March 12, 2019

【559】吉本ばなな『キッチン』を今さら読む。

私の実感していた「感受性の強さからくる苦悩と孤独にはほとんど耐えがたいくらいにきつい側面がある。それでも生きてさえいれば人生はよどみなくすすんでいき、きっとそれはさほど悪いことではないに違いない。もしも感じやすくても、それをうまく生かしておもしろおかしく生きていくのは不可能ではない。そのためには甘えをなくし、傲慢さを自覚して、冷静さを身につけた方がいい。多少の工夫で人は自分の思うように生きることができるに違いない」という信念を、日々苦しく切ない思いをしていることでいつしか乾燥してしまって、外部からのうるおいを求めている、そんな心を持つ人に届けたい。 
 それだけが私のしたいことだった。

このとても長い文と短い文は「そののちのこと」と題され、今から32年前にデビュー作として発表された作品を含む3つの小説が収録された文庫の「文庫版あとがき」として「2002年 春」に書かれた吉本ばななの文章である。3つの作品「キッチン」「満月ーーキッチン2」「ムーンライト・シャドウ」はいずれも傑作と言って良いが、
「見た?」
と言った。
「見た。」
と涙をぬぐいながら私は言った。
「感激した?」
うららは今度はこちらを向いて笑った。私の心にも安心が広がり、
「感激した。」
とほほえみ返した。
という「ムーンライト・シャドウ」のクライマックスは、今読んでも驚く。

読み手が無意識に想定している「文学というものを形成するために必要な最低ラインの語彙」を遥かに下回る「感激した?」「感激した。」という「チープな」会話は、読み手に読み手自身の持つ狭く浅はかな文学観を鋭く自覚させつつそれを破壊し「感激」を呼び起こしてしまう。

この率直な文体は、デビュー作「キッチン」で、
先日、なんと祖母が死んでしまった。びっくりした。
と誕生しているものだ。

冒頭に引用した「2002年 春」の文章の饒舌さは、文学が歩んだ距離として計測できる。言葉にならなかったことが言葉になるとき、まずその切っ先が鋭く現れ、やがてそこから言葉が漏出する。洪水で川が決壊するように、最初は小さな穴だった。

僕はどうしたのだろう。

多分僕は、適切さがさびしいのかもしれない。これが誰かを救うのにぴったりな文章なのではないかという推測が悲しいのだ。そのような推測の発生以前に、作品は誕生したはずで、読み手はそんな「救い」を想定してはいなかっただろう。

文学は文学として誕生しても、やがて実用性を身にまとってしまうのだろうか。たぶん、そんなようなことを僕は気にしている。ひねくれているのかもしれないし、幻想を追いかけているだけかもしれない。

【558】第2回山本明日香レクチャー・コンサートの様子。


明日香が音楽について語るとき、言葉遣いが魅力的だと思う。

「ベートーヴェンは、休符が訴えかけてくる。」

休符は音が休んでいるのだから、音が無い。無いものがどうやって訴えかけてくるのか、と一瞬戸惑うが、もちろん僕たちはこの訴えをよく知っている。話し始めて突然黙ってしまったり、言いよどんだりするとき、僕たちはその沈黙に強く訴えかけられている。沈黙はたんなる「休み」以上に機能する場合がある。

明日香が言うように、そして明日香が演奏するように、言われてみればピアノ・ソナタ第五番第一楽章の一小節目、最初の和音の直後にある16分休符は、「ハッ」と一瞬息を飲むような緊張をもたらしているし、これを「訴えかけてくる」と表現するのはとても正確な言い方だと思う。

「ここからピアニッシモの世界に入ります。」

僕たちがそれまで知っていた「ピアニッシモ」は、あくまでも音の強弱を示す記号であったはずだ。それがまるで別世界への扉のように思えてくる。「pp」。ガリバー旅行記の「小人の国」のような、あるいは「ここでは大きな音は彼女に見つかってしまうから、ささやくように話さなければなりません」と大魔法使いがどこかで見張っているような国だろうか。

強弱記号を世界として見ていくというのはとても魅力的で、それだけを追っても楽譜が楽しめる。楽譜が物語に見えてくる。

「二拍子は、落ち着く場所がない。どんどん急き立てられていく。」

同じ音の並びでも四拍子と二拍子では違うという話なのだけれど、ここまで明確にイメージを示されると、実際の演奏を聞いたときにたしかに「落ち着かず」「急き立てられて」いく。

僕たちは人を急き立てようとしているとき、二拍子的に「タンタン」と心の中で手を叩いて話しているのかもしれない。逆に、他人に急き立てられていると感じるときは、自分が「タンタンタンタン」と四拍子的に話せば落ち着くのかもしれない。たぶんそう。

このレクチャー・コンサート、毎回ものすごく勉強になるし、新たな発見をする。それはもちろん音楽についてでもあるけれど、同時に言葉についてでもあって、ほんとに油断できない。

そして今回、とても不思議なのだけれど、楽譜が読めないはずの僕が、レクチャーを聴いたあとの演奏では、なんとなくこのへんだろうと楽譜を目で追うことができるようになっていた。同じく読めないはずの澪もそれができたと言っていたから、気のせいとか、偶然とかではない。

もちろん、一つ一つの音がどの音なのかとかはわからないけれど、だいたい今ここ、とわかる。たぶん次はもっと読めるようになる。聴いてるだけで楽譜が読めるようになるというわけだから、これはさすがに自分でも信じがたいことだけれど、楽譜と言語になにかしらの共通点があるのだとすれば、読めて当たり前のことだろうとどこかで納得している。

次回は7月15日、その次は11月24日。
詳細はこちら。

March 11, 2019

【557】他者への介入。

自分以外の人に対して「こうした方が良い」などと言うことは、基本的には良いことがない。なので「基本的には」そのようなことはしないで生きていけばいい。

僕は、基本的には基本に忠実に生きている。だから、滅多なことでは自分以外の人に対して「こうした方が良い」などとは言わない。

しかし、何事も基本通りにはいかないときがある。応用が必要なときがある。この話の場合は、応用どころか、もう「例外」ぐらいのレア度だけれど。

生半可なことでは他者への介入はしない。介入するとすれば生半可ではない。しかし、責任を取れと言われても取ることはできない。それにもかかわらず遂行できるだけのある確かさを持つことができなければ、他者への介入などできない。

そもそも他者の人生へ介入したほうが良いと思える例外的な状況が生じること自体がとても貴重なものだ。そして、僕は、この貴重な状況において積極的な行動ができるぐらいには踏みとどまりたいと思っている。流されたくない。そのぐらいのことはできるようにありたい。

それは家族のことであり、友達のことであり、つまりは僕にとって大切な人のことである。

そして、このときばかりは、全力でそれをしなければならない。だから、自分のことを棚に上げることすらも必要で、まったく完全に無責任だ。

March 4, 2019

【556】「失敗を恐れるな」という言葉について

「失敗を恐れるな」

正直あまり好きな言葉ではなかった。勇気を持って一か八かやってみろ、という博打推進のスローガンに聞こえていたからだと思う。しかし、今となって僕は実は、失敗を恐れることは、僕自身にはあまりないことに気がついたし、他の人が何かをやろうとしているときに「どうしてそんなに失敗を怖がるのだろうか」と不思議に思ったりする。だから危うく、この好きではない言葉を吐きそうになって自分に驚愕する。

僕にとっての「失敗を恐れることはあまりない」という言葉の意味というかニュアンスは、言い換えるとすれば「失敗したらやり直したり、修正したり、次からやめたりすればいいだけで、そもそも恐れるというような感情の対象になっていない」ということになる。「試してみよう」ぐらいのことだ。

やってみて、もし失敗しなければ、それはそれでいいことだけれど、なぜ失敗しなかったのかという手触りをうまく得ることができなかったら、そのときたまたま失敗しなかったというだけで、次か、次の次には失敗する。結局、失敗することでそれがよくわかってしまえば、もう失敗しないし、よくわからなければまた失敗する。

失敗が恐怖と結びつく要素は、実はない。もしも失敗が恐怖と結びつくのだとすれば、それは、一度しかできないことについてなのだけれど、一度しかできないことがすべて失敗してはいけないというわけでもないので、やっぱり失敗が恐怖と結びつくこと自体が、とてもレアケースなのである。

そして、そのレアケースは、例えば「失敗すれば死ぬ」というような場合なので、その事自体をやってみるかどうかそのものからよく検討しなければならない。ということは当然そんなことを「一か八か」でやるようなことではない。「恐れるな」なんて他人から言われるようなことではない。

失敗というのはそもそも恐れたりするようなものではなくて、わりと日常にへばりついた、何かを手にするためのきっかけぐらいに思っていたらいいと思う。