November 30, 2018

【514】眠くて泣いている。(生後85日目)

大人になってしまうと思い出しにくいことではあるが、お腹が空いたり、オシメが濡れたりしたとき以外にも、新(あらた)は眠くて泣く。

数秒前まで大声で泣いていた。
グローブはひっかき防止用、
スパーリング中だったわけではない。
こういうときに適切に抱っこをしてやると、ほとんど一瞬で熟睡に入る。

眠いのなら泣かずに目を閉じればいいと思うのだけど、そういうものではなくて、眠いという状態によって引き起こされる不安が不快さとなって、眠れずに泣く。

眠りに落ちていくときあの陶酔感は、慣れてしまえばとても快いものなのに、慣れないうちは不快なのだ。

November 29, 2018

【513】あまりにも傷つけすぎる。(生後84日目)

以前にも書いたけれど、
【465】顔面、傷だらけ。(生後48日目)

爪は割とこまめに切っている。にもかかわらず生傷が絶えない。ほぼ毎日このレベルの傷ができる。


君は小鉄か。
たしかにうちはホルモンをちょくちょく焼くけど。猫もいるけど。

さすがに対策を取ることにした。素手は危険なので今後はグローブの着用を義務付ける。


しかし、ちょっと目を離すと、こうなっているので、効果の程は不明である。


この問題は、もう少ししたら、自らの手を思い通り動かせるようになるという根本的解決を見るはずだと思うと、もうすでに感慨深い。

November 28, 2018

【512】「ネットまるネコ堂」のためにインターネットの固定回線を復旧。

ここ数年、固定回線はやめて、MVNOのテザリングでやりくりしていた自宅のネット接続環境を固定に戻すことにした。といってもADSLの12メガだけど。

直接的には、来年やる通年講座で遠方参加者や欠席者のための動画配信をやりやすくするためなのだけど、せっかくなのでもう少し活躍させようと思っている。

例えば、オンラインの研究室(大学の)みたいなことをやってみようかと思っている。

通年講座では、僕は一応「講師」という役割なので、受講生からの相談にはできるだけ乗りたい。あと、本や演劇や映画の話とか、それ以外の雑談とか、そういうこともやりたい。しかし、遠方の受講生や、遠方でなくても仕事があって時間が取りにくい人もいるだろう。宇治のまるネコ堂まで、ちょくちょくは来れない人もいるだろう。

もともと、僕はだいたい毎日家にいて、家事などをしている以外は本を読んだり、文章を書いたりしている。来年のこの通年講座は力を入れてやりたいことなので、できるだけそのために時間を使いたい。だから、物理的?に講座として開いている時間以外も可能なかぎり通年講座の時間にしたい。

だから、僕が普段家にいて本を読んだり、文章を書いたりしている時間を、同時並行的に、いつでも声をかけてくれたらできるネット会議室というか、ネット研究室みたいにしできるんじゃないか。

といっても、特別なことをやるつもりはなくて、いつもやっていることをネットを介してやるだけなので「ネットまるネコ堂」といったほうがいいかもしれない、いかにも一昔前のネーミングだけど。

時間があるときここに来たら、僕なり誰かなりがいて、なにかしゃべることができるような場所になればいいと思う。

そのためには通信容量を気にしないでいい固定回線がいる。容量が気になるとそもそも僕はうまく話したり聞いたりできなくなる可能性が高い。話しているときに、あとどれぐらいで話し終わるか、みたいなことを想定するのがとても苦手なので。

まぁ、誰も来ないかもしれないけど、誰か来たらとても嬉しい。

回線は来月半ばには開通予定。とりあえず12ヶ月は固定回線を維持するつもり。その間にネット関連でなにか思いついたら全部やってみようと思ってます。

夜、お酒とか飲みながらダラダラするのもいいよね。

使用環境(アプリ)はZoomの予定です。

【511】生誕は日常の破れである。(生後83日目)

生後9分。
新(あらた)の現存する最古の写真。
子供が生まれる。つまり、人が一人増えるということは重大なことである。もう少し厳密に言えば、日常の破れである。この破れを繕うのは並大抵のことではない。いつもであればできたことが、「そもそもできない」というふうに破れているからだ。できたことができない。破れを直すことそれ自体ができない(破れている)と言ってもいい。破れにあてようとした、あて布すら破れているのだ。

しかしこれは、逆に、それまでの固着した日常を打破するきっかけにもなっている。いや、きっかけなどという生易しいものではなく、もうすでに、打破されている状態である。だから、この時期、出来事が膨大に溢れ出るようなことが起こる。また、起こすことも可能になる。日常の破れがないときに、固着した日常を打破するのは容易ではない。容易に変えることができないという意味が、日常の「常」という文字に刻み込まれている。

こういったことは何も新しい概念や世界の見方ではない。網野善彦がきちんと定型化してくれている有縁と無縁の二つの原理を示している。

日常、「ケ」は有縁の原理に基づき、日々強化されている。それに対し、その破れ、特異点としての「ハレ」は無縁の原理に基づいている。

子供が生まれたり、人が死んだりすると、日常が破綻する。こういうときに守りに入ることは、決壊した川の破れた土手に土をかけるようなものである。いっそ、これを期に、川自体が流れを変えてしまってもいいと思って、更新された川の流れを生きることにする、というのが無縁の原理で生きる視座である。流されながら新たに築く。

というわけで、濁流に飲み込まれながら、新しい川の流れで生きてやろうと思って、いろいろやっている生後83日目。いまだ出来事の洪水は終わらず、水位高し。

まったく、網野善彦のエクリチュール(書いたもの)をこれほどまでに強く体験することになるとは。書かれたものを読むことは時に重大なことを引き起こす。

November 27, 2018

【510】ビリケンさんに似ていると澪が言った。(生後82日目)

たしかにちょっと似ている。
強いて言えば、吊目の感じが。

が、そもそも、
ビリケン (Billiken) は、尖った頭と吊り上がった目が特徴の子供の姿をしている幸運の神の像。 1908年10月6日にアメリカ合衆国のフローレンス・プレッツがデザイン特許を取得した。(ウィキペディア「ビリケン」)
なので、赤ん坊がビリケンに似るのはある程度必然かもしれない。

ところで、ビリケンがフローレンス・プレッツなる実在のデザイナーがデザインしたものだったとは初めて知った。通天閣のビリケンさんのイメージから、なんとなく、どっかの国の、どっかの民族の、お地蔵さん的な民間信仰の神様のようなものだと思っていた。スクナビコナ的な。(スクナビコナは古事記や日本書紀にも出てくるので、「民間信仰」とはされないと思うが)
スクナビコナは、大国主の国造りに際し、天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)(=ガガイモの実とされる)に乗って波の彼方より来訪した。(ウィキペディア「スクナビコナ」)

スクナビコナのこの、「船に乗って波の彼方よりやってきた」というところが僕は好きで、実はスクナビコナ・ファンである。 遠くからやってくるもの、それも海の向こうからやってくるものに、僕は妙に惹かれるところがある。

たぶん、僕が外国旅行にほとんど行かない(行きたいと思わない)のは、こういう妙な憧憬があるからで、僕がそっちへ行ってしまったら台無しではないか、とどこかで思っていると思う。

November 26, 2018

【509】ゴルバチョフに似ている。(生後81日目)

ちょっとだけど。
ペレストロイカとかグラスノスチとか。

それに、しょっちゅう、自分の爪で額を傷つけてゴルバチョフのように血を流している。ゴルバチョフの額のあれは血を流しているわけではないが。

あるいは、ナポレオン・ボナパルト。
ま、雰囲気雰囲気。

わりと為政者に似る。

過去に似ていた人はこちら。
【503】今日は岡本太郎に似ている。(生後76日目)

November 25, 2018

【508】本当にやりたいと思うことしかやっていないのに、どんどん予定が埋まってしまう。

やりたいことなんて特にないと思っていた頃からすると、全く予想もできなかった事態である。やりたいことしかやっていない毎日が途切れない。

エネルギッシュなタイプではない。いつもぼんやりしている。
なんにでも首を突っ込むタイプではない。見切りの早さには定評がある。
頼まれれば断らないタイプではない。乗り気にならないものはあっさり断る。

言ってみれば僕は、可能な限りサボっていたいタイプ、略してカノサボである。こんなことまで略してサボりたいのである。ちょっとカサノバに似てる。

昔はそうだったけれど、いつの間にかタイプチェンジした、なんてこともなくて、今でもがっちりカノサボ・タイプである。朝は眠たくなくなるまで寝ている。

それなのにそれなのに、グーグルカレンダーがどんどん埋まっていく。
いったいどういうことなんだろうか。

この疑問に上手に答えてくれそうな本を只今物色中。

来年のゼミ本の候補探しも兼ねて、最近話題の人文書あたりをガツガツ読みはじめてます。

【催し】まるネコ堂自力整体

自力整体をまるネコ堂でやることにしました。詳しくは山根みおの案内文を読んでいただきたいのですが、自力整体というのは、簡単に言えば、自分でやる整体です。

山根みおのブログ:【催し】自分で自分の体を整えていく『自力整体』。

澪は妊娠中、毎日自力整体のDVDを見ながらやっていて、僕は傍目に見ながら時々一緒にやったりしていました。

自分でも効果があるなと思ったのは、股関節と足首。ここをしっかりほぐしておくといいというので、ちょくちょく気にしてやっていますが、腰痛予防になっている気がします。

自分で自分の体を観察し、考え、試していくというのが面白くて、いろいろと体のあちこちを捻ったり曲げたりしています。

体のことをなにかやりたいなと思うけれど、こういうのってなかなか続かないんだよねという(僕みたいな)方は、自力整体、一度お試しください。面白いです。

【507】視覚が水平を手に入れる。(生後80日目)

新(あらた)を寝かせていた籠の大きさが限界に近づいた。蹴っ飛ばすと頭がつかえそうになる。というわけで、籠からバウンサーに乗り換え。

ご満悦で我が家の指揮をとる。

背もたれの角度が調節できるので、まずは一段だけ傾きをつけている。これだけで、かなり視界が変わる。天井しか見えなかった視覚が、水平という広がりを手に入れる。つまり広がりとは水平のことなのだ。重力に直行することを広がりという。

これまで使っていた籠はブランケット入れとして活躍中。
スターバックスっぽくなった。
ご自由にお使いください。

籠はまゆちゃんからもらったもので、バウンサーはお馴染み小林家からの借り物。いずれもありがたく使っている。

November 24, 2018

【506】やはり喋りまくっている。(生後79日目)

昨日今日の二日間で7人ほどの来客があった。新(あらた)は来る人来る人に対して喋りまくっていた。というか、来客が多いからおしゃべりなのかもしれない。むろん、通常の意味での意味は伝わってはいない。

音がなる系のおもちゃにはほとんど反応しないが、人の話し声にはやたらと反応する。というか、話しかけられたい、話したいというのが露骨。話の輪に入れないと機嫌が悪い。

この時期の行動が、その後どのように影響していくかなんて全く予想がつかないし、予想したくもないのだが、このまま行くとおしゃべりな男になってナンパとかしそうである。

November 23, 2018

【505】人民服ならぬ(生後78日目)

先日母親から送られてきた奇抜な服を着せてみた。
ちょっと大きめ。
ぴったりサイズだともう少しマシなんだろうか。
逆にピッタリのほうが変かもしれない。

この生き物。なにかに似てると思ったら、あれだ。

ピクミンの青いやつ。
やったことないゲームなのに、なぜか思い出せた。

ピクミン服と名付ける。

November 22, 2018

【504】日々、筋トレをしている。(生後77日目)

新(あらた)は、どんなに重たい毛布でも蹴っ飛ばすことにしている。今日も暇さえあれば蹴っ飛ばす。
胸元までしっかりかけておいたはずの
ウールのフルサイズの重たい毛布も数分でこの通り。
おかげで、うつ伏せにされたときに、ちょっとだけ前に進むようになった。
足で蹴って前に進む。
座布団の大きさが足りなくて、
ちょっと進むと頭が落ちてしまう。
赤ん坊がどうして足をヒコヒコ動かすのか。腕をブンブン振るのか。そんなことをしてなんになるのかと思っていたが、ズリバイへの着実な筋トレだったことに気がついた。今できることを徹底的にやることで、次にできることが増えていく。

今は、一日の大半を仰向けに寝かされているから、できることといえば、足を動かすことと、腕を動かすこと、掴むこと、何かを発声しようとすること、笑うこと、泣くこと、周囲を観察すること、など。一日中、それをずっとやる。

そりゃ上達する。成長する。

November 21, 2018

【503】今日は岡本太郎に似ている。(生後76日目)

新(あらた)は、色々な人に似ている。
今日は岡本太郎だ。
口元は太陽の塔に似ている。
これまでの歴代似ていた人。
・子泣き爺。ま、似てる。
・安倍晋三。意外に似ていた。眉間のシワがポイント。
・アラーキー。写真家の荒木経惟。髪型が似ている。

多分まだまだ増える。

November 20, 2018

【502】自分に関わる連絡手段を一新してしまいたい欲望に時々かられる。一種の放浪癖。

澪の父親は携帯電話を持っておらず、連絡をとろうと思うと自宅の固定電話にかける以外にない。外出するときなどで必要があれば澪の弟に一日100円で携帯電話を借りていくらしい。メールもしない。僕が大学生ぐらいまでは、それが当たり前だったが、今となってはかなり特殊な連絡環境にあるように見える。

僕は時々、というか定期的に、連絡手段の何もかもを変えてしまいたいという衝動に駆られることがある。放浪癖のマイナー版である。2年ほど前になるだろうか。東山の和室と呼んでいた古いアパートの一室を共同で借りていたとき、たぶん僕はそういうマイナーな放浪癖を満足させようと思っていた。あの小さな一室に一人でぼーっとしている時間は、ようするに放浪していたということなのだ。

放浪は現状に対するアンチテーゼではあるけれど、現状への怨嗟ではない。現状を愛しているが故に、現状から距離をおきたくもなる。現状を濃厚にし続けているから、その現状に自家中毒を起こす。こういう気分を何度も何度も繰り返してきた。そのたびに少しずつ違う代替案を開発し続けてきたとも言える。

自宅に居ながら放浪することができればそれが一番いいのではないか。そしてそれは慣れ親しんだ状況の気がする。

【501】習慣とはなにか。

この二ヶ月ほど、毎日ブログを書いている。習慣になった、と言ってもいい。
習慣(しゅうかん、英: habit)とは、
・日常の決まりきった行いのこと。長い間そうすることによって、そうすることがあたかもきまりのようになったこと。
・(心理学用語)反復によって習得し、少ない心的努力で繰り返せる、固定した行動のこと。(ウィキペディア「習慣」)
この説明だと、何度もやっていることがあったときにそれを習慣と呼ぶということなのだけれど、僕の言葉のニュアンスでは「習慣」にはもう少し色がついている。

それは、あることをやればその結果どうなるかをすでに熟知していることである。習慣が習慣として機能するには、この「結果をよく知っている」という要素が必要だと思う。「少ない心的努力で繰り返せる」からやるのではなく、結果を知っているからやるのだ。

言い換えれば、習慣というのは確実さへの依存である。安心だからである。習慣がいざというときの拠り所になりうる所以だ。

では、僕がブログを書くことが習慣になったということは、僕は、ブログを書くとどうなるかを知った上でやっているということになる。それはなにか。

ブログを書くことはある種の解放感を伴う。書くことで解放されたという気がする。書くまでは解放されていない。この解放感のために僕は毎日ブログを書いている。

ブログのように、それほど長くなく、かつ、それほど深刻でもなく、かつ、一般に公開される文章を日常的に書き続けることの意味は、たぶんこのぐらいのことだと思う。(収益を無視すれば。ちなみにこのブログは広告をつけていないので、どれだけ読まれても収益はない。)

そろそろ長くて深刻?なものを書きたくなってきた。

【500】冬場の便利グッズ、ブランケット。(生後75日目)

秋の陽射しにブランケットはよく似合う。

新(あらた)が生まれる前から、冬場便利に使っているのがブランケット。僕は外出時、ほとんど荷物を持たないのだけれど、これだけをわざわざリュックに入れて持っていったりする。お腹が冷えたりするのを防ぐのにちょうどいい。

うちにはハーフサイズ(90✕130cmぐらい)のが4枚ほどある。亡くなった父親が使っていたのを思い出して、実家を探したら出てきた。どれも古くて、虫食い穴がたくさん空いていたけれど、澪に繕ってもらった。

大きな穴も直してもらった。
もちろん、赤ん坊にかけたりくるんだりしておくのにも重宝する。ほんとはクリーニングに出したほうがいいのだろうけど、あまり気にせず汚れたときは家の洗濯機で普通に洗っている。

寝るとき、掛け布団の上にかけておくと暖気が逃げずびっくりするほど温かい。暖房器具を買うのなら、良いブランケットは候補に入れておいてもいいと思う。

クリッパンのウールブランケットあたりがたぶん定番。

November 19, 2018

【499】文章書き用ソフトはもっぱらグーグルドキュメントになった。

1年ほど前、Wordで長い文章を書いたときに挙動の限界を感じて以来、Wordはほぼ開かなくなった。8万字ほどの文章だった。

テキストエディタなどいくつか試してみたけれど、どれもそれほどしっくり来るわけでもなく、かといってとても使いにくいというわけでもなかった。それならもうグーグルでいいんじゃないかとグーグルドキュメントを使っている。

共有できるから、澪が催しの案内文を書いて、僕が添削して、澪がデザインして、僕が印刷して、澪が手渡すなんてこともできたりする。便利だ。

あと、ファイルをローカルに保存しておかなくてもいいというのは、とても僕向きで、つまり、整理が苦手なので、サーバー上に残ってくれているほうが自分で管理するよりもずっと安心である。

グーグル依存度はどんどん上がっていて、もし、今使っている2011年製のMacBook Airが壊れたら、次に買うパソコンは激安のChromebookとかChromeboxとかChromebitだと思う。パソコンを買うとしたら、だけど。


ちなみに、写真や動画を含め、僕のすべてのデータはクラウド上にあって、ハードとしてのパソコンが壊れても、データはダメージを受けない。

こういうことが当たり前になる世界にいつかなるんじゃないだろうかと思っていたようなサイバーパンクな状態なのだけど、なんともヌルっといつの間にか実現している。そのうちヌルっと首の後にUSBのソケットがつくかもしれない。

こうやって散々インターネットの恩恵を受けているのに、僕はインターネットをそんなにありがたいと思っていない。興奮も感謝の気持ちもない。パソコンやスマートフォンへの興味は薄れていく一方である。昔は結構好きだったんだけどな、アップルの発表会とか。僕も歳をとったということか。

ちなみに今かろうじて気になっているのは、これ。
カードケータイ KY-01L
え?なにこれ。電子ペーパーディスプレイ?「静止画面の消費電力ゼロ」ってほんとに!
普通に欲しくなったよ。

【498】子供服にかける情熱。(生後74日目)

10個のりんごともにド派手な子供服が送られてきた。母親からである。

左の三着が母親から。よく見つけたなこんな服。
今着ている適切なデザインのは小林家からの借り物。
生まれた直後にも一度、似たような派手な服をプレゼントしてくれたが、今回はさらに輪をかけて、やりたい放題の域に入っている。オレンジのやつなんか、このまま山に入っても猟師に誤射される心配がないレベルである。

僕が思うに、乳児の服を買うのは一種の博打である。乳児服に「来年」の二文字はない。その恐るべき成長速度と季節変化の兼ね合いを見極めなければならない。チャンスは一度きりなのだ。

特に新(あらた)は、生後約2ヶ月に渡って平均の2倍の成長速度をキープした。10センチ刻みのサイズなど、一瞬の通過点である。

たとえ、ぴったりの季節にぴったりのサイズを的中させたとしても、数週間もすればサイズアウトは確実。その間に何回着ることができるというのか。まるでステージ衣装である。

いやむしろ、日々がステージだということなのかもしれない。毎日強烈に変化し続け、後戻りすることも停滞することもない子供時代は、一瞬たりともケはなく、常にハレなのかもしれない。

だからこそなのだろう。母親は、初手から無難な選択は削り落とし、自分の趣味の最高到達点をいきなり全力でぶつけてくる。

たぶん、また送りつけてくるはず。これで終わりではないだろう。

November 18, 2018

【497】座布団は必需品。(生後73日目)

おくるみはスワドルデザインの。使い勝手が良い。
赤ん坊を寝かせておくのに座布団は最適だと思う(幼児がいる場合は踏み潰されないようにベビーベッドの方がいいのかもしれないが)。座布団がなければきっと余計な手間が増えていたか、余計な物品が増えていたと思う。

うちの居間は、床に座るスタイルでもともと座布団をよく使う。小林家から借りているものもあって、ちゃんと数えてはいないけれど、大人数の催しでもまぁなんとかなっている。

赤ん坊を寝かせたり、うつ伏せ体操したり、オムツ替えするときに使う座布団は澪が作ってくれたデニムの座布団カバーがかかっているやつを使っている。デニムカバーは丈夫だし、汚れたら気にせずどんどん洗えばよくてとても使い勝手が良い。

この間、ゆうきさんに聞いてなるほどと思ったのだけど、最近は座布団を売っているところが少なくなった。街なかの雑貨店などではクッションしか買えない。寝具屋さんに行けばあるのだろうけれど、その寝具屋さんが減っている、という話。

座布団は必需品なだけでなく貴重品なのだ。

November 17, 2018

【496】笑う時間が増えた。(生後72日目)

新(あらた)の笑っている時間が増えた。もう、とても、ものすごく、増えた。

僕は日頃けっこう笑っている。ノーテンキでお気楽で無責任で楽天的な、どうしようもない駄目人間だと自覚している。

とはいっても、実のところそんなに笑ってはいられない。むしろ、不機嫌で愛想が悪く悲観的な普通の人間だと思われていると思う。

その点、新は本物だ。笑うべきところで笑っている。笑えるだけ笑っている。笑っていることが値千金である。

僕も笑って過ごしたい。

追伸:何しろ、子供が生まれて以来、なにからなにまで大変で、もうほんとてんやわんやで、限界で、がんばってがんばって、毎日をどうにかこうにかやっていて、笑いたいよ、笑っていたいよ、ほんと、いやほんと 、まじで。

November 16, 2018

【495】電車のなかの乳児。(生後71日目)

京阪特急に三条から乗ると隣に白人男性が座っていた。白人男性は、画面のエッジがカーブしたカッコいいスマートフォンを親指をじわっと動かしながら片手でテキストを読んでいる。カッコいいと思ったのは、エッジの丸みではなくて、表示された英文字の並びのせいかもしれない。もうすぐ中書島に着くというときに、男性のさらに隣の日本人女性がその場に立ち上がった。女性は前抱きに赤ん坊を抱いて少し揺すっている。すると白人男性が、膝の上に載せていた白いトートバッグから哺乳瓶を出してスティックの粉ミルクを入れ、サーモスみたいな保温水筒からお湯を注ぐ。手慣れた感じがするが、乳児用品が詰め込まれたトートバッグのなかを背中を丸めてゴソゴソやるのは窮屈そうだ。平日四時台の特急はそこそこ混んでいる。何度か哺乳瓶を振って粉を溶かし、温度を確かめてから、女性の手元に軽くぶつける。女性は視線を向けずに手だけで受け取って赤ん坊に飲ませる。赤ん坊は無事、ミルクにありつけた。哺乳瓶に出来上がったミルクの量とピンクがかった赤ん坊の後頭部の感じから、たぶん新(あらた)と同じくらいの月齢じゃないかと推測する。赤ん坊を連れて電車に乗りなれているのか装備品や連携に危なげがない。中書島で僕は降りたが彼らは降りない。一言も二人の会話を聞かなかったし、一瞬も赤ん坊は泣かなかった。何も起こらなかったが、何かが張り詰めていた。

【494】自分が面白いと思うことを自分よりも上手くやる人。

いつからだろうか、僕は僕が面白いと思うことを僕よりも上手くやる人を見る目が、諦めから望みへと変わっていった。

もともとそんなに妬みは持たない質なのだけど(言い換えれば、向上心や競争心やハングリー精神が希薄)、その代わり僕は諦めてしまう方だった。僕よりも上手い人がいる所に僕がいてもしょうがない。

たぶん僕は僕がそこにいることの重大さを小さく見積もっていたのだろう。

しかしどうだ。よく考えれば、いや考えるまでもなく、自分が面白いと思うことを自分よりも上手くやる人がいたとしたら、僕はそれを面白がることができるのだ。

それだけではない。僕がそれを面白がることが、僕でない誰かが、自分だけではできない、もっと面白いことができるようになることになる。僕が面白いと思うことが僕でない人を介して拡大する。今の僕の周囲には、そういう人が大勢いて、僕はただ「僕のオモシロ」を面白がっているだけなのだけど「僕のオモシロ」は日夜拡大している。

これを幸いと言わずして何を幸いと言うのか。これを豊かと言わずして何を豊かと言うのか。

November 15, 2018

【催し】山本明日香レクチャー・コンサート(定期開催)


レクチャー・コンサートというのをピアニストの山本明日香さんと企画しました。

演奏者が楽譜をどんなふうに「読んでいるのか」。
それを演奏者本人から聞いて、その後、実際の曲を演奏を聴くというものです。
演奏を聴くだけのコンサートでは得られない、演奏者の耳(というか体全体)の状態で曲を聴く時間です。

===
「シューマンはこんな喋り方しない」

ピアノを前にして、実際にフレーズを弾き比べながら、まるでさっきまで一緒にいて語り合っていたかのように、有名作曲家のことを口にする明日香さん。それも割と親密な関係の。

「モーツァルトが好きな言い回しは、」

モチーフや展開ではなく、言い回しという言い方から滲み出てくる楽譜を読むという体験の一端。

クラシックピアノの演奏家は、曲を演奏するためにいったいどんなことをやっているのか。どんなことが起こっているのか。というのは知っているようで知らないことでした。

演奏者が楽譜をどう読み、どう演奏として実現させているのか。言い換えると、楽譜を通して作曲家はいったいどんなふうに話しかけてくるのか。それに演奏者としてどう応えるのか。

そんな作曲家と演奏者との濃密なやり取りの世界に、僕たちも連れて行ってもらえれば、果たして曲はどう聴こえてくるのか。

レクチャー(講義)の語源は、ラテン語の「読むこと」。フランス語ではレクチュールです。楽譜を読み(レクチュール)、それを話す(レクチャー)コンサートという意味でタイトルをつけました。

2時間のプログラムで演奏されるのはたった一曲。

それも、自分自身で詳細かつ具体的な説明をした上での演奏という、演奏者には大きな負担がかかるコンサートですが、聴く方にとっては、とても贅沢で、特別な体験になるはずです。

大谷隆

日 程

第4回 2019年11月24日(日) 14時から16時
ハイドン・ピアノソナタ変ホ長調 作品82 Hob. XVI:52

過去の開催履歴

第1回 2018年12月16日 モーツァルト・ピアノソナタ k.330ハ長調
第2回 2019年3月10日 ベートーヴェン・ピアノソナタ第5番 Op.10-1 ハ短調
第3回 2019年7月15日(月祝) シューベルト ソナタ第13番 D664

解説・演奏

山本明日香(ピアノ)

内 容

一曲を選び、その楽譜を深く読み込んで具体的な詳しい解説(約60分)を行ったあと、その曲を演奏します。演奏のみのコンサートと異なり、レクチャーを受けることで、作曲家や演奏家がやり取りしている世界の中で曲をより深く聴くことができるようになります。

場 所

SAKURAGAWA PIANO ROOM(大阪市、最寄駅・地下鉄桜川駅)
    ※詳しい住所はお申込後、返信でお伝えします。

参加費

3,800円

定 員:6人程度

主 催:山本明日香・大谷隆

お申込

marunekodo@gmail.com(大谷)か山本明日香までメールかメッセージで。

山本明日香のプロフィール

1989年生まれ。群馬県出身、大阪市在住。A型、魚座。東京学芸大学G類ピアノ科修了。大学卒業後大阪に移住。2011年、自宅にてピアノを教え始める。現在、自宅の他にソフィア音楽教室(奈良)と精神科のデイケアセンター(兵庫)にてピアノを教える。2015年10月にSAKURAGAWA PIANO ROOMを立ち上げ、「誰でもわかる 楽しいレッスン」をモットーに、毎月20名以上の指導にあたっている。

【493】まだ、くすぐったくない。(生後70日目)

脇腹あたりをくすぐっても、新(あらた)はくすぐったそうにはしない。いわゆるくすぐったいというのはいつ頃から始まるのだろうか。

そもそもくすぐったいというのは厄介な感覚で、例えば自分でくすぐってもほとんどくすぐったくない。くすぐったいという感覚は、他人にすくぐられなければ発生しない。

物理的身体的には同じ刺激でも、自分でやるのと他人でやるのとで引き起こされる感覚が全く異なる。感覚と言っているものの正体の一端がここに現れていると思う。

つまり、感覚はイメージを伴うのだ。より正確な言い方をすれば、少なくとも、イメージを経由することで生じる感覚があるのだ。

感覚というのは、ある外部刺激に対する、該当身体部位の感受性によってのみ発生するわけではなく、感受した刺激が統合されることによって発生する。その際、意思や意図あるいは想像といった〈イメージ〉も統合に加わっている。

これは「感覚と理解」「感覚と思考」「感覚と想像」といったように、感覚を身体的なものとして、理解や思考や想像を頭脳的なこととして、両者を区別することはできないということを示している。理解することで緩和される肉体的な痛みもあるし、知らないために感じない痛みもある。

また、悲惨な話を聞いて、そのシーンを想像し「胸が痛む」ことと、物理的にあるいは病理的に胸の部分が「痛む」ことは、痛みの感覚というものの仕組み上、同じ構造を持っているとも言える。イメージが身体システムに浸潤している。それも誤差などではなく重大に浸潤していることの証拠が「くすぐったい」ということだと思う。

新がくすぐったくなる時、新のイメージが身体システムに浸潤したのだと言えるはずだ。

November 14, 2018

【492】寒がりの新(あらた)。(生後69日目)

新はどうやら寒がりだ。今日のように曇って寒い日はそれだけで機嫌が悪い。とても困った顔をしている。ファンヒーターをつけてやるとちょっと落ち着く。

新にとって、9月6日に生まれて以来、一貫して寒くなり続けている。だからきっと、こんな調子でどんどんどんどん寒くなり続けたら一体どうなってしまうのだろうという不安があるのかもしれない。そんなものはないというふうには言い切れない。

僕たちが死を恐れるのは、生まれて以来一貫してどんどんどんどん老い続けていくからではないだろうか。一貫して死に近づいていくからなのではないか。心の持ちようやハイプライスな化粧品で一時的に若返ることができたとしても、基本的な基調として、下部構造として、基礎として、僕たちは一貫して老いていく。

人には、一方向へと常に傾いていること、物事が循環しないことへの恐れというものがあるのではないか。それへの信頼があるのと同じように。

とりあえず、新には、また生まれたときのように暖かくなることは伝えておいた。安心してくれるといいが。

November 13, 2018

【491】抱っこ好き。(生後68日目)

以前にもまして抱っこ好きになってきた。いや、新(あらた)ではなく僕が。

新(あらた)は成長曲線の95%帯のほぼ上限いっぱいを推移している(と思われる)。身長体重とも。つまり、でかい。このまま行くと、きっと他の子供達よりも早く抱っこができなくなる。できたとしても耐久時間が短くなる。僕の。

というわけで、せっせと抱っこしている。なるべく長く抱っこしている。今のうちに抱っこしている。

抱っこしすぎると甘やかされてよくない、などとしたり顔で言う人はどうかしている。抱っこできるうちに抱っこすべきだ。抱っこができる期間などほんとにわずかだ。僕はできるだけ抱っこするのだ。

November 12, 2018

【募集】自分の文章を書くための通年講座をやります。

来年から気合の入った通年講座をやります。
「読む・書く・残す探求ゼミ」としてやってきた講座をアップデートします。

「読む・書く・残す探求ゼミ」では、主に「読む」ということを深くすることをやってきました。

読むということは、一般に思われているほど、確固たるもの、あるいは、一つのもの、ではなく、読む人ごとに、読む文章ごとに違ったことが生じるような、ある奥行きを持った体験です。

同様に、書くということも、一つの作業を指し示しているわけではなく、書く人ごとに、書く文章ごとにそれぞれの領域があるような、ある広い場所での営みです。「自分の文章を書く」という営みは、それぞれの人が、自分なりの場所で自分なりのふるまいとして書くことになります。

その場所は、どんな場所で、どこにあるのか。他の人の場所とはどのように接しているのか。重なっているのか。あるいは重なっても接してもいないのか。そういったことを受講生とともにさぐってみたいと思います。

自分の文章を書くための通年講座2019、第一期生、募集です。

募集案内を御覧ください。

大谷隆

【490】残存しているうちで最も古い記憶以外の記憶のありか。(生後67日目)

僕自身が覚えている最も古い記憶はたぶん、造形教室で紙粘土をこねたり、投げていたずらしたりしていたアレだと思う。3歳か4歳か。

といっても、これは、アレだと名指しできる程度の明度を持った記憶のことで、名指しできるほどの明度を持たない、もっとぼんやりとしたある雰囲気といった程度の記憶は、他にもあるような気がする。

これは、スペインのラパシエガ洞窟に残された6万4千年前の壁画が、人類にとって最初の壁画ではなく、たまたま現在まで残っている絵画のうちで最も古いということに似ている。

当然のことながら、ラパシエガ洞窟の壁画以前にも膨大に絵は描かれた。ただそれらは残っていないか、残っていたとしても見つかっていない。現在の人類が行っている「絵を描く」という出来事の全体性の中に、スペインの特定の洞窟の壁画だけが影響しているわけではなく、それ以前の現存していない多くの絵画の影響も残っている。

この日記に書かれているような出来事は、当然、新(あらた)が大人になったときに記憶として残っている可能性はほぼない。少なくとも明示的に名指しできる記憶としてはおそらく残らない。でも、だからといって、全くなんの痕跡も残さないということももちろんなくて、たぶん、人間が記憶するという仕組みのどこかに「思い出せる記憶」「名指しできる記憶」というものではない形で、残るのだと思う。

こういうことは当たり前すぎてわざわざ文字にするほどのことでもないように思うのだけど残しておく。

November 11, 2018

【489】涙を流して泣いた。(生後66日目)

昨日のこと。

朝、新(あらた)が布団で泣いている。僕は眠くてなかなか起きれない。澪はすでに起きて階下に行っている。しばらく泣き続けてようやく僕が起き出しておしめを替えようと顔を見たら、右目から涙が一筋流れていた。

僕が見たはじめての新の涙である。澪は最近何回か見ていたようだ。

どうやらまだ、必ず涙を流すわけではないが、そのうちだんだんと涙を伴って泣くことが増えていくのだろうか。きっとそうだろう。

嘘泣きではなく、本当に泣いていると自覚しているとき、大人は涙を流していると思う。あるいは、涙をこらえている。涙が流れていることを指して、泣いている、という言葉で表現するとさえ言ってもいいかもしれない。しかし、それは生まれつきのことではなかった。

こういうことは、乳児の発育に関わる人にとっては当たり前のことなのだろうか。僕にとってはとても大きく驚くことだ。人が、生まれて育っていくということが、いったいどれほどの領域を含んでいるのか。新と一緒にこれから少しずつ、それが見ていけるのは、かなり楽しみなことだ。

November 10, 2018

【488】やたらと喋っている様子。(生後65日目)

しきりに喋ろうとする。
もどかしさが伝わってくる。
喋りかけると、あーとかえーとか言う。喋りかけなくても言う。一人で布団に寝かせていても言う。かなりおしゃべりなんじゃないだろうか、新(あらた)は。

何を言っているのかはわからないけれど、これは明らかに喋っている。他に説明できる行動がないのではないだろうか。動物が出す声とは明らかに発声が違う。

「言葉を話す」という構造自体はすでにできあがっていて、ただ「適切な言葉としての発声」ができないだけの状態なのではないだろうか。

言葉のわからない国へ行って、とにかく何かを伝えないといけないときに、あーとかえーとか言いながら、必死に手を振り回しているように見えてくる。

言葉を話し出すのはだいたい1歳ぐらいとされているけれど、いきなりその瞬間に言語という構造が赤ん坊に出現するわけではなくて、それ以前に言語構造はすでにできあがっていて、あとは具体的な「言葉」を待っているという状態から、1つ目の言葉が出てくるはずである。

だとしたら、もうこの時期、生後2ヶ月ぐらいから言語の構造は作られているのではないだろうか。

November 9, 2018

【487】洗濯物干しシステムの構築。物干し竿よりロープが便利。

今日は午前中雨が降ったので、洗濯物干しシステムを降雨時バージョンで全面展開した。

布おむつの場合は特にそうだけど、子供が生まれると洗濯物が一気に増える。なので、洗濯に関しては、生まれる前から対策をとっておいた。今日はそれが活躍。

ベランダの容量を二倍に

まず、ベランダ。もともと物干し竿が二本、直列にかかっていたのだけど、これに並行してロープを一本張った。これで、物干し容量倍増である。晴れているときはこれでほぼ間に合う。

降雨時物干しスペースの構築

続いて、ベランダに通じる2階の南向きの部屋を降雨時用の臨時物干しスペースに改装。部屋に5箇所、洋折をつけ、必要時にはここにロープを張れるようにした。もちろん、洗濯物を干さない場合はロープを撤収すれば普通の部屋として使える。少しだけ必要な場合は、少しだけロープを張るといった使い方もできる。

おすすめの便利グッズ「洋折」

洋折というのは、これ。



濡れた洗濯物は意外に重いので、大きめの丈夫な洋折を選ぶとよい。丸い洋灯(右)のほうがおそらく強度はあるけれど、洋折(左)の方がロープを引っ掛けたり外したりしやすい。

洋折はとても便利で、まるネコ堂では多用している(賃貸住宅だと使いにくいだろうけど)。素材は真鍮が好きなので真鍮をよく使う。

物干し竿よりロープがおすすめ

日本では物干し用品といえば、物干し竿が一般的だけれど、僕が思うに、洋服を干すにはロープのほうが適している。物干し竿はおそらくだけど、和装、たとえば浴衣とか襦袢とか、そういうものを袖口から通して干すために適した形状だと思う。

洗濯は戦略である。

今日は午後から雨も上がり、晴れ間も出てきたので、室内干ししていた洗濯物をベランダへ移動させて、室内のロープは撤収。こういうことは面倒だと思えば面倒だけど、面白いと思えば、面白がれること。僕はわりと好きで、洗濯システムの構築と実践をやっている。

子供が生まれて、天気予報が、それも時間単位の降雨予想が気になるようになった。洗濯物の種類によって乾くまでの時間が違うので、雨が降らないあいだに乾きやすいおむつを先に外のベランダの日当たりと風通しが良くて一番乾きやすいベストスポットで乾かして、乾きにくい大人の服やジーパンなどは後回しにしようとか、結構細かく考えたりしている。洗濯は戦略である。

【486】指しゃぶりというかゲンコツしゃぶり。そろそろよだれの季節。(生後64日目)

もう少ししたらゲンコツが口に入るのではないか。

最近、指しゃぶりが激しくなってきた。いやもう、ゲンコツをまるごとしゃぶろうとしている。今日ぐらいからよだれも垂らすようになってきた。そろそろ涎掛けが必要である。

面白いように、どんどん変化していく。おむつカバーは、60がサイズアウトした。夜は布おむつを二枚重ねしないと溢れるようになった。

それと、昨日二回目のノーミルクデー達成。初のノーミルクデーが59日目だった。

【480】横綱敗れる。ついにミルク無し達成。(生後60日目)

さて、今後、どう推移していくのだろう。いつか、粉ミルクを使わなくてよい日々が訪れるのだろうか。

November 8, 2018

【485】動物を飼いたいと思ったことは一度もない。

うちには猫が三匹もいるので、こういうことを言うと驚かれるかもしれないけれど、僕自身、動物を飼いたいと思ったことは生まれてから一度もない。動物に限らず、鳥や昆虫もない。大人になってからそうなったのではなく、子供の頃から、物心ついた頃からそうだったし、今でもそれは変わっていない。

猫を飼っている理由は、仕方なくだ。飼わなくても生きていけると思えたら、僕はたぶん3匹の猫を飼っていない。僕が飼わなければ生きていくことが困難だと思えたから、飼うことにした。いずれも仔猫のうちに親から離れ、自分だけでは生きていくことが困難な状態で遭遇している。つまり、これは「責任」という言葉の物語である。

子供の頃、僕もそれなりに昆虫を捕まえたりするのが好きだった。それなりというのは、ものすごく好きだというわけではないけれど、竹林に行って竹を蹴っ飛ばして、上の方からクワガタが落ちてきたりすると、それはやっぱり興奮した。でも、捕まえて虫かごなどに入れて自分で飼うとなるととたんに重圧を感じて、翌日わざわざ捕まえたところまで持っていって逃したりしていた。

僕が直接に関わらなくても生きていける存在について、僕が関わるということの責任に耐えきれなかった、というとあまりに大人びた言い方で信じてもらえないかもしれないが、小学校低学年のときから僕はわりとはっきりとそういったことを感じていた。

こういうふうに書くと「命の尊さを知っている優しい少年」というようなイメージをひょっとしたら持つかもしれない。が、それは違う。なぜなら、同時に僕は、鯛の活造りのような、今なら「残酷」と言われかねないようなご馳走が大好きだった。もちろん、それが「魚という生き物の命を奪っている」ことについても自覚していた。生き物に対する態度として、「優しい」ということの範疇に入るような状態では、少なくとも自分の意識としてはない。

これは今でも基本的な意識としては変わっていない。食べるために殺すこととそれ以外とは、僕の中では全く別のことである。食べない以上、ゴキブリや蚊すらも、本当のところは殺したくない。

食べるために殺す命と、そうではないことで失われる命とを、「命」というものの種別として区別しているのかというと、これは難しい問題なのだけれど、僕としては「命」としては区別はしていない。しかし、外から見ればそう見えてもおかしくはない。

命というものは同じだけれど、命を奪う必然性が異なっている。食べるために殺すことは自然だけれど、食べないのに殺すことは反自然だ。僕はその反自然性に対して抵抗がある。できることなら、あるいはできるだけ、自然に生きたいのだと思う。痒くなければ(そして一部の感染症を無視すれば)蚊に刺されることはなんの問題も僕には生じない。

夏休みの自由課題とかでよく、昆虫が好きだから昆虫採集をしました、みたいなことを言ってる子供がいたが、子供心に全く理解できなかった。極めて反自然に思えたし、「理科」とか「生き物」とか「生物」とかへの興味と、食べるわけでもないのに生き物を殺すことができる反自然的な神経とが同居しているということが僕には不思議でならなかった。

今ならもう少しわかる。自然から遠ざかることは、責任を負うということで、少なくとも僕は、昆虫採集という行為の責任を負えなかったのだ。

冒頭の猫の話に戻りたいのだけれど、流れとして簡単に戻れそうにないので、以下唐突になる。

責任という言葉の根は、命というものへ関与の意識なのだと思う。責任とは、命への関与に対する反作用のことだ。猫を飼う日々は、この反作用を受け続けることである。飼うことは命への関与に他ならない。僕は、できれば猫たちとも自然でいたかった。しかし、そうすることができなかった。命そのものが、自然からの遠ざかることを後押しした。遠ざかった分、命そのものの重さで、反作用が、責任が生まれている。だから、僕は猫を飼っている。

【484】今日は休憩日。休憩は有意義な時間の使い方。(生後63日目)

澪が風邪をひいたらしく熱っぽい。新(あらた)も機嫌が悪い。僕も疲れが溜まっているようで眠い。こういう日は休憩する日。午後は昼寝が仕事。夕方になったら買い物に行って元気が出るご飯を作る。

休めばまた様々なことができるようになるわけで、時間の使い方として、休憩というのは比較対象がなく唯一で、とても有意義である。

November 7, 2018

【483】子供に語って聞かせるデマカセ話。(生後62日目)

昨夜、新(あらた)がなかなか寝付けないようなので、お話を聴かせてやった。
アラちゃんのお話。
アラちゃんはお腹が空いてきました。
アラちゃんは美味しいご飯を探しに行くことにしました。

アラちゃんは海へ行きました。
海には美味しいお寿司がありました。
アラちゃんは美味しいお寿司をお腹いっぱい食べました。
お腹がいっぱいになって眠くなったので、
アラちゃんはお昼寝をしました。
アラちゃんが目を覚ますと、お腹が空いていました。
アラちゃんは美味しいご飯を探しに行くことにしました。

アラちゃんは山へ行きました。
山には美味しいきりたんぽ鍋がありました。
アラちゃんは美味しいきりたんぽ鍋をお腹いっぱい食べました。
お腹がいっぱいになって眠くなったので、
アラちゃんはお昼寝をしました。
アラちゃんが目を覚ますと、お腹が空いていました。
アラちゃんは美味しいご飯を探しに行くことにしました。

アラちゃんは中華料理屋さんへ行きました。
中華料理屋さんには美味しい麻婆豆腐がありました。
アラちゃんは美味しい麻婆豆腐をお腹いっぱい食べました。
少し辛かったけど、お腹がいっぱいになって眠くなったので、
アラちゃんはお昼寝をしました。
アラちゃんが目を覚ますと、お腹が空いていました。
アラちゃんは美味しいご飯を探しに行くことにしました。

アラちゃんは沖縄へ行きました。
沖縄には美味しいあぐー豚がいました。
アラちゃんは美味しいあぐー豚をお腹いっぱい食べました。
おしまい。
口から出るに任せるデマカセ話。本の読み聞かせよりも、話して聞かせる僕が眠くてもできるから、実はこっちのほうが好き。お話もわりと簡単に作れる。もっとも子供は本の方が好きかもしれない(過去、3歳児に「お話じゃなくて本を読んで」と言われた経験がある)。

また新作ができたら公開します。

November 6, 2018

【482】笑いのはじまり。(生後61日目)

今日は新のはじめての予防接種で、病院まで澪と一緒に行ったのだけど、熱が出ていて受けられず帰ってきた。特に気にする必要もないレベルだが、昨日から機嫌が悪かったのはこれだったのかもしれない。機嫌が悪いというのは、理由がわからない泣き方が断続的に長時間続くこと。これまではあまりないことだった。

また、喉と脚の股の湿疹がひどくなっていたので、塗り薬を出される。以前の耳のときと同じ薬かもしれない。耳の方はもう治っている。

昨日、初めて(だと思う)、「アキャ」と声を出して笑った。笑った拍子に偶然音が出たのかもしれないが、ここ数日、とても良く笑うようになっていたし、笑い方がいわゆる生理的微笑ではなく、笑うべくして笑うようになってきているので、笑い声ぐらい出てもおかしくない。生理的微笑との目に見える大きな違いは、一度笑いだすと笑っている時間が長いことで、最近はうまくあやせば1分ぐらいは機嫌よく笑い続ける。

声を出して、なにか喋ろうとしている様子も多くなった。もちろん何を言っているかは定かではないが、概ね天上天下唯我独尊的なことを喋っているのだろう。舌がうまく使えないので、喉から音を出す感じ。舌はそのまま出したり、口の中で反らして舌の中程の部分を前に突き出したりぐらいしかできない。

たぶん、今ぐらいが、生理的欲求ではない「人間としての」通常の意味での意思疎通が取れるか取れないかのギリギリのところではないか。これ以降、僕はたぶん新を笑わそうとして笑わせることができるようになっていくだろう。通じないということは、ある種の理想郷ではある。

生理的な欲求以外での意思疎通の始まりが「笑い」を伴うということに人類規模の希望を感じる。大げさだけど。大げさついでに言っておくと、僕は、人間というのは面白おかしく生きていく生き物だと思っている。新が生きていくことも面白おかしくあってほしい。

November 5, 2018

【481】煮魚部、真メバル。

煮魚部とは、スーパーで安くて美味しそうな魚があれば、たとえ食べたことがなくても臆することなく買って帰り、醤油と味醂で煮る部活である。「にざかなぶ」と呼ぶ。

設立の経緯については以下。
【473】煮魚部の活動(生後55日目)

今日の活動は、真メバル

普通、頭が左になるように置くはず。これは逆。
この「魚の頭は右か左か」ネタは倉本聰もエッセイに書いてた。
二尾で200円。近くのスーパー「ハッピーテラダ」で。いつものようにフライパンで、ほぼ同量の水、味醂、醤油で煮る。

前のエントリーではフライパンに先に魚を並べてそこに水などを入れていたけれど、先に水と調味料だけを入れて煮立たせてから魚を入れたほうが、それっぽいと思うので、今回はその方式で。

あと、その前に、鱗と内臓は取った。鱗は包丁の背中で尻尾の方からゾリゾリと髭の逆剃りっぽく削ぎ落とす。結構ガリガリやっても身が潰れたりしないので、思いっきりやって大丈夫。続いてお腹のところに包丁を入れて、指で内蔵を掻き出して、水で洗う。で、煮る。

美味しい。

はっきり言って、この味付けだとまず美味しい。煮魚、失敗する気がしない。メバルはほろほろと身がほぐれる感じが美味しさを倍加している。

【480】横綱敗れる。ついにミルク無し達成。(生後60日目)

昨日ついに粉ミルク無し、つまり丸一日、完全母乳で過ごすことができた。横綱と呼ばれるほどに育っている新(あらた)君に、母乳の量がようやく優った。

生後38日目のエントリー、

【455】おっぱい対決、37連敗中(生後38日目)

これ以降、それなりに対策は練った。効果があった気がするものとしては、

1 玄米(ニア玄米)食
2 肩こり体操、肩こりマッサージ
3 ノンカフェイン

ニア玄米というのは、ほぼ玄米のこと。うちの精米機は、白米の他に、七分・五分・三分と分搗きできるのだけれど、この三分搗きよりも玄米に近いものをニア玄米と呼んでいる。どうやるかというと、分搗きの目盛りは三分に合わせて、分量の方を少なくする。具体的には、四合入れて二合分精米すると、たぶん精米する時間が半分になって、1.5分搗きぐらいになる。このニア玄米食を増やした。

母乳の出を良くするツボは肩こりのツボと同じらしいので、ようするに肩こりを直せば母乳はよく出るのではないかということで、澪が肩こり体操をして、僕が時々マッサージした。たしかに肩こりにはなりやすいらしい。

ノンカフェインは、午前中のみカフェイン飲料を飲んで、午後は飲まないようにすること。これは母乳の量を増やすというよりは、夜の寝付きがよくなれば必要以上に母乳を要求しないかもしれないということで。ノンカフェインについては、澪の検証が続いているので、そのうち報告があるかも(→第一報)。

まぁ、ほんとうのところどれが良かったのかはわからないけれど、何もしないよりは断然よかったと思うタイプのことではあった。今後、母乳のみに移行できる希望が出てきた。


今日はちょうど60日目ということで、いろいろその後のことを書いておく。

便秘。ここ5日ほど、毎日自分で出していて、一時期の便秘状態は解消された。うんちの出し方をマスターしたのだと思う。
【466】うんちの出し方わかった、かも(生後49日目)

気管関連。おっぱいやミルクを飲むときのヒーヒーいう音はだいぶおさまってきた。飲み方が上手になったというよりは、気管が育ってきたという感じがする。空気は呑んでいるようでゲップ、おならは相変わらず多い。

肌。まだ湿疹は出ているが、だいぶおさまってきてはいる。場所は、頭部から喉を経て、今は下半身がメイン。相変わらず魚の匂いがしている。
【462】赤ん坊から魚の臭いがする(生後45日目)

総じて気になっていたことは解消に向かっている。問題が解決した、つまり「治った」というよりは、それをかき消すぐらいの速さで成長していて、問題が問題にならなくなっている感じ。フェーズが変わってしまえば、取るに足らなくなるというというパワフルさを感じる。

November 4, 2018

【479】あらた(未)語録(生後59日目)

現時点での新(あらた)の(未)語録。

あぐー :(機嫌が良い)
はぁ  :(機嫌が良い)
あるうー:(機嫌が良い)
うぅ  :(機嫌が良い)
れれー :(機嫌が良い)
んくらぅ:(機嫌が良い)
ふん  :(機嫌が悪くなりかけている)

各種泣き声:(不機嫌)例:「空腹である」「おしめを交換せよ」「抱っこせよ」

泣き声というのは声というよりは「叫び=音」であり、動物の鳴き声と同様のメカニズムで発せられている。人間としての言語は、それとは異なる〈発声〉によって生じているようにみえる。

ということは、言語は機嫌が良いときに生まれたのではないか。
言語は起源としてゴキゲンなのではないか。

【478】本好きが本の話をする時間、3回目を終えて。不真面目な文体。

どうしようかと悩んだ末に、つまみ食い企画をやってみた。10冊ほどの小説を選び、その1ページ目だけをコピーして、参加者で読んでみるというもの。

10冊はどれも、うちにある本で、つまり僕が好きな、あるいは好きだった小説を選んでいる。

一応、企画主旨はこう。

1ページ目しか読んでいないのだから、ストーリー展開、登場人物の魅力といったものを知ることはほぼできない。しかしそれでも、その書き出しに魅力を感じたり、ある種の世界を感じたりする。それは一体どこから来るのか。

僕が小説が好きなのは「文体フェチ」だからなのだけれど、文体とは一体どういうことなのかを知ってもらおうという意図である。

文体は、書き出しの1ページだけでも十分に「体験」できる。その体験の魅力によって、その後も読み進めたいと思ったりする。ストーリー展開や登場人物といったものは、僕にとっては二次的なもので、一番のポイントは文体にある。

というようなことで、やってみたのだけど、一応は伝わったかなと思う。

で、それ以上にやってみて驚いたのが、選んだ10冊の多くに共通する印象があったことだ。僕は、小説であればだいたいなんでも読んできた。特定のジャンルにこだわった読み方はしていなかった。特定の作家のみ読むというようなこともしていない。だから好きな小説は様々なジャンルに渡っているし、様々な文体を持っている。だから、まさかそこに共通性があるとは思っても見なかった。

で、その共通性とは何かと言うと「ちょっとふざけている」こと。真面目ではないこと。斜めに見ていること。

文体からその不真面目さが読み取れてしまうような小説が、僕は好きだった。

===
月一回、やってます。
本好きが本の話をする時間・定期

November 3, 2018

【477】ブログテンプレートを変更しました。

まったくこの忙しいときになんでまたこんなことに手を付けたのだろうかと思う。

少し前からブログを1カラムにしたいとは思い続けていて、スマートフォンの表示みたいに、それで、ふと「blogger テンプレート 1カラム」と検索をかけたところから泥沼にハマっていった。

これまで使っていたテンプレートに不満があるかといえば、そんなになくて、だから、ちょっと試して思い通りにならなかったらすぐに戻そうと思っていたのだけど、かれこれ1時間以上かけていろいろ試した挙げ句、1カラムでも、以前のものでもない、以前のものにわりとよく似た新しいテンプレートになってしまうということになってしまった。

こういう無駄な努力を、僕はわりとよくやる。

追伸:最終的に選んだテンプレートはこちらで無料公開されているもの。ありがたく使わせていただきます。

テンプレート変更と合わせて、「プロフィール」ページを「まるネコ堂とは」に改め、内容も少し加筆しました。

【476】あらた大運動会。もうこんなに育ってしまった。(生後58日目)

秋晴れの心地よい日差し。大運動会を開く。種目はうつ伏せのみ。今はこれしかできない。毎日気が向いたら転がしてみてはいるけれど、今日は、長時間頑張ってみることにする。

もうすでに座布団一枚にギリギリおさまるかどうかというサイズになっている。もう少ししたら頭か脚が落ちてしまう。

うつ伏せにして、しばらくは右を向いたまま、んはーんはーと息をしている。そのうち背中と首のあたりの筋肉を使って頭を上げる。同時に腕にも力が入っているようで、長時間頭を上げたままにできるようになっている。

以前、こうやってうつ伏せにして、じっくり観察してみたのはいつだっただろう。その時の記憶の姿とは、がっしり感が違う。

一旦、頭を下ろして、指をしゃぶって、どうするかなと思っていたら、再び頭を上げて、少しずつ前に首を回し始める。新の左側に僕が移動して、あやしてみると、そのまま首を左に向けてくる。これはちょっと驚いた。以前はできなかったこと。

それからしばらく背をそらせて首を上げたまま、今度は足をガシガシと動かし始める。時々指が座布団にしっかりとかかって、頭の方向へずり上がりそうになるが、まだ体が移動するまでではない。足だけでなく手も動かす。横にしたり、胸の近くに持ってきたり。こういうことも以前はできなかった。手は座布団に張り付いたままだった。

結局10分ほど、うつ伏せでバタバタやっていたが、途中、首を上げたままで休憩を入れずに左右に振ってみせたり、両手を突っ張って胸が座布団から離れるまで反り返ったりするようになっていた。

できるようになるということの衝撃を本人はどのように感じているのだろうか。少なくとも横で見ている僕には大きな衝撃を与えていて、喜びであると同時に寂しささえも生じた。もうこんなに成長してしまった。

泣き出したので、終わりにして抱き上げると、いつもとちょっと違う顔で、体をゆったりと休めていた。

追伸:そういえば抱っこしているときに首が前にガクンとなることがなくなってきた。後ろには倒れるけれど。首が座りつつある。

November 2, 2018

【475】猫アレルギーを一応疑う。(生後57日目)

新(あらた)は、気がついたときから、わりとずっと鼻水が出ている。鼻が詰まって苦しそうにしていることも多い。湿疹もあって、今は喉や脚に多く出ている。たまに咳をしたりすることもある。

検診のときなどは、まぁこんなものですよというふうに言われていて、まぁそんなものかと思ってはいる。

ただ、うちには3匹の猫がいる。そして、冒頭の症状はアレルギーの症状と同じである。猫アレルギーの可能性も一応疑っておくことにする。具体的な対策は、猫と部屋を分けること、掃除をそのつもりですることぐらいだけど。

アレルギーというのが、だいたいどういうものなのかというのは、わかっているようでわかっていない。「免疫の暴走」というように説明されていて、それについてはそうなのだろう。しかし、現実的には複雑怪奇である。

猫アレルギーと一口に言っても、猫の毛、フケ、唾液、その他分泌物など、アレルゲンは多岐にわたる。猫の個体差もある。うちには3匹猫がいる。どの猫でも症状がでるのか、どれか特定の猫なのか、など「原因」となる可能性の組み合わせは天文学的になる。突き止めるのはかなり大変。正直に言って「アレルギーっていったいなんやねん」という気分になる。

様子をずっと見る。今の所、それはできる。

November 1, 2018

【474】ふがふがしている。(生後56日目)

新(あらた)のやっていることは、最初は単純だったのがだんだんと複雑になっていく。生まれた当初はやらなかったけれど、今はよくやることに「ふがふが」がある。

「ふがふが」というのは、例えば座布団に一人寝かされた状態で、でも眠っているわけではなく、起きていて、鼻息をふがふが荒くさせながら、両手両足を不規則に動かす状態である。

機嫌が悪いわけではなく、むしろ良い方だと思うのだけど、この状態からふとした拍子に泣き出すことも多い。

いったいなにをやっているのだろう。

思うにたぶん、何かしらの欲求があって、しいて言えば「自由」への欲求のようなもので、しかしそれがまだ「食べたい」とか「おしめが気持ち悪い」とか「おしっこしそう」とか「うんちしたい」とかそういう生理的な欲求と無分別なところにある。そういういずれ「自由」へと分離凝集する欲求のなかにあって、今は「思い通りになりそうでならない」その「思い」という場所と「通り」を区画整理しようとしているところなのではないか。手足が自由に動かせるようになる範囲が広がるつれて、区画整理が終わった区画から動作や目的といった家や店が並びだす。

しばらくふがふがしていていたかと思うと、気がつくと疲れて眠ってしまっていたりする。