November 30, 2020

【764】スピノザ「エチカ」に取り掛かる。

 スピノザの「エチカ」。これはちゃんと読みたいと思った。今できる限りで一番楽しく読みたい。細かくノートを取って読む。イメージの中の哲学科学生のように。読み進められるリズムができたらゼミをやろうかな。


役に立ちそうなサイトなど

・「エチカ」ラテン語原文

・羅英辞典(epwing形式)


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■近々開催のまるネコ堂の催し
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●12月15日から21日:言葉の表出、冬合宿2020
https://mio-aqui.blogspot.com/2020/05/2020.html

●定期:文章筋トレ
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_26.html

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大谷美緒主催
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November 29, 2020

【763】「『中動態の世界』ゼミその後」の会

 9月に終了した『中動態の世界』ゼミのメッセンジャーグループで、その後もぽつりぽつりと投稿があって、ゼミをきっかけにして新たな本を読み始めたり、新しいことを考えたり、そういうことが起こっているので、参加メンバーでそれぞれ「ゼミのその後」のことを話す会をやってみた。

 僕自身、この本はゼミをやる前に思っていたよりもずっと僕自身の場所に重なっているところがあると、ゼミが終わったあとに思うようになった。それは吉本隆明の自己表出の問題で、このことは意外だった。僕以外の人はおそらくそう思わないかもしれないが、僕には中動態は自己表出と大きく関わりがあるように感じる。

 その後の会のために、ゼミのときのようにレジュメを準備した。以下に掲載する。


『中動態の世界』ゼミその後

2020年11月29日 大谷

中動態


 中動態的に世界を捉え、感じ、考えるようになった。という文章の最初の「中動態的」という言葉が僕の言葉として僕にイメージを与えるというだけで、ことの重大性はわかる。中動態とはどういうものかと訊かれれば、僕のイメージに一番しっくりくる説明は、やはり、バンヴェニストだ。(引用は『中動態の世界』)

能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の內部にある
 「主語」や「動詞」といった西洋語由来の文法語を使わないとすれば、細江の、

動作が行為者をさらずその影響は何らかの形式において行為者自身に反照する性質のもの
でもいい。どちらにせよ僕にはこれは、自己疎外への抵抗として、有意義だ。

自己疎外

 自分が言ったこと、考えたこと、生み出したものが、自分を取り除けてしまい、自分と対立していくというヘーゲルの自己疎外の問題は大きく、僕の考える責任や自由といったものとも関係している。安易に社会批判をする人はだいたいその社会から自分を取り除けてあたかも自分はその社会に対してなんら加担していないかのように振る舞う。むしろ自己の責任を回避するための批判にすら見える。

 吉本はヘーゲルの自己疎外が社会制度として行き着いた資本主義に、マルクスのいう「社会からの疎外」が該当すると読む。そこでは、労働者が作ったものは最初から資本家のものであり、労働者のものではない。労働者は自分がつくったものを、自分でお金を出して手に入れなければならない。そういった疎外に対して、その状況そのものを「疎外し返す」こととして、吉本は自己表出を見出した。

自己表出

 自分がつくったものに自分の現実のかけらを、そのままのかたちではなく見えない構造として、入れていく。その構造が自己表出だ。自己表出のない創造は、自己疎外にしかならないし、現代においては、社会からの疎外を生む。僕がライターとして文章を書き続けられなかったのは結局の所、頼まれ仕事として文章を書いていたことに端を発し、自己疎外および社会からの疎外の状況に入ってしまったからだ。無責任な社会批判として、僕の文章から僕が取り除けられていくことに、僕自身が耐えきれなくなったのだろう。だからこそ吉本の言葉に強く打たれた。

 ところで、この自己表出の構造はまさに中動態的だ。自分が作ったものに自分の現実のかけらを、そのものとしてではなく、構造として、入れ込んでいくその構造が自己表出だとしたら、その構造を特徴づけるのは、「主語がその座となるような」「その影響は何らかの形式において行為者自身に反照する性質」と驚くほど一致する。「何らかの形式において」という細江の繊細な言葉遣いに改めて驚く。「ホームレスについて書いたから、自分はホームレス問題の解決に寄与しているのだ」などという短絡的な話ではない。むしろそれが疎外そのものだ。

契機

 吉本は自己表出の問題にもう一つ重要な観点を提供してくれる。〈契機〉だ。社会からの疎外の情況を疎外し返すためには、「あえて世界の進むべくして進む方向に従わないという思想のイメージ」[吉本隆明講演「芸術と疎外」]が必要で、これはほおっておくとそうなっていくその流れに従わず「〈契機〉をつかむ」ことと同義だ。そしてこれも『中動態の世界』の言葉で言えば「仕方なく」で済まさないということに通じる。

倫理

 ここまで書いてきて深いところにあるものとして倫理という言葉を感じる。僕にとって倫理というのは、こういった、言ってみれば、中動態的で自己表出の構造を支える、ある〈明るさ〉だ。正義や善といった言葉の一般的意味と倫理は異なっている感じがある。僕の楽観主義的な面の源泉はこの倫理としての〈明るさ〉だと思う。この〈明るさ〉は特定の光源を持たない。空間自体が明るい。

 倫理という共通項でスピノザについて、ここからなにか書けるだろうか。『中動態の世界』でスピノザを知った以降、「スピノザはいいな」と僕は何度となく思った。今なら何がどういいのかを説明できるだろうか。

神こそが唯一存在している「実体」であり、これがさまざまな仕方で「変状」することによって諸々の個物が現れる。[『中動態の世界』239]

 この神は西洋的には異端だ。ブッダも悪魔も毛虫の糞も人間もなにもかも神だという哲学に西洋的一神教の信仰は耐えきれない。というよりも、宗教的信仰というものが耐えきれないのかもしれない。人が信じ仰ぎ見るための崇高さのようなものを拒絶している。このあたりからしてもう僕は「スピノザ、いいな」と思い始めている。

 信仰をなにか「甘い、スイートな」ものとして捉えるというのが僕には嘘くさく思えてくるからかもしれない。「伝統的な日本」というものに対して「スイートな」思いを寄りかからせる「信仰的」思考も好きではない。どんな社会であれ、スイートなものがあるならビターなものもあるし、糞や憎悪や理不尽もあるとどうしても思えてくるから、「伝統的な日本」という取り上げ方の恣意性にうんざりするのだと思う。話が逸れた。ともかく、スピノザの神は宗教や信仰ではなく、あえて一般的に理解可能な範囲でジャンル分けするとすればやはり哲学だ。

 西洋的一神教は、僕がどうしてもうまく捉えることができないもののうちの一つだ。要するに僕が非西洋なのだということだろう。非西洋を東洋と名指しすれば、僕の疑問は東洋を代表しているとも言えるのではないかと思う。

 西洋的一神教の何が捉えられないかというと、その神が世界には存在せず、世界の「外」にあるということだ。別の言葉では「超越」的な存在だということになる。唯一絶対、世界を超越している。これが僕には難しい。

 僕にとって世界はすべてだ。その世界の外側にあって、世界と対置できるものというのが、まずイメージできない。そして、つまり、「イメージする」ということ自体が、神そのものを捉えることから離れてしまうということでもある。あるいは人間ごときに神を捉えることなどできない、ということかもしれない。どちらにせよ、僕にはどうにもならないということを予め定義づけられている気分になる。

 この一神教的神に対してスピノザの神は違う。神がすなわち世界なのだ。超越ではなく内在だ。どちらかというと世界のほうが無い。つまり、僕も毛虫の糞もブッダも神なのだ。こっちのほうがずっとイメージしやすいし、この「全て」という感じも「全」感があっていい。西洋の一神教は「全知全能」と言いながら「全」感があまりない。どころか、むしろ恣意的で選択的に思える。このあたりも、スピノザ、いいなと思うのだ。

 そしてスピノザの言う、毛虫の糞も異教の教祖も僕もあなたも神なんだということに僕は〈明るさ〉を感じ、そのことを指し示した本のタイトルが「倫理」を意味するというのも納得がいく。慈悲も無慈悲も、理不尽も幸福も、あなたもわたしも、神なのだという〈明るさ〉で考えたとき、全ては中動態的に、自らを座として、自分を含んで、いると思える。とてもいい。「エチカ」をきちんと読むのが楽しみだし、どうやって読もうか今から少しずつ企んでいる。「エチカ」とともに過ごしたい。

和紙

 和紙は僕のイメージとしてずっとある。吉本が言語を織物で喩えるように僕はたぶん言語を、思考を、感覚を、生活を、組織を、現実を、表現を、和紙のイメージで見る。短かったり長かったり太かったり細かったりするバラバラの繊維がバラバラの方向を向きながら在ることで一枚の紙が漉き上がる。一つの繊維に着目すれば、それは海をゆく船の航跡でもある。一つの方向や二つの方向に揃っているわけではなく、バラバラの方向にあることで在る在り方だ。僕は僕の中に様々なバラバラのものをバラバラのまま置いてきた。揃えないでおくことをなにかの使命のようにすら感じていた気がする。それらのバラバラの繊維がようやく、バラバラなままで様々な点で接触することで、柔軟に機能し始めてきている実感がある。これは本当にいい。

以上


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November 27, 2020

【762】慎重なワクワク。

アラタを見ていると思う。

アラタは大体落ち着いていて、慎重に見える。だからといって、怯えや不安を感じない。慎重であることと自信があるということとワクワク楽しいということが同居している。

不安だから慎重にやるというのは、たしかに相関が高そうだが、必ずしもそうであるとは限らない。同じように大胆だから自信があるというのも、必ずしもそうだとは限らない。

こういうことはほんの少しの観察と思考があれば、そうだと気がつくことなのだけれど、なぜか見過ごされがちだ。類型的な思考だと最初から排除されてタイプのことだ。類型的な思考は類型的な言葉遣いとして現れている。

慎重でありつつワクワクしているというのは、僕は割と好きな状態だなと改めて思う。


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November 23, 2020

【761】テーマとモチーフ。主語と動詞とそれ以外。

テーマとモチーフという言葉は、普段わりに適当に使っているが、あえてイメージの違いをいうとしたら、という話。ちゃんと調べたわけではないので、個人的なものとして。

テーマというのは日本語で主題。「これが」に相当するもの。文で言えば、主語。

モチーフは日本語で動機。「どうしたい」に相当するもの。文で言えば、動詞。

西洋哲学には、どうやら、主語主義と動詞(述語)主義というようなものがあって対立があるらしい。僕は特に優劣を感じない。何かを表現しようとするときに、主語からいくか動詞からいくかというようなことだとしたら、どちらもありうると思う。

という以前に、そもそも僕は主語と動詞の対立というもの自体をそんなに感じない。おそらく母語としての日本語話者であることがそうさせていると思う。主語が大事、と言われれば、そうだと思うし、そういうこともあるなと思い当たる。動詞が大事、と言われれば、そうだと思うし、そういうこともあるなと思い当たる。それらが〈対立〉の位置にあるかと言われると、そういうときもあるかもしれないという程度だ。

ただ一般社会では、テーマ=主語主義に偏重しているような気配は感じる。実作に取り組んでいない人、取り組む前の人は、テーマ主義や主語主義に惑わされている感じがある。そういう人はモチーフや動詞という手もあるよということは知ったほうがいい。楽しくなる。

ただまぁ、それぐらいのことだと思う。楽しくなって少し広がる。

さて、このへんの文法用語まで来ると実は広場があることに気づく。

前置詞主義とか助詞主義とか副詞主義もあったりできそうな気がする。

僕は助詞が好物だ。

そういえば、この「僕は助詞が好物だ。」という文章の主語と動詞はなんなのだろう。要するに僕は正直に言って文法にはあまり詳しくはないだけではないか。


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【760】11月21日の文章筋トレ

カエルさん、てるこさん、ゆうきさん、僕の四人でやる。僕は体調が悪い。木曜日からずっとお腹が痛い。進行を共同主催のゆうきさんに任せた。

10分と60分をやった。

体調が悪いときの思考は独特で、普段とは全く違うことを全く違うやり方でやっている感じがする。端的に悲観的だ。普段の楽観主義の裏返しのようなことになる。どちらが表でどちらが裏かというよりも、二つの面を行き来するきっかけが体調なのかもしれない。だとしたら歳をとるに従って悲観的な面が増えていくのだろうか。そうかもしれない。もっともこれはたぶん一般的に言えることだろう。

誰もが体調が悪くなれば悲観的になるものだし、年を取れば体調が悪い時間が増えるし、つまり年を取れば悲観的になるということになる。

この一般則はそこそこの強度を持って僕たちにのしかかってくるはずで、それに対してどう対処するのかというのは、今から考えておくことができる。

子供の頃、体調が悪くなると僕は本を読んだ。布団に寝かされて他にやることがなかったからだ。親もたくさん本を買ってきてくれた。

おとなになって、お金を貰って文章を書いていた時期、書き終わるととたんに体調が良くなった。書けないことが体調を悪化させていたのかもしれないが、それでも、高いプレッシャーのなかで書いているときの爽快感は体がしっかりと覚えている。

今でも、僕は、弱ったときは本に手が伸びる。文章を書けば体調は復調することが多い。

文章筋トレで60分書いているうちにお腹の痛みが引いていた。

読んだり書いたりすることが僕にとってどれほどのことをもたらしているのかということの見積もりは年々大きくなっている。才能だの評判だのを抜きにして、僕には文章がとても大きなものとしてあると実感する。


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November 22, 2020

【759】正でも反でも斜でもなく、横切りたい。

寄り添いたいわけではないし、寄り添われたいわけではない。

対決したいわけでもない。

斜に構えたいわけでもない。

ただ、横切りたいのだと思う。

そう思う理由は、横切ることがもっとも広く場所を生じさせるからだ。

正も反も斜も、短い時間において苛烈に効果を生じるけれど、そうそう長くは続かない。広くもならない。

きちんと横切ることだ。

影響や関係という言葉の持っている角度が違うのだ。

November 17, 2020

【758】キャラペイス秋の展示会、終わる。


 11月14日から16日の3日間、まるネコ堂でキャラペイスの展示会をやっていた。たくさんの人が来てくれて賑わった。ありがたい。楽しかった。いつもと違う時間だった。非日常だ。

 工房のテーブルや棚に商品を並べて、商品説明を添えてとやったが、それ自体はいつもの日常と大きく変わるわけではない。こういうことが割とすんなりとできるようになったこと自体が驚くべきことだ。自宅で展示会をやる。自分たちで作った商品を売ることができる。


 最近は美緒が描いた絵の常設展示もしている。二ヶ月で掛けかえる。その絵も来てくれた人に観てもらえる。感想を言ってくれる人も多い。ギャラリーだ。

 ここは、キャラペイスの工房でもあるし、絵を描くアトリエでもある。講座やイベントをやることもある。そして住宅でもある。日常だ。

 非日常は日常の極限に現れる日常の一つの姿で、それはそうかんたんには現れない。それが現れるときは、日常でない気分が日常そのものに襲来する。幸せだ。


 たくさん面白い話が聞けた。天気も良かった。


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November 4, 2020

【757】第0.5回まるネコ堂芸術祭終わる。

10月31日に第0.5回の芸術祭が終わった。
が、まだ「一回も」やっていない。

こういう言葉遊びをしたくて「第0回」や「第0.5回」と名付けたわけではないが、言葉遊びは軽視できない。

とりあえずこれまでにわかったことを書く。

こんなことを誰も尋ねてこないとは思うけれど、もし「なにか今後も続けていくだろうことを始めようとするときに第1回じゃなく第0回としたほうがいいのか」という問われたとしたらこう答える。

第1回としてやればいい。ただ、もしその第1回ができないかもしれない状況の陥ったとき、一つの足掻きとして「第0回をやる」というものが残っていると考えればいい。

規模を縮小したりしてでも第1回としてできる事態はこれに当てはまらない。規模を縮小して第1回としてやればいいだけだからだ。当てはまるのは、それそのものの本質的な何かが失われてしまうほどの、つまり、もうそれとは言えないような大きな欠落がある事態だ。

つまり「0か1か」という二分法、「1でなければ0だ」として捉えざるを得ない場合だ。

こういうときに「0」でありつつ「やる」という矛盾した方法があるということだ。言葉遊び的な抜け穴と言ってもいい。

「0をやる」ことをやったあとに、ここから再度「1」を目指す。

「0をやる」ことと「なにもやらない」ことは違いがある。どちらが良いかは一概には言えないが、それでも違うのは確かだ。この違いがある以上、一つの選択肢となりうる。

とりあえずここまで。

第0.5回をやって、第0回の意味を再確認した。

いよいよ第1回。2021年5月1日、2日に向かいます。


若干名ながら、第1回出展者の追加募集を行っています。
第0.5回、第1回準備ページをお読みください。


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新作「革のショルダーバッグ」など
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