August 20, 2015

【222】僕の原爆。(6)

シリーズ「僕の原爆。」

目次
【158】僕の原爆。
【201】僕の原爆。(2)
【216】僕の原爆。(3)
【217】僕の原爆。(4)
【221】僕の原爆。(5)

===
椅子は限界まで並べられていて、会場の後ろ側から前側へと通路を歩きながら、その通路に対して横方向に並んでいる椅子の列のどこかに座ることになる。通路は狭く人一人分しかなく、人が行き交うことも大変で、椅子の前後もぎりぎりなので、すでに座っている人の向こう側に行こうとすると、座っている人が小さくなってもその膝と摺り合い、片足ごとに体のバランスをとりながら歩かないと行けない。だから必然的に通路を前へ進もうとする列はなかなか前に進まない。一般席の前に遺族席があるようなのだけど、それがどこのあたりなのかもよくわからない。とにかく、座れればいいと、それほど前へ進まずに、会場の後ろ近くで座ってしまう。もともと遺族席に座れる資格やそれの証明のようなものを僕は持ち合わせていない。会場のメインとなる場所は遠くてよく見えないが、見えることで何かが変わるという気もそれほどしない。それよりも早く座って自分の場所を確保したい。

むっきーと並んで座っていると、すぐ前に5列ほど空席が並んだゾーンがある。その空席のゾーンをうろうろと歩きまわる女性がいて、団体用に席を確保しているらしい。自分が確保している席に座ってしまった一般客にいちいち説明をしてどいてもらっている。携帯電話で、何人でもいいからとにかく早く連れてきてくださいとイライラとしゃべっているのを聞いていると、こちらもイライラとしてくるのが嫌で、客観的な気分になろうとつとめる。

席を求め、通路を並んでゆっくりと進んでいく人の列の中には、外国人が多くて、人種も様々だ。家族連れも多く、白人の親子や黒人のカップル、民族衣装的な色彩でゆったりと羽織るような服を着ているアフリカ人らしい人。様々な文化と常識をまとった人々。それが、早く座りたい、自分の席はどこだ、という強い欲求を誰もが抱えていて、体が触れ合うような距離に詰め込まれている。自分の国ではこんなことは起きない。こんなに窮屈な場所はない。こういう場合は、もっと広い空間を使う。そもそも、この会場に入れる人を制限して、椅子もゆったりと配置する。なのになぜ? そういう心の声が聞こえそうになり、どこかで誰かが怒鳴り出したりしないだろうかと僕は心の底でひやひやしている。

白い大きな、どことなく絵本で見るサーカスのようなテントが張られたその下にも、だんだんと日差しが通り抜けてき始める。湿度と温度が上がっている。風は弱い。このままどんどん蒸し暑くなっていったらどうしようか、途中で抜け出すには、椅子の列は長すぎる。びっしりと並ぶだろう膝をかき分けながら通路に出るのさえ、難しい。式典中はそういうことができる雰囲気ではなさそうだ。もしトイレに行きたくなったらどうしよう。そんなことを考え始めて、持ってきた扇子でバタバタと仰ぐことぐらいしかできない。その最中も、あの音が鳴っている。

後ろの席に並んだ男の会話が聞きたくもないのに聞こえてくる。隣に座った二人組の若い女性の不快そうな様子が気になる。ここで僕は何かを感じることができるのだろうか。広島までわざわざやってきて、何かを得ることができるのだろうか。暑かった、人が多かった、で終わるのではないか。僕はここへ来てよかったのだろうか。ここは僕のようなものを排除したがっているのではないのか。気が付くと、団体用に椅子を確保していた女性の団体が何人かずつ、班ごとにやってくる。引率の大人に連れられた小学生か中学生で、その小学生か中学生で空席のゾーンが埋まっていくのにほっとしている。不意に管楽器の音が、勢い良く流れ、ひとしきり盛り上がり、あぁそろそろ始まると思っていたら、アナウンスが開始を告げた。通路にはまだ人の列があったが、だからといって何かが困るようなことにはならなかった。

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【221】僕の原爆。(5)

シリーズ「僕の原爆。」

目次
【158】僕の原爆。
【201】僕の原爆。(2)
【216】僕の原爆。(3)
【217】僕の原爆。(4)

===
原爆ドームの横を過ぎて橋をわたる頃からだろうか、低音の体に響く管楽器の音が聞こえる。橋を渡ると平和公園になる。音は少し早足に歩くぐらいのテンポでブォ、ブォ、ブォ、ブォと単調なリズムで、その上に美しい旋律のようなものが乗っかっていない。あるいは旋律というものがあるのかもしれないけれど、あったとしてもおそらくは高音で繊細で、遠くここまでは辿り着かない。あとで近くまで行って知るのだけれど、それはやはりメロディのようなものが極めて希薄で、ただただ重厚さを単調に積み重ねるだけのような音だ。荘厳さという便利な言葉があって、それを思い浮かべては、そうではないという気持ちがしてきて、僕が荘厳さを拒否する。ただ暗く重くたち込めている。しかし、リズムは足を前へ前へと運ぶように刻まれていて、このまま何処かへ連れて行かれるから、それはどこかと思い巡らす。足元に積み重なる低音が体全体を乗せてベルトコンベアーのように、どこかへ僕は行ってしまう。

むっきーと話をしたのかと思いだそうとするのだけど、全く思い出せない。むっきーは確か、少し僕のうしろを歩いていて、大勢の人がひとつの方向へ進んでいるのだから、とても大勢だけど道に迷うということもないだろう。だから、僕はむっきーのことを時々忘れて、ただ前へ運ばれていく。ボーイスカウト、ガールスカウトの子どもたちが献花用の花を配っている。僕は受け取る気持ちにならなくて、一緒に配っていた式典の冊子も受け取れない。何か、まだ、僕にとって途中だ。花や冊子は、何か、もう、終わってしまったことにしている。ただ、女性がおしぼりを配っているところでは積極的にもらうことにした。昨夜、どこかに落としてしまった手ぬぐいの代わりをどうしようかと思っていたのを、おしぼりどうぞという言葉で思い出して、これで都合が良い。夏の暑さが、朝の気持ちよさを追いやろうとし始めているから、まだ凍ったままのおしぼりは、そろそろ、ありがたい。大きな管楽器から響く音が、大きくなってき、密度が増してきている。

びっしりと並べられた椅子が公園を埋めている。式典会場の外を取り囲むように、もう、人垣もできているのに、まだ7時だ。式典までは1時間あるし、式典自体は45分で終わるのに。想像以上の人の多さに僕は圧倒されていたのだと思う。まだ空席があるのが見えると、それほど悩むこともなく、むっきーと一般席へ入る入り口の列に並ぶ。入り口では、持ち物検査をしているけれど、列はどんどん長くなっていきそうだし、検査をしているのはおそらく広島の行政職員で、手馴れている感じはない。持ち込んでいはいけないものが何であるのかは、特に明示されていない。ここまで来るときに見かけた「ドローン撮影は禁止です」というような看板を思い出して、ドローンらしきものを探しているのかとも思うし、空港でチェックされるペットボトル飲料とかだったら、一本入っているけど、リュックの中身をばらしてそれを出すのは面倒だなと焦る。僕の番になって、リュックをテーブルに置いてみたら、お互いに遠慮がちに、危険なものは入ってないですよね、はい、で通り過ぎる。

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August 19, 2015

【220】フリーキャンプが終わって。

そもそも何かが始まったりしていたのかという気がする。終わったという以上は始まっていた。フリーキャンプが終わって、今だ。

最初からあったことが、覚えてはいるけれど、それがいつあったのかは、今となっては分離できずただ、まだら模様の巨大な団子のように、あの人やあの人やあの人やあの人たちやあの人やあの人がいる。

出来事というのは、何か独立して、他からは浮き上がるように、あるということになっているけれど、本当のところ図と地の区別はなく、図と図との輪郭もない。

それを区切っているのは僕の幻想だ。

幻想として、という前提として、僕らは様々な出来事を次々と体験していることにしている。幻想として、僕らは、それを楽しんだり、悲しんだりしている。幻想として、幻聴に耳を傾けるように、自分にしか起こっていないことを愛する。とても個人的な事情に僕らは没入していて、そこから抜け出すことは生きているうちはできない。

誰かがいたり、何かがあったりすることは、すべてであって、それが僕という場所に溶け込んでいる。ここで歩いている。

フリーキャンプが終わって、51分が経過。

August 17, 2015

【219】押し回し理論。

けんちゃんと話している中で出てきたことだけど、本当に何かをしようとするときには「押し回し」が必要だ。

ガスコンロに火をつける時にレバーを押して回すように、ライターの火をつける時にドラムを回してから舌状の部分を押すように、2つのことを同時にやる。

昔、ある年齢ぐらいまでの幼児は、この2つのことを同時にやるというのができなくて、それができるようになった時に、一歩「大人」に近づくという話を聞いたのをずっと印象深く僕は覚えていて、でも今は何でもワンタッチのものが増えた。

ワンタッチのものを「チャイルドレジスタンス」にしようと思うと、ワンタッチと言いながらもう一つ別の操作を付け足すか、そのワンタッチをやたら力がいるようにするかで、前者は電気ポットにあるような「長押しでロック解除」なボタンをつけたり、後者だとやたらと重たいワンプッシュのライターになる。

押して回すという2つのことを同時にやるようなことが、幼児はできない。ある程度の大人になると、自分以外の人に押してもらって、それを自分が回したり、自分以外の人が回してくれるのではないかと思いながら、自分で押してみたり、そして火が付く。

押すという行為の方向と回すという行為の方向が別であるというのがポイントで、2つの異なる方向性を可能にする筋肉と骨の動きが必要になって、ねじれる。このねじれるというところが最近、僕の好きなところ。

August 14, 2015

【218】フリーキャンプの途中で。

何が起こるかわからない。がフリーキャンプだ。

何が起こるかわからない。
というのの「が」は、僕が食べた。
というときの「が」で、「僕」の意思をも含むものなのだけれど、
その意志の主体であるのがフリーキャンプの場合は、
「何」であって、
それが「起こる」、「か」が「わからない」。

「何が起こるかわからない」という文章を「私が」読むとき、暗黙のうちに、

私が、何が起こるかわからない。

という風に、
自分を設定して、
自分にとっての意志として、を読み取ってしまうのだけど、
実際にフリーキャンプの中にいると、
「私が、」の部分は、文字通り無くて、
ただたんに、「何が」が立ちはだかる。

私が、が設定されているうちは、
自分にとって好ましいことや好ましくないことというような、
方向性を持ったものとして読むのだけど、
そういう方向性の起点となる「私が、」すらなくて、
ただ、突如、どこから引き起こされたのか、
どこへ向かっているのか、
どこからも引き起こされないのか、
どこへも向かっていないのか、
がわからない「何が」が、出現し、出現し、出現し続ける。

こういう状況に居続けるのはなかなか大変なことで、
多くの状況で人は、
起点や方向性を予測している。
のがわかる。

この「予測」を前提するのは、自分である。
のがわかる。

自分とは無関係に出現し続ける「何が」は、
その予測を前提する主体とはなりえなくて、
その「何が」は、なんの「予測」も無く、
ただ、ずーんと居座っている。
あらゆる、にへばりつく。

August 9, 2015

【217】僕の原爆。(4)

シリーズ「僕の原爆。」

目次
【158】僕の原爆。
【201】僕の原爆。(2)
【216】僕の原爆。(3)

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宛てにしていたお好み焼き屋が、まさか15時までの営業だとわかって、二人して驚いた。よっぽど美味しいのだろう。7時間ほど電車に乗り続けて来たからもう、だからといって次の候補を調べたり考えたりする余力はなくて、宛もなくふらふらと明るいほうへ歩いて行って、適当な店に入ってお好み焼きを食べた。お好み焼きというのは僕らの知っているお好み焼きではないお好み焼きで、それを広島焼きと言ったりするのは間違いだ。言葉というのはそういうふうに多重に使うことができる。
 
むっきーは電車では大体、日本史の教科書を読んでいた。教科書って読むの時間かかるんですよと、線を引いたり、印をつけたり、先のページの索引や資料を見たり、前のページに戻ったりしながら、読んでいて、手に馴染んだ感じになっている山川の日本史がかっこいい。社会科の教師をしていて、この一冊が彼の仕事だ。僕はというと、本の一冊も持ってきていなくて、青春18切符の旅だというのに、でも今回のこの広島行きで本が読めたかどうかは自信がない。そして寝てばかりいた。

お好み焼きを食べたあとは宿になるネットカフェに荷物をおいて、街を歩いた。広島は都市だ。都市的な場であることは、砂洲の上にできていることからも予想はついていたけれど、これほどまでに発達した都市だとは、改めて知った。胡町、流川町、紙屋町、銀山町、袋町、仏壇通り、巨大な繁華街の一角に、リカーマウンテンで買った酎ハイ片手に、不思議にひらいた小さな四角い池があって、鯉が泳いでいる。入れないけれど、池の向こう側はゴルフ場のグリーンのような場所があって、それを眺めながらコンクリートブロックに腰掛けていた。

目を惹く格好のホステスがタバコを買いにセブン-イレブンに行ったり、ちょっとやんちゃな感じの若者がうろついていたり、風俗店のキャッチが声をかけてきたりするけれど、どれもすっきりと、人の動線を妨げず、ほんの少し近寄っては離れていく線路のように、絡まない。ねっとりとした大阪と違って、これもとても都市的で、極めて居心地が良い。いつまでも居れる。いつの間にか1時半になっていて、それでも多くの店が開いている。

朝、原爆ドーム前行きの広電はとても混んでいて、一電車遅らせたがそれでも満員だった。ひと駅ひと駅、満員にさらに詰め込むように進むから、とてもゆっくりで、歩いたほうが早かったなとしきりにいうおばあちゃんは、たぶん広島の人ではなさそうだ。原爆ドームのすぐ横を通り過ぎながら、原爆ドームをこんなに近くで見ることができたのかと今更驚いて、それは今から思えば、チェルノブイリの4号炉と重ねあわせて、勝手に遠くから眺めるものだと思い込んでいた。チェルノブイリの4号炉は四角いが原爆ドームは丸い。原爆ドームそのものよりも、建物の周囲に散乱しているコンクリート片やブロックなどが、まさか今でもその時のままなのだろうかと思わせられる。それとも、年月がたつにつれて、ドームから剥落していったのだろうか。改めて僕は広島に長いこと来ていない。たぶん小学校か中学校の修学旅行以来だ。父親が広島だと言えるほど、僕は広島に来ていない。そう突きつけられた。

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August 4, 2015

【216】僕の原爆。(3)

シリーズ「僕の原爆。」

目次
【158】僕の原爆。
【201】僕の原爆。(2)

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数日前に電話をして、7月23日に奈良の叔母のマンションへ行く。部屋に入り、まずはと仏壇に線香を上げる。叔母の夫が使っていたものだろうか、医療用のベッドが隣の部屋に置いてある。ちょうど叔母の孫娘、つまり僕の従兄弟の娘が来ていて、一人で静かに本を読んでいる。僕にとって従兄弟はこの子の父親の僕と同い年の一人だけで、つまり、僕の母は一人っ子で僕の父は妹が一人だけいて、その妹がこのマンションに住む叔母で、その叔母夫婦の子供は一人っ子である。

従兄弟が一人しかいないということに何か不都合があったり、寂しさのようなものがあったりするかと言われると僕にはない。お盆や誰かの葬式で田舎に行くと従兄弟がたくさんいて、というよくある田舎の風景としての話の実感はだから僕には全くない。

巨大な身内グループとしての親戚というものを感じるのは、母の実家の秋田の方で、母の母、つまり僕の祖母にはたくさんの兄弟姉妹が居た。それらの兄弟姉妹の父親はその街の材木屋で、母親はその妾だった。料亭の女将をやっていた僕の曾祖母であるその人は僕が子供の頃に死んだのだけど、その葬式はなんとなく覚えているし、曾祖母のことも覚えている。東北特有の口をほとんど開けない不明瞭なしゃべり方でしかも強烈な訛りだったから、僕には何を言っているのかさっぱりわからなかった。葬式では遺体を棺桶にいれて、小さめのおにぎりみたいな鉄の塊で棺桶の蓋に釘をガンガンと打ち付けた。彼女が、僕にとっての親戚という大きなグループの元締めである。材木屋の方は全く面識がないし、そういう話を聞いたのも僕がおとなになってからで、つまり、僕にとっての親戚に含まれていないし、家系というものとしては連続していない。同様に、材木屋の家系には僕たちは含まれていないか、存在しないことになっているだろう。

奈良の叔母は父の妹であるので、そういう秋田のこととは無縁である。テーブルにつくなり、叔母は地図を出してきて、多分ここの角だと思うのよ、そうじゃなければこっちの角か、と切りだした。前置きも何もなく直裁的に話すのに少したじろいでしまったが、この人は実はこういう人だったのかと、いまさらながら思った。そういえば、二人でじっくり話をするのは初めてで、覚えているのは子供の頃、その頃は大阪の狭山に叔母夫婦と従兄弟が住んでいて、よく遊びに行ったことで、その時は叔母と話をするというよりは従兄弟と遊んでいただけで、叔母との会話はほとんどなかった。だれでもそうなのかもしれないけれど、僕は大人とほとんど会話をしない子供だった。僕にとってそうであれば、叔母にとってもそうなのだから、叔母は突然、昔の家のことを、広島の原爆のことを聞きに来た僕のことをどう思っているのだろうかと、余計なことを思い続けていた。

叔母は僕の疑問、当時の家の場所への答えを提示したあと、順不同で思い出したことを次々と話しだした。

まず、その中区大手町5丁目の家で叔母は生まれていない。叔母が生まれたのは原爆から1年半後の昭和二十二年、広島市内の西観音町で、そこは祖母の実家である。大手町の家が原爆で焼けてから、同じ場所に家を建てられるようになるまで10年ほどかかったらしい。それはお金の問題で、なかなか再建できなかったようだ。西観音町の家も、平和大通りの区画整理で移転していて、今は通り沿いの何もないスペースだという。

時系列に整理すると、父が生まれたのが昭和18年だから1943年の8月14日、原爆投下が1945年8月6日、叔母が生まれたのは1947年2月。西観音町の家で父と叔母は子供の頃を過ごし、父が小学5年、叔母がちょうど小学校へ上がるぐらいの年に、大手町の家が再建される。だから叔母にとっても父にとっても、子供の頃の記憶というのは、西観音町の家であって、お祖父ちゃんがよく川で魚釣ってきて庭で焼いて食べたのよ、という叔母にとってのお祖父ちゃんがその家の主で、川というのは太田川だ。

では、この西観音町の家は原爆で焼けなかったのかとたずねると叔母はしばらく考えて、そうねぇそうよねぇ、庭に大きな松が残っていて平和公園に寄付したって言っていたから家は残ったのよねぇ多分。あと、シベリアから持って帰ってきたなんか古いものが残っていたから、焼けなかったのよね。と、家そのものではないものが残っていたことから家も残ったのだろうと言う。家というものはそういうふうに、当たり前にあるもので、それがいつからそこにあったかなんて意識に上らない。

叔母の話も必然的に親戚の話になっていった。特に、叔母の父の妹か姉が満州から子供二人を連れて帰ってきたという話をして、叔母は少し年上のその子供、つまり叔母にとっての従兄弟とよく遊んだことを覚えていた。特にヨシノリさんという人のことは覚えていて、その子は、片親で貧しく新聞配達なんかをしながら広島随一と言われる名門高校を主席か何かの優秀な成績で出て東大へ行って、とても有名だったのよ。その時はそんなこと考えもしなかったけれど、残留孤児になってもおかしくなかった状況だったのよね。お祖父ちゃんがよくその母親を褒めていたけれど、ドラマになってもおかしくないようなことがあったのだろうなと後になってからわかるのよ。

その満州から連れられて帰ってきたヨシノリさんとは、僕は、その後、全く予想しない形で会うことになる。僕が最初に勤めた会社をやめて転職し、大阪ボランティア協会に就職した直後の2005年に大阪ボランティア協会の40周年の記念イベントが有り、そこへ来ていた日本NPOセンター事務局長の田尻さんが、大谷くん親戚に合わせたげるわ、と引きあわせてくれた同センター副代表理事(当時)山岡義典氏、それがヨシノリさんである。お祖母ちゃん元気かときかれたのか、お祖母ちゃん亡くなったんだってねと言われたのかは忘れてしまったが、山岡氏にとっては母の兄弟の結婚相手、僕とって祖母の話をすこしだけした。

この話を当時、父にした時は父も、そうそうと話しだした。何かのシンポジウムで、こっちは社会福祉の研究者として、向こうはNPOの研究者としてともに登壇し、終了後に、もしかして広島ですかと話しかけられたのだという。子供の頃以降、交流はなくなっていたらしい。父もだから山岡氏のことはヨシノリさんと言うし、おそらく子供の頃はヨシノリ兄さんとか兄ちゃんとかいうような呼び方だっただろう。

どういうタイミングだったかは忘れたけれど、親戚の誰それが当時何をしていてというような叔母の話が少し途切れたところで、お祖母ちゃんと父親はどこで被爆したんだろうと僕は叔母に尋ねた。叔母は、家じゃないの、と答えた。

僕が僕の母親から聞いた話では、己斐駅という少し離れた駅だったし、父親の被爆者手帳にも、そう書いてある。父の被爆者手帳のコピーを見せると叔母は、祖母がかろうじて話し残したという1945年8月6日のことを話しだした。

おばあちゃんはずっとお兄さん(つまりは僕の父親)をおぶって歩いていた。その時、己斐町かそのあたりにたぶん知り合いの医者か何かがいて、その人に背中のやけどについたウジをとってもらったりした。その後、太田川沿いを歩いて旭橋あたりで、西観音町のおじいちゃん(つまりは僕の曽祖父)と会って西観音町の家に行った。そうやって歩いている間に川に死体がたくさん浮かんでいるのを見たり、ひどい火傷をしている人をみたりした。祖母は父親を背負っている時に、背中側から熱線を浴びていて、だから、首の後ろあたりの背中にケロイドがある。父親は、頭に当たった頭に当たったと家中で大騒ぎになった。この家というのはだからたぶん西観音町の祖母の実家のことだろう。

叔母の話をまとめると、1945年8月6日午前8時15分に祖母と父は自宅かその付近で被爆した。その後、祖母は父親を背負って知り合いの医者のいる直線距離で約3キロの己斐町まで歩き、治療を受けたあと太田川沿いを南下しているところを旭橋で父親と偶然出会い、実家へ避難したとなる。被爆者手帳はその己斐町での治療記録か何かを下に発行されたのかもしれない。

しかし、これは本当にそうなのだろうか。大手町5丁目の家は、爆心地から直線距離でほぼ1.5キロ。現在明らかになっている爆心からの距離による被害の状況によると、500メートル以内での被爆者はその年の11月までの統計で98から99%死亡。1キロメートル以内では約90%まで低下してはいるが死亡率はとても高い。爆心から1.5キロの資料は見つけられないけれど、それでもかなりの割合の死亡率が予想できる。そんな状況の中、僕の祖母と祖父と父は3人とも生き残り、つまり生存率100%で、最も早く死んだ祖父ですら、昭和45年だから1970年まで生きた。

ウィキペディアに載っている直後の写真は、建物らしきものはコンクリート造りのものが数えるほどしかなく、あとは野原だ。叔母の話を聞いて少しイメージができるようになったのは、8時15分、その瞬間に写真に写っている全域が一気に焼け野原になったわけではなく、その後燃え広がった火災によってそうなったということで、爆発の瞬間の直後数時間、この野原だった場所に多くの人が生きて歩いていた。

祖母と父がその瞬間、どこにいたのか、それについての疑問はともかく、もう一つ疑問が出てくる。祖父だ。

祖父はその瞬間どこにいたのか。祖母や父と一緒にいなかったのか。一緒に居たとしたらなぜその後の行動を祖母や祖父と一緒にしなかったのか。

これについて叔母が知っていることは祖母や父についてよりはるかに少なかった。まず、叔母は当時はもちろん、彼女の父が一体どんな仕事をしていたのかについてほとんど知らなかった。原爆の瞬間、どこで何をしていたのか、どんな職業についていたのかも知らなかった。知っていることは、最初は広島県庁の職員だった、というだけだ。その後転職したかもしれないし、していないかもしれない。それもわからない。

一般に、自分の父親の仕事を知らないというのはあまりない。しかし僕はそれを問いただすよりも前に、県庁職員というところにひっかかってしまった。もしも世界で最初に原子爆弾が投下された場所の行政職員だったとしたら。

広島県本庁舎は当時、別の場所にあった。現在のアステールプラザの付近で、ここだと大手町5丁目の自宅から徒歩で通勤しただろう距離だ。グーグルマップだと徒歩13分。この本庁舎は原爆で壊滅した。

もしも祖父が当時県庁職員であったとしたら8時15分にどこにいたか。ウィキペディアを見て驚いたのは、「当時は週末の休みは無く、朝は8時が勤務開始であった。」という記述だ。戦況が限界まで悪化している戦時中とはそういうものかもしれない。とすれば、県庁も8時勤務開始だった可能性が高い。

祖父は8時15分に自宅から徒歩13分の距離にある県庁で仕事をしていて被爆した。その瞬間以降、県庁職員としてどのような職務を果たしたのか、あるいは果たさなかったのかわからないが、徒歩13分の距離には若い妻と1歳の一人息子が残されていた。祖父が何を思ったのか。

そしてその妻は1歳の息子を背負って3キロ以上、街中が火災と死者と怪我人にあふれている中を歩いた。夫は同行していない。連絡がとれたかどうか、生きているのかどうかもわからなかったかも知れない。会うことができたとしても、夫はそのまま「仕事」に戻ったかもしれない。

叔母は、祖母が当時のことをいかに話したがらなかったかを教えてくれた。叔母の夫は中学の教師をしていた。今から20年ほど前、夫は学校の平和教育の一環として、身近な存在に原爆の被爆者がいることを思い出した。そして、学校でそのときのことを話してくれないかと祖母に依頼した。祖母はそれを聞くなり心臓がバクバクいいだしたという。話すことはおろかその当時のことを思い出すことすら、無理だった。原爆のその日から約50年が経過していたにもかかわらず。

一歳の我が子を背負った背中側から、いうなれば自分はその陰に隠れるように熱線を浴びた祖母。祖母は、背負っていた一人息子の頭に「それ」が当たったことを誰よりもよく知っている。それがただの光ではないことは、その後いやというほど思い知らされる。そのたびにその瞬間のこと、自分の代わりに頭にそれを受けたわが子のことを思い出さされる。大量の死体と焼けていく街、その視界、その臭い、自分のやけどの痛み、ウジが這いまわる感触。

祖父も祖母も父も、結局、原爆のことはろくに話さないまま死んだようだ。いくつもの謎を残したまま死んでいった。当時を知らないものとして僕は彼らから何かを聞き出すべきだったかと問われると、そうは思わない。彼らが話さなかったことは、彼らが話したことと同じぐらいの何かである。何も話さないで死者になった彼らは、今もこれからも何も話はしない。

いよいよ明日、広島へ立つ。僕は僕の原爆を見に行く。なぜか、数日前に広島へいくと友達のむっきーに話したら、僕も一緒に行きますと言い出して、旅路を共にすることになった。

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August 3, 2015

【215】「書生」生活5日目その2と6日目。

苦手な夏を楽しむための思いつき、
僕の勝手なイメージの中の「書生」生活をやってみます。

■目次
思いついた時のエントリー
【200】「書生」をやってみる。

やってみてからのエントリー
【207】「書生」生活1日目。
【208】「書生」生活1日目その2。
【209】「書生」生活1日目その3。
【210】「書生」生活2日目。
【211】「書生」生活2日目その2。
【212】「書生」生活3日目。
【213】「書生」生活4日目。
【214】「書生」生活5日目。

===
結局また東山の和室に戻ってきたのは夜中だった。しかも3人で、けんちゃんとぱーちゃんと一緒にフレスコで買い込んだ焼酎とともに。クリップの扇風機は床に転がしてドアの外に向けて換気扇代わりにした。窓からわずかに冷気が流れ込んでくる。けんちゃんが買ったぶどうが一番先に出てきた。しばらく間を置いて、僕の買ったトマトが出てきた。最後はぱーちゃんの買った味噌汁だった。それぞれが一番のタイミングだった。こんなものなんであるんだというようなものが活躍する時は代用が効かない。

和室に来る前は鴨川にいた。鴨川ではなっちゃん、うみちゃん、澪を加えた6人だ。うみちゃんとけんちゃんとなっちゃんの終電がなくなっていたと気づくまでに、2度四条のリカーマウンテンに買い出しに行き、夕方から飲み続けた。終電がなくなって東山に戻らなかった3人は、宇治のまるネコ堂へ行った。

床暖房のような鴨川の河原の石に座って6時前から飲み始める前はマルイの6階のメガネ屋でメガネを作っていたのだけど、これは前日にむっきーがそこでメガネを作ったという話をしていたからだ。この6人が揃ったそもそものきっかけは僕とけんちゃんの雪駄をうみちゃんに選んでもらうということだったのだけど、それは割りとすぐに買えてしまって、僕もけんちゃんも買い物という場に居続けるのが難しい。その逆に、河原があれば河原で飲み食いするのは好きなものを持ってきて好きなだけ居られるからだ。

6人がそれぞれどんな関係かを以下に述べる。

僕と澪は夫婦であり友達である。僕とけんちゃんは友達である。僕となっちゃんは友達である。僕とうみちゃんは友達である。僕とぱーちゃんは友達である。澪とけんちゃんは友達である。澪となっちゃんは友達である。澪とうみちゃんは友達である。澪とぱーちゃんは友達である。けんちゃんとなっちゃんは夫婦であり友達である。けんちゃんとうみちゃんは友達である。けんちゃんとぱーちゃんは友達である。なっちゃんとうみちゃんは友達である。なっちゃんとぱーちゃんは友達である。うみちゃんとぱーちゃんは友達である。

書くことに生きている書生生活が終わったのは、翌朝ぱーちゃんとけんちゃんと別れて僕が自宅に戻った時で、今がもうそうだ。

(了)

August 2, 2015

【214】「書生」生活5日目。

苦手な夏を楽しむための思いつき、
僕の勝手なイメージの中の「書生」生活をやってみます。

■目次
思いついた時のエントリー
【200】「書生」をやってみる。

やってみてからのエントリー
【207】「書生」生活1日目。
【208】「書生」生活1日目その2。
【209】「書生」生活1日目その3。
【210】「書生」生活2日目。
【211】「書生」生活2日目その2。
【212】「書生」生活3日目。
【213】「書生」生活4日目。


===
日に日に目が覚める時間が早くなっていて6時だ。しばらくぼっーとしている。木魚のようなアフリカンの太鼓のような目覚まし時計のような音楽音(おんがくおん)が聴こえてきて隣の隣の部屋だ。ドアが開いていて、こちらもドアが開いているからよく聴こえる。短いフレーズのしつこいリピートが続き、2、3回ほどパターンが変わり、その後ひとしきり盛り上がって途切れる。終わったのかなと思っていると、また最初からはじまる。繰り返す。繰り返す。繰り返す。4回。5回。

寝袋をたたむ。畳の上に種類ごとに並べて置いていた小銭を封筒に入れる。普段小銭は持ち歩かなくて、お釣りでもらうだけでもらったお釣りは家や部屋に戻るたびにポケットから出してしまう。クレジットカードが使えればそれを使うから何かの時の保険代わりにカード類に挟んでクリップで留めているお札すらも出番が少なく、小銭はさらに出番が少ない。小銭の交換価値は持ち歩いていることによって生じるわけで、僕にとって小銭はお金というよりはおはじきのようなものだ。そういえばinteresting男は床に並べられた小銭を見るなり、おまじないですか。

他の荷物もまとめてリュックに詰めていく。キャンプが終わった時と同じ気分がしだす。昨夜洗った甚兵はまだ乾いていない。8時過ぎまでぼーっとするために残っていたショートホープを吸う。

みやこめっせで昨日の分の文を書こうと思ったが書けず、たっぷり時間がすぎる。図書館で書く。イオンに昼ごはんを買いに行く。そばが食べたい。一袋35円+税のそばを1袋、一缶100円+税の缶入りのそばつゆ1缶、58円+税の鶏フライ、68円+税のナス天ぷら、同じく68円+税の磯辺揚げをかごに入れて、ビニールの小袋に入った19円+税の天つゆを見つけて、一缶100円+税のそばつゆを棚に戻す。これでもし、そばが美味しく食べられれば、そばつゆと天つゆの差額、(100円+税)-(19円+税)で81円得したことで計算は合っていますか。あとビフィータを1本。

部屋に戻り、お湯を沸かす。乾いた甚兵を取り込んでリュックに入れる。そばを湯通しして、水で冷やして、つゆはひと舐めすると甘く、舐める前までは天つゆの味を都合よく忘れていて、想像の中ではほぼそばつゆの味と同じになっていたのを思い知らされる。慌てず醤油を足す。食べ終わると、メモを書き、廊下にある共用の掃除機で掃除機をかけ、西側の窓を閉め、廊下側のドアを閉め、鍵を掛け、隣の隣の部屋の前にビフィータの瓶と忘れていったコップを置いて、メモを置いて、自分の部屋のブレーカーを落とした。もうここには戻らない、という気分と、次にここへ来たら隣の隣の部屋に声をかけてみようという気分が同時にする。玄関を出る。

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August 1, 2015

【213】「書生」生活4日目。

苦手な夏を楽しむための思いつき、
僕の勝手なイメージの中の「書生」生活をやってみます。

■目次
思いついた時のエントリー
【200】「書生」をやってみる。

やってみてからのエントリー
【207】「書生」生活1日目。
【208】「書生」生活1日目その2。
【209】「書生」生活1日目その3。
【210】「書生」生活2日目。
【211】「書生」生活2日目その2。
【212】「書生」生活3日目。

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銭湯へ行くつもりだったのが昨日は行かなかったので今日はむっきーと銭湯へ行くつもりだ。夕方4時ごろにと約束しておいてある。それが昼過ぎに電話がかかってきてお昼食べに行きません、というのですでにおにぎりを幾つか食べたといいながら食べに行くと答える。昨日と一緒で三条大橋を待ち合わせる。昼過ぎという時間帯で特に今日は日差しが強い。河原を歩くと巨大なプレス機で天と地の両方から熱の塊に押しつぶされている気分になる。ふくらはぎのあたりでジリジリと熱を感じる。息も絶え絶えで三条通につくと何食べますかと言われても未来を構想することはできず、過去を近いところからどうにか参照していく。昨日と同じ中華屋である。

そこそこ頑張っている中華屋のクーラーはだけど汗を止めない。小気味よく立ち振る舞う若い店員が店内のすべてのコップの水位を把握していて、わんこそばのように注いでくれるそばからお冷が喉を通り過ぎて、もう少し行ったあたりからそのままどこかに穴でも開いているのか皮膚に漏れ出ていく。コップの水位が下がり小気味よく立ち振る舞う若い店員がお水入れましょうかと笑顔で言いながら注いでくれ、ありがとうと言い、コップの水位が下がり小気味よく立ち振る舞う若い店員がお水入れましょうかと笑顔で言いながら注いでくれ、ありがとうと言い、コップの水位が下がり小気味よく立ち振る舞う若い店員がお水入れましょうかと笑顔で言いながら注いでくれ、思わず顔を見合わせて二人で吹き出して、ありがとうと言う。

昨日はものすごい負荷がかかっていましたよというむっきーに同意して、昨日のものすごい負荷を二人で反芻する。これから何かが起こる可能性よりもすでに起こったことを重層化できる可能性に向かって、お互いに隅々まで思い出しながら、何度も振り返って見る。これはどこまでも何度でもできそうなので、場所を変えることにして、むっきーのマンションへ行く。澪が夕方から合流する予定だったので、携帯電話でメールする。

エアコンがかっちり働いたむっきーの部屋で、落ちていくような昼寝を挟んで、同じことを何度も話し、同じことを何度も聞く。特にぱーちゃんのブログが素晴らしい。ぱーちゃんは友達である。昨日の夜中に気がついた夕方の着信履歴のあとのぱーちゃんの行動と衝撃が記されていて、期せずしてむっきーと僕との共同幻想的な現場の客観的な記録である。これからぱーちゃんも交えてより詳しく状況を辿り直せるとさらなる芳醇が得られると思い、ぱーちゃんに電話をする。ぱーちゃんはぱーちゃんで僕の昨日のエントリーがまるで答え合わせのようだったと言う。残念なことにぱーちゃんは今夜は人と会う予定があるというので、その話はまたあとでゆっくりと。

錦湯は錦市場近くにある。こじんまりとした小さな古い銭湯で、入るとジャズが聞こえてくる。湯に浸かりながら外が明るいのをぼんやりと眺めている。平日の夕方、まだ明るい。ここから見える景色は、少し前までの時代ならごく普通の時間であっただろうけれどと僕が思い、今となってはと考えはじめると、夏のマジックですねとむっきーが言う。

二人で甚兵を着て、手ぬぐいだけを持って、各国の観光客の間を抜け、錦市場を通り、道のあちこちで吹き出している温風を浴び、四条通を歩き、立ち止まり、藤井大丸の中に入り、出て、なんか買って帰って食べますか、そうだねと言う。フレスコでなすと薄揚げとポテトサラダと木綿と焼酎を買う。

ご飯がちょうど炊きあがった時に澪が来る。なすと薄揚げをむっきーが炊く。ワインとビールと焼酎を氷に入れたり冷蔵庫で冷えていたり、常温のままだったり、飲む。なんていうことのない確かな非日常が、今にも止まってしまいそうになるギリギリのスピードでロードローラーのように進んでいく。ポテトサラダを冷蔵庫に入れっぱなしで最後まで忘れていた。

11時頃になって、澪は家に、僕は東山の和室に帰る。さっき澪から手渡された縁坐の案内文の原稿を読んで、何故か僕が救われた気分になって、書いてくれてよかったと電話で話す。