January 30, 2021

【777】2021年1月29日の文章筋トレ。

 zoom2人、会場2人の4人で実施。10分と60分をやる。

初参加の方がなかなかチャレンジングに書いていて面白かった。

書くことは広い場所だ。そのなかからある特定の一点を「正しい場所」として指定しようとすると必然的に狭くなる。こういう広さと狭さの関係は、何かを漠然とイメージしようとしたり、何かを具体的に表現しようとしたり、あるいは生活の中でなにか新しいことに気づいていったりするようなときに、意味を持ってくる。常に、広く取ればいいというわけでもなく、常に狭く指定すればいいわけでもなく、「漠然と特定」の関係のなかで結構していく。

2月の文章筋トレは、

2月8日(月)午前9時半から12時半
2月13日(土)午前9時半から12時半
2月26日(金)午後1時半から4時半

初めての方もぜひ。

文章筋トレ


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■近々開催のまるネコ堂の催し
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●リクエスト開催:文章筋トレ 
「やってみたい」というリクエストによって日程を決めていきます。
★2月8日、13日、26日開催決定
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_26.html

●月一回(単発参加可能):『言語にとって美とはなにか』ゼミ(全13回)
大谷美緒主催
https://marunekodosemi.blogspot.com/2020/07/34.html

●文章面談
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_20.html

●雑誌『言語』(5、6、7号、在庫僅か)
https://gengoweb.jimdofree.com/

January 24, 2021

【776】「受け身の学習」なるもの。

・受け身という言葉について。

・先生の話を生徒が黙って聞いているだけの授業を受け身だとする意見の人は、黙って本を読むだけの読書も受け身だと捉えているのだろうか。寿司屋で板前が握る寿司を黙って食べるだけの食事も受け身なのだろうか。

・先生の言うことを黙って聞いているというのが受け身であるかどうかは、生徒の中で何が起こっているかによる。「本を読む」ということが、本に書いてある情報を摂取することだったり、「食べ物を食べる」ことがカロリーの摂取だったりするように、先生が所持している知見を生徒が摂取するというのであれば、受け身ということになるのかもしれない。

・一方で、本を読むことは書かれた世界のなかで出来事を体験することなのだ、とか、食事をするというのも一つの全体的な体験なのだ、と捉える人であれば、ある分野について自分よりも多くの知識を持ち、それについて長い時間、多くのことを考え、思い、感じてきた人の話を聞くことで、聞き手に何かが生じ、一つの体験として体験できるという状況を想定することができるはずだ。

・僕にとって先生とはそのような事象を引き起こすことができる人で、その人の話をただ黙って聞くことは、文字通り勉強になる。学習というものや教育というものは本来そういうものだと思う。

・さて。「受け身の学習」と呼ばれるようなものは一体何なのだろうか?

・「何かでミスしてひどく怒られた。だからもうそれには触れないでおこう。」というような「学習」のイメージが浮かぶけれど、これを「教育」とするのであれば、受け身であるかどうか以前の思想の問題に思える。


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「やってみたい」というリクエストによって日程を決めていきます。
★1月29日、2月13日開催決定
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January 23, 2021

【775】そろそろ「エチカ」ゼミ。

 今日は「言語にとって美とはなにか」のゼミ3回目。毎回面白く読んでいるのだが、今回読んでみて思うのは、僕はとても深いレベルで吉本の影響を受けてしまっているということだ。何度も読んだ本だから、影響を受けているのは当然なのだけれど、自分でも気が付かないぐらいの深度に浸透している。

 吉本はこんなことを書いていたのか、と改めて思うことが多い。そして、それが、以前から僕自身が言葉にならないままで、あるいは拙い言葉でどうにか言っていたことを、それなのに、吉本がそのものずばり書いていた、というふうに見出していく。

 だから、いまだに「僕がずっと考えてきたことを吉本も考えたんだ!」などと単純に喜んでしまうのだけど、よく考えれば、吉本の影響下で考えたからそうなっているだけだ。いや、「だけ」ではないだろうけれど、もうそれぐらい読んでしまっているというのは事実だ。

 そろそろ吉本に食って掛かりたいがどうなるか。

 まあともかく、これはこれで、あと10回ぐらいゼミはあるけれど、楽しくやっていけそうだという目処のようなものは立ってきた。

 というタイミングで僕も次のゼミをやりたいなと思っていて、スピノザの「エチカ」だ。

スピノザの「エチカ」は「幾何学的な」アプローチというか「定義1、2・・・」「公理1、・・・」「証明」などと箇条書きにされているような文章で、とっつきが悪い。こういうのはゼミでやるのに良いと思う。

ということで、春分くらいから毎月少しずつの予定です。

日程詳細、これから検討しますので、興味のある方はご連絡ください。

▼関連エントリー
【766】「エチカ」をゆっくり進める。
【764】スピノザ「エチカ」に取り掛かる。



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January 21, 2021

【774】「イヤイヤ期」と呼ばれるもの。人間への挑戦。自然がやってくる。

・アラタへのイライラについて。

・パンが食べたいというのは、いい。玉子を食べたいというのも、いい。パンと玉子を載せる皿を運びたいというのも、注意を要するが、いい。ただ、その前に泥だらけの手を洗ってほしいだけなのだが、それをどうしてもやらない。絵本を読むのもいい。積み木をするのもお絵かきをするのもいい。散歩に行くのもいい。ただその前にパンツとズボンを履いてほしいだけなのだ。それをやろうとしない。全力で拒否する。それに対してイライラする。

・できないことを要求しているわけではない。「できなさ」という幼さ、稚拙さに対してのイライラはない。できないことをやろうとしている姿を見るのはむしろ喜ばしいぐらいだ。問題は、できるはずのことをやらないようにしている、少なくともそう見えるということだ。手を洗うのもパンツやズボンを履くのも、もうすでにできないことではない。これまでに何度となくできているのだ。それを「やらない」。それにイライラする。できるイメージがすでに僕にあって、そのイメージが意識的に実行されないことにイライラしている。できなかった時期は僕が濡れ布巾で手を拭っていたし、パンツもズボンも履かせていた。それに対していらつくことはなかった。

・手を洗うことやパンツやズボンを履くことは、人間にとって必要なことなのだろうか。少なくとも現代人にとっては必要だ。手を洗わなければ許容できないほどの高いリスクで感染症にかかり小児が死ぬ確率は上がる。パンツやズボンなどの衣服を身に付けなくても生きていけるような温暖な気候の範囲に、我が家はない。いずれにせよ、現代人として受け入れがたいレベルの可能性として、死ぬということだ。それが「手を洗う」ことや「パンツやズボン」を履くことの「現代人には必要」な意味となる。

・逆に言えば、「現代人として」「生きて」いかなければ、食事の前に手を洗わないことやパンツやズボンをはかないことを許容できることになる。しかし、それは、どの時代まで遡ることになるのか。そして、その結果、生存圏はどれほど限られるのだろうか。どれぐらい死ぬのか。

・アラタにとって未知なのは「手を洗うこと」ではない。もちろん「パンを食べること」でもない。それらに順序があるということだ。「パンを食べる」前に「手を洗う」という現代的な人間における順序がわからない。着衣もそうだ。逆に言えば、一連の手順としてすでに理解していること、例えば「コーヒー豆を挽いてコーヒーを淹れる」がそうで、これは大人から見ると比較的高度な理解力が必要そうに思えるものだが、意外にも、その過程の中でいくつか自分では難しい手順があるものの、全体的な順序はきっちりと従ってやることができる。一連の手続きが総合的に理解されているのだ。つまり、一連かどうか。それとこれとがどういう関係があり、どういう順序になるのか。そのわかりにくさに人間の文化的水準があると言えるかもしれない。

・手洗いや着衣といった具体的事象は我が家において生じた衝突であって、他の家庭ではこれではない現実的事象として生じる。しかし、ほぼ確実に言えるのは、どこへどれぐらい向かったところで、結局どこかで限界が来るということだ。親の寛容さの限界にぶつかるまで子は突き進むだけだ。それがどこであれ。この事態は、そういう意味である一定の普遍性を持っている。「イヤイヤ期」と呼ばれる程度には。

・子育てから離れて見ればこの種の人間的規範はいくらでもある。「車が走っている道に走り出てはいけない」「産卵期の毒蛇にいたずらしてはいけない」「地震があったらすぐに海から離れなくてはならない」。こういったことも、ある場所、ある時代における人為的文化的人間的規範であって、守られなければ、許容できないレベルで人間集団の致死率が上がる。そういった集団的生物である人間として共有する普遍性のことだ。こういう規範を「守らない」ということが引き起こしうる摩擦にも拡大できる話かもしれない。が、ここでは広げない。

・さて。

・僕が子育ての途上で感じているイライラはおそらくこういうことだ。僕が、少なくとも人間であるということを前提として生きていることそのものに、起因している。ここで言う「人間」は、僕がそう捉えるということにおいての「人間」である。この「人間」は当然のことながら「現代性」を持っている。簡単に言えば「現代人」ということだ。その僕が「人間」だと思っている「現代人」の「現代性」に対峙しているのは、究極的には「自然」だろう。

・幼児から見れば「自然」の側から、親が知らず識らずに抱えている「現代において人間であること」、つまり「現代的な人工・人為」に対峙している。なんで食べたいものを食べるのに水道の蛇口をひねって手を洗わなくてはならないような文化的規範を維持しなくては生存できないのか。なんでパンツやズボンを身に着けないと生きていけないような気候域にそもそも棲息しているのか。なんで車なんてものが走っているのか。

・この二分法的対立が双方のイライラを誘発している。

・僕は今、自分でも意識しなかった、意識しなくても良くなっていた、前提レベルの「人間」「人為」「人工」の上に立って、「自然」と闘っている。僕の子供は今、当然のごとく生まれ持った意識する以前の「自然」を前提にして、「人間」と闘っている。

・この闘いはそれほど遠くない将来、決着がつく。悲しいかな、自然が打ち負かされる。すでに絵本を読んでいる。すでに言葉を使って親と話をしている。すでにおしっこを失敗したら悔しい。すでに親がするような「難しい」ことを真似してやってみることに喜びを見出している。すでに人間として生きることに楽しさや面白さを味わっている。すでにすでに。そうして、人間が一人増える。自然から移ってくる。

・「自然に帰る」というのは、「自然」というのが人間を取り巻く「環境」としてあるのではなく、人間というものそのものが「不自然である」のだが、その人間が変化することで「自然に帰る」ことができたとするなら、そのときそれはもはや人間ではなく「自然である」、死もその一つだ、ということなのだろうな、ルソーよ。

January 18, 2021

【773】習慣というものの悪さ。

 習慣というものは一般に良いものとされている。運動の習慣。勉強の習慣。歯磨きの習慣。

 そういう習慣の良さはよくわかるけれど、習慣というものによって損なわれていくもの、いわば習慣の「悪さ」があるようにも思う。

 これは例えば飲酒の習慣や喫煙の習慣といったような、その習慣の内容によって決まる「悪さ」のことではなく、内容的に良いとされている習慣であっても必ず生じている、習慣というものそのものが内包している「悪さ」のことだ。習慣というものの本質が「悪く」作用している面とでも言えばいいだろうか。

 なかなか名指しすることが難しいので、同じ言葉の繰り返しになってしまうのだけれど、習慣にすることによって損なわれている何かがあるように僕にはどうしても思えるのだ。

 文章を書くことを「習慣でやっている」人の文章と、文章を書くことを「習慣としてはやっていない」人の書く文章とで、何かが違っているようにも思える。これは文章を書く量の問題ではなく、書くということそのものの本質的な問題のように思う。

 もちろんこれは文章に限らない。料理にしろ、絵にしろ、人付き合いにしろ、商売にしろ、そうだ。

 たぶん僕が言っている習慣の「悪さ」というのは、一般に習慣の「良さ」と言われているものと同じもので、その反対面のようなものだろう。習慣化することによって何かを得るというプロセスで同時に何かが失われているというイメージでもある。

 ヘーゲルはそれを自己疎外と呼んだ、ということが、今年読もうと思っているヘーゲルの『美学講義』には書いてあるのだろうか。


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January 13, 2021

【772】雑誌「言語」の在庫。

決算のために棚卸しをしているのですが、雑誌「言語」の比較的新しい号の在庫が少なくなっています。

特に5号、6号、7号を読みたいという方はお求めお忘れなく。

雑誌「言語」販売サイト


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January 6, 2021

【771】2021年1月6日の文章筋トレ。

今年はじめての文章筋トレ。常連3人で開催。10分と60分をやる。

あるかなと思って探すとカエルさんの60分文章と感想があった。文章、短いと言えば短いが感想はいっぱい話した。

今回からリクエスト開催というやり方に変えてみている。やりたいという人があればその人と日程を決めて一般に告知して開催する。どうなるか。

今月はもう一回、29日金曜日に開催予定です。興味があって予定の合う方、ぜひお待ちしています。興味があるけど予定が合わない方は、ぜひリクエストをください。日程相談して開催します。大谷(marunekodo@gmail.com)までお気軽にどうぞ。zoomでもできます。

文章筋トレ


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●リクエスト開催:文章筋トレ
「やってみたい」というリクエストによって日程を決めていきます。
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大谷美緒主催
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