April 30, 2018

【催し】まるネコ堂ゼミ・ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』

まるネコ堂ゼミ・ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』上下巻


(アマゾンで書名検索すると安い古本もあるようです)

〈案内文〉

イベントの案内文なのだから、なにかちょっとこう気の利いたことや意味深なことをほのめかす感じでさらっと書けば、興味につられて人が来てくれるんじゃないかと毎回思うのだけど、結局、妙に力の入った精一杯の案内文を書いてしまって、もうむしろ逆に門を閉ざしてしまうということがあります。ありませんか。今回もまた懲りずに自分の精一杯を無様に投げ出してしまうような長文になってしまった。

気負わずに来ていただけたらいいです。みんなで本を読むのって楽しいです。意外なことが起こったりして面白いです。だから読みましょうというだけのことを素直に書けばいいのに一体どうしてこうなるのかと毎回不思議なので、改めて言いますが、みんなで本を読むのって楽しいし、意外なことも起こるし、面白いので、ぜひ来てください。言ってみればほんとにそれだけのことをやっています。

となると僕の無様な精一杯の行き先として残るのは、今回読むデリダの本への僕なりの敬意と挑発だったのだとわかるわけですが、以下、それを付記しておきます。

デリダが本書でやろうとしていることは、西洋哲学まるごと、あるいは西洋まるごとを乗り越えることなのだけど、デリダによれば、この西洋=哲学はロゴス中心主義的・パロール中心主義的であり、エクリチュール(文字言語、書き言葉)を徹底的に貶めてきた。だからパロール(音声言語、話し言葉)にたいするエクリチュールの劣位を、むしろパロールのなかに、つねにすでにエクリチュールがあるということを示し直すことで、それを成す。

ということで、この本は「説明」できた気に一瞬なるのだけど、もちろんこんなことで説明できる本ではない。これでこの本を読んだことにできるなら、せいぜい「訳者あとがき」を読めば十分で、本書を読むこと(レクチュール)は必要ない。

デリダは、パロール中心主義・ロゴス中心主義を、恐ろしくねちっこく様々な方向で突きまくる。驚異的な「ルソーおたく」ぶりが存分に発揮される第二部では、ルソーを(ルソー以上に?)通ることで、中心主義という根源主義の「不成立」をあぶり出していく。読むことによって書くことによって、ルソーを通り過ぎ、自身の基盤である西洋=哲学までもを通り過ぎようとする。ハイデガーが採掘用のドリルでガリガリと掘り抜こうとした西洋という岩盤が、岩盤の硬さゆえに、民族中心主義的脱落者を生んでしまったのとは対称的な柔らかさで。ハイデガーを横目に見るデリダは、哲学者であるというよりも純朴な「哲学おたく」の風情がある。

どうしても説明にならない説明をしようとしてしまうのは、僕がまだこの本をちゃんと読んでいないからなのだけど、方向を変えて、今はとにかく僕がどうしてこの本が面白かったのかを書いてみる。

たとえば、僕自身がパロール中心主義的であることをあばかれたから。「自分が=話すのを=聞く」ことの絶対性を疑っていなかった。デリダは僕に向けて批判を開始している。これにまずドキドキする。

デリダは、書くことの限界を示しつつ、そのために、読むことの限界を実施する。読むことと書くことの限界付近の挙動をつぶさに露わに「書き記す」というのは驚くべきことである。デリダは自らの立つ西洋を限界で読み、書いた。その痕跡がまざまざと残されている。

デリダは自分が乗る土台そのものへの執拗な揺さぶりを、土台から降りるのではなく、また土台から浮遊するのでもなく、その土台に立ちながら遂行していく。西洋というもの、あるいは西洋語・フランス語というものがその土台を土台として構成している以上、必然的に言語への無理強いが生じる。その軋みと悲鳴に僕は魅了される。

さて。

日本語の僕たちが「先を読む」とき「書く主体(誰が書くのか)」は要請されない。「書くという所作」そのものの不在すら問として起動しない。「先」というのは、ただ「今の向こう=未だ」という開いた方向感だけを示している。つまり「対象」も読まれた「後に」出来することになる。「現前している今の状況から未来を想定する」ことを「先を読む」と言い得るのはなぜか。誰にも、書かれてもいない、書くという所作そのものを前提しないものを、僕たちは読んでいるかのように読める。もちろん、あくまでも「読む」ことの方から言い得ることに過ぎないけれど。

英語で think ahead することを read ahead と書き換えられたとして(これって自然なんだろうか。英語に無理強い?)、read としてどのようにイメージできるのだろうか。そのとき、write はどのように問題になっているのか、あるいはならないのか。フランス語においてはどうなのか。

また、日本語で「風景を歌に詠む」とき、「よむ」という営みが、(狭義の?)読むだけでなく、(狭義の?)書くということに重なりうることを直接に示唆しているようにも読める。

日本語の「読む」という語が保持する広さと柔軟さのなかで、僕たちは、比喩として簡単に片付けられない、ある実体を確かに得ている。読むことが、書くことを前提せず、書くことに先行するところまで、何気なくごく自然に、通り過ぎてしまっている。一体、「読む」では、何が生じているのか。

デリダが(レクチュールに対して)エクリチュールに重点を置いて書かざるを得なかったのは、フランス語に、ひいては西洋に、前提があるのかもしれない。書く、書き込む、記す、刻む、分節する、と鎧を脱ぎ捨てていくようにあらわになる「エクリチュール」なる語が振る舞うそこで、日本語は、「書く」という語であるよりもむしろ、読み、読み解く、読み取るという語で、つねにすでに営まれているのではないか。

ゼミでこれから読み始める前だからか、問ばかりが先行してしまう。答を得るために読むわけでもないだろうに。

唐突だけど、本書を一読して、デリダが発し続け、僕が受け取った言葉は〈ちゃんと読もう〉である。現時点でという留保がつくけれど、「グラマトロジーについて」という本でデリダが書かんとしたのは、日本語で言えば〈ちゃんと読もう〉、つまり「グラマトロジー」とは「読み学」がいいんじゃないのかな。日本語だと。

もちろんこんな出鱈目をデリダは書いていないかもしれない。たぶん書いていない。でも、僕たちには読むことができる、としたら。

ともあれ、デリダは書いた。僕たちは読む。
関心を持たれた方、ゼミで出会いましょう。

大谷 隆


第1回 2018年6月3日(日)
 上巻 第一部第一章 書物の終焉とエクリチュールの開始

第2回 7月1日(日)
 上巻 第一部第二章 言語学と書差学

第3回 8月5日(日)
 上巻 第一部第三章 実証科学としての文字学

第4回 9月30日(日) 
 上巻 第二部 「ルソーの時代」への序論、第一章 文字の暴力:レヴィ=ストロースからルソーまで 

第5回 11月4日(日)
 下巻 第二部第二章 〈この危険な代補……〉

第6回 12月2日(日)
 下巻 第二部第三章 『言語起源論』の生成と構造 Ⅰ『試論』の位置

第7回 2019年1月6日(日)
 下巻 第二部第三章 『言語起源論』の生成と構造 Ⅱ 模倣、Ⅲ 分節化

第8回 2月3日(日)
 下巻 第二部第四章 代補から本源へ:文字言語の理論

各回13時30分から17時ごろ(延長する場合があります)。
時間のある方は終了後夕食を一緒に食べましょう(投げ銭)。

参加費:1回 2,000円 
    レジュメ割引 1,000円(レジュメ提出回)

場 所:まるネコ堂(京都府宇治市) アクセス

定 員:5人程度

申 込: 大谷までメッセージか、marunekodo@gmail.comにメールで。

・本を読んできてください。
・各回ごとにレジュメ(形式自由)を提出できます。
・過去のゼミのレジュメはまるネコ堂ゼミサイトで公開しています。
・レジュメ割引で参加費半額(1,000円)です。ぜひレジュメを書いてみてください。
・レジュメは各回の終了後、まるネコ堂ゼミのサイトに掲載します。

注意:猫がいます。ゼミ中は会場には入れませんが、普段は出入りしています。アレルギーの方はご相談ください。

まるネコ堂ゼミサイト

April 27, 2018

【405】バブアーのコートのリプルーフ

天気が良いのでバブアーのコートのリプルーフ。リプルーフというのは油の入れ直し。油というかワックスというか。

コートはこれ一着しか持ってません。重たくて、ダウンみたいに快適とは言えないのですが、風や雨をきっちり防いでくれるので命を守ってくれる感じが頼もしいです。

バブアーはイギリスのメーカーで、もともとは乗馬や狩猟なんかのときに着る防風防水コートなんですが、これを着て山へは行きません。こんなに森に馴染む色の服を着ていると本職の猟師さんに誤射される危険があります。山へ行くときはオレンジとか目立つ色の服を着て命を守りましょう。

リプルーフの手順の説明をしようかと思ったのだけど、検索すればたくさん出て来るし、そもそもそんなに難しくもないので、かっこよさげな動画を紹介しておきます。動画を見て気分を高めると楽しくできます。


動画では暖炉に火が入っている寒い時期にやってますが、ワックスを湯煎する都合上、暖かい時期のほうがやりやすいです。といっても真夏に、汚れを気にして屋外でやるとなると、ちょっと気分的にしんどくて結局やらずに冬を迎えてしまうので、僕はこの時期から5月ぐらいにやっちゃいます。


ワックスを塗り込む前に水拭きして乾かしておきます。今年は澪が水拭きしてくれたので、楽ができました。ワックスでベタベタになるので庭でやってます。


ワックスを湯煎して溶かします。ちゃんと溶けると水みたいに透明になります。


使用したのはこれ。一缶で2回分らしいのですが、僕の塗り方だとちょうど3回分でした。


ウエスでベタベタ塗っていきます。僕はムラとかあんまり気にしないで適当にやってます。


ポケットの裏も忘れずに。


全部塗り終わればおしまい。このあとほんとはドライヤーでワックスをなじませるらしいのですが、面倒なのでやってません。しばらくほったらかして、ベタベタが気になればドライヤーを使うかもしれません。

コート自体は大阪の桃谷にあるJAMという古着屋さんで買いました。楽天市場にも出店されてます。
秋ぐらいになったらバブアーの出品も増えるんじゃないかな。

April 26, 2018

【404】本を読むことについての覚書

実家の片付けをしていたら疲れてきたので、ブログを書く。本について。

僕の住む家、つまりまるネコ堂は、比較的本棚が多いと思う。しかしそれでもこれまでに僕が読んできた本のうちのほんの一部で、極めて厳しい選別を通過したものだけがここにある。したがって、まるネコ堂にある本は面白い本である。一部、僕が読んでいないものもある本もあるけれど。

電子書籍については僕は肯定的である。僕自身は基本的に本は紙に印刷されたものを読むけれど、これはこれまでの僕の習慣が大きい。最近は良さそうな端末も出ている。キンドルペーパーホワイトなど、実物を見たことはないけれど。今後本を読み始める人が、電子書籍から始めるということはあると思うし、あって良い。紙の本と電子書籍は異なる特徴を持っているというだけだ。電子書籍で読むということがどんな出来事をもたらすかは、はっきりと言うことはできないけれど、あくまでも本というものの領域の内部の出来事として包含される。排除すべきものではない。

文字による表現を現出し、残すというのが出版文化である。その一翼を担うのが文庫だ。文庫本というのは文字通り「文の庫」、アーカイブであり、文庫になるということはアーカイブされるべきだという判断がなされたものだ。電子書籍はこの出版文化の一つの中心に対してある刺激を与えるだろう。電子版の岩波文庫を、今後出版されるタイトルも含めて、一生好きなだけ読める権利が妥当な価格で提供されたら、かなり真剣に検討する。子供にプレゼントするかもしれない。

本を書くことや読むことは、感じるということや思うということや考えるということについて多大な影響を及ぼす。鮮烈に充溢させ、その人にとってその人が再び現われる契機そのものとなる。これを人間が手放すとは思えない。少なくとも出版という、ある連続した所作が滅びるということがない程度の数の人間が、今後も本を手放さない。

面白い本は軽くない。面白い本を読みたければ、重たい本を持ち続けられる筋力をつければよい。読むための筋肉と呼ぶべきものがあるし、これは鍛えることができる。読むということは、読まない人が「考えて」いるほど、虚構ではない。均質でもない。静寂でもなく、既存でもない。

本を読む人が、読み慣れていない人のためにやるべきことがあるとすれば、紹介してあげたり、要約してあげるのではなく、読む人の読むことの精一杯をさらけ出すことだ。書く人の精一杯がさらけ出たものを読むのだから。

April 24, 2018

【403】『言語5』できました。

『言語5』出来ました。2段組で68ページ。それなりに分厚くなってきました。

文字に残る形で何かを公表するというのはなかなか大変で、毎号ヒヤヒヤです。「最先端の自分を書く」ことが引き起こすものは絶大で、初号を出してからまだ二年しかたってなかったのかと自分でもびっくりしています。長生きしてる気分です。

April 22, 2018

【402】いまさら読む東浩紀『一般意志2.0』

「エッセイ」である。著者自身が冒頭、いきなりそう宣言している。
 あらゆる夢と同じように、筆者の夢もまた、断片的で矛盾だらけで、欠陥が多く混乱に満ちている。だから筆者はこの原稿を、論文としてではなく、エッセイとして記すことを選んだ。
 その選択はもしかしたら、この二〇年のあいだ人文科学で、というよりも思想や批評の世界で主流だった、注釈と参考文献ばかりが多く過度に防衛的な論文スタイルに慣れた読者には、とてもいいかげんで頼りないものに映るかもしれない。[第一章]
論文ではなくエッセイにした。という著者の認識がじわじわとあとになって響いてくるのだけど、まず順をおっていこう。

本書で展開されるのはどういった「夢」なのか。全部で十五章からなるのだけれど、その後半、第10章で丁寧に「本書の中核的な主張はほぼ語り終えた。(略)ここまでの議論をあらためて確認し整理してみることにしよう」と、わかり易く丁寧に、著者自身がまとめてくれている。お陰で引用がし易い。
まずは本書は、ルソーについて新しい解釈を提出した。近代民主主義の基礎概念、ルソーの「一般意志」は、一般に考えられているのとは異なり、討議を介した意識的な合意ではなく、むしろ情念溢れる集合体的な無意識を意味している。これが本書の第一の柱だ。
このルソーの新しい解釈は面白く読めた。ルソーを読んで確かめたくなる。
筆者の考えでは、ルソーの理想は、意識ではなく無意識に、「人の秩序」ではなく「モノの秩序」に導かれる社会にあった。実際にそのように解釈してはじめて、彼が、『社会契約論』の著者であるのと同時に、ロマン主義を準備した情熱的な文学者であり、恋愛小説や告白小説の作者でもあったという事実が整合的に理解できるのである。(略)ルソーはそこで、意志として意識されない意志、契約として意識されない契約についてこそ語っていたのだ。
一見すると矛盾するルソーの二面性についてはデリダも『グラマトロジーについて』でねちっこく読んでいるし、書いている。このあたりも興味深い。
 このルソー読解からは、必然的に、近代の民主主義社会は、熟議民主主義の理論家たちが主張するのとは異なり、じつは「大衆の無意識に従うこと」を目的として生まれたという結論が導かれる。
 大衆の無意識に従うこと。それは魅力的だがまたじつに危険な発想でもある。実際にルソーの主張は、しばしば全体主義の正当化に利用されてきた。

例えばナチス。実は、フランス革命もルソーが影響している。なるほどなるほど。
けれども、二一世紀のわたしたちはその罠を回避することができる。というのも、わたしたちは無意識を「可視化」できる時代に生きているからだ。(略)
さまざまなソーシャルメディアの動きを見れば明らかなように、現代社会は「総記録社会」へと向かいつつある。それは監視社会とは異なる。(略)いまや信じられないほどの多くの人々が、自発的に、しかもじつに克明に、自らの行動や思考の履歴をネットワークのうえに残し始めている。筆者はその状況を「無意識の可視化」と呼ぶ。
まぁ、そう言われるとそれはそうなんだけど。このあたりから、だんだんと興味が薄れていく。
そして筆者は、これからの政府は、その可視化された無意識をできるだけ統治に活かすべきだと考える。(略)それらのデータは個人の単位では不完全で断片的な履歴にすぎなくても、何万、何十万と集まればまったく異なった性格をもち始める。
ちなみにプライバシーの問題は配慮した上でと著者は断っている。また「ソーシャルメディアやスマートフォンを使いこなしているのは一部の人々」にすぎないが、それを言ったら選挙で問われる「民意」も一部じゃないかと。確かに。

たぶんこの辺が分かれ道だったのだと思う。ここはもう少し踏みとどまって、思想的哲学的な領域で戦っても良かったのではないか。あるいはこのへんで終わっておけばよかったのかもしれない。

で、結局「夢」はどうなるのかというと、従来的な熟議とデータベース(可視化された大衆の無意識)が補い合う新しい制度を提案する。
言ってみればーーより進化したサービスを前提としているのでいろいろ細部は違うのだがーー、政府内のすべての会議を「ニコニコ生放送」で公開しろ、と呼びかけているようなものである。
「うぉー!そんな斬新な手があったかぁ!」となれば本書は成功したということになるし、その先に「じゃぁ、それ本気でやっちゃうぜ」みたいな人が現れて、現実化すれば、本書は大成功となる。のだけど、少なくとも僕は、著者の準備してくれたフックにひっかからず、乖離した。

本書は2009年から2011年にかけて連載されたものを2011年に書籍にまとめたもので、それを2018年にいまさらながら読んでいる。そういうタイムラグがある。あるのだけど、それ以上に、「これって本気なのかな」と思ってしまって、僕の関心がしぼんでいった。後半部分、自分は専門家じゃないのでやらないけど、誰かやったらいいのに、というふうに投げ出されているからかもしれない。

もう一度もとに戻る。本書はエッセイとして書かれている。「断片的で矛盾だらけで、欠陥が多く混乱に満ちている」からという理由で、論文ではなくエッセイを選んでいる。しかし、エッセイにはエッセイの勝負どころがある。断片的で矛盾だらけで欠陥が多く混乱に満ちた夢を描くことについては問われなくても、別の何かが求められる。

端的に言えばコクと香りがないのだ。一歩間違えばアクや嫌味になるようなギリギリのコクと香りがエッセイの醍醐味ではないだろうか。このコクと香りによって、読者は、矛盾や欠陥や混乱を美味しく飲み下すことができる。

著者自身が「論」の半ばで、自説を懇切丁寧に短くまとめてくれていること自体にそれが明瞭に現れている。長時間かけて作ったスープを活性炭フィルターで濾すようなことができてしまうのは、もともと著者にスープというものへの意識がないということだと思う。それは著者の「聡明さ」に由来すると思われるが、だとしたらエッセイという選択は正しかったのだろうか。著者の本域はここなのだろうか。

繰り返しになるけれど、著者のルソーの読解は面白く読めた(どこまで同意できるかはともかく)。僕にはむしろソッチのほうが新しい。こういう感じでもう少し進んでくれたらとどうしても思ってしまう。それだとこんなに売れなかった可能性は高い(どころかそもそも企画が通らなかったかもしれない)。目新しい情報技術・サービスの紹介を交えることで読者を増やせるかもという、(著者ではなく)出版社の下心があったのかもしれない。結果的に本書の「時間への耐性」を弱めてしまったように思われる。

「この二〇年のあいだ人文科学で、というよりも思想や批評の世界で主流だった、注釈と参考文献ばかりが多く過度に防衛的」な論文が気に食わないのであれば「適度に」防衛的な論文で書くという手もあったと思う。というかこの本、エッセイとしては例外的なレベルで注釈と参考文献が多いと思うのだけど・・・。

===
独断のいまさら読むとしたらおすすめ度:★★
「★2.0です。という冗談はさておきホントは2.5とか2.7とかそのあたりですが、3つまではいかないので。読んで損はないです」

★★★★読みなさい
★★★ 読みましょう
★★  読みたかったら
★   読まなくても

April 14, 2018

【401】ニフティサーブfmacbgの思い出。

僕の文章力や読解力、そんなものがあるとして、いやあって欲しい、というかこの程度の文章力と読解力なんだけど、そのそれに大きく関わっているなと思うのがニフティサーブのfmacgbというフォーラムである。

ニフティサーブと言うのはパソコン通信である。パソコン通信。なんともたまらないダサさの語感と字面で、書いてるだけで恥ずかしくなるのだけど、インターネットが普及する前は、これだった。

僕が初めて買ったコンピュータはマッキントッシュで、大学院の修士だ。1995年頃。高かった。バイト代を必死にためた記憶がある。友人が当時珍しいマックユーザーだったので感化された。普通ならNECのPC98シリーズを買った。

友人が僕をそそのかした手法は単純だ。当時アップルの代理店をやっていた大塚商会のセミナーに僕を誘った。担当者の話は全然覚えていない。話の終わりに流された短い映像が鮮烈だった。アップルが作ったコンセプト映像「ナレッジナビゲーター」。


これですっかりやられたのだから当時の僕は友人よりも単純だった。今でも単純だけど。改めて観てみるとなかなか良くできている。ここに出てくるのは、あくまでもアップルが描いたコンピュータの未来像であり、実際に販売されていた当時のマッキントッシュとは似ても似つかない。そんなことは百も承知で買った。一体何にそんなに衝撃を受けたのだろう。

今なら少しわかる。多分僕は、このズボラで知的な大学教授にやられたのだと思う。特にズボラなところに。カッコイイと思ってしまった。マッキントッシュを買えばそんな風になると思ったんだろう。友人にしろ大学教授にしろ、僕は機械そのものではなく、機械を使っている人を見て機械を買ったのだ。

マッキントッシュを手に入れた僕は、当然のようにモデムを買った。モデムはマックを電話線につなぐ通信機器。そしてパソコン通信をはじめた。僕にとってコンピュータは他人とつながっていないといけなかったのだ。ナレッジナビゲータがそうであるように。

ニフティサーブはパソコン通信の大手だった。フォーラムというのは掲示板で、そこに登録して、ハンドルネームでコメントを書き込める。fmacbgというのはそのフォーラム名というか略号でエフマックビージーと僕は読んでいた。マッキントッシュ・ビギナーズ・フォーラムというのがたぶん正式名称で、その名の通りマック初心者が情報交換するための掲示板だった。ニフティサーブでも指折りの巨大フォーラムで、マックの情報以外のやり取りも多かった。

掲示板といっても、ただのテキストのやり取りである。集団文通みたいなものだ(そんなものがあるのかどうかは知らない)。フォントの指定もサイズも太字もアンダーラインも何もない。ただの純粋な文字情報。コマンドを入力して、順番にコメントを表示させていくだけ。これに大金をはたくのだ。

まず、電話代がかかる。さらにニフティの接続料(課金と呼ばれていた)。fmacbgは参加者が多くコメント数も多い。記憶では万単位の参加者がいて、コメント数も一日数百件はあったと思う。この数字がなぜ大きいのかというと、当時の通信環境が貧弱だからだ。僕だけでなく全員の通信環境が。

僕は9600bpsという速度のモデムで接続していた。9600bpsというのは、9.6kbps。今ならスマホを使いすぎて月末にペナルティを喰らったときの速度が300kbpsだから、比べ物にならない。それでも僕のは高速な部類だった。単純計算で速度が倍になれば接続時間は半分で済む。電話代も課金も半分で済む。高速モデムは高価だが、fmacbgの常連ぐらいになると、ランニングコストのほうが遥かにかかるので、だいたいみんな高速モデムに切り替えていく。

毎日毎日、アクセスポイントまでの「市外電話」を数十分かけて、しかもそれに分単位の課金が加わる。合わせて月に1万から2万円以上かけていた。学生には大金である。これでもできるだけ節約するために、ホストがすいている明け方の4時頃の時間帯を狙って、自動でマッキントッシュを起動し、自動で電話をかけ、自動でフォーラムを巡回し、自動でログを保存し、自動で電話を切り、自動でマッキントッシュの電源を落とすハードやソフトを導入した。そんな涙ぐましい努力をした上での料金だ。混雑時間帯にリアルタイムで繋ぎっぱなしにして画面を見ながらコマンド入力して、コメント読んで、なんてことをやると、地獄を見る。

どんなコメントであれ表示させないと読めないわけで、表示させるためにすでにお金がかかっている。しかも万単位の人がそれを支払うことになる。この文字数に紐付けられたダイレクトな金銭感覚が強烈な圧力を生み出していた。

「署名は3行まで」「送信する前に必ず読み返しなさい」「うなずくだけならモニターの前で一人でうなずきましょう」「冷静に」「引用は必要な分だけ。本文より引用の方が長いのは迷惑。全文引用はもってのほか」など、マナー違反は厳しく名指しで指摘される。一文字たりとも無駄にできない。未来の通信どころか、ほとんど電報である。

この状況でハンドルネームだけの、どこの誰かわからない相手とやり取りする。プロフィールはなく、署名も短いか、ないに等しい。当然のごとく喧嘩が頻発する。極小の文字数にまで刈り込んで、相手を思いやりつつ、誰にでもわかることようなことではない価値のあることを書く。ハタチそこそこの僕にとって曲芸レベルのシビアな「言論」世界だった。

僕は一つのコメントを書くのに1時間ぐらいかけていた。その前に前日分のログをすべて読む。それに1時間ぐらいかかる。だからコメントは書けたとしても一日一個。そのコメントは明け方、僕が寝ている間にマッキントッシュがジーピロピロピロとか音を立てて、送信される。もしも返信がつくとしたら、それを読めるのは翌日か翌々日。その間、期待と不安で胃が痛む。

返信がつくと一人ではしゃいだ。そしてまた1時間ぐらい返信を考える。返信するかしないかも考えないといけない。見かけ上、一対一のやり取りに見えても、同時に数万人にとって金を払って読む価値のあるものであることが要求される。個人的なやり取りなら直接メッセージを送ればいいのだから。

そこでどうにかやっていくために僕はとにかく読んだ。全ては過去のコメントにしかない。どんな性格なのか。何が言いたいのか。何を言われたくないのか。文末の「ですね」はどういうつもりでつけたのか。

こうやって僕は文字から他人を推し量るすべを身に着けた。同時に、文字によって他人がどう思うのかも。

どうしてこんなことにのめり込んでいたのだろう。当時の僕に、そんなにしてまで書き込むべき何かがあったのだろうか。助言が必要なトラブルを抱えていたか。自分しか知り得ない情報を持っていたか。多くの人に伝えたい主張があったか。たぶん、ない。あるわけがない。ただ僕にあったのは、それまで見たこともなかった高圧で濃密な言語空間に自分の言葉を投げ込みたかっただけだ。そういう場所に自分がいることを他者と自分に示したかっただけだ。

僕がニフティサーブをやっていたといえるのは、せいぜい1年ぐらい。活発な発言をするユーザーだったというわけでもない。しかしそれで十分だった。こうして僕は「他人とつながるために書くこと」の基本的技術を身に着けた。染み付いてしまったと言ってもいい。何年かして僕は他人とつながるために他人のことを書く仕事についた。仕事には役立った。

しかし「文章力」や「読解力」という言い方は、脱臭されているのだ。もともとの臭いが戻ってきたとき、僕は僕のことを書くということができなくなっていることに気がついた。ただ外的な圧力のみによって僕に浸透してきたものを僕自身が手に入れた何か特殊な「力」だと誤解していたからだ。仕事の手応えだと思っていたのは圧力への抵抗でしかなかった。

他人とつながるために書くのではなく、書くことで他人とつながってしまうように書きたい。

染み付いてしまったものを自らの意識の視野に入れるのはとても難しい。ひょっとしたら、未だやったことがないことをやること以上に難しいことなのかもしれない。だからこそ、この昔話を書いておきたかったのだと今わかる。

April 12, 2018

【400】ありふれた本物と「断捨離」という流行について。

最初に断っておくと自戒を込めてです。いや、込めてというより自戒メインです。断捨離という言葉が流行り出した頃からじわじわ感じていたことです。なにしろ僕も10代の頃は馬鹿みたいに消費して、40代になってから大量に捨てましたから。

僕達の日本社会は戦後、高度経済成長を体験しました。どんどんと物が作られました。どんどんと物が買われました。大量生産大量消費です。大量生産大量消費が一体何を大量に生産し、消費したのかというと、一言で言えば、どうでもよいものです(むろん例外もあります)。

どうでも「よくない」ものというのは、ちゃんと使いこなせば、使い勝手が良くて、丈夫で長持ち、そんなもののことです。「ありふれた本物」のことです。

安価に大量に作られた、どうでもよいものは、ありふれた本物を直接的に駆逐するとともに、どうでもよいものとありふれた本物を判別する能力を僕達から奪っていきました。どうでもよいのか、ありふれているけどどうでもよくないのか、その決定的な差異を読み取る必要性が霧散しました。結果、ありふれた本物は、当たり前の値段をしているがゆえに静かに消えていきました。

大量に産み落とされたどうでもよいものは、購入という快楽を与え、その残滓が部屋に廊下に貸しコンテナに溢れていきました。今度はそれを大量に処分しようとしているわけです。処分して気持ちよく良くなろうと。

「たくさん作って、たくさん買って、幸せ♡」がバカなことならば、「たくさん捨てて、気分スッキリ」も同じくバカなことではないのか。あまつさえ、前者が後者を兼ねるとしたら、バカの自乗ではないのか。バカの自乗がやるのだから、この次もやっぱりバカなのことをしでかすのではないか。

とりいそぎバカのとばっちりを喰ったのは、ありふれた本物たちです。

例えば、どの台所にもあった常滑焼の茶色い味噌や漬物のカメ、覚えてますか。あれを作っていた久松は廃業しました。こういうたぐいのありきたりだけど決してどうでもよいわけではなかったものたちが、いつの間にか知らないうちに消えていきました。

大量生産大量消費を反省して大量に処分するのもいいのだけれど、それよりも、むしろその勢いで、今こそ、ありきたりだけど決してどうでもよいわけではないありふれた本物たちをそこそこの価格でそこそこの量を買い戻すべきなのではないかと思うのです。もうすでに買いたくても買えないものも多いのだろうけど。

ありふれた本物をちゃんとした値段で買うのは良いことです。ありふれた本物とどうでもよいものを見分けられるというのは良いことです。ありふれた本物を毎日使いこなせるのは心地よいものです。とどのつまり、ちゃんとしようと思ってるということです。ありふれたことです。

たまには真っ当で保守的なエントリーをと思って書いてみました。

なお、「ありふれた本物」という言い方は、もちろん「民藝」の一つの言い換えとして使っています。民藝としなかった理由は、民藝という言葉によって概念化されたことで以後まとってしまった過剰な「伝統的価値」を一旦リセットしたかったからです。民藝の内部での伝統的価値によってランク付けされるような、そういう価値観を排除して、僕達の身の回りのありふれたものの「ありふれている」ことの中から、見出せればと思いました。つまり、いうまでもなく、本来的な意味での、それが誕生した当初の、民藝の視点そのものです。

April 11, 2018

【399】いまさら読む大塚英志『物語消費論』

文庫も出ている。実は書き飛ばしエッセイ集。

表題の「論」についておさえておきたければ冒頭の書き下ろしを図書館でさらっと読むといい。それぐらいの価値はある。今は教授だけど執筆当時は漫画などのフリーランス編集者だった著者の「これ売れる、これ売れない」という嗅覚直観が、不気味なほどに当たってしまった(ように読める)本。

といったぐらいで、あちこちで語られつくされていると思うので、これ以上、特に書くことはない。以下、個人的なことを書きます。

『ぼのぼの』『アキラ』『銀河英雄伝説』『ノーライフキング』『ホットロード』あたりは(自分で買って読みました)ともかくとしても、『BASTARD!!』『ファイブスターストーリーズ』『アーシアン』といった固有名詞に(自分で買ったり友達に借りたりして読みました )、変な汗が出る団塊ジュニアである私は、いったいあの頃何を見ていたのか。

編集者である(あった?)大塚英志が編集者として活躍した当時、編集者というものは絶大な権力者だった。興味と直観でメディアという原野を駆けずり回り膨大な量の「トンボ」を収集観察、願わくば新種の「トンボ」の発掘に執念を燃やす。それをオイシイオイシイと次から次へと口に詰め込んだ僕たちは、彼らにとってオイシイオイシイ消費者だった。

当時十代だった僕は、来る日も来る日も小説を読み、漫画を読み、ゲームに耽った。ドラクエなどの発売日はゲーム雑誌で何ヶ月も前からチェックし続けた。しれっと延期されるたびにため息をついた。競うように新刊も買った。新刊コーナーをやっつけた後は、店中の棚を端から端まで舐めるようにチェックした。舐め終わったら次の店に向かった。毎日学校帰りに寄っていた店の本棚は粗方記憶した。あったところに戻さない客のせいで乱れてしまった棚を本来あるべき順に並べなおした。むろんコーナー違いは厳しく正した。好きな作家の作品を勝手に平積み台に陳列して特集した。

そういった甘く切ない僕の大切な夢中の時間が、である。
思いつきの設定や粗筋(だいたいこういうアイデアは編集者が出すものと相場が決まっている)(同書「物語製作機械」)
薄々知ってはいたが、その通りに軽薄な起点から作家を作動させ搾り取った成れの果てを僕は頬張っていたわけだ。ようするに、この本全体がそういう裏話、暴露話なのだが、まぁそれはいい。

それはいいのだけれど、作品や作家を崇め愛していたはずの僕はやがて、作品作家の向う側にある〈大きなマーケティングストーリー〉にまでアクセスしてしまっていた。多感な十代の僕がその深部で気づかぬうちに出会っていたのは、実は脂ぎった編集者だったのだ。だからこそ僕は編集者になってしまったのかもしれない。ゾッとする。

もう一つ。日本という国がどうしてこんなに漫画マンガしているのか。
団塊世代が『少年マガジン』を二五〇万部雑誌に押し上げ、その子供たちが『少年ジャンプ』の四五〇万部を支えている。(略)この世代(団塊世代と団塊ジュニア)としての過剰な共通意識こそが、マーケティングの立場からいえば、「ひっかけやすい」 (同書「“団塊の世代”は今なぜトレンドになっているのか」)
この幾分荒っぽい分析から著者が糾弾するのは(彼自身がその甘い汁を啜っていたことはむろん自覚し自嘲しつつだろうが)、団塊世代と団塊ジュニアが日本を漫画マンガさせた元凶だということだ。またしても親子二世代の共同作業。そうかもしれない。そうだと思う。そうだとして、こんなに背筋が冷却されるのはなぜだろう。

なにしろどうにも言い訳が効かないのだ。高校生の僕がミヒャエル・エンデ『モモ』を買い求めた理由は、文学的興味などではさらさらない。毎週聴いていたオールナイトニッポンで、大好きな小泉今日子が薦めたからである。翌日、本屋に走った。

僕が二十代でテレビを観なくなったのは、僕の中で〈消費〉が飽和したからにすぎない。マーケターの掌で踊り疲れてしまっただけだ。僕がゾッとするほど無責任だということだ。

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独断のいまさら読むとしたらおすすめ度:★★
「冒頭二つの章は目を通してもいい。懐かしがりたい人は全編読もう」

★★★★読みなさい
★★★ 読みましょう
★★  読みたかったら
★   読まなくても

April 10, 2018

【398】いまさら読む宮台真司『制服少女たちの選択』

宮台真司『制服少女たちの選択』(1994)。読んでなかったんかーい、と言われそうだけど読んでませんでした。

興味深かった部分を抜き出すと、
実際、(大谷注:売春をする女子高生でもある)孝行娘たちは、「叱ってくれる立派な親」との「良好な関係」を崩したくないから、「親には絶対知られたくないよね、だってカワイソーじゃん」と言いながら、パンツや肉体(のパーツ)を売り続けるのである。[まえがき]
わたしがおどろいたのは、「親バレ」がすこしもめずらしくないどころか、それが抑止力としてきかない事実である。娘ともども警察に呼ばれたのにオロオロするだけで叱れない両親。娘のエッチ系バイト(ブルセラバイトや女子高生撮影会バイト、テレクラバイトなど)へのかかわりを知りながら深く追及しないままいっしょに料理したりデパートに行ったりする母親。通りいっぺん怒ったあとで娘とファミコンする父親……。 
「親バレ」にかかわらず以前と変わらない姿で維持されるブルセラ女子高生の親子関係の背後にあるものは、もはや明瞭である。「親が悲しまないように」周到に情報管理するようになるだけの彼女たち。「親がおどろかないように」適当に脚色してエッチ系バイトの「さわり」を伝える彼女たち。そこにあるのは「友達親子」の理念の皮肉な反転だ。そもそも「友達親子」の関係とは、権威主義的タテマエによっておおい隠されてしまう本音を等身大でコミュニケーションするものだったのに、逆に「友達親子」というタテマエが、失望や断絶による同様をおおい隠すように機能している。始末が悪いのは、子供のほうでは、「適当に合わせてあげている」だけなのに、本音のコミュニケーションができていると思い込む親がいることだ。そこには親の「本気」と子供の「ロールプレイング」がかみ合っているだけというこっけいな事態が見いだされる。[第二章 団塊の親たちの無残な失敗] 
極度に相対化された「どんな立場にも一定の存在理由があり、一概に非難されるべきではない」というガンダム的価値観は、僕たち団塊ジュニアによって出現したというよりは、その親である団塊世代との家庭内共同作業だった。のだろうか。そうかもしれない。

団塊親を叱っているはずの著者も、団塊親と同様、制服少女たちの選択(自分で選んだこと)を肯定する立場をとっている。だからこそ制服少女たちはインタビューに応じ、自らの体験を語り、本書が成立している。その結果、制服少女たちの振る舞い(インタビュー起こし、伝言ダイヤルのメッセージ採録)は、2018年の今からすると牧歌的な雰囲気すら漂っている。

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独断のいまさら読むとしたらおすすめ度:★★
「第Ⅰ部をさらっと読んでおいても良いでしょう」

★★★★読みなさい
★★★ 読みましょう
★★  読みたかったら
★   読まなくても