March 30, 2015

【111】「じぶんの文章を書くためのゼミ」を終えて

終わってみれば一般的な「文章講座」とは
似ても似つかぬものになった。
「じぶんの文章を書くためのゼミ」を終えた。

これは僕が「書き方を教える」場ではない。
ただ、僕がやってきたことの核の部分を見てもらうこと。
もしそれがつまらないと言われたらそれまでだし、
もしも面白いと言ってもらえたら、これ以上うれしいことはない。

そう覚悟が決まってようやく少し落ち着いた。それでも開始当初、僕の緊張から場が少し乱れていた。そこにふっと現れ、一瞬で場を整えて、すっと消えていなくなったけんちゃんのミニマルなファシリテーションは見事だった。

僕にとって編集とはなにか。書くとは、読むとはなにか。今までやってきた編集の仕事の核になるものはなにか。それがようやく形となって現れ、人目に触れた。

それは、ただ読むこと。
一言一言がこの世に今この瞬間に現れてくるように読むこと。
そういう一言一言に僕自身が揺さぶられていくのを観察すること。

それを僕はやってきていた。
この感覚からすべての編集の仕事は発生していた。

タイトルには「書く」とあるのに、3時間40分、ただ読んでいた。

「起承転結」「わかりやすい表現」「伝わりやすい文章」「5W1H」などなど、その手のことはまるごと投げ捨てることができた。読むこと、書くことにおいて、それらは核にない。それがよくわかった。

僕はようやく文章というものと正面から向き合うことができるようになったのかもしれない。

こんな僕の文章への態度を面白がってくれたみなさんに感謝します。

うれしいことにこの企画は4月以降も月1回ペースで開催していくことになりました。
後ほど告知がでたらここでも紹介します。

March 27, 2015

【110】うちの庭先にミニマルで開放的な事務所ができていた。

祝「鈴木陵事務所」開設。
開放的で素敵なオフィスですね。
ふと気が付くと友人のぱーちゃんこと鈴木陵氏がうちの庭先に勝手に事務所を開設していた。日本とは思えない自由な感じ。これはずるい。

それまで僕は家の中で作業をしていたのだけど、
隣に席を作ってもらって僕の事務所も間借りさせていただいている。

原稿を執筆される鈴木陵氏。

ちょうどこの時期、この時間帯、この天候だとここが一番心地よい。
家の中のほうが寒いし暗いし、風も吹かない。

机と椅子にパソコンとホットミルクを入れたカップがあればそれが事務所。

もう少ししたらまた別のところへ移転するかもしれないけど、
僕の事務所、しばらくここです。

March 26, 2015

【109】東山の和室の円坐をやります。

いつもは茶室とかアパートとか呼んでいるけど、
今回は「東山の和室」としてみた。
友達のけんちゃんと何かをやるのは、
いつも楽しくて、
いつもドキドキする。

とても仲が良いのだけれど、
いつも勝負している感じがある。

この円坐の案内文も、
僕なりの勝負をした。

けんちゃん、どういうかなぁ。
こんなふうに書かれると困るかなぁ。

そんなことをちょっと考えたりしながら、
一応けんちゃんに「これでいい?」と
メールしてから外出したら
戻ってきた時にはすでに、
けんちゃんがフェイスブックに告知していて
さらに驚いた。

行動が先に立つ人。

ブログを読んでくださっている人が来てくれたら、
とてもうれしいので、転載します。

場所の「東山の和室」は、
ブログで何度か書いている
東山のアパートの部屋のことです。

===
フェンスワークスの小林健司です。
この度、ぼくがかねてから交友を深めている大谷 隆さんに、円坐の守人として呼んでいただくことになりました。

場所は、「東山の和室」と呼ばれる、秘密の場所。

この前行ってきましたが、小さくて、なにもなくて、とても静かで、のんびりした場所でした。

円坐には、目的やスケジュールはないけれど、数少ない予め決まっているものがあります。それは、「主催する人」と「場所」と「時間(日時)」。

「この日じゃないと来れない人」がいるし、
「この人が主催しなければ集まらない人」もいる。
そして、「この場所でなければ来ない人」がいる。

円坐は、開く人、開く場所を、そのまんま味わうような時間でもあるなぁ、と思います。楽しみです。

小林健司

【以下、大谷隆からの案内文】

「最近、円坐に飽きちゃってさ。
それでくにちゃんにきいてみたの。
そしたらくにちゃんでも退屈する時があるんだって。
でも、そういう時は必ず何か見落としてることがあるって」

けんちゃんこと小林健司さんのこの言葉で、
僕は3回驚いた。

「円坐に生きる」「ライフワークだ」って、
けんちゃん言ってなかった?
それが飽きたってどういうこと?

しかもそれ、
くにちゃんにそのまま言ったの?

くにちゃんこと橋本久仁彦さんは円坐の第一人者、
というよりも円坐そのものをこの世界に現した
けんちゃんの師匠とも言える人で、
そんな人に飽きたって言ったんだ。

くにちゃんもくにちゃんで
あっさり退屈だって肯定して、
そのうえで、
円坐の真髄ともいうべき視界を
たった一言であらわしてしまう。


そんなけんちゃんの円坐を
僕は企画しました。

飽きたと言う人の円坐なんて信用できない。
そんな人の場になんで行かなきゃならないのか。

と思われるかもしれませんが、
僕はだからこそ、けんちゃんの円坐が信じられるし、
これ以上に確かなことは無いと思えるのです。

飽きたら飽きたって、
誰にもはばかることなく言える人が
やろうやろうと言っているのですから。

円坐という、
ただ人が円になって坐る時間と場を
どう説明すればいいのかはとてもむずかしいのですが、
そこで見える露骨な景色に僕は惹かれます。
ご一緒できるのを楽しみにしています。

大谷隆

======
▶日にち :4月12日(日)
▶時 間 :10:30~18:30
      セッション1 10時30分〜12時30分
      昼食     12時30分〜13時30分
      セッション2 13時30分〜15時30分
      休憩     15時30分〜16時00分
      セッション3 16時00分〜18時30分
▶場 所 :東山の和室(京都市)
▶集合場所:10:00に京阪三条駅の上の交差点にあ
      るブックオフ前 に集合して、移動します。
      会場まで徒歩10分程度。
▶坐主(ファシリテーター):小林 健司
▶参加費 :3500円
▶定 員 :5名
▶申込先 :まるネコ堂のサイトより

March 25, 2015

【108】書けない時は書けない状況を書けばいい。

ブログを書く二人と書けない僕のパソコン。
小規模な編集部みたい。
ブログを書くのは楽しいことだけど、どうしても書けなくなる時がある。そういう時は素直にそのことを書いてしまえばいい。

昨日からゼミ仲間のぱーちゃんが泊まりに来ていて、今日はゼミのサイトのリニューアル作業を一緒にしたりして過ごす。パートナーのは工房でリュックを作っている。

夜ご飯は近くのパン屋で買ってきたパンを食べた。

食べ終わって、一息ついて、さぁブログでも書こうとなって、ぱーちゃんと澪が二人してせっせとブログを書いている横で、書けなくなった。

今度の日曜日に友達のけんちゃんと「じぶんの文章を書くためのゼミ」という企画をやるのだけど、その案内文がけんちゃんからメールで届いて、そのものすごい文章に完全にやられてしまったというのも、書けなくなってしまった大きな理由で、その案内文に僕からは何も付け足すことがなく、まさにこういう時に「過分な」って言葉を使うんだろうなと思った。

自分が書けなくなってしまうと近くで洋々と書いている人が疎ましく思えてきて、いっそ邪魔をしてやれと、二人の画面を覗きこんだりして、いじわるをする。気が散った二人のタイピングが乱れてほっとする。

これが今週末「書くこと」の講座をやる人間のやることかと我ながら呆れた。

March 24, 2015

【107】ゼミ前の時間。平日人(ヘイジツジン)が集まるところ。

コーヒーを焙煎して本を読む。
今日は風が強くて、流れているものが好きな僕にとっては良い日。ちょっと気温は低いけれど、これぐらいがちょうどいい。

今夜は自宅で網野善彦『増補 無縁・公界・楽』の講読ゼミがある。ゼミは昨年の6月ぐらいからもう20回近くやっている。仲間と寄ってたかって本を読むというただそれだけのことがどうしてこんなにおもしろいのかと毎回驚く。

ゼミは19時開始予定で、今は午後3時。パートナーの澪は掃除したり、僕はコーヒー豆を焙煎したりして準備する。準備と言ってもせいぜいこの程度で、あとは本を読んでいる。

ゼミ前のこの時間もゼミと同じぐらい好きで、ゼミにまつわるあれこれが僕にとって今一番楽しい。

そんな午後の時間帯から一人二人と人が集まってくる。ゼミは夜だけど、なんとなく集まってきて、コーヒーでも飲みながら、話すともなく話す。平日の昼間から話して、夜は読んだ本について語る。もうそれだけでいいと思えてくる。

そんな平日人(ヘイジツジン)たちの集まる場所であればいい。

【106】季節が変わると物が減る。満足感を得るための方策。

減らす満足感を追加するために今回処分された物。
一体なぜとっておいてあったのか不思議になる。
暖かくなってきたので、冬服を一式出してきて、今年の冬は使わなかった物を処分した。

ズボン 2本
デニムのシャツ 1本

これぐらいの小規模で物を減らすと、ちょっと勢いがつくというか、もう少し満足感が欲しくなって、ついでにハンカチやハンドタオルも何枚か処分した。

この感じはきっと、物を増やす側に満足感を得る人とまったく同じ心理状況が反転して現れているのだと思う。

季節が変わって暖かくなったから春物を買おう。買いだすと勢いがついて、ついついもう少し満足感が欲しくて、小物も買おう。

物を増やすという行為と物を減らすという行為は人間の満足感としては等価だ。

ちなみに布モノの処分方法は、適当な大きさに裁断してウエスにすることがほとんど。ウエスは使い捨ての雑巾みたいな感じでどんどん使っているけれど、今のところなくなる気配はなく、いつも残量が気にかかり続けている。

March 23, 2015

【105】タイのインスタントラーメンを食べる。オーガニックとジャンクが同居するシーン。

赤いパッケージのやつが好き。
緑のやつはそんなにでもなかった。
このタイのインスタントラーメンをよく食べる。辛くて酸っぱくて美味しい。


リカーマウンテンで時々売っていて、売っているのを見つけた時はほぼ間違いなく買う。だからいつも家にストックが有る。

うちは味噌は手作り、醤油、塩、砂糖はよつばの宅配で、いわゆるオーガニックとか自然派とかいうたぐいのやつを使っている。だから、普段の僕たちの言動や家の様子やあるいはこのブログの記事などから、そういう「体にも環境にも良い昔ながらのくらし」的なものを連想されることが多い。

その連想からすると、このラーメンはわりと驚かれる。

でも、僕たちの中ではインスタントラーメンもあんまり違和感がなくて、正確には「それとこれとは関係がない」という感覚。

この話は以前、ストーリー先行型とシーン先行型という言い方で書いたことと同じで、ある大きなくくり(ストーリー)の中に自分を投げ込んで、そのくくりの中のルールを適用するという方法と、そういう大きなくくりはなくて、ただ個別に1つずつとの対応(シーン)があるという方法との違いだと思う。
【017】シーン先行型の暮らし
似たようなこととして、冷蔵庫を無くしたいという話をしていた時に、例えば近くにスーパーがあれば冷蔵庫なんかいらないのにということを言ったら、「自給自足とかそういう方向ではなくて、消費社会に乗っかる方向なんですね」と言われたのも同じようなことで、僕にとっては、単に冷蔵庫を無くしたいという個別の「シーン」でしかなくて、そこに反消費社会や自給自足といったストーリーはないし、もしそれらのストーリーに乗っかるのだとしたら、僕はたぶん何もできなくなる。

シーンの積み重ねとして、結果的にストーリーが形成されていくのかもしれないけれど、ストーリーが予めいろいろと存在していて、その中から自分が気に入ったストーリーを選択し、その一つの要素としてのシーンをはめ込んでいくような生き方はたぶん僕には難しい。

そういう意味ではミニマリズムもひとつのストーリーであって、ストーリー内の整合性を取る方向に考えるととたんに嫌気が差してくる。

March 22, 2015

【104】良い河原は宝である。リビングであり、カフェであり、劇場である。

奥が大川。
大阪市内で一番好きな場所。
河原の良さはぱーちゃんも書いているけど、僕も書いておこう。

良い河原は宝だと思う。

おしゃれなカフェよりもスタイリッシュなリビングよりも河原がいい。

京都府宇治市に住んでいるけれど、仕事の関係で大阪に行くことが多かった。

大阪だとJR桜ノ宮から天満橋あたりにかけての大川端がいい。特に帝国ホテルの近くに円形劇場っぽい場所があって、ミヒャエル・エンデの『モモ』の舞台を思わせる。階段状になっていて、僕は一番上の段に座って、ただ川のほうを見続ける。

視界の右端から中型犬を連れた女性が入ってくる。犬に引かれるようにあちこち歩きながら円形劇場の真ん中に少しずつ近づく。

その背後、左側からかご付きの自転車に乗った女性、その後を子供用の自転車に乗った男の子が追いかけていく。

画面の左下の一番下段にはいつのまにか背広のサラリーマンが足を組んで座っていてスマートフォンを覗きこんでいる。

若い女性2人がコンビニの袋を下げて歩いてきて階段を降りる。右側の下段に座るとペットボトルのお茶を飲む。

最初の犬を連れた女性は、今ちょうど画面左側にはけていくところ。

空を見上げると飛行機がやけに大きく飛んでいる。

演出家が見えないところから熟練の役者一人ひとりに厳密なキューを出していて、絶妙なタイミングで絶妙な日常的風景が繰り広げられる。そんな恐ろしくリアルなお芝居に見えた。

僕はただボーっとしているという役を与えられている。この役に関しては僕は自信があって、今日も完璧に演じきって、タイミングが来たから舞台から消える。いつもそう思ってそこから離れた。

March 21, 2015

【103】ポケットティッシュはいらない。

ハンカチを確かなものとして持ち歩くようになった。
アイロンまではめんどくさい。
ポケットティッシュというのは、その名前にもかかわらずポケットに入れておくようには作られていない。

大きさがポケットに入る程度というだけで、そういう名前がついたのだろうけれど、ポケットに入れてはいけないもののランキングを作ったら上位に入賞する。

一度も使っていない状態のビニールの袋を破いていない時ならまだしも、いったん開けてしまうと最後、ポケットの中で使いかけのポケットティッシュの中身が半分に折れ曲がって、ビニールから抜け落ちて、バサバサに分裂していく。

たぶん、ポケットティッシュの達人は、そんな人がいればだけど、一度開けたポケットティッシュは、使いきらなくてもまるごと捨ててしまうんじゃないだろうか。

ということで、ハンカチを使っている。鼻をかむのに確かな道具。洗濯しているうちに布が柔らかくなって鼻あたりも良くなる。

でもやっぱり、ハンカチを使う最大の利点はポケットティッシュを持たなくていいことだと思う。

March 20, 2015

【102】人間を駆動させる仕組み。

今日の朝・昼兼用ご飯。
空腹は僕にとって数少ない確かな動機。
前回書いた洗い物は食べ物を作る工程に含めたほうが動機が生じていいという話の続き。

狩猟採集の世界ではきっと、空腹な人のほうが満腹な人よりも狩りへの動機が強いはずで、つまり空腹な人の方がうまく狩りをすると思う。逆に、サバンナに寝そべっているライオンのように満腹なときはうまくできないから寝ていたほうがいい。

これを以前は「満腹な時に餌をとっても腐らせるだけだから、無駄なエネルギー消費を抑えるために寝ている」と思っていたけれど、最近はそれ以上に「無駄だろうがなんだろうが餌を獲得できなければ死ぬわけだから、獲得に必要な資源を集中するために、空腹というその状態になれば四六時中意識させられ続ける肉体的メカニズムを利用する」と見た方がしっくり来るなと思う。

「モチベーション」「やる気」といった言葉の意味は、普通はもう少し社会的だったり精神的だったりするのだけど、僕にとってはこの「空腹」のようなより身体的な意味で、「動機」がある。

「やる気は、作業を始めないと発生しない」というのは、たしかに実感と合うから、「ちょうど良く空腹なときに作業にとりかかる」というやり方があるんじゃなかろうか。

「目標を定める」「自己肯定感を持つ」というようなことよりも、人間を駆動させる仕組みとして「空腹」の方が有効なんじゃなかろうか。

まあ、そうそうちょうどよく空腹な状態は保てないけど。

March 19, 2015

【101】食器は温度と動機で洗う。化学的で心理的な方法。

こうして見ると、たわしって美しい。
食器を洗うのに以前は、スポンジだとかアクリルたわしだとか何種類も流しに置いていた。

今はたわし一個。

火鉢の灰をとってきて水を入れて、洗剤にしている。これで洗える。

でも、結局のところ、油汚れを落とす最大の要素は、そういう道具類ではなくて、温度だと思う。

特に鍋は調理したあと、食事を食べる前、鍋が熱いうちにたわしでこすればすぐに綺麗になる。パスタを作ったあとのフライパンも熱いうちに水をかけながらざっとこすれば数秒で。皿もなるべく温かいうちに洗ってしまう。

もう一つ、洗い物という作業に対して大きな影響を与える要素は、人間の仕組みで、食べ物にまつわる作業の場合は、空腹という本能が利用できる。

空腹という、本能によって駆動する行為は人間にとって必然性が高いから、集中力も高く、高効率。だから、食事を作る工程の中に洗い物も組み込むとあっという間に終わる。なるべく作っている最中に洗ってしまう。

洗い物だけの作業を食事を作る作業から切り分けてしまうと、油分の分解性からも、人間の仕組みからも非効率になる。

March 16, 2015

【100】リュックという物理的存在を売る心地よさ。

物理的存在であるが故の融通の効かなさが、
「本当に気にいる物」の少なさに直結する。
2014年12月にリュック屋になった。
正確にはパートナーの澪とともにリュックの製造販売事業を開始した。

これまでの僕の仕事は、主に紙物(雑誌、書籍など)の企画、編集だった。
それが、リュックのような商品を扱うようになって、大きく変わったことがある。

それはリュックが物理的存在だということに起因している。

オプションやカラーバリエーションがあるとはいえ、リュックの型は一つ。調整は基本的にできない。

「ちょっとサイズを大きくしてほしい」
「ふたの留め具をマグネットにしてほしい」
などの細かな要望を時々頂くけれど、現時点ではお断りしている。

理由は、不可能、もしくは不適切であるから。

2年に渡る開発中、考えられるだけのプランを練り、各種の部材を試した。
その結果、製品として提供できるものは、これ以上は無い。
もちろん、状況は変わるかもしれないけれど、今のところは。

たとえば、製造ロットがものすごく増えれば、帆布は現在の8号ではなく9号が使える。
たとえば、真鍮の金具のメーカが作る種類が増えれば別の金具が使える。
などなど状況の変化に応じて変更はしていく。

でも、現時点では「できない」。
ご要望にお応え「できない」。

この「できない」という対応が、企画、編集の仕事では実は難しい。

「やらない方がいい」ということは言えても、「できない」わけではないことが大半で、結果として「やらざるを得ない」。

文章やデザインという非物理的存在のため、不可能性が低いためだ。

だから、リュックを売り始めて、今まであまり言うことがなかった「できません」を連発して、最初はちょっと後ろめたかったけれど、よく考えるとこれ以上の応答はできないのだから、誠実であるためには、そう言って頭を下げるしかない。

この、売る側・作る側の覚悟である限界の認識が、今はとても心地が良い。

March 15, 2015

【099】財布はクリップでいい。保険としてのお金。

黒じゃなくてシルバーなのがおしゃれでしょ。
人気のエントリー「名刺入れを財布にしている」はその後、
カードケースを財布にしている。名刺入れからの更新。」と進んだけれど、
結局こうなった。

おおよそ予測はついていて、これで問題が生じないということを確かめるだけだったのだけど、その確認が終わった。

これでいい。

お札は2枚いっぺんに折る。
バラバラに折るより安定感がある。
ダブルクリップに挟んでいるのは、
・ICOCA(交通系ICカード)
・3つに折った千円札2枚
・クレジットカード
・免許証

挟む順番も上記の通り。
挟んだ時に一番上にICOCAで、裏返すと免許証の裏面。
こうしておくと、個人情報的なものが丸見えにならない。
からといってなにか良いことがあるのかどうかはよくわからないけど。

あと、クレジットカードは番号のところが浮き出ているので、
その上にお札を挟むと滑りにくくてちょっといい。
まぁ、これも大したことではないけれど。

きっと名刺入れの方が見た人も面白いというか、発見があるだろうなと思う。でも、もうあの名刺入れは手放してしまったし、今後名刺入れを財布にすることは無い。

クリップ財布を試しながら考えたことは、単純だ。

僕はお金を使いたくない。
使いたくないものを持ち歩きたくもない。

実際、僕がお金を使うことはそれほど多くない。
しかし、全くないというわけではなくて、
どうしてもお金が無いと困る事態に直面する。

そういう、もしものときに困らないように、
僕は仕方なくお金を持ち歩いている。
保険として。

それがわかった。

【098】生きている以上、無いにはならない。生きていることには限界がある。

食べずに残したふきのとう。
根拠は無いけれど、この見事な造形は無いに関係すると思う。
生きてしまっている以上、無いということにはならない。
というのが生きていることの限界で、常にここに縛り付けられている。

ただ無為に過ごすことができない、というのも生きているからどうしても生じることで、生きていなければただ無為に過ごしていても何も問題はない。

生きてしまっている以上、どこまで無いを求めても、行き着くことはできなくて、もう少しというところで必ず反転して、「それでも何かが在る」ということに根拠か目的をおいてしまう。

しかし、だからといって無いを無視していいかというとそういうわけではなくて、今もすでにうんざりするほどの在るに悩まされている以上、生きているうちに無いを見たい。

March 10, 2015

【097】欠損は在り、無いは無い。

かろうじて夜景。
「無い」は無いのだから、無くても困らない。

在るから在る(現前性)という視界からしか、「無い」への言及が発生できないとしたら、「無い」が問題になるのは在るからということになる。仮想的な「無い」が在る。

この、問題になる仮想的な「無い」を欠損と呼んでみる。

「在る」との対比によって「無い」の劣位性を言うことは無意味である。ただ無いだけ。欠損が在るのとは違い、「無い」は無い。

と書いておいてみる。
カギカッコの付け方が難しい。

March 8, 2015

【096】読むっていいよね。

書くことと読むことは、
離れて居てもそばに居られる。
今日、あのぱーちゃんて人はいい文章書くね。
と影ちゃんに言われて、
そうやねんと答えた。

読んでるんだよね。
読むっていいよね。

March 7, 2015

【095】年度末の坂。

写真だとわかりにくいけれど、結構急な坂。
うちの近所。
12月ぐらいから上り坂になってきて、だんだんきつくなってくる。
2月くらいからはほんとに急坂で、年度末に向かってどんどん急になっていく。
毎年、この坂を果たして登りきれるのだろうかと心配になる。
今まさにそんなところ。

年度末の坂はだいたいは年度末ピッタリかその直前ぐらいで突然終わりが来る。
登ったんだから、下るんだろうという予測を裏切って、ただ平坦になる。
平坦なうちはとても歩きやすくて、どんどん進むぞという気になる。

そのうちだんだん下り坂になっていって梅雨時には転がるように落ちていく。
歩いているのではなく落ちている感じで体の自由はきかなくなる。
8月ぐらいに底を打つようだけれど、それもなんとなく下降速度が感じられなくなるだけで、下り坂が終わったという明確な何かがあるわけではない。
停滞した日々が続く。

しかしある日、気が付くと、体が動き出して、物事が勝手にうまく進みだす。
涼しい風と秋が来ている。

でもまた、だんだんと体が重くなって、気が付くと12月。

そんなふうにここ何年かを過ごしていて、これにはもう飽きた。

この年度末の坂を登り切ったら、別の歩き方をしたい。

March 6, 2015

【094】色とりどりの無言。

屋内空き地。そういえば、「無」と「空」の違いも
視野にちらつきだしてきた。
無言にもいろいろある。

まるネコ堂ゼミでも円坐でも、しょっちゅう無言が現れる。
テーマなくただ話すのを録音した「言葉の記録」でも、大量の無言が現れる。

でも「無言を発し(ようとし)ている」者の中では、音にならない「言=事(こと)」として、一つ一つ異なる何かを現している。だから、同じ無言は無い。

僕は「無言」という文字に騙されていた。

無言こそ、意味にも物理的な振動にも縛られない、もっとも豊かな「言葉」の源泉なのだ。

ということをものすごく明確に言い切ってしまっていた奴がいた。


悔しいぐらい見事。

March 3, 2015

【093】携帯電話を洗濯した顛末、その後。

ショップで出してくれた代替機(幸運にもあった)。
見た目はかわいいけれど、壊したら驚愕の賠償額。早く返したい。
先日の洗濯の後日談。
結論から書くと、やっぱり壊れました。
修理しました。
代金は8,350円でした。

復活してから二日ほどたった朝、携帯電話の電源が入らない。
なんどか電池を外したりしているうちになんとか入るが、今度は液晶が真っ白。
何も見えない。

ただ電話機能自体は生きているようで、適当にボタンを押しているうちに誤って何度か電話をかけてしまう。そのたびに間違いましたと謝りつつ、これはさすがにもうダメだと諦める。

しかし、少し前までしっかり使えていたのに、と思ってボタンをいじくっていると、ボタンの隙間から水が出てくる。まだ乾いていなかったのか?と思ったけれど、どうも様子が変で、その上、なんだか指が臭う。まさかと思って携帯電話の臭いをかぐと、最近慣れ親しんでいるあの臭い。

うちの猫が発情してあちこちに振りまいてくれているおしっこの臭い。
どうやらトドメは「シロ」のしわざか。

ワイモバイルのショップに持って行くと修理の見積もりに出せるというので、ダメもとで出すことに。

見積が出るまでの間にやったのは、まず中古ショップの値段を調べる。
と、このお店なんかが良さそうで、安いのだと3000円+送料600円ぐらい。

さらに持ち込みで機種変更だと、手数料が3000円+税
ショップで確認とったところ、持ち込み機種変更でもこれまでのプランがそのまま続行されて、割引の減額などペナルティ的なものはないらしい。

つまり、6,840円ぐらいで復帰できる。

これぐらいなら、MNPして、また別キャリアで2年縛られるよりはいいかと思い、あとは
修理の見積もりの出るのを待つ。

で、出た修理代が8,350円。

むーっと考えて、気に入っている端末だし、修理好きだしで、修理することに決定。

ということで、今回の洗濯の金額的代償は8,350円でした。

今回調べてみてわかったことは、中古買ってきて機種変更して7,000円ぐらいなら、毎月500円払って修理代金の上限が5,000円になるという保険に入る意味はないなと思います。

なお、IP電話も一応試してみました。
音質自体はまぁ大丈夫。遅延があるからちょっと気になるけど、使えなくはない感じです。ワイモバイルでの費用負担が1万円を超えるようならこっちに変更したかもしれません。

March 2, 2015

【092】干せば乾く洗濯物のように「仕事」をしたい。

晴れていて湿度が低く風がある。
今日は洗濯物にとって最高の日。
洗濯物が好きだというのは以前にも書いて、その時はコンポストの話だった。

先日、洗濯物が好きだという話をする機会があって、「いいですね」と言っていただけたので調子に乗って、もう少し洗濯物の話を書いておこう。

洗濯物の何がいいかというと、干しておけば乾くというところである。もしもこれが、干した洗濯物の前に立って一日中うちわで扇ぎ続けなければ乾かないというのであれば、こんなに大変なことはない。

当たり前のことを書いている自覚はある。濡れているものはある条件下で自然と乾く。そういう物理法則に則って洗濯物というものは存在している。

でもその「ある条件」というのがあって、例えば雨が降っていたり、湿度が高かったり、気温がマイナスだったり、そういう状況では乾かない。だから、洗濯物はそれらの条件を見定めて、干す。

この、最初に条件を見定めて何かをセットすると、自然に望ましい状態になっていくということが、洗濯物の醍醐味である。

これは、植物を育てることにも通じる。

植物は、毎日だれかが茎や葉っぱの先を引っ張って伸ばしてやらなくても、太陽や雨や時に風によって、勝手に伸びる。僕に出来る事は、いつ、どこに、どのように「植える」あるいは「撒く」かで、その時点でほぼその後の展開が決定される。

今僕たちのまわりにある仕事の多くは、洗濯物を一日中うちわで扇いだり、草花の茎や葉っぱを引っ張ったりしていると思う。だからとてもしんどい。

そういうしんどいことから解放され、僕は、干せば乾く洗濯物のように「仕事」をしたい。

March 1, 2015

【091】カレールーのように生活は飽和した。ここからはじめる。

昔はこんなに小さかった猫。
今は飽和している。
つくりだすこと、それも今までなかったものを新たに。

ということがいいコトとされてきた。
でも僕の感覚はちょっと違っていて、

飽和した。
という感じがする。

昔観たテレビ番組でカレールーを使ったカレーはどうやったら美味しく作れるかというのがあって、主婦歴10年とか20年みたいな主婦数人と料理やったことありませんな女子大生が作ったカレーを食べ比べるのだけど、主婦たちは隠し味だとかいってチョコレートやインスタントコーヒーやら醤油やらソースやらを入れる。一方はじめての女子大生はルーの箱に書いてあるとおりに作る。たしかそんな内容。

結果、女子大生のカレーの方が美味しい。

理由は、カレールーというのはもうメーカーで完璧に作りこまれているから、味が限界までつめ込まれている。そこに他のものを追加するとバランスが崩れる。

僕達の生活はもうカレールーのように飽和しているのではないか。

ここに新たな何かを追加しても美味しくはない。
追加添加できる余地がない。

現状にプラスするという発想から離脱することが、何かを「新しく」作ることへの近道で、しかし、飽和したという現在地から進んで行く方向はもちろん破壊ではなくて、僕はその方向が無縁なんだと思っている。

ルールが変わる所、ゲームの流れが変わる所。