October 25, 2019

【催し】山本明日香レクチャーコンサート第4回「ハイドン」

去年の12月からほぼ3ヶ月ごとにやっているレクチャーコンサート。4回目です。ちょうど一年。

レクチャーコンサートはあまり見かけない形式なので、通常のコンサートと比べると、レクチャーがくっついている、ちょっと余興的な、おまけ的なイメージを持つかもしれませんが、そうではありません。

演奏家が自身の演奏する楽曲を他人に伝わるようなレベルまで言葉として抽象して語るのは、余興や余技などといった中心からズレた周辺領域ではなく、ど真ん中のことです。

というようなことを明日香本人でもないのに断言してしまうのはなかなか勇気がいるのですが、それでもそうです。

同じようなことをレクチャーコンサートを初めた当初に僕は、「この企画は、明日香の本領でやっている」というような言い方をしました。ど真ん中、本領は、とても深度があって高圧で高密度です。長い時間かかって造成された場所です。指一本動かすにもとてもエネルギーが必要で、そんな場所では何事もゆっくりとしか進んでいきません。

そういう場所で、明日香はこの一年、レクチャーコンサートとしてお金を取って人に見てもらうということをきっちり続けてきて、4回目なのです。ほんとにすごいことだと思います。

先日、明日香の練習風景を見学しました。ちょうど次回のハイドンの曲をやっていました。真剣にピアノに向かっている明日香は普段知っている明日香とはちょっと違っていました。一時間ほど僕はそのそばで聴いていただけですが、僕も自分の何かを、自分の真ん中の、自分の本領で、何かをやっていきたいと思いました。

2時間かけてたった1曲だけやるレクチャーコンサートです。
ぜひおいでください。

11月24日(日)14時から16時です。

【催し】山本明日香レクチャー・コンサート(定期開催)


【598】得意不得意を脱する。

得意か不得意かという分類は比較のなかにある。比較に晒されているのは、ある行為の成果であったり、作品であったりする。どういう状況を得意と言い表すのかを考えれば、「うまくできる」という感覚があるときで、そこで言う「うまく」というのは、多くの他者集団の中での偏差を示している。

自分の独自な状況において、得意不得意はどれほど問題になるのだろうか。自分しか知らないことにおいて得意か不得意かはどうやって判定するのだろうか。

「得意なことしかしない」「不得意なことにも挑戦しなければならない」と言った言説が予め組み込んでいるのは、或る比較基準の存在であり、その基準への依存である。そういう予め存在する基準からどのように離脱するのかが僕にとっての問題だ。

もう一度いうけれど「得意だからする」も「不得意だからする」も同じように、予め存在する基準線に対して向かった意識でしかない。何かをするときにそういう方向ではない意識でやることはできるのだろうか。できると僕は思っている。

そういう場所にもおそらく得意だと思ったり不得意だと思ったりする瞬間はあるのだろうけれど、その思惟が優位に来ないようにやることができると思う。得意だろうと不得意だろうと、それをやるのだ。

October 3, 2019

【598】イケナイ、隙間があれば小説を読んでしまう。

読書の秋とか言っていい感じに文化的な雰囲気を出しているが、読書はそんな生半可なものではない。中毒症だ。この秋、小島信夫に感染した。

『残光』はしばらく前に買っておいて、少し読んでやめたおいた。買ったのはたぶん保坂和志のせいだ。佐々木敦かもしれない。つい最近また読みはじめて、気づけば病に落ちていた。

読書でだいたいひどい症状が出るときは絶版だ。しかたなく『寓話』を図書館で借りる。でかい本だ。読み終わってさらにひどい。欲しい。これ欲しい。絶版だ。保坂さんたちが復刊したのを知っている。買ってしまいそうでなんどかウェブの紹介ページをすでに見ている。メールすればいいと書いてある。

小島信夫のひどいところは、小島信夫の小説群は、そう、群れだ。『残光』でさんざん『寓話』が話題になる。他の自作も話題にする。引用ももちろんする。そんなわけで『寓話』を読む。『寓話』ではさんざん『墓碑銘』と『燕京大学部隊』が話題になる。他の自作も話題にする。そんなわけで、小島信夫の小説を読むということは小島信夫の小説群を読むことになる。小島信夫の小説群を読むことで、小島信夫という小説家を僕の中に創作的に誕生させてしまうことになる。小島信夫は小説を創作することで、小説家まで創作するということをやっている。こんな小説を他に見たことがない。