June 29, 2022

【839】好きとはどういうことか。表現研究会を始めるにあたって。

 自分の好きな作家や作品について、自分なりの好きな点を発表する「表現研究会」というものを始めようと思います。

 その始まりにあたって考えたのが「好きとはどういうことか」です。おそらくこれも研究会をやっていく中で変わっていくと思うのですが、現時点でできるだけ言葉にしておこうと思います。

辞書的には、
 
すき【好き】
1 心がひかれること。気に入ること。また、そのさま。「好きな人」「好きな道に進む」⇔嫌い。
(デジタル大辞泉)

 こんな感じですが、例によって、辞書でその言葉の「意味」に迫ろうとすると無限連鎖に陥ります。「心がひかれる」とはどういうことか、「気に入る」とはどういうことか、「心」とはどういうことか、「気」とはどういうことか・・・。それぞれの項目を辞書で調べれば、そこにまた新たな未知なる言葉が現れていきます。

 なので、辞書に頼るという方法はとりあえず置いておいて、アプローチ方法そのものを考えます。

 まず思いつくのが「ある種の状態があって、その状態になることが「好き」ということ」という方向で説明できるかどうかを考えます。

 例えば「風邪」という病気は、「熱がある」「喉が痛い」「鼻水が出る」「咳が出る」「体がだるい」などの状態になれば、それは「風邪だ」ということが言えます。何らかの普遍的な基準があって、その基準に適合すれば「好き」ということになるという説明のアプローチです。これは可能でしょうか。

 僕の直感ではこの方向はかなり難しそうです。「身の毛もよだつ残虐シーン満載のバイオレンス映画」を好きな人もいますし、「心ときめく、甘く切ないラブストーリー」が退屈でしかない人もいます。「好き」の要素を誰しもが当てはまるような普遍的な基準で示すことはできそうに思えません。

 少なくとも「どのようなことを好きと言っているのか」は個人的な気がします。

 では、それぞれの個人に「自分なりの好きの基準」があって、その基準に適合すれば「好き」だと言えるのでしょうか。

 実は、これも僕は難しい気がします。

 僕は寿司と保坂和志の「カンバセーションピース」と夜の散歩が好きですが、これらの「好き」から共通の要素を見つけ出すのは難しい気がしています。そんなに「僕というもの」は安定していないというか、確たるものだという自覚がありません。「好き」という言葉自体が、基準化以前の状態にあるという感じです。

 「好き」ということに対して僕はもっと、それが自分にとってたった一つだと言いたくなるような、かけがえのなさを感じるのです。

 もう少しわかりやすく言えば、「寿司が好き」「保坂和志『カンバセーションピース』が好き」「夜の散歩が好き」というそれぞれの「好き」は、僕とその対象との結びついた状態がそれぞれあって、それらは別の状況だという感じがしています。

 しかし、これだけでは、なぜ別々の状況を「好き」という一つの言葉で意味しうるのかが説明できません。ただ、少なくとも今言えることとしては、個別で具体的な「僕がそれを好き」という事象から始まり、それが「好き」というなにかに、普遍的に抽出されていくという順序で説明したほうが、通りやすい気がしています。

 というわけで、ともかく個別具体的な作品・作家について、自分なりの好きな点を発表してみるという表現研究会の企画に結びつきます。

 表現研究会を進めていくことで、なにかが変わるような気がします。興味を持たれた方は大谷(marunekodo@gmail.com)までお問い合わせください。


June 12, 2022

【838】アラタの絵本づくり。第一作「ハイカン寺」。

 アラタが絵本を作りたいと言う。

 任せろ。こう見えても本職の編集者だ。

 というわけで、第一作は「ハイカン寺」。適当に家にあった紙を使って、製本も思いっきり簡易なので、絵本と言うよりは大学のレポートになってしまった。けれど、楽しかった。表紙+本文17ページ。

 「ハイカン寺」というのは、アラタの空想上のお寺で、奈良にあるけど六地蔵からバスで行くらしい。いつもこのお寺の話をする。イマジナリーフレンドならぬイマジナリーテンプル。



 本人も気に入ったようで、保育園の友達の家にまで持っていって、無理やり読ませたりしている。
 次回作への意欲もあるので、次はもう少し紙や製本を検討します。

June 11, 2022

【837】山本明日香、ピアノ・ミニレクチャーコンサートやります。6月19日。

 レクチャーコンサートというのは、演奏者がレクチャー(解説)もして、演奏もするコンサートです。僕はこれがとても面白いと思っていて、どう面白いのかを書いてみることにします。

 僕にとってレクチャーコンサートの良いところは、音楽というものが、実は、聴こえてくることと聴くこととのかなり複雑な重なりというか絡まりだというふうに実感できるところだと思っています。そのような状況として、音楽と僕とが共にいることができるようになる感じがあります。

 音楽というものが、受動的でも能動的でもある、自分に起こる出来事になるという感じです。

 こんなことは、ひょっとすると音楽家や音楽が好きな人にとっては当たり前のことかもしれません。あるいは、全く見当外れかもしれません。でも、いずれにせよ、僕にとってはそれがなにか特別な体験として、レクチャーコンサートでは起こります。それが素敵です。

 6月19日はショパン「雨だれ」を中心に。今からとても楽しみです。


日程

2022年6月19日(日)11:00~11:45

参加費

投げ銭

申込

不要。直接会場までお越しください。

場所

まるネコ堂別館(本館に隣接)
京都府宇治市五ヶ庄広岡谷2-163

問い合わせは、大谷まで。
marunekodo@gmail.com


June 10, 2022

【836】第3回まるネコ堂芸術祭、出展者募集、開始しました。

 まるネコ堂芸術祭は、京都府宇治市の、普通の一軒家(とオンライン)を会場とした芸術祭です。2020年のゴールデン・ウィークに「第0回」をオンラインで実施し、その後も回数を重ねて、2022年4月に第2回を開催しました。

 近所の方もいらっしゃれば、遠方からはるばる泊りがけで観に来てくださる方もいて、特に天候の良かった最終日はとても賑わいました。

 この芸術祭の特徴は、出展者を募ってから、約10ヶ月かけて、いくつかのプログラムを進めていきながら、他の出展者や実行委員と意見交換などをしつつ、作品づくりを進めていくことにあります。

 ぜひ、今はまだ、漠然として、うまくつかむことができない、あなたのなかの何かを、一緒に試行錯誤して、表現してみませんか。
 
 来年2023年の出展者募集を開始しました。出展申込みの締切は8月31日です。

June 9, 2022

【835】第2回の読書会も千葉雅也「現代思想入門」です。


 先日、初めての読書会をやりました。千葉雅也著『現代思想入門』について、みんなで話したのですが、思っていた以上に盛り上がってしまって、時間切れで終了となりました。

 ということで、同じ本で二回目をやることにしました。

 現代思想・哲学というものが、それぞれの内容はともかく、それ以前に「一般の人には難しいもので、それを読み解いた一部の専門家だけが語ることを許されているのだ」という、現代思想が置かれた状況そのものをひっくり返してしまおうというのが、著者の千葉雅也さんの「思想」なのかなとも思える本で、単なる「紹介本」に収まるものではない、とても力の入った本だと思います。

 読むとなにかが起こる、喋りたくなる、本だと思いますので、ぜひお読みいただき、読書会にもいらしてください。

まるネコ堂読書会
#2 千葉雅也「現代思想入門」その二

June 3, 2022

【834】気取らずに生きていきたいという言葉がすでに気取っていると感じる。

 タイトルから書き始めてみます。タイトルぐらいしかないのですが、こういう底が抜けた感じに僕は時々なります。なんでしょうね。

 言葉というものがすでに持ってしまっている「業(ごう)」のようなものなんでしょうか。さみしいです。

 「気取らず」って書いてあるんだから気取ってないんだよと思うのですが、そうはならないという、恋の駆け引きみたいなものです。

 なんでこんなことを書いているかといえば、たぶん、ちょうど今、来年の芸術祭向けのサイトづくりを進めているところで、表現や芸術ということそのものに思いを馳せているからだと思います。

 第1回や第0回のサイトを見返したりするのですが、どちらも冒頭に新型コロナウイルスによる変更についての但し書きがあります。その事情説明の短い文章を読むだけで、心動かされます。記録や記憶は意外なところに強く深く刻み込まれていると思います。作品や創作ってなんだろうと思うには十分なほど何かが揺さぶられてしまいます。

 ひょっとすると、芸術とか表現とかって気取ってやがる、と僕が思っていて、だからわざわざ「素直な芸術祭」と書いたのか。僕自身、芸術や表現や創作は、好きなことだし、やりたいことでもあるので、その分、勝手にこじらせていたりするのかもしれません。これについてはもうしばらく考えてみようと思います。また一つ、長い付き合いが始まったのかもしれない。

 ともあれ、楽しく面白くやります。やりたいんです。


追記:
まるネコ堂芸術祭のサイト

第3回(2023年春開催)に向けてリニューアルしました。
出展者募集も開始しています。上記サイトより御覧ください。

June 2, 2022

【833】ここから何処かへ行けるし、帰っても来るだろうハブ空港のような本。『現代思想入門』



 千葉雅也著『現代思想入門』。ようやく第五章まで読みました。このぐらいの新書なら、通常は二時間ほどで読み終えてしまうのですが、この本は驚異的に時間をかけることができています。もう三週間ぐらい読んでる。

 数ページ読むだけでたくさんのことに思い当たって、いろんなことを考えたり思い出したりする。新しい世界の広がりを感じたり、これまで思っていたのとは違うように世界が塗りかわったりする。ここからいろんなところへ行くことができ、いろんなところからここへ戻ってくることができる。

 そんな結節点の本。ハブ空港のような。ワクワクする。何度も読むことになりそうで嬉しい。何度も来ることで踏み固められていくだろう場所。こういう感じがとても好ましい。

 「この哲学者に興味を持ったなら、この本も良いよ」と紹介されている本がみんな魅力的に見えてくる。その中にはすでに読んだことがある本もある。でも、千葉さんは僕よりもっと面白く楽しくその本を読んだのだろうなという感じする。それなら、もう一度読み直してみようかと、こんなことが起こるのは、本当に素晴らしいこと。

 読むことが「消費」や「処理」ではなく、むしろ「創造」というか「増殖」というか、読むことで残りがさらに増えていく感じがとてもうれしい。ノートをとりながら読むのが楽しい。千葉さんはEvernoteユーザーだとなにかで読んだけれど、そういう感じもなんとなくわかる。いろんなことがつながったり、つなぎかえられたり、断ち切られたりする動的なノートの楽しさ。

 もういろいろあって、読書会が楽しみです。

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参加者募集中です。
#1 2022年6月4日土曜日 千葉雅也著『現代思想入門』

June 1, 2022

【832】本を読む前に面白いとわかる現象の説明。

 まるネコ堂ゼミでメルロ・ポンティの『知覚の現象学』を読んでいるのですが、面白いです。まだ第一部の半ばなのですが、この本を読んで、本好きならおそらく思い当たるであろう現象が少し説明できるのではないかと思ったので、やってみます。

 本屋さんで本棚を見ていると、著者もタイトルも初見にも関わらず、この本は絶対に面白いと思えることがあります。そして、その本を買って帰って読むと、必ず面白い。

 「本に呼ばれる」「本が自分から手の中に飛び込んでくる」「その本だけ浮かび上がって見える」といったような言われ方も聞いたことがあります。

 オカルトめいた話ですが、これを「知覚するとはそもそもどういうことか」について論じたメルロ・ポンティをヒントにすると、こんなふうに説明できるのではないかと思います。

 まず、オカルトめいて聞こえる理由を改めて記述します。

 該当する「その本」という対象に関する情報がタイトルと著者名しかない。強いて言えば、ブックデザイン、表紙デザインといったものも入れても良いかもしれませんが、いずれにせよ、極めて少ない情報から、本の内容を予め読み取っているかのように聞こえるからだと思います。

 しかし、実は、この状況そのものの捉え方自体に「見落とし」があります。

 現象としてもう少し詳しくこの状況を記述すると、

  1. その本屋にいる。
  2. その棚の前にいる。
  3. その棚の他の本が見える。

と、こうやってすでに該当本に辿り着く前に多くのものを得ています。例えば、

  1. その本屋がどのような品揃えの傾向なのかをある程度知っている。
  2. その棚がどのようなジャンルの棚か知っている。
  3. その棚に並んだ本のうちいくつかは読んだことがあるか、内容を知っている。

 こうして「その本」にたどり着きます。そして何らかの意識の契機によって、それまで漠然としていた本の並び、棚の配置などが「背景」となり、「その本」が「対象」となります。

 この「対象」と「背景」の構造自体をその時に「僕」が作り出します。

 言い換えれば、このときに「僕」に起こっている現象は、対象である「その本」に関する諸情報の入手だけではなく、その背景としての、店、棚、他の本などの多くの情報と、さらに僕自身の過去の読書歴とが交錯した大きな雲のような「本に関するネットワーク」のようなものがうごめいているものを含んだ、対象と背景を含んだ構造自体を作り出しているということになるからです。

 「見落とし」がちな点は「背景」というものそのものです。この背景は、対象である「その本」ほど意識的に見ているわけではなく、それこそ、絵の背景のように「目に入って」いるだけだったり、無意識的な探査を向けられる記憶でしかありません。そのため、背景は意識上には明瞭に捉えられていません。僕の意識はただ、「その本」がその他から区別された特別さを持って現れたかのように捉えます。意識や背景とは、そもそもそのようなものだからです。

 簡単に言えば、対象となる本のタイトルと著者名といった僅かな情報から内容を得ているわけではなく、実は、僕の読書歴、読書傾向や好みといった大きな意味での読書経験の大半とその本が置かれた店や棚の状況すべてから、その本を「僕が意識に切り出して」きています。たとえ僅かな情報であろうとも、それがその本屋のその棚のその並びにあることを顧みれば、十分に「僕にとっての面白さ」の判断が可能になるというわけです。

 これで、だいたい説明できる気がします。

 しかし、それでもまだ説明し足りない領域があって、それはもう少し原理的なものです。

 そもそも僕がどういうことを「面白い」と思うか、ということ自体の「可変性」のようなものを説明しなくてはいけないはずです。

 簡単にいえば、僕にとっての「その本の面白さ」というのは、「その本」を読む前の僕が完全に規定できるものではなく、「その本」を読むことで変化してしまった僕によって事後的に「面白かった」と振り返られるものであるような気がするからです。この辺はもう少しうまく書けるようになったら、書いてみたいと思います。

 いずれにしても、メルロ・ポンティの『知覚の現象学』の範疇のように僕は思っています。


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まるネコ堂ゼミ

現在、以下のゼミが進行中です。途中参加可能です。

・メルロ・ポンティ『知覚の現象学』

・スピノザ『エチカ』