December 19, 2019

【566】知識と知恵。

今日は珍しくタイトルから書き始めた。知識と知恵。知識と知恵に関する言説について、僕は実はあんまりピンときたことがない。知識と知恵、それぞれについてもそうだけれど、より多いのは知識と知恵とを比較した言説についてで、これはほんとにピンとくるものがない。

多いのが、ざっくり言えば「知恵は良いけど、知識はだめ」というもので、知恵と知識とを対置して、知恵を良いもの、知識を悪いものに位置づけるもの。不思議なことにこの逆はあまり聞かない。

こういった、二項対立的な知識と知恵の言説にあまり納得が行かないのは、多くの場合、次のような意味合いでそれぞれの言葉を使っているように思われるからだ。

つまり、「知識とは使えない知恵である」あるいは「知恵とは使える知識である」というもの。要するに「知恵は良いけど、知識はだめ」という言説は「使えるものは良いけど、使えないものはだめ」というシンプルな知識知恵道具説に行き着く。

この道具説にあまりピンとこない。というか、道具として見ている以上そういう優劣になるのは当然で、ピンとこないところは、そもそも知識や知恵を道具として扱っているところなのだと思う。

そういうものなのだろうか。

実用性というのは一つの要素ではあるけれど、知識や知恵というものをそれだけで測るには、それこそ「用をなさない」のではないかと僕は思う。

知識や知恵というものに対して、僕が持っているイメージはどちらも肯定的なもので、知識のほうがより正統的な印象で、知恵のほうがより頓智が効いている印象がある。なんとなく少年漫画のライバルと主人公にあてられそうなイメージで、知識と知恵はあったりする。

知識と知恵とを比べる言説は、おそらくその人の直感的な好き嫌いから端を発していて、それを理屈付けたときに、一般的に通じやすく使いやすい道具説を借りている気がする。ようするに、どっちのキャラが好きなのかである。

その好き嫌いがどうやら大きく偏っている。正統的な方は人気がなく、頓知が効いている方が人気がある。愛嬌があるのは後者なのだろう。

時間なのでここまで。続くかも。

文章筋トレ 20分

December 18, 2019

【565】昨日のこと。

覚えているつもりが忘れている。いや忘れていない。一度折ってから開いた折り紙を折り目に沿ってもう一度折るようなことだ。昨日の夜、今日やることを書いておいたのを見て、今日それをやるというのは。結局2回やる。いや、一度目はやっていない。シミュレーションなのだからやっていない。でも、やったような気になっていて、それをもう一度やらなければならないという面倒くささがある。昨日の夜に今日やることを予め想定しておいて、今日起きたらそれをやる。スムーズに始められるということと、一度やってしまったことももう一度やらされるつまらなさが同居している。物事をどうやってやるのかということ自体が、その物事を規定しているという当たり前のことを、また確認している。こういうやり方をしたときに、どういうことが起こるのか、その実践例を収集している。「すぐに取り掛かる。効率よくすすめる」ということと「一回しかできない」ということは並立しないのだろうか。一回しかできないということが、一度失敗すれば終わりということを必ずしも意味しないのだから、可能な気がするのだけれど。

「一回ということの独立性に、何回やっても毀損しない強度を与えれば良いのだ」

と千利休は違う言葉で言った。

「3ではなく1、1、1なのだ。10ではなく、1、1、1、1、1、1、1、1、1、1なのだ。」

なんとも気の遠くなる話だ。

「人の人生が保有する時間は有限である。しかし、その細分化スパンは無限に小さくできる。経済性を上回るほどの潤沢な1単位群を得ることができる。一回性が効率を凌駕する理屈だ。」

と千利休は続けた。

文章筋トレ 30分

December 17, 2019

【564】明日のこと。

もうすぐ寝てしまう。この時間に何かを始めることはできない。明日やると思うことを予め考えておくことはできる。そういうことを考えたほうが良いのかはわからないが、わからないときにはやってみてどうだったかを検証すればいい。試すというのが僕のいつものやり方だ。たぶん吉本隆明が出していた同人誌のタイトルに影響を受けている。『試行』。まったくほんとにセンスがいい。さて明日は、小説を一つ読む。読んで感想を聞かせてほしいと言われている。それから『言語7』の編集。このぐらいで僕が自由に使える時間は終わるはず。それで十分だ。ひょっとしたら、今依頼されている制作物の修正のやり取りが入るかもしれない。そうしたらデザイナーの浅野さんに電話したりするだろう。校正の指示書を作って送ったりもするだろう。あとはいつものように家事をしたり新と遊んだりする。以前と比べていわゆる「仕事」時間は大きく減った。いわゆる「仕事」というのは世間的に通用しそうな意味での「仕事」で、僕自身はそれ以外の家事や新と遊ぶ時間も僕の仕事だとは思っている。そんなふうにしていわゆる「仕事」時間は大幅に減っているけれど、それでも、やるべきことをやっている感じは増えている。それほど多くのことを僕はできないということに気がついてから、不思議なことに、本当にやりたいと思うことができやすくなった。できやすくなったという言い方は普通しない。やりやすくなったと言う。でも、できやすくなったといっても通じなくはない。そろそろ寝る。

文章筋トレ 20分

December 14, 2019

【563】停滞する訓練。

友人の仕事の手伝いでそこに来ている。小学校の体育館らしきその場所は東京より東、たぶん千葉県にある。それほど人口の多くない山間部だと僕は知っている。広い空間に机や棚、椅子、テーブルなどが持ち込まれている。もともとそこにあったというよりは、臨時的に運び込まれたような位置関係で、かなり余裕のある配置でそれらの什器がある。ただ、適当に置かれているわけではなく、一応、必要に応じた区画分けがなされているようだ。体育館だと思うのは、天井の高い広い空間であることに加えて、一つの壁側が一段高くなってステージのようになっているからだ。今、そのステージは使われていないが、ステージのある方向が正面だと自然に感じられるような什器類の配置になっている。僕はそのステージを右前に見る位置にいる。椅子に座っている。特に何かをしなければならない状況にあるわけではない。広い体育館にはかなりの数の人が居て、それぞれに自分の作業をしている。一人で机に向かっている人もいれば、何人かで話をしている人もいる。机や棚などの間を歩き回っている人もいる。のんびりしているわけではなく、急いでいるというわけでもない。ただ、どことなく緊張感は漂っている。ステージの前あたりに応接セットが置かれているのが見える。そこに一人の男がいて、僕は「知事」だと思う。総合的に見て、今起こっているのは、千葉県あたりのどこかの比較的小さな自治体にある小学校の体育館で、災害時を想定した訓練か何かである。僕は特にやることがなく、待機状態でいる。それはこの体育館で予定されている訓練が想定通りに進んでいないからだ。全体的には状況は停滞している。だからといってここにいる全員が何もしていないわけではなく、むしろほとんどの人はなにかの作業をそれぞれで進めている。僕が手伝う予定の僕の友人は、僕の隣に座っているがそれが誰だかはわからない。男性のように思うが女性だと思う瞬間もある。いつまでこの状況なのだろうかとその友人に話をするが、もちろん友人にも答えはない。知事が、別の男に「3日もかかるのか。1日しか予定をとってないからなんとかならないか」と言っているのが聞こえる。この別の男というのがこの訓練全体を取り仕切っている「コンサルタント」だと僕はとらえている。コンサルタントの声は聞こえない。顔も見えない。コンサルタント自身もこの状況をコントロールしていないように感じられる。僕は少し落ち着かない。理由は、僕が直面している大きくてそこそこやっかいな個人的な問題があって、その解決のために、近いうちに西の方へ行かなくてはいけないからだ。西の方というのは、東京と京都の間ぐらいの地図イメージが浮かぶ。そこに、以前からかなり長期に渡って存在している僕の人生を左右するような問題に対する糸口がある。そこへ行かなくてはいけない。この個人的問題も、体育館の訓練と同じように明確でない理由で停滞している。同じようにすっきりとしない。だけどいい加減、そろそろなんとかしなくてはならない。知事と同じく、僕もここで3日は待てそうにない。「3日もかかるのなら、僕はそろそろ行かなくちゃいけない」と友人に話して、僕は椅子から立ち上がった。ところで目が覚めた。

こういう「何かやらなければならないことがあるのだけれど、明確ではない理由で停滞していて落ち着かない」という気分の夢をこの何日か立て続けに見ている気がする。シチュエーションは毎回違っているが、僕の気分や胸騒ぎに近い落ち着かなさは同じだ。

文章筋トレ 30分

December 13, 2019

【562】散漫エントロピー。

ほおっておくとどんどん散らかっていくものをどうにかかき集め積み上げて行こうとしているのが僕である。そんなのはもう散らかるままにしておくのがいいではないかと言われてもちっともそれが「いい」とは思えない。どうにかして積み上げたい。中沢新一の『アースダイバー』の最初にタイトルの由来になった、つまり「アースダイバー」という言葉の由来が書いてあって、名前は忘れてしまったが鳥だ。その鳥が海の底に潜って海底の泥をくちばしでくわえて、その泥を少しずつ寄せ集めて島を作るという話で、細部は違っているかもしれない。この話は神話なのだけれど、神話らしくものすごく時間が圧縮されていて、たぶんこの鳥は掬って来た泥が積み上げたそばから海水に流されていく。だから万年単位ぐらいの話ではないかと思う。陸地ができるような時間だ。そういうことをずっとやっている鳥はなにも虚しくなったりしない。虚しさというものはそういうレベルでは発生しない。何万年もかけて大海に島を作るという作業に虚しさなど感じているはずがない。楽しいかどうかはわからないけれど、それでもやり続けるだけの、自分が世界にひとすくいの泥で関与していくことで、世界がほんの少しでも変化していく自体が面白かったに決まっている。効率や達成感は最初から入る余地がないことが作業の純粋さを規定する。僕も生きている間に島の一つもできないものだろうか。

文章筋トレ
時間測り忘れました。10分ぐらい。

December 11, 2019