October 22, 2015

【238】目には見えない巨大な生き物。

人が全身で書いた文章を読むのは本当にゾクゾクする。気の利いた言い回しや面白い切り口、わかりやすい言葉、なんてものをすべてうっちゃって、そういう小手先の技で届く範囲を遥かに超えてただ歩いて行く。一文字一文字の文字それ自体によってその文を一から構築していくような文章は素晴らしい。

それがすでに著名な人の本であっても、その思考を一文字一文字追うように読むのはとてもスリリングだ。しかしもっともっと面白いのは、自分のすぐ近くでその思考を今まさに一歩一歩進めていっている最中の人の文とともにあることで、編集という仕事の醍醐味はここにある。

何か巨大な生き物がゆっくりといっときも休むことなくどこかを這っている。誰もいない荒れ地に、その巨体を引きずった跡が長く地面にひかれていく。それがそのまま本になる。

そろそろはじめる。

October 14, 2015

【催し】「読む・書く・残す」探求ゼミ 第2期

第1期のときもそうなのですが、
小林健司さんの案内文がすごいです。

毎回、もうこれで終わりかもしれない、
もう僕なんかいなくても「探求」はできるんじゃないか思いながら、
やっています。

===
10年以上、誰かの書いた文章に手を入れる「編集」を
仕事にしてきた大谷隆さんの見方を手がかりにして、
集まった方々と「読む」ことを再発見していきます。

現代の日本では、言葉は情報を伝えるための道具として
使われることがほとんどです。

しかし、よくみていくと、言葉は
「書き手の見ているものを形にした表現」でもあります。

辞書通りの、社会で約束された意味の、言葉としてではなく、
「書いた人にしか見えないなにか」を記した表現として
言葉を見ていくとき、そこには全く新しい景色が広がります。

大谷さんは、そのように文字を読むことを
「古文書のように読む」と言います。

「何世紀に、誰が、何の目的で書いたのかわからない文書が
目の前にあるとして、その人が何を見て、何を伝えようと
この文字を書いたのか、一つ一つを読んでいく。」
と言います。

何人かで集まってそのように読んでいくと、ふいに、
書き手が見ていた世界や捉えようとした質感、ときには
筆を走らせる息づかいまでが感じられるときが訪れます。

果たしてそれは妄想や空想の類いなのか、
僕自身はこれまで書き手とともに検証してきた結果から
それが現象的な事実だと確信するようになってきましたが、
今回も引き続き検証を続けていこうと思います。

言葉と文字の再発見の旅路をご一緒してくれる方を募ります。

小林健司

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▶日 程:第1回 11月14日(土)
     第2回 12月5日(土)
     第3回 1月16日(土)
     第4回 2月13日(土)
     第5回 3月12日(土)
     第6回 4月16日(土)
     第7回 5月14日(土)
▶時 間:各回12:00~17:00
▶内 容:参加者の中からお一人、じぶんが書いた文章を
     持ち込んでいただき、「読ん」でいきます。文章の
     持ち込みを希望する場合は、申込時にその旨お書添ください。
     (申込多数の場合は通し参加の方を優先した上で先着順となります。)

▶場 所:スタジオCAVE(大阪市西区)
▶主 催:小林 健司
▶講 師:大谷 隆
▶参加費:通し参加21000円(単発参加は1回4000円)
     
▶定 員:6名程度
▶申込先:fenceworks2010■gmail.com(■を@に変換してご利用ください)

October 12, 2015

【237】『はてしない物語』。喩の逆作用。

まるネコ堂ゼミで『はてしない物語』を読んだ。
ファンタージエンの地理の特殊な点について説明しておく必要があるだろう。ファンタージエンでは、陸や海、山や河が人間世界でのように固定した場所にあるのではない。だからたとえば、ファンタージエンの地図を作ることはまったく不可能なことだ。(略)この世界では計ることのできる外的な距離というものはなく、したがって、「近い」とか「遠い」とかいう言葉も別の意味を持っている。それらはすべて、それぞれに定められた道を歩んできたそのものの心の状態と意志しだいなのだ。ファンタージエンには限りがないのだから、どこでもその中心になりうる。[219]

こんな記述が出てくると、読んでいる者はちょっとびっくりして、一体どうなってるんだ?と混乱する。距離って何だ?方向って何だ?

しかし、ここでいうような〈距離〉は、僕達が普段から慣れ親しんでいるものである。
言語とは何かを問うとき、わたしたちは言語学をふまえたうえで、はるかにとおくまで言語の本質をたどってゆきたいという願いをこめている。(吉本隆明『言語にとって美とはなにか』)
というような表現はよくあるし、この「とおく」は確かな像を結ぶ。人間関係を表すときにも〈距離〉を使うし、物事の考え方に〈方向〉をあてることもある。

他にも、アトレーユの愛馬は憂いの沼で絶望に陥り死に至り、女魔術師サイーデの操る中身がからっぽの黒甲冑は操るものの意志の力で動き、霧の海を渡るイスカールの船は思いの力を完全に一致することで推進力が生まれる。こういったことは、すべて僕達が喩として慣れ親しんだものである。エンデは、文学や日常言語において使われる喩を物語内世界の科学法則に逆作用させることで、豊かで魅力的な物語空間を作り上げている。

エンデが本書を通じて、本書そのものを使って、最も大きく喩の逆作用を発揮させている対象は〈自分の物語〉である。〈自分の物語〉を描くということに伴う孤独、絶望、勇気、友、愛などを文字通りの〈物語〉として描き出している。読者は、アトレーユとバスチアンという二人の少年の物語を読むことで、喩としての〈自分の物語〉を意識する。

ここで注意しなければならないのが、〈自分の物語〉という言葉から直接的に連想される「人生」「ライフワーク」といったものが前提としている時間の取り扱いだ。

本書で大きな物語を描き上げたバスチアンは10歳か11歳だし、アトレーユも大人になる直前の少年である。アトレーユの大いなる探索は、数週間といったところで、バスチアンに至っては数日の出来事である(ファンタージエン内ではもっと長いが)。90歳の老人が自分の人生を振り返って物語を語っているわけではない。

古本屋のコレアンダー氏が、ファンタージエンから帰ってきたバスチアンに、
新しい名前をさしあげることができれば、きみはまた幼ごころの君にお会いすることができる。何度でも。そしてそれは、そのつど、はじめてで、しかも一度きりのことなのだよ。[588]
と話しているように、〈自分の物語〉は、いつでも、何度でも描くことができ、それは、その都度、初めてで、一度きりのことなのだ。そして、その物語を描くのに必要な時間は数年か数日か、あるいは数時間か、あるいは一瞬かもしれない。

「瞬間は永遠です」というモンデンキントの言葉を今、思い出す。


October 6, 2015

【236】僕の原爆。(11)

シリーズ「僕の原爆。」

目次
【158】僕の原爆。
【201】僕の原爆。(2)
【216】僕の原爆。(3)
【217】僕の原爆。(4)
【221】僕の原爆。(5)
【222】僕の原爆。(6)
【232】僕の原爆。(7)
【233】僕の原爆。(8)
【234】僕の原爆。(9)
【235】僕の原爆。(10)

===
秋田に行くと、僕の誕生日なのに、なぜか弟も一緒にお小遣いをもらった。僕のは小さく折ったお札を紙に包んだやつで、弟のは硬貨だったのが救いだった。僕達が着いた日の夜は、和風レストランから大きな寿司桶に入った寿司が届いて食べたりした。残り物のタネらしく、とても偏りがあって半分ぐらいがマグロの赤身だったりする。寿司は大好きでそれでも喜んで食べた。親戚が近くで洋食のレストランをやっていて、そっちは単にレストランと呼ぶのだけど、レストランからはエビフライやカツがどっさり届いた。そういったご馳走をおじちゃんの家に親戚が集まってみんなで食べる。僕の誕生日ということのはずなのに、僕が特別な感じがしなくて、よく僕の誕生日なんだからと母に愚痴をこぼしていた。いつだったか、おじちゃんが誕生日プレゼントにおもちゃを買ってやるというので、商店街のおもちゃ屋に弟と一緒にいって、何でも好きなのを選べと言われた。僕は15ゲームを選んだ。15ゲームというのは、正方形のプラスチックの枠に、その枠を16等分した小さなパネルが入っていて、それぞれに1から15までの数字と残りの一つは星マークなんかがついていて、その星マークのパネルを取り外して、残りの15枚のパネルをそのひとつ空いたところで順番に指で移動させていって、1から15の番号を縦に並べたり、横に並べ変えたり、ぐるりと渦を巻くように外からだんだん数字が大きくなって、真ん中のところの4枚が13、14、15、空白になるようにしたりするおもちゃで、ほんとにこれでいいのか?とおじちゃんにきかれた。いい、と僕が言って、今度は弟がずっしりと重量感のある電車の模型を買ってもらい、家に帰るとおじちゃんが、隆は安くてこの電車で10個ぐらい買える。とそこにいた人に言って回った。そう言われるとなぜか悔しかったのだけど、僕は15ゲームをその後もかなり長い間しつこく遊んでいて、弟は比較的早く電車に飽きたから、ほらやっぱりこれでいいと、今でも僕は思う。

おじちゃんは、僕が小学校だか中学だかの時に、夜遅く一人で店の事務所で倒れて発見された時には死んでしまっていた。お葬式は盛大で母や親戚はみんな泣いていたが、僕が覚えているのは、火葬場のゴーゴーいうバーナーの音で、こっちでは焼いているあいだじゅう炉の前にみんないて、炉の前のコップの水を取り替え続ける。子供だったからか、おじちゃん熱くて喉が乾くから、と何度も水を取り替える役を僕がやらされた。水のコップを置く台は炉の入り口の蓋のレンガのすぐ前にあって、近づくと熱さが伝わってくる。ゴーゴーという音も激しくなる。コップの水ぐらいでなんとかなるとは思えない。体格のいい人だったから焼けるのに時間がかかった。飽きてしまって落ち着きが悪くなって、時々火葬場の外に大人に連れ出されるのだけど、外にでると気になるのは煙突で、そこから煙が少し出ていて、おじちゃんを焼いた空気がどんどん外に出ておじちゃんだったものが外の空気に混じっていく。それを僕が吸う。世界中のみんなが吸う。でも、この記憶は、おじちゃんの時ではなくて、おじちゃんの母である、つまり料亭の女将をやっていた曾祖母の時かもしれない。あるいは親戚のおばちゃんの時かもしれない。僕は子供の頃は、あったであろう親戚の結婚式には全く連れて行ってもらえず、お葬式ばかりだった。

次へ。

【235】僕の原爆。(10)

シリーズ「僕の原爆。」

目次
【158】僕の原爆。
【201】僕の原爆。(2)
【216】僕の原爆。(3)
【217】僕の原爆。(4)
【221】僕の原爆。(5)
【222】僕の原爆。(6)
【232】僕の原爆。(7)
【233】僕の原爆。(8)
【234】僕の原爆。(9)

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そういうことをなぜ覚えているかというと、毎年ちょうど誕生日の頃に、僕は夏休みでもあるので、10日ほど僕は母と秋田へ帰っていた。実家は商店街の酒屋で、店に入ると独特の、酒とコーヒーと乾物が入り混じったような匂いがしている。左手の棚に酒が並んでいて、いつだったか、秋田沖で地震があった時はそれが全部落ちて割れて、店中がアルコールだらけになったらしい。それ以来、棚の酒瓶の前に細い鎖が取り付けられていて、しかし、それでまた同じような地震が来た時に瓶が倒れないですむとは僕には思えなかった。あの地震があった時は僕は宇治の家にいて、津波が来たらしく、浜の松の防砂林がそれを防いでくれたというような話を聞いた。浜の松は強い風でどれも同じ角度で斜めになっているのだけど、津波というとその上を越えてくる波を想像して、そういう大きな波も防いでくれるものだろうかと、これも半信半疑だ。

秋田へ行くときは、京都駅を夜の9時とか11時に出る日本海という名の夜行列車に乗る。僕が秋田へ行くのが楽しみなのは、日本海に乗れるからというのも大きくて、乗ると、京都から行くときはもう寝台になっている。二段か三段になっている寝台の二段目は、上下に動くようになっていて、朝になると車掌さんかだれかが二段目を上に上げて1段目の頭の上を広くして、つまり、一段目を座席にする。11時ごろの出発の時は、もう周りの寝台は寝静まっている。寝台に入ると紺色の分厚い生地のカーテンを閉めて、小さな空間を作って、荷物を足元の通路側においておいたり、通路の上の部分にある棚のようなところにまとめて家族分をしまったりする。でも、その棚にしまってしまうと、取り出すのが難しく、だいたい降りる時まで取り出すことができない。だから、僕は、夜、乗っている間に荷物の中身を出したりしたいから、寝台の足元に置くか、すぐに取り出せるように、棚の寝台の近くに置く。二段目や三段目、一番上の段は天井が丸くなっていて、列車から降りた時に外から列車を見てあの丸いところだ。荷物と言っても、京都駅の売店で買った帆立の貝柱、酢昆布、冷凍みかんだ。冷凍みかんは冷静に考えるとそんなに好きだというわけではなかったけれど、冷凍みかんというのが普段は見かけないもので、列車で長時間移動する人のために駅の売店で売っているもので、それがこの日本海の旅と僕には直結していて、よく家でみかんを凍らせて、凍らせたほうがおいしいと言って食べた。帆立の貝柱と酢昆布はもっと純粋に好きで、僕はこういう旨味成分が凝縮したようなものがそのころから好みで、それらをちびちび小さく裂いて食べる食べ方も好きだった。

車両の前か後ろにあるトイレと洗面台がある場所に行くと冷水機がついていて、小さな切符ぐらいの大きさの白い紙の封筒のようなものが備え付けてあって、それの両端を親指と中指でつまむようにして口を開けて、冷水機のボタンを押して、水を入れる。封筒は小さく、指でうまく広げておくのも難しいし、列車も揺れるからうまく入れられずにこぼす。冷たい水が手を伝って床にこぼれる。封筒から飲むときもうまく飲めずにこぼす。封筒の紙の匂いがする。封筒の紙は一度の利用だけを想定されているようで、何度も水を入れようとするとへにゃっとなって余計に難しい。連結器のところがギーギーと音がするのがやけに近い。そういう不便さや粗雑さや機械や鉄や重厚さや冷たさが夜の寝静まった静けさに包まれていて、僕はそういうものを全部、困難で怖くて、同時に好きだ。何度も父にせがんで水を飲みに冷水機のところへ一緒に行った。翌朝になってしまうとその大半が失われて、水を飲んでもつまらなかった。父が一緒に日本海で秋田へ行ったのは、僕が小さいころで、中学ぐらいになると父はあまり秋田へは行かなくなった。

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【234】僕の原爆。(9)

シリーズ「僕の原爆。」

目次
【158】僕の原爆。
【201】僕の原爆。(2)
【216】僕の原爆。(3)
【217】僕の原爆。(4)
【221】僕の原爆。(5)
【222】僕の原爆。(6)
【232】僕の原爆。(7)
【233】僕の原爆。(8)

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献花台の前からは、いつもは無いだろう柵が並べられていて、そのまま前に進むことはできない。仕方なく、ぐるりと左手に回りこむようにして、また資料館の前にたどり着く。水を配っている。ちょうど喉が乾いていたし、この暑さだと水を飲んだほうがいいと思って近寄ると、給水所を示す看板にどこか不似合いな手書きの紙が貼り付けてある。水をください。水をください。そう言い続けて死んでいきました。代わりに生きている皆さんが水を飲んであげてください。ここでは何もかもが70年前に直結している。今ここにある現実は、紛れも無く現在だけど、1945年だ。太いパイプで結ばれているすべての8月6日は、いつも暑く、いつも重い高圧の中にある。毎年毎年決まって暑い夏の日だ。

僕も、いつも誕生日は暑い。1971年8月4日午前0時4分は、秋田の今はもうなくなった病院で、秋田でも日中30度を超えた。蒸し暑く、窓を開けていて、遠くからお囃子が聞こえてきていた。この時期、ここでは七夕と呼んでいるお祭りがある。たぶん、東北が制圧された時の、制圧した側か、された側の出陣か凱旋のお祭りで、城をかたどった大きなねぶたが街を練り歩く。一番上は口を大きく開けて牙を向いた魚が二匹、逆立ちするように立っていて、その二匹の大きな目が、ねぶたを前から見ると、2つの目に見えて、だから僕はずっと、それが二匹の魚ではなく、唇が頬まで裂け上がった一つの大きな顔が正面を睨んでいるように見えた。その2つの目がちょうど二匹の魚のそれぞれの目で、天に向かって尖った針のような尾びれは、耳かあるいは逆立って髪の毛で、その顔は怒り狂っていると同時にニヤリと笑っている。今はねぶたの中は電球で明るいが昔はろうそくが中で灯されていたはずだ。電球を灯すために発電機が積まれていて、ねぶたが通り過ぎるときにそのブーンという音が聞こえる。

柳若と書かれている、柳町が出しているねぶたがうちのねぶたである。毎年、どこの町が出すか、出すにはお金がかかるから、毎年出せるわけではなく、ねぶたの数は年によって違う。当番町も持ち回りで、当番になると町の人が張り切る。もちろん、お囃子を聴いた話を何度もしたのは母だけど、その時に生まれているのだとしたら僕も聞いたのだろう。僕の大叔父さんは、この七夕が大好きで、僕たちはただおじちゃんと呼んでいたけれどおじちゃんがゆかたを着て提灯を持って、ねぶたの前のところに立って、提灯を上げ下げしていた。おじちゃんが社長をやっている元料亭の和風レストランと洋風レストランと喫茶と宴会場がいっしょになった僕たちは単に店とかプラザとか呼ぶビルが実家の酒屋の向かいにあって、そこをねぶたが通るときに樽酒や氷水につけて冷やしたビールをねぶたの引き手や太鼓の男たちに店の従業員が振舞っていた。

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【233】僕の原爆。(8)

シリーズ「僕の原爆。」

目次
【158】僕の原爆。
【201】僕の原爆。(2)
【216】僕の原爆。(3)
【217】僕の原爆。(4)
【221】僕の原爆。(5)
【222】僕の原爆。(6)
【232】僕の原爆。(7)

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立ち上がるのも歩くのも億劫だったのが、ようやく周りの席の人たちもまばらになって、会場から離れられる気分になった。もともとこの日は、式典の後、むっきーとは別行動をすることにしていて、僕は午前中のまだ涼しいだろう時間帯に、大手町の祖母と父の家のあった場所と西観音町の祖母の実家のあった場所に行こうと思っていた。むっきーは、式典の後、僕と別れて、呉の戦艦大和のミュージアムに行ってこようと思っています。その後、広島駅で3時に合流しましょう。そういうつもりだった。そうして、午後3時頃に広島駅から、また7時間ぐらいかけて京都に帰ってくる。

けれど、僕には、もう、次の予定というものに向かう力がなくなっていて、とにかくどこかへ行くか、何かしたいと思っているにもかかわらず、どこにも行ける気も、できる気もしなかった。だから、むっきーが、資料館見たいです。といった言葉に従っていた。しかし、資料館の入口には三重ぐらいの長い列ができていて、すぐに中に入れそうにない。列に並んで、たとえ短い時間であったとしても、ただじっとしていることには耐えられそうになかった。そうして僕たちは、また、行く宛がなくなった。ただふらふらと平和公園の木々の中を、日陰だったからという理由だけで、歩いて、元安川を眺める場所にあったベンチを見つけてそこに座ることにした。ちょっと座りましょう、というむっきーも僕同様に疲れ果てていて、重たそうに体を引きずっていた。しかし、椅子に座ったところで、体の中のざわつきは収まることがなく、少しでも言葉としてそれを体の外に出したほうがいいと思うのだけど、むっきーも僕も何も言えない。ベンチに陽があたっていたこともあって、8月の日差しの中にいるのがつらかった。ほんの1分ほどベンチのところにいただけで、また二人して歩き出していた。

不意に、むっきーが手に持った献花用の花を、これどこですかね。というので、たぶんモニュメントのところに献花台があるんじゃないかな、とそのまま再び会場の方へと向かう。会場の真ん中あたりの椅子がどかされて広い通路ができていて、資料館側からモニュメントまで伸びている。そこを通って歩いて行くと、コンクリートの馬の鞍のようなモニュメントが真正面に見えてきて、近くを歩いていた白人の青年がカメラをそちらに向けて構えている。あぁ、そうかと思って、僕もiPhoneで写真をとってみる。モニュメントをくぐって向こうに景色が少しだけ見える。思った通り献花台がしつらえてある。僕は花を持っていないから、モニュメントの下にある石板に刻まれた言葉を読んですぐに脇へどく。もう二度と、というその誓は、どこまでも遠くへ伸びている。今この瞬間も道程にあって、その起点は70年前の、ついさっきだ。

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【232】僕の原爆。(7)

シリーズ「僕の原爆。」

目次
【158】僕の原爆。
【201】僕の原爆。(2)
【216】僕の原爆。(3)
【217】僕の原爆。(4)
【221】僕の原爆。(5)
【222】僕の原爆。(6)


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なめらかな川面が、岩に近づいていつの間にか流れを変えているように、気が付くと式典になっている。その中にいると、ただ不意に自分の周りの空気が狭くなる。ぎゅうっと流線が絞られて前方への方向性が生まれる。コンクリートの巨大な馬の鞍のようなモニュメントが見えてくる。むっきーに、そのモニュメントの方向を説明するのだけれど、むっきーには見えないらしく、どこですかと言っている。そのモニュメントの前に小さな人影の頭の部分が現れて、挨拶が始まる。音声が非常にクリアに聞こえる。あるいはスピーカーの近くだからなのかもしれないが、これだけの人数が平らな場所に集まって、それでも全員が式典の内部であるのだと、集まった人すべてに思わせられるような舞台装置を知り尽くしているのか、とても明瞭で力強い言葉が聞こえてくる。

話しているのは、広島市長や県知事や子供代表で、こういった式典での挨拶というものが、だいたいは通り一遍のものであるという僕の先入観を、静かに押しつぶしていく。70年前の出来事を悲しんだり、思い返したりするのではなく、現在においてもその出来事がこうしてこの瞬間も起こっているのだ。8時15分の黙祷がその証拠ではないか。今も同時にこれだけ沢山の人が同じ暗闇にいて、否応もなくこの高圧の空気にさらされている。どの挨拶もよく訓練された話し方にも聞こえるが、きっとそうではなく、どうしようもなく、たったいま、この瞬間に吐出されている力強さなのだ。その力強さは、あの管楽器の低音のリズムと同じ、僕をどこかへ運び流していく。波打つ地面の上で、いつの間にか沖合まで流されていく。

僕は、どうしても消しさることができない思いが沸き立ってくる。それは、平和のための式典であるにもかかわらず、いや、平和を望む声が力強くあればあるほど、具体的で現在というものを見据えているということが強く伝われば伝わってくるほどに、どうしても僕には、ある想像が生まれてしまう。もしも、戦争というものがはじまるとしたら、戦争というものに僕が運ばれてしまうとしたら、それは逆らいようのない力強さと、逃れようのない具体的な現在をともなって現れるに違いない。それは、地面が波打って、その上にいるものすべてを気づけば沖合の、もう、のどかな浜辺には戻ることができない、ただ、とにかくどこかへたどり着くためには潮流の中を泳ぎ続けるしかない、そんなふうなものとして、僕はただ戦争する。低く、一帯を蹂躙する乱れのない音が鳴り続けている。

式典の終わりが告げられたあと、僕はしばらく動けなかった。席をたつ人の列が、さっきとは逆方向に、僕達の後ろに向かって続いている。みんな一様に神妙に押し黙っている。白人の小さな女の子だけが露骨に疲れきって顔を歪ませているのが僕にはなぜか安心できる。僕もきっと疲れきって顔を歪ませてしまいたい。この場でうめき声を上げてしまいたい。むっきーが吐き出すように、来る値打ちのある式典ですねとつぶやく。確かにその通りだと思う。広島は僕の知らないところで、ずっとこうやって原爆の質感を鍛え続けてきた。長崎とともに、そうしなければならない最後の砦として、自分を位置づけてきた。その覚悟がこの硬質な質感を生み出している。爆発の瞬間に表裏が一体となってしまった戦争と原爆、その質感を今もまざまざと保持している。原爆の質感を維持することは戦争の質感を維持することでもある。9日後の終戦が、十字架のように、今も原爆=広島に背負わされ続けている。70年もの長い凪を経て、ようやく、僕にも原爆が落ちた。並べられたパイプ椅子に座らされたまま、多くの小学生や中学生、様々な民族、人種、国籍の人とともに、身動きできない僕たちの上に。

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【231】なぜ書くのか。

なぜ愚にもつかないことを書くのか。

僕は考え事を止めることができない。僕にとって、世界はただ在るだけで刺激に満ちていて、風が常に僕に考え事の種を運んできてしまう。次から次へと運ばれてくる種が芽吹き、伸び、葉や花や実をつけていくのから目を離せなくなる。そんな植物が常にいっぱい生えていて、いつも少しずつ変化し続けている。

はたから見ればただぼーっとしているようにしか見えないだろうけれど、そういう時の僕は静かに狂気が進行していて、絡みあう蔦なんかが繁茂しだすと、だれかどうにかしてくれと思う。でも誰もいないからただ困って見続けている。

現実の物理的な僕の体はこういう時には、ゆっくりと停止に向かっているようで、特に内臓活動はかなり緩慢になる。お腹も減らない。お腹が減っているかどうかを意識することができない。

こんなことをしていると、僕は生活できない。生活というのは、食べることであったり、何か役に立つことをすることだったり。

それで、なんとか生活に戻ろうとするときにするのが、最終的に、書くことだ。

書くというのは、その植物たちの様子を写生するようなもので、そのためには細かく一つ一つ見る必要があって、スクリーンに写っているものをぼんやり眺めているというよりは、一つ一つに接近していくという指向性が生まれてくれる。

そうして近接的に見えたものをシーケンシャルに言語化していくことで、ひとまず僕は、その一つ一つから自分を引き剥がしていける。そして生活に戻れる。

こういうときに書いたものは愚にもつかない。だけど、僕には必要なんだと思う。そういうものを自分のノートにそっと書き留めておくだけではダメで、こうしてわざわざ外に見えるようにしておくのは、自分のノートに書き留めておくということと、ずっと眺めているということが近すぎて、自分を引き剥がして生活へ戻れる力にならないからだと思う。はた迷惑な話だと改めて思う。

【230】「人間の基底」に関するメモ。

メモとして。

考え事が僕というものをこの世界から切り離し続けている。
考え事が終われば、僕はこの世界に再び戻り僕は世界に統合される。

考え事が始まる前は、この世界に僕という輪郭は、その他の全てと同様に、形作られていない。考え事をした瞬間、〈僕〉が抽出され、その〈僕〉が、ただひとつの世界に対峙するものとなる。

この〈僕〉というのに〈我〉という名前をつけて、この〈我〉を消すという大きな挑戦をしているのが仏教だ。自然というものの原点を、世界からまだ〈僕〉が分離されていない状態だとすれば、自然から見た仏教は、すでに〈僕〉が分離されてしまっている状態から統合的な状態への逆過程を、〈僕〉によってなそうとしていることになる。もちろん、そもそもそんなことに努力する必要はなく、ただ考え事を止めればよくて、その一番簡単な方法は死だということになる。

〈僕〉に対峙する世界に対して、それを意思するものを前提して、〈神〉と名づけられたりもする。その場合、世界は〈神〉と同一で、全ては〈僕〉と〈神〉だけになる。近代の個人というものは、この〈僕〉が〈神〉を上回ることで発生する。自然というものの原点から見た〈神〉への違和感は、自然から〈僕〉が分離し、その〈残り〉のものに〈神〉というラベルを貼り替えていることに端を発していて、そんなことをしなくても、もともと自然は一つだ、となる。

人が何かをしようとするときに発生する〈意識〉というものは、〈僕〉の発生プロセスを〈僕〉の外側からの視線を前提して名付けたもので、〈僕〉が発生したあとは、〈僕〉によってその外側からの視線を代行できるようになる。

「人間の基底」をどこに置くかということは、吹いている風の一瞬を捉えて「最大風速」を観測するような感じがあるけれど、僕にとっては、この〈僕〉の発生するあたりの小さく見れば刻一刻と風向風速が変わっている風の発生そのものがそうで、だからここからというよりは、その風が吹き続けていることが人間の基底と思える。

October 2, 2015

【229】10月31日まるネコ堂・なっちゃんの影舞、ご案内

影舞をやります。
影舞というのは、これまたなかなか説明しにくいものなのですが、
二人の人が指先だけを触れ合わせて、自由に動く、そんな舞です。
なっちゃんと僕の案内文、
お読みいただけると幸いです。

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▶日にち :10月31日(土)
▶時 間 :13:30-17:00
▶場 所 :まるネコ堂
      京都府宇治市五ケ庄広岡谷2-167
▶アクセス:JR奈良線・京阪宇治線「黄檗(おうばく)駅」から
      徒歩15分ほど。坂道を登ります。迷いやすいです。
http://marunekodosemi.blogspot.jp/p/blog-page_7.html

▶世話人 :小林直子
▶参加費 :3000円
▶定 員 :6人
▶主 催 :小林直子、大谷隆

▶申し込み:marunekodo@gmail.com(大谷隆)まで。
注意:猫がいます。会場には入れませんが普段は出入りしています。
   アレルギーの方はご注意ください。

翌日から「二泊三日 まるネコ堂円坐」(守人:小林健司さん)があります。
http://www.fenceworks.jp/info.html#/detail/7241572692591428820
こちらもご覧ください。会場での宿泊が可能です。(雑魚寝、寝袋有り)


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なっちゃん(小林直子さん)は書いている。
影舞は、相手の指先と自分の指先を触れ合わせる。触れているその間に蝶をはさんでいるように、触れた一点に集中する。その蝶の羽が破れないように、放してしまわないように相手の指先にそっと触れる。触れたところから、舞がはじまる。[小林直子、『fence worksメールニュースNo.113』 ]
「触れたところから、舞がはじまる」のだから、触れる前に舞は無い。まさにその「触れた一点」から、舞がはじまる。その時、それまでは無かった何かが生まれる。
相手と自分の間に、ある空間が生まれるような感覚になった時があった。その空間に二人がいるような感覚になり、より心地よく、動くままに動いている自分がいた。[同]
二人がいるこの「ある空間」は、世界である。これを読むと、世界がどうやってはじまったのか、がわかる。

それまで無かった世界がはじまるというところは、薄い蝶の羽をはさんでいるような、その一点に、全てが集中する。集中したそれぞれの全てを触れ合わせることによって、その一点から世界が誕生される。全て、だからこそ、世界の中に再び居ることができる。

僕たちは、きっといつも、こんなふうに、他者と、お互いの全てがある一点で触れ合うようなこととして、であ(出会)っている。

なっちゃんは、影舞に対して「私には何も無い」と言う。それは、まだはじまっていない世界がどうであったかなんて、私には言えない。ということである。

大谷 隆

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大谷さんから
この企画のことをもちかけられたとき、
声をかけられた嬉しさと同時に
「わたしには何も無い」
そんな言葉が出てきた。

何が無いのかというと、

この影舞を通じて提示したい何かとか、
伝えたい思いとか、
こんなふうに素晴らしいものですよという完成された形とか、

きっと、そんなものが無い、のだと思う。

無いと言ってみて、
じゃあ、何があるのかと、考えてみる。

あるのは、

わたしが、橋本久仁彦さんが開いている
影舞クラスに参加し
影舞をやっている中で感じる面白さ。

その面白さは、
形にはなっていないもの、
わたしだけが見ている景色。

大谷さんは、
わたしにしか見えていないその景色を
面白そうだと言ってくれた。

大谷さんの放つ空間は、
静かで、ゆっくりとしていて、すごく丁寧な空間。
その中で、
わたしは、地に足をつけ、じっくりと
自分が見た景色を丁寧に言葉にしていくことができる気がする。

そして、
集まった方々と、影舞をしあう中で、
それぞれがそれぞれの中で見た景色を
じっくりと言葉にしあうような
そんな時間を過ごせるような気がする。

それは、
その日、その時間、その場所で
初めて生まれる世界。

そんな世界を
ご縁のある方々と一緒に過ごせることを楽しみにしています。

小林直子