February 28, 2015

【090】本を読むことは旅することに似ている。

ゼミで読んだ本。
好きとか嫌いとかを超えて特別な存在。
これまで約8ヶ月、18回の講読ゼミをやってきた。

このゼミというのは、複数の人で同じ本を読んできて、それを一回約2時間で「気になったところ、面白かったところ、自分の経験に通じるところ」などを話合う場のこと。

不思議なことに、18回すべてにおいて、ゼミが終わるときに「自分だけで読んでいたのでは到底辿りつけないところまで見ることができた」という感覚になった。

新しい本に入るときには毎回のように「今度こそがっかりするのではないか」と思い続けてきたけれど、ただの一度もそういうことはなかった。

ゼミ前に自分だけで読んだときには不遜にも「もう十分に読めた。これ以上、この本から何かを得ることなどあろうか」という気分になることもあったけれど、終わってみれば「恐れいりました」と頭を下げる。

ゼミで読んだ本は一冊一冊、僕が動くための「エンジン」として埋め込まれた。必要なときにそれぞれのエンジンに火が入り、僕を駆動させる。

同時にゼミは旅だとも思った。
ミヒャエル・エンデの『モモ』のゼミをしたあとに、
そこにいた人が集まって集団で一緒に旅をするというのではなく、
それぞれがそれぞれ、今いる自分の場所から自分の旅をしつつ、
赴いた遠くの地から便りを出しあって、
自分がその時に見ている視界を伝え合う。
時には一堂に会する瞬間もあり、
そしてまたそれぞれの旅に戻っていく。
そんな旅でした。 [『無縁・公界・楽』ゼミの参加者案内文より] 
と書いた。

僕はこれからも旅をしたい。
集団ではないそれぞれの一人旅だけど、ちっとも不安はない。

February 27, 2015

【089】話したことを忘れているから聞いたことも忘れている。

空き地と同じぐらいガス管も好き。
地中から現れた管は、地中ではすべてとアクセスする。
書くつもりだったことを忘れてしまった、と書いた内容をぱーちゃんになんだったっけときいてみたら、ぱーちゃんも忘れていた。

こんなことってあるだろうか。話をした僕も忘れていて、聞いていた二人とも忘れている。ずっと昔の話ではなくて、つい数日前の話なのに。

まったく何も無いというわけではなくて、うっすらとなんとなく三人の中にそれぞれに雰囲気として残っていて、それはやっぱり面白いとか、そうだなと思ったとか、そういったものではあるけれど、それが何かは判然としない。

こうやって、忘れてしまったことをあれはなんだったっけと二人の人に尋ねて、ひとしきりあれはなんだったっけとやって、ブログを2つも書いて、もう僕は忘れてしまったそのことと同じぐらい、こうして忘れてしまったことによって現れたことが愛おしくなっている。

February 25, 2015

【088】切り立った崖をよじ登るように本を読む。

こんな感じの風情のない空き地も
やっぱり空き地だから、空き地の力を感じる。
どうにかハイデガーの『形而上学入門』の1章を読み終えた。読めた、とは思わないけれど、少なくともこの章のすべての文字に目を通した。それがうれしい。

ここまで読んで一番衝撃を受けたのは、実のところ、本文ではなくて訳者あとがきの一節。(どうにも読み進めなくなった時に「あとがき」を読むのは昔からの僕の癖。)
なお「空開処」(Lichtung)は普通は「空き地」を意味する。山林の一部を伐採して空き地を作ると、そこへ日光が射しこみ雨が降り注いで作物が育つ(焼き畑農業? 漢字の「無」の字がそのことをかたどっている)。ハイデッガーはこのことを承知のうえで「空開処」の語を術語として用いる。ハイデッガーにおいては「空開処」は人間の現ー存在の「現」という場処のこと、空(す)いている、空(あ)いている、開(あ)いている、明(あ)いている場処のことであって、ここで存在が自らを人間に委ね、ここで存在の非隠蔽性つまり真理が現成する。「存在の牧者」としての人間の本質のいわば深奥の場処である。[428]

ハイデガーの文章ではなく、訳者・川原栄峰のものだけど、ここにものすごく興奮した。

ハイデガーが特別な意味を与えた言葉として空き地が出てくる!
「無」という字の成り立ちが空き地である!
空き地で真理が現成するといっている!

このことを頼りに2章以降も読む。まだ顔を上げても崖しか見えないけれど。

February 24, 2015

【087】少なくともデスクトップはミニマリスト。

灰色の濃度はたまに変更する。
一時は真っ白にしていたが、目に悪そうだったのでやめた。
壁紙と名のつくものが苦手で、家の壁紙もせっせと剥がしてペンキを塗った。もちろんパソコンも壁紙はなく、デスクトップ上にはいつもだいたい何も無い。

パソコンの壁紙が無いのは「気が散るから」というようなことでずっと理由づけていたけれど、ちょっと違うことなのかもしれないと思い始めてきた。

空き地が好きなのも同じ理由だと思うけれど、場や所というものはそもそもその中に何もないということを含んでいると僕は思っていて、背景や壁紙といったものがあるともうすでにそこがそれらで占められているような気分になる。そうするともう、そこで何かができる気が減ってきてしまう。

あるいは、「空っぽのスペース」というのが透明なもので、だから背景の壁紙が見えるのだという意味はわかるのだけど、いまいちぴんとこなくて、どちらかというと「空っぽのスペース」というのは不透明というかそれ自体を見ることができないわけで、その見ることができないもののさらに向こうに何があろうと見るつもりはないと思っているのかもしれない。

「無い」のことを書いているとどんなにうまくかけたと思っても次の瞬間、全く見当外れだと思ったりする。それでもなんとか言葉を重ねておこうと思うのは、在るの世界の論理である。

February 23, 2015

【086】書くつもりだったことを忘れてしまった。

綺麗に消えてなくなるものといえば桜。
昨日、ぱーちゃんと澪に今度こんなことをブログに書こうと思っているという話をしていた。その話は自分でも結構面白かったし、聞いてくれた二人も面白そうだった。

そしてさっき、いざ、そのことを書こうと思ったら綺麗さっぱり内容を忘れてしまっていることに気がついた。澪に聞いたけど、澪も忘れていた。

今度ぱーちゃんに会ったら、僕がブログに書くつもりと言って話していたことはなんだっけときいてみることにしよう。そして、ぱーちゃんが話した内容をブログに書いてみよう。

【085】「会う」の再構築。人と会うとはどういうことか。

話したり聞いたりしているつもりでも、
本当はそこに誰も居ないかもしれない。
人と会って仕事をしていたり、人と会って食事をしていたりするとき、
どうにも耐えられない空虚さが在るときがある。

人と会って仕事や食事をしているのではなく、
仕事をするために会うという作業をしていたり、
食事をするために会うという作業をしていたりする。

そんなときには人と会ってはいないような気がする。
では、どんなときに人と会うのか。
会うというのはどういうことか。
僕は人と会うことができるのだろうか。

それを知りたくなってきたので、もう少ししたら、
今思いつくことをやってみよう。

【084】靴を修理して、これでまた歩いていける。

かかとの修理、3,000円+税。安い。
これを機にシューキーパーを導入。
以前「修理に出そう」と書いた革靴が修理から戻ってきた。

修理内容はかかとの交換で3,000円+税。
2年ほど履いて、この金額で修理できるなんてほんとにうれしい。
かかと以外は「まだまだ大丈夫」とのことだった。

かかと以外の交換としては、靴底全部の交換があって、底の真ん中あたりが薄くなって穴が空く。薄くなってくると触るとペコペコするのでわかるらしい。

あと、ていれをすると長持ちすると言われた。これまであんまりていれをしてなかった。
基本的にはオイルを入れればいいとのことで、これからはこまめにやろうかな。

以前にも書いたけれど、オーダーの靴はほんとにいい。足にあった靴だと、どこまでも歩ける気がする。歩けなくなったとしても、靴のせいで歩けなくなることはなくて、それよりも先に膝や腰や体の疲労で歩けなくなる感じがする。

修理の間、スニーカーを履いていたけれど、どうしても足が靴の中でほんのちょっと滑る感じがあって、長時間履いていたいと思わない。

オーダーは高価というイメージがあるけれど、僕の場合、サイズが大きいからか、市販品でもそれなりの値段の靴しかなくて、1万円から2万円ぐらい。それがだいたい1年から2年でボロボロになってしまって、買い換えないといけない。

オーダーだと作るのは4万円以上するけれど、2年はいた今回の修理が3000円程度。今後、靴底全体を修理することがあっても、1万円ぐらいには収まりそうだから、長期的には金額は同じかむしろ安くなる。

サイズが特殊じゃない人であれば、安く靴が買えるのかもしれないけれど、それでも足の形は人それぞれで、市販品でピッタリ合うということはほとんどないんじゃないかと思う。

ぴったりの靴と丈夫なリュックがあれば、どこまでも歩いていける。

February 21, 2015

【083】携帯電話を洗濯した顛末

乾燥中。
端末自体は気に入っている。

昨日朝、携帯電話を洗濯した。
洗濯機がやけにゴトゴトいうなと思っていたら、洗い終わった服の最後にごろりと出てきた。

液晶画面の中にも水が入り込んでいて、傾けると中で波打っているのが見える。さすがにこれはもうだめだろうと思ったものの、それでも一縷の望みを残して乾かす。

僕の携帯電話はWILLCOM(現ワイモバイル)のSTOLAというストレートタイプで、Eメールもウェブ閲覧もできない低機能電話。月1,500円でかけ放題(10分以内、月500回まで)というプランで契約1年5ヶ月。

さてどうしようかと思案。

とりあえず思い浮かんだ選択肢は、
1 新品への交換(機種変更)
2 持ち込み交換(白ロムを購入して)

でもいずれにせよ、今使っている端末の分割未払いがおそらく2万円分(これはあとでちゃんと調べたら9800円だった)ぐらい残っていて、それはそのまま負担としてのしかかる。さらに機種変更で今後また縛り期間が伸びてしまう。

この痛い出費をどうにか精神的にバランスさせるためにはこの機会に電話代を大幅はコストカットをする必要がある。そこで考えたのが、
3 解約してIP電話に変更

IP電話で今後の負担を大幅に減らせれば、何年かで取り返せるし、今後ずっとそれでいければもう電話代に悩まされることもない。いくつかサービスがあるけれど、ざっとネットで調べたところ、どうやら、
FUSION IP-Phone SMART
がよさそう。留守電への音声メッセージが自動でメールされるのは便利。回線契約を解約したiPhoneが1台あるので、それに入れればすぐに使える。

はぴらきさんのブログでも紹介されてるし、「ミニマリスト御用達」感がある。
クレジットカードがあればすぐ始められるので、もし復活できなければ、まずこれを試してみようと考える。

このへんで、万が一、普段は電話しないけれど、たまたまこのタイミングで僕に電話する人がいたらまずいかもと思って、念のためfacebookにも「携帯電話を洗濯しましたー」とアップする。すると知り合いの方からのアドバイスで「とりあえずMNPすると良い」と教えてもらう。

今まで、選択肢になかったけれど調べてみると例えば、auへのMNPだと、
があって、これはたしかに安い。
今はPHS(070)からでもMNPできるらしい。

もしdocomo、au、SoftBankである程度普通に使っていて水没したら、こういうMNPのキャンペーンでかなり損失をカバーできるとわかる。

そうこうしているうちに、液晶画面内の水滴も減ってきたので、電池を入れて、電源を入れてみると、あっさり入って通話もできた。機能が少ない分、タフなのかもしれない。

インジケーターのランプの点滅が若干怪しいけど、その後も普通に使える。
結局、今回はこのまま使い続けることに。

今回の洗濯騒動で、いろいろと調べてみて、それはそれで面白かった。

携帯電話端末代は普通に使っているうちはその負担は見えなくなっているけれど、それが目に見えてのしかかると実はかなり大きいという、当たり前のことも実感できてよかった。

===
後日談があります。

February 18, 2015

【082】命令文を疑問形にしても丁寧ではない。

猫は命令してもたいがいは従わない。
単独で狩りをする。それが猫を決定づけている。
1 来い。
2 来てください。
3 来てくれますか?
4 来てくれませんか?
5 来てくださいますか?
6 来てくださいませんか?

1は命令文
2は命令文+please
3は命令文の疑問形
4は命令文の否定の疑問形
5は命令文の疑問形+please
6は命令文の否定の疑問形+please

一般に下に行くほど丁寧とされている。(4と5は入れ替わるのかもしれない。)
でも僕はこれが納得行かない。

3以降の疑問化した命令文は、僕自身もつい使ってしまうから余計に嫌なんだけど、なぜ使ってしまうかという理由は、だからとてもよくわかる。

疑問形にすることであたかも相手側の意思を尊重しているかのように見せかけて、自分の居所を隠している。自分の居所を明確にせずに相手の意志を確認しようとしている。

命令したからといって相手がそれに従うかどうかは本来は不明である。命令が絶対であるためには、命令が発せられるより前に命令者と被命令者に絶対的な立場が生じている必要がある。

この時、命令に従うことで生じる結果について、命令したものが責任を取るという構造が成立している。命令されたものは、その命令の結果起こったことに対して「私は命令されただけです」と言える。

つまり命令文を疑問形にするのは、命令者が本来負わなければならない責任を回避しつつ、同時に命令者の欲求を満たそうとするやり方である。

「私は来いと命令されただけです」に対して、
「僕は来ませんかと尋ねただけで、来いとは言っていない」と言い逃れる余地が予め生じている。

これはずるい。

支配関係がない他者に対して、結局のところどう言えばいいかというと、
しかるべき時が来たのなら、
自分のすべてを投げ出して1の「来い」もしくは2の「来てください」と言う。
これができた時、僕はとてもほっとする。

自分の意志が自分で確認できた。
たとえ拒否されたとしても、この意志は相手に伝わっている。
それが何よりなことである。

でも、こうやってブログに書いてしまうと、僕がそういうことを考えて疑問形命令文を使っているということがバレてしまう。
つい、そんなことを考えてしまうのも自分を隠しておきたいということの現れである。

February 17, 2015

【081】安定はこのまま穏やかな下降線を描いて消えるように死ぬということなのに。

梅田の丸善ジュンク堂で手にとって迷って買わず、
その後天満橋のジュンク堂で買った。
タイトルを書いて、もう、そのままだなと思ったけれど、もう少し書いてみる。

いまや、誰もが安定を望んでいる。そして、誰もが一花咲かせようとしている。しかしそれは両立し得ない。ただ生きているだけで生き物は死へ歩んでいる。安定はその過程の滑らかさに過ぎない。

次の一瞬に何が起こるかわからないということと明日もまた同じ一日がやってくるということが同時に平行して起こっていて、一瞬ごとに可能性は後悔と引き換えられていく。

この忌まわしき円環からの離脱は、どうしようもない絶望という虚無への到達からしか、突如起こる。このように。

僕達の文体は安定を求めていて、猫が邪魔した。このように。

保坂和志氏、大絶賛と書かれた帯が恨めしい。
いったいいつになったら始まるというのか。

『アルタッドに捧ぐ』金子薫を読みながら、


February 16, 2015

【080】ファシリテーターの居ない場。

猫の集会はどのように成立するのか。
このブログにはけんちゃんぱーちゃんのブログからやってくる人が多い。
それぞれのブログに僕の記事が引用されていて、そこから来てくれる人が多い。
もちろん僕の記事でもみんなのブログを引用しているのでそこへ行く人も多い。

この複数のブログのある一つのまとまりのようなものの大きな特徴として、
誰もファシリテートしていないことがある。
そこにいる人すべてが同じ立場としてある。

誰も預からず、支えず、判じない。

それぞれが自分の思うことを書く、
それについて勝手に勝ったと思ったり負けたと思ったりする。

講読ゼミ持ち寄り食会でも同じことが起こる。

僕はただ、こういう場が好きだ。

February 15, 2015

【079】「もうそこまで春が来ています」という言葉のリアリズム。

庭のもうすぐふきのとう。
庭は注意深く見る。
もうそこまで春が来ています。

使い古されていてもはや恥ずかしくて誰も口には出さない、そんな言葉。でもこれを書いてある通り、そのまま読んでみる。

「もう」

気がついた時にはすでに、取り消すことができない確かな事実として、

「そこまで」

背後、あるいは、家の前の小路を出て少し大きな道に出て、少し歩いた、角を曲がったあたり、見ようと思ってもすぐには見えないし、物音が聞こえるという距離でもないところに、

「春が」

あたたかとあざやかとさわやかを混ぜ込んだ空気の塊が、自分の周り一面を包むあの匂いが、

「来て」

自らの意思を持ち、こちらを目指して、

「います」

この場所そのものに、疑いなく、静かで確固たる断言。

この断言ができる確信を持つ者は、春自身でしかない。

February 14, 2015

【078】「お茶の間」と茶の間。テレビ論。

床の間の痕跡。
ここに軸をかけていたこともあった。
昨日の「テレビを「持たない人」のダイアログサークル」は面白かった。その勢いで、テレビにまつわることをまとめておこう。

テレビというものが僕の生活から無くなって、かなりの時間が経つ。いったん無くなったテレビを、「無い」というところから再構築してみたら、実はなかなか面白いものだと改めて思う。なお、この「無い」というところからの再構築は、ぱーちゃんの言う「触り直し」と同義である。

「お茶の間」という言葉があって、現代の用法ではほぼ「テレビを見ている家族の居る空間」という意味で使われる。

リビングルーム、居間、といった程度の意味であっただろうこの言葉を、テレビの制作者が、テレビを見ている視聴者の状況をやんわりとしかし、かなり固定的に規定しなおした言葉だと思う。「ただ居る間」ではなく「テレビを見ている複数の人が居る間」と。

この「お茶の間」に向けてテレビの制作者は、何かを送り込む。蛇口をひねれば水が出てくる水道のように、テレビをつけるとそこから何かが出てくる。テレビもインフラの一種で圧力を伴って何かが送り込まれるパイプである。

水道が水という均質なものを送り込むのと比較して、テレビは非均質で得体のしれないものを「でろんでろん」と送り込んでくる。水道が均質ゆえに信頼を与えるように、テレビは非均質ゆえに期待を与える。

そもそものお茶の間は、おそらくその名の通り、茶の間、茶道の茶室だろう。

茶道の茶の間(茶室)という認識は、主人と客によって共通する「茶の間」のイメージによって成立している。

このイメージを成立させるための物質的存在、つまり「形(かたち)」として、茶室や茶道全体で使用される道具とそれらが使われるある様式がある。

形があれば、即座にそれだけによって茶の間が出現するかというと、そうではなくて、その形によって共有される主客の人の中の、あくまでもイメージが「茶の間」であって、このイメージが無い状態の形は、ただのそういう物と様式ということになる。

テレビは、この茶室でいうところのもろもろの道具や様式という形を一手に引き受けた。「お茶の間」を成立させるための圧倒的な形である。茶室で言う掛け軸がわかりやすい喩えになるけれど、それだけにとどまらず、ありとあらゆる「お茶の間」の作法を自然発生的に生じさせる道具と様式である。

不均質な何かが次々と送り込まれてくることに対して、気を取られ、共感し、反感を持ち、批判する、つまり、ノリ、ソリ、ツッコミを入れるという作法を共有する場として「お茶の間」は発生する。イメージとしての「お茶の間」までもを共感的強制的に発生させることができる装置としてテレビは機能する。

「お茶の間」が、茶の間と異なり、強制力を発生させる源は、テレビというものがインフラであることに由来する。外部と接続し、外部から送り込まれてくる。この時「お茶の間」では、茶の間と異なり、主(あるじ)が仮想的にテレビの向こう側に移っている/映っていることになる。

このことは、主が居ないことでフラットな場を出現させることにもなる。このフラットさが、そこに居る者同士の緊張と対立を回避する役割を持つ。「お茶の間」が「団欒」の場であるのはそのためだろう。

街頭テレビがあることで、そこに集まる人が互いの緊張と対立を回避しつつ、同じ場を共有できるのも同じ原理が働いている。

同じ原理を持つものに、川の流れ、焚き火の炎、体の周りを吹き抜ける風などがある。そういう「流れているもの」がある場では、他者と対立と緊張を回避しつつ居ることがしやすい。

テレビはくだらないとも思うけれど、同時にテレビはそれが成立するだけの根源的な原理に根ざしてもいる。他者との対立と緊張の回避が強く求められている限りはテレビは死なないし、死んだと思っても形を変えて蘇る。

そしてもし、他者というのが現在の瞬間の自己以外であると気づいてしまうと、つまり過去と未来の自己をも他者に含まれてしまうのだとすれば、この対立と緊張は容易に回避できない。その時、対立と緊張の回避策としての自己の一時的喪失を欲求するとすれば、facebookやtwitterは、とても「居やすく」「癒やす」装置となる。

【077】無いの読み方と言葉の仕組み。

iPhoneを机に置いたまま撮った写真。
写っているものは無い。
僕の生きる目的は無い。

と書いてあると、この人はもうすぐ死ぬんだろうなという予感が現れるけれど、無いを名詞として読むと、

僕の生きる目的は「無い」。

あらゆる存在を目的とした人よりも遠くへ向かう強い意志が生じる。

もちろん同時に「目的の欠損」という前者の読み方も可能だから、読む人の中に「僕」の強さと破滅が併存することになる。

前者の読み方は、例えば「愛」「自由」といった読む人自身やその人が知ったり想像したりする「生きる目的」を想起し、それらの欠損として読んでいる。

後者の読み方は、「僕」「生きる」「目的」「無い」という4つの書かれている言葉をそのままイメージにし、それ以外の何かを想起していない。

この、言葉による想起は、その人のその言葉に対するこれまでの経験から生じる。そのため、それらのこれまでの経験によって、その言葉の周囲に隣接して存在する経験のイメージが自動的に立ち上がってしまうため、言葉をそのまま受け取ることを難しくしている。

しかしあるいはしかも、この隣接イメージの想起こそが、言葉というものの持つ豊かさの源泉であって、その隣接=ネットワークのズレや組み換えによって生じるイメージの現れ方も言葉というものがもつ仕組みとして組み込まれている。

February 12, 2015

【076】カードケースを財布にしている。名刺入れからの更新。

緑色のカードケースを父親の遺品から発見して、
財布を更新した。
以前「名刺入れを財布にしている」と書いたけれど、最近カードケースに変えてさらに薄型軽量になった。

入れているものは、
・免許証
・クレジットカード
・交通系ICカード(ICOCA)
・4つに折った千円札2枚

ここに、電車にのるときは回数券をパートナーの澪と共有しているストックから必要枚数(大体は往復2枚)をとってきて入れている場合もある。

以前の記事で入れていたキャッシュカードは入れないことにした。
口座からお金を引き出すようなことはほとんどないし、必要な時にだけ持ち出せばいい。

こうやって軽量化すると財布としての使い勝手が良くなる、かというと、まぁ、たしかにかさばる感じは名刺入れの時よりもさらになくなって良いと思う。思うのだけど、それ以上に、ここまで来るともう財布という機能の存在理由みたいなものがよくわからなくなってくる。カード3枚とお札2枚、そのまま裸で持ち歩いてもいいんじゃないかと思えてくる。

だから、これで財布は解決した、という感じではなくて、名刺入れの時よりもそういう意味での落ち着かなさは上がっている。そのうちまた変化するかもしれない。

追記:
結局、クリップになりました。
【099】財布はクリップでいい。保険としてのお金。

February 11, 2015

【075】呪われた空き地。公開空地が見る夢は。

制度によって生かされた空き地。
キョンシーのお札ようにプレートが打ち付けられる。
原始、ただ地があった。
やがて、家が建ち、街ができた。
地は覆われ、都市となった。

都市は再生を繰り返し、
その隙間に小さな空き地が生まれた。

空き地は何も無い。
他の場所には入れない人が入れる。
他の場所ではできないことができる。
原始の地の荒々しい力を受け継いでいる。



その制御されない力を都市の人々は恐れた。
空き地を檻に閉じ込めることにした。
野生の動物を檻に閉じ込めるように。


閉じ込められた空き地は、
フェンスの隙間から覗く人々に吠えかけた。
閉じ込められているのはどっちか。


その逆らい難い声を都市の人々は恐れた。
空き地を飼い慣らすことにした。
野生の動物を飼い慣らすように。


飼い慣らされた空き地は、
公開空地と呼ばれた。
牙を抜かれ、飾りを付けられた。
プレートを貼られ、呪いをかけられた。
生きているのか死んでいるのかわからない。


それでも空き地は、
都市の真ん中で密かに息を殺してその日を待っている。


炉心や爆心の周りに生じた荒々しい空き地たちのように、
再び原始の地に帰る日を。

【074】「僕の靴」を修理に出そう。

作った時にシューキーパーを勧められたけど、
結局買わなくて、履きじわがついてしまった。
2年ほど前に東山の靴工房ハンザワでオーダーして作った革靴の底がすり減ってきたのでそろそろ修理に出そうと思う。

オーダーして作ったのも初めてで、靴を修理に出すのも初めてだから、どれぐらいすり減ってきたら修理に出せば良いのかわからないまま履き続けていたけれど、かかとのところを打ち付けている釘の頭が見えてきたので、これはどうみても修理だろうと思う。

このタイミングでは遅すぎる、と言われてしまうかもしれない。もっと早く持ってきていたら安く直せたのにと言われるかもしれない。そもそも、修理代がどれぐらいになるかもわからない。

でも、こういう不安は一度で済む。一度やればもう大丈夫。確かなことがまたひとつ増える。


そういえば、最初オーダーするときに、靴は2足作って、交互に履くと長持ちすると言われて、その時はそのうちもう一足つくろうと思っていたけれど、結局、2足目は作らなかった。お金の問題というのもあるけれど、それ以上に「僕の靴」というものが2つあるというのがなんともうまくなじまない気がしている。この靴がとてもぴったりと馴染んでいて、僕にとっての靴は、世界にこの一足しかないという感じがする。もし、ボロボロになって修理もできなくなったら、その時に新しい靴をつくろうと思う。

長持ちするかどうかは、作った時にはとても気にしていたことだけど、今はそれほど意識しない。

さて、ひとつ残る問題。修理中に履く靴をどうしよう。一応スニーカーがあるけど、足にあっているとは言いがたく、歩きにくい。しばらく我慢か。

<追記>
修理に出して帰ってきた。
【084】靴を修理して、これでまた歩いていける。

February 10, 2015

【073】自宅に職人がいる心地よさ

職人は身についた自身の所作の中に居る。
考えない美。
リュック屋をはじめたので、自宅がリュック工房になって、リュック職人がせっせと作業している。

職人の作業には迷いがなく、ひと繋がりになっていて、小気味よいリズムがある。所作が安定していて、道具が適切に使われている。

それは、川の流れを見ている時、焚き火の炎を見ている時、初夏の風に吹かれている時にも似ている。

考え事をやめることが難しい僕にとって、それらは考え事を穏やかにスローダウンさせてくれる。僕の存在とは無関係に確かなものが流れてゆく。心地よい。

February 9, 2015

【072】渾身の力で「何も言うことがありません」と受ける。

「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのでないのか?」
ハイデッガー『形而上学入門』は、僕の知る中で一番「無い」について言葉を重ねている本。
先日、一泊二日の集まりに行った。一泊二日ずっと話し続けていた、と書くと、声をからしてしゃべる続けているようにも読めるけど、そうではなくて、豊かな無言の海に時々風が吹いて波が立つように話が現れていたから、ずっと黙っていて時々話したという方が近いかもしれない。

二日間、僕もずっと黙っていて時々話した。

二日目に、ある人が「きくこと」の話をしていた。それはその前の僕の言葉に対する返しだったから、その人は僕のことをじっと見ながら話していた。僕を見ていたけれど、話自体は場に置かれたものだった。それでも、僕はなぜか僕に対して言っているようにきこえてきていた。しかも、今まさに僕がきいているという、その「きいている僕」について話しているようにきこえていた。

僕は、その話のあいだずっと、ピリピリとした圧力を感じ続けていた。

圧力を感じ続けているから、何かを返そうと思うのだけど、何も言うことがなかった。こういう時、これまではただ黙ってその圧力が弱まるのを待っていた。そして、あとから「あの時の」と話を戻したりすることが多かった。

今回も、何しろ今言うことが無いのだから、言うことが現れるまで待っていてもよかったのだけど、なぜか何かを今言葉にしないとという気持ちがあった。それはたぶん、今まさに僕がきいているということそのものについての話だから、今どのようにきいたのかを今返さないといけないような気がしていた。結局、しばらく無言が続いたあとに僕が話した言葉は、

「何も言うことがありません」

だった。僕がその二日間でもっとも力を込めて話した言葉だった。この、意味をなさない言葉を話せたことで僕にはただ、なんとか受け切った、という感じが残っている。

奇しくもこの集まりはそもそも「在ると無い」について話すものだった。「無い」を認めることで、「無い」は僕を最も強く支えてくれる。「無い」は僕の力の源泉なのだと感じた。

February 6, 2015

【071】無いが足りなくなっていた。

畳が柔らかく座布団もいらない。
家賃を払いに東山のアパートへ行った。13時半頃ついたが大家さんは留守だった。とたんにやることがなくなって、とりあえず部屋に入った。

京阪三条駅から歩いてきた分で体が温まっていたから、ストーブはつけない。お湯を沸かして飲む。窓から斜めに陽が入っている。それがあたっている、入り口から見て右の壁にもたれかかる。外の音が聞こえたり隣の隣の人の音が聞こえたりする。

しばらくしてノートを開いてペンで書き始める。部屋の中にあるものはお湯を入れたマグカップを置いた丸いお盆。

他は無い。
やることは無い。

無いがたぷたぷと満ちた部屋にとっぷりと浸かる。と書くと、無いというのが水のような手触りを持つけれど、本当はそんな手触りもなくただ、濃密に在る、いや無い。

しばらくすると自分にも無いが流れこんでくる。自分が無いでいっぱいになる。自分が無い。

気が付くと2時間経っていて、もう無いで満たし終えて、これ以上無いが入らない。

帰ることにしてもう一度大家さんを訪ねたら戻ってきていて家賃を払う。

しばらくきてはらへんかったね、と言われる。
ちょっと忙しくて、と答える。
いやいや。ええんやけど、と言われる。

事務所という目的で借りているのに仕事が忙しくて来られない。来られないことをなぜか申し訳なく思っている。

無いが減ってきた時、この空っぽの部屋に来ればまた、無いで満たされる。

February 5, 2015

【070】せっかく穿き続けて穴が開いたのに、穴が空いたぐらいで捨てるのは納得がいかない。

実はこのワークショップを始めてから、
ジーパンを穿くようになった。40過ぎてからのジーンズ。
ジーンズ・刺し子・ワークショップというのをやっている。2年以上やってきたけれど、今一度、なぜやっているのかを言葉にしてみようと思う。

毎日毎日気に入って穿いているジーパン。そうやって毎日穿くという行為の目に見える成果として、色が落ちたり、生地が薄くなっていったりする。さらに穿き続けることで、やがて穴が空く。

つまり、ジーパンの穴は僕にとって、ジーパンへのものすごく大きな愛着や日々の濃密な関わりに対するご褒美のようなものとしてある。だから僕にとっては穴が空くのはうれしい出来事なのだ。

それなのに、全く同じ現象によって、つまり「穴が空いた」ということによって、そのジーパンが穿けなくなってしまう。そんなの全くもって理不尽なことだ。

穴が空くほど穿けるのはうれしい。
その穴をつくろえるのもうれしい。

だからわざわざ派手な色の糸を使って目立たせるのがいい。
こんなに気に入っているということが見えるように。

February 4, 2015

【069】僕にとっての寄付はいったん「落シ」て無主になる過程を含んでいる。

使わなくなった物を家の前に「落ス」と神のもの(無主物)になって、
それを誰かが神からの授かりものとして拾う。
クラウドファンディングのREADYFORで以前「寄付」したあるプロジェクトから全額返還するというお知らせがきた。

比較的大きなプロジェクトで、あと数時間で数百万円を集めないと、というような状況から一気に目標額を突破してとても興奮した記憶がある。しかし、その後すっかり忘れていて、今回返金のメールが来てちょっと考えた。

返金に至った理由などはメールにきちんと書かれていて、それに対しては異議はない。プロジェクト自体がとても大きなもので、今回の資金調達はその第一歩にしか過ぎず、成立してもきっと大変な道のりだろうと思っていたし、でも、うまく行ったらいいなぁと思っていて、それは今でも全く変わらない。返金するべきかしないべきかという議論もする気がなくて、プロジェクトの代表の決断をそのまま支持する。

今回書くのは、だから、このプロジェクトに関してではなくて、「寄付」という行為についてだ。

と書いておいて、そもそものところを確認しておくと、READYFORは「寄付」を募るサイトではない。「インターネットを介して不特定多数の個人から資金(支援金)を集めるサービス」である。

だからこれから書く「寄付」に関することとREADYFORはあまり関連がなくて、単に考えるきっかけにすぎないのだけれど、全く関連がないというわけでもない。

それで寄付について。

僕にとって寄付というのは寄付した瞬間に完結する。

「少しでも力になりたいと思わせてくれる」という心の動き、それに対してお金を出しているのだから、その時点で僕の気持ちの中ではすでに「対価的なもの」は受け取っている、という認識である。

だから、寄付のあと、繰り返しお礼されたり、その後の報告をされたりというのは、僕にとっての寄付という行為には含まれていない。

寄付をされた側がお礼や報告をすることがおかしいというのではなくて、そうしたければすればいいのだけれど、僕にはそれは「次の(再)寄付への活動」という感じがする。すくなくとも僕の側に、お礼はもちろん、報告を請求する権利のようなものはない。

こう書くとある種の「潔さ」と見えるけれど、裏を返せば、自分が寄付した活動がその後どうなったのかに関心を持たないわけで、これは褒められた行為ではないという「主張」も成り立つ。

団体はお礼をすべき、報告すべきで、寄付者はその後も団体や活動に気にかけておくべき、という主張と、僕の「寄付は寄付した瞬間に完結する」という感覚との違いはどこからくるのだろうか。

そのヒントは「落ス」という言葉にあった。

『ことばの文化史[中世1]』(網野善彦・笠松宏至・勝俣鎮夫・佐藤慎一編)によれば、中世の「落ス」の使われ方は現在と少しニュアンスが異なっている場合があるという。

「田畠・屋敷地・作毛など、本来的には「落ス」ことのできないものを没収・奪うなどの意味で一般的に使用している」[51]。

あるものの所有権が移る際に「奪取る」と「落取る」という2つの言葉が使い分けられており、「前者がAの所有からBの所有へ所有物を連続的に移動させるのに対し、後者は、その所有の移動の間にいったん落ちた状態のものにする過程がふくまれていた」[54]。

その「落ちた状態」とは何を意味するかといえば、「「落ス」の本質は、ある所有物を所有者の手から完全に切りはなし、神のもの、すなわち誰のものでもなくする、「落しもの」にすることにあった」[54]というのだ。

僕が寄付の際に感じるのは、この「落ス」そのものだ。

いったん無主にする行為が間にあるために、それを「拾った」側との関係がすでに「切れている」感覚がある。だから、今回のREADYFORのプロジェクトに関しても、それを「拾った」側に関与したいという気持ちはわかない。

最初に書いたように、僕は出資したのではなく、「寄付」したつもりでいる。

自分のお金を「神のもの」とすべく「落シ」たいという欲求は、あくまでも対象である団体や活動が僕に訴えかけてくるからだけど、だからといって、その団体や活動の出資者(株主)としての責任や強い関係性を持ちたいというわけではない時に、この神の領域を使ったお金の移動はうまいやり方だと思う。

「落ス」ことで、いったん神のものにするというこの了解は、捨て子・拾い子の風習にもつながっている。子どもを育てることができない親が、その親の悪条件が子に移らないように「自分の子であるという関係をいったん「落ス」ことによって切り、拾うことによって新しく神から授かったものにする」[56]のだ。

僕は僕の発する言葉にもどこかこの「落ス」感覚があり、それは無責任とも言えなくはないけれど、直接相手に対していう言葉でなく、場に対して、ひいては世界全てに対して発する言葉は、それを誰かが拾うまでは無主のものという気がしている。

この文章もそんな風に落としてみる。

February 2, 2015

【068】もうこれは小説が誕生している。

保坂和志の小説論3部作はそれ自体が小説である。
ぱーちゃんのブログ、いや、これはもうブログじゃなくて小説、少なくとも小説が誕生しようとしている。

ここでいう小説は保坂和志の「私にとって小説とは「読む」もの「書く」ものであると同時に「考える」ものだ。私は読んだり書いたりする以上に、小説について考えることに時間を使っている」という時の小説で、「“産む能(あた)う”=“(イメージ・情景・出来事・・・・・・etc.を)産出する能力”」という能産性があるものだ。(『小説の自由』の「まえがき」と「文庫版まえがき」より)

こういうのが書きたかったんだよなあと思わされるということは、すなわち、僕にはそれを書く能力がなかったということだ。これでまた一つ僕の辿りつけない場所が見えた。生きていくということは、可能性という霧が晴れて絶望の地図が出来上がっていくことでもある。心地良い。