言葉というのは高濃度に矛盾を含んでいる。許容しているとも言える。
「相手のことを考えなさい」という言葉を発する話者は、その言葉を言う相手のことを考えているようには見えない。どちらかというと自分自身の苛つきや怒りに重心があって、それを相手にぶつけることが主眼になっているように見える。この自家撞着は中距離のループを描いている。つまり投げつける相手を想定し、経由している。
「自由でなければいけない」という言葉は、自由についての言葉であるよりは禁止についての言葉である。この自家撞着はとてもコンパクトで、ほぼ最短のループを描く。この言葉だけで完結でき、それを聞くものを経由する必要がない。
ある考えをずっと伸ばしていったとき、気がつくと元いた場所の裏側であるという長い距離の自家撞着はその経路で少しずつ弧を描き戻ってくる。
言葉は、矛盾というものについて濃淡や距離といった豊かさを含んでいる。言葉は論理を基盤としない。論理が言葉の豊かさの中に育った希少種に過ぎない。
ということを論理的な文体で書くことの無意味さよ。