りに、よその〈国〉に行ってみようと思う。
世界中を旅し、世界中で暮らすように。

大谷 隆

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他者とともにあるって、どういうことなんだろう。そういうことを、この半年ほど考えていた。

そんな折、みんなで日本国憲法を、バカ丁寧に読む朝があった。改めて読むと、なんとも不思議なテキストなのだ。前文によれば、「日本国民」である「われら」は、「全力をあげて」「崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」という。誓いましたっけ?とは言い出せない雰囲気だからまいってしまう。

でも、これがこの国の構成なのだ。望むと望まざるとに関わらず、1946年から現在に至るまで。出生届が役所に提出されたその朝から、自分も諸々誓った日本国民らしい。

憲法とは、Constitutionの訳語だという。contsitutionはconstituteつまりcon〈ともに〉+stitute〈成り立たせる〉の名詞形だ。憲も法も、「おきて」という意味で、日本国憲法と私たちが呼ぶとき、〈ともに成り立たせ〉たものが日本なのだと思い出すことは難しい。それでは本来、Constitution〈みんなでともに成り立たせた国の構成〉ということが、どういうことなのか。

よその国のConstitution、憲法こそ、その手がかりになるはずだ。それを、ともに読んでみたい。
北村紗知子

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よその〈国〉の憲法を読む朝

日時:11月13日(日)10時から13時
場所:スタジオCAVE(大阪市)
主催:北村紗知子、大谷隆
協力:山本明日香、山根澪
内容:まず、この企画について北村と大谷が話してみます。
   その後、いくつかの国の憲法を読んで、自由に話をする時間を持ちます。
参加費:2,500円
定員:8人
申込:フェイスブックで「参加」もしくはmarunekodo@gmail.com(大谷)まで。

参考文献:
・岩波文庫『世界憲法集第四版』
アメリカ合衆国憲法、ベルギー国憲法、イタリア共和国憲法、ドイツ連邦共和国基本法、フランス共和国憲法、ソビエト社会主義共和国連邦憲法、ポーランド人民共和国憲法、中華人民共和国憲法、日本国憲法が収録されています。

関連企画:
7回シリーズ「日本国憲法をバカ丁寧に読む会」
10月13日から全7回で日本国憲法を読みます。会場はスタジオCAVE。

【370】透明の秋。

代返、ダブル聴講、レポート丸写し、試験カンニングで学部の3年間を過ごしたあと、4年になった年に不況が訪れて、僕には就職先がないとわかった。逃げるように大学院へ進学を希望した。成績表を見ながら「お前のようなやつが院へ行こうと言うのか」とあからさまに言う教授の顔をテレビドラマでも見るようにぼーっと眺めていたのを思い出す。

6月から勉強を始めた。アパートで一人、まっさらな教科書を開く。数学、物理、材料力学、機械力学、材料学、熱力学、流体力学・・・。頭から一行ずつ読み、演習問題を一問ずつ解いていった。一つの科目が終われば次の科目に移る。全科目を3周ほど終えたところで試験を受けた。9月だった。

主席という周囲が唖然とする好成績を取って、僕は壊れた。世界と時間が灰色になり、アパートで動けなくなった。テレビのリモコンを持ちあげ、テレビをつけ、チャンネルを次々に切り替えて、一周したら消して、リモコンを置く。数秒後にはまたリモコンを取り上げ同じことをする。これを一日繰り返したりしていた。

冬が来る前の頃だったか、ある日僕は立ち上がることすらできなくなった。腕に力が入らない。足にも力が入らない。寝返りも打てない。筋肉というものがなくなったか、あったとしてもその使い方がわからない。このままでは不随意筋すらも動かなくなるのではないか、と気がついてしまうと息が苦しくなり、鼓動がゆっくりになっていった。

たぶん死ぬ。と思った。こんなバカげた死に方があるのだろうかと思ったけれど、あるのかもしれない、膨大な数の命のうちで、少なくともたったひとつぐらいの命がこうやって消えていくということはあり得るだろうし、それが今の僕であることにある程度の必然性を感じた。僕がそう思ったのだからそれは起こり得る。やがてそう確信するようになった。僕は死ぬ。

もう一回心臓が脈打つかどうか、それすらも不確定になったとき、僕はようやく誰かに助けてほしいと思った。

「だれかたすけて」とかろうじて自分が聞き取れる声を出したとき、僕から死は急速に遠のいていった。

死はあらゆる可能性を持って待機している。
無条件に救いを求めることで人は救われる。
能力と評価は生きていくことの外にある。

その後、そういうこととして僕を形作るようになる最初の体験だった。

今日の秋の透明な空と風がそれを思い出させてくれる。20年以上経ったのに、まだあの時を感じことができる。ちょうどこんな乾いて透き通った肌触りだった。

October 6, 2016

【369】庭に生えてきた枝豆を引っこ抜いて食べる。

一株でこんなに採れた。

庭の片隅に生えていた大豆を引っこ抜く。ちょうど枝豆にして食べるのにいい頃合い。

もともと味噌を作るときに選別してはじいた大豆を適当に庭にばらまいていたやつで、育てようとしたわけではなく育った。

雑草にまみれて、茎も捻くれていて、根元の方は横倒しになって地面を這っていた。それがやたらと元気に育って大量に実をつけている。

こんな風にして何株かが育って、ここ数日毎日一株ずつ抜いて茹でて食べている。

もともとばらまいた大豆はかなりの量だったから、大半の大豆は芽を出さなかったか、芽を出しても育たなかった。

そう考えると全体としては極めて効率が悪い。しかし、大豆をばらまいた以上のことはしていなくて、せいぜい草抜きのときに抜かないようにしたり、周りの雑草を余計に抜いたりしたぐらい。

豆類は痩せた土地のほうがいいという話はよく聞く。事実、庭ではなく多少耕した畑っぽいところのは育ちが悪かった。

育てること、育つこと、放置すること、予め諦めること、恵まれた環境、大量の犠牲、運と実力、収奪と愛情、・・・。

なんというか、いろいろと考えさせられるが、ともかく非常にうまい。

October 3, 2016

【368】「節約」は美徳ではない。むしろ冒涜なのではないか。

ひと月の食費が二人でだいたい3万円ちょっと。一食あたり一人約150円。二人ともほとんど家にいて、ほぼすべての食事を家で作って食べる。この金額で酒も飲みたいだけ飲んでいる。

どの食事も非常に美味しい。僕の味覚が低レベル、ということではないと思う。親にもパートナーにも友人にも、お前は舌が肥えていると言われるし、うちに来てくれる人もたいていうちの料理は美味しいと言う。もしそれがお世辞だとしたら、みんな相当な役者だ。

食材はインターネット通販かよつばの個配か近所のスーパーで買う。お米は親戚が作っているのを相場よりはおそらく安く購入しているが、それ以外は特別なルートで買っているようなものはない。

いつも安くて美味しいものを食べていると思う。食べたいものを食べたいだけ食べているとも思う。だから、こういうことについて、僕は「節約」しているという意識はあまりない。

「節約」という語に僕は「我慢している」というニュアンスを感じるけれど、そういうことはしていない。欲しいものを欲しいだけ買っていて、その金額がこの程度にしかならないということだ。

我慢はしていない、けれど、どこか後ろめたさはある。

日本の社会全体でこんな食生活を送ったら、日本経済は確実に破綻してしまうだろう。こんな金額の消費だけでは、インターネット通販は成立しないかもしれない。よつばもスーパーも破綻するのではないか。

そうしたら僕の食生活を支えているものたちは何も手に入らなくなる。

「節約」して安く食材を手に入れることは一般に美徳とされている。賢いことだとされている。でも本当にそうなんだろうか。すくなくとも「美しい」ことなんだろうか。

欲しいものはすべてお金を出せば買うことができ、それらを玄関まで届けてくれる輸送ネットワークがあり、いらなくなったゴミは家の前においておけば回収される。そういう社会システムの上で僕の低金額で充足した生活は成り立っている。

これは貴族だと思う。貴族の生活だと思う。都に居ながらにして全国の優れた食材が手に入る。自分自身では作らず、それを作っている人、運んでいる人の労働に対して、相対的に僅かな対価で美味を得る生活。

こういうことに僕はどこかで後ろめたさを感じている。

恵まれた僕の場所は誰かの「放蕩」ともいえる莫大な労働によって成り立っている。それを「節約」する「我慢して食べる」あるいは「我慢して食べない」なんて冒涜だと僕は思っている。

October 1, 2016

【催し】12月7日 青木亭 高槻食会

持ち寄り食会やります。
食会は「やられた!」と負けを感じることはあっても、
「やった!」と勝った気にはなれないんですよね。
みんなが勝手に負ける。
「相手に」勝つということはつまらないことです。

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青木邸 高槻食会

【日  程】2016年12月7日(水) 
【集合時間】16:00
【集合場所】JR高槻駅改札
【会  場】青木亭(高槻市の民家。買い物終了後、市バスで一緒に移動します。駅から10-15分程度です。)
【設定金額】1,500円
【内  容】高槻の青木麻由子さん宅で食会をします。集合後、1時間程度の時間を設定し、高槻駅前のアルプラザ、松坂屋・西武百貨店のデパ地下で買い物。その後、一緒にバスで会場まで移動します。普段スーパーでの買い物が多い食会。デパ地下での買い物でどうなるか。

会場に、食器・基本的な調味料があります。気になる方はお問合せください。

【申し込み】mio.yamane@gmail.com(山根)まで。

持ち寄り食会サイト

【催し】「読む・書く・残す」探求ゼミ 1DAY in まるネコ堂

秋になって、ようやく読んだり書いたりすることが戻ってきた感じがします。
湿度との相性があるんじゃないかと思います。

夏は夏をやり、
冬は冬をやる。

季節というのが、気候や気象にとどまらない。
そういうことを思います。

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【「読む・書く・残す」探求ゼミ 1DAY in まるネコ堂】

「読む・書く・残す」探求ゼミ。通称「書く講座」。
初めてまるネコ堂(京都)にて開催します。

けんちゃんこと小林健司さんと大谷隆さんが始めたこの講座。
参加者の一人が持ち寄った文章を、
じっくりと読んでいきます。

そのときに頼りにするのが、
講師の大谷隆の文字に対する信頼や距離の近さ。
隆の文字に対する世界を垣間見ることで、
文字というものを、
今までに知らなかったところから見ることができ、
そこから持ち寄られた文章を読むと、
それまでの自分の読み方では思いもよらなかっただろう仕方で
文章が見え、それを話していました。
・・・
こう書きながら、
以前講座で文章を読み、何かを発見して、
興奮したことを思い出し、今、多分めっちゃ笑顔です。

それくらいに、文字の世界が見れていました。
わたしにとって文章を読むことは、
講座を通して新たなものになり、
そして書く世界も変化してきたと思います。

しばらく開かれていなかった「書く講座」。
今回、久しぶりにめっちゃやりたくて、
やりたい、やりたいと言っていたら開催に結びつきました。
家作りに忙しいけんちゃんも一緒に開催します。
(多分、開催日までには少し落ち着いているのではないかと思います)
二人がいる「書く講座」が楽しみです。

今回1DAYで2セッション行います。
同じメンバーで2セッションというのは
わたしは初めてで、これもどうなるのか楽しみです。

読む・書く・残す、文字の世界の探求をしてみたい方、
是非ご一緒しましょう。

山根澪

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▶日にち:2016年12月4日(日)
▶時 間: 9:00~13:00 セッション1
     13:00~15:00 昼食・休憩
     15:00~18:00 セッション2
     ※昼食はご用意します。
     遠方の方は前泊可能です。申込時にご連絡ください。
▶内 容: 参加者がじぶんで書いた文章を持ち寄って
     じっくりと読み込んでいきます。
     ※通常、各セッション一名ずつ文章の持込を受付けていますが、
     今回すでに先行したチラシ告知にて持込の受付けは終了しています。
▶場 所:まるネコ堂
    京都府宇治市五ケ庄広岡谷2-167
    http://marunekodoblog.blogspot.jp/p/blog-page_14.html
▶注 意:猫がいます。アレルギーの方はご注意下さい
▶参加費:8000円
     (セッション1のみの参加の場合は5000円。
     セッション2のみの参加はできません。)
▶講 師:大谷隆
▶主 催:小林健司、山根澪
▶定 員:6人程度
▶お申込:mio.yamane@gmail.com
 ・お名前
 ・電話番号
 ・前泊の希望(あれば)
 ・その他(何かあればご自由に)

〈講師の大谷隆のプロフィール〉
1971年生まれ。宇治市出身。
「まるネコ堂」代表。環境報告書・CSRレポート制作会社編集部門、市民活動総合支援センター(社福)大阪ボランティア協会・出版部を経て2010年5月独立。フリーランスの編集者として、読む、話す、聞く、書く、それぞれにじっくり向き合う仕事をおこなう。
・言葉の場所「まるネコ堂」 http://marunekodoblog.blogspot.jp/
・雑誌「言語」 http://gengoweb.jimdo.com/

<小林健司のプロフィール>
愛知県春日井市出身。大阪教育大学在学中に教育関係のNPOの起ち上げに関わり、卒業後も含めて約十年勤務する。ソーシャルビジネスの創業支援をする NPOでの勤務を経て独立。目的のない生命体的集団フェンスワークスに2年在籍し、現在、人とことばの研究室代表。
・人とことばの研究室 http://hitotookane.blogspot.jp/
・雑誌「言語」 http://gengoweb.jimdo.com/