January 31, 2015

【067】コートは解決した。

まったくおしゃれな感じがしないのもいい。
冬場、毎日着ているのがバブアーのオイルドコート。オイルが綿の生地に染み込ませてあって、防水、防風効果が高く、丈夫。そして重い。

以前はオイルのにおいがきつく、電車に乗れるコートではなかったらしいけれど、最近のオイルはほとんどにおわないから、普通のコートのように着ている。

もともとは狩猟や乗馬をする人が着ていたらしく、ダウンジャケットやフリースのような暖かな快適さを求めるというよりは、雨や雪の屋外で風にさらされて何時間も耐えるような「命を守る」感じが気に入っている。

新品は結構な値段がするが、古着屋で1/3ぐらいで買った。あちこち擦り切れて穴が空いているけれど、布が二重になっていて、まだまだ使える。たぶん、死ぬまで使える。

2シーズンに1回ぐらいオイルを入れなおしてメンテナンスするのだけど、自分で簡単にできる。夏場にやると作業しやすい。

これを着て帽子をかぶれば、多少の雨は傘をささなくても大丈夫。傘が嫌いなのでとても快適。タオルを持って行ってあとで拭けばいい。襟を立てて顎のところのホックを止めると首周りも暖かでマフラーがいらない。マフラーはすぐに失くすので、これも快適。

何から何まで僕好みなコート。

January 30, 2015

【066】今や考えすぎずに生きるなんて時代遅れである。

空を撮ろうとしたら、思い切り手前にピントが合った。
もっと手前には眼球があって、本当はそれしか見えていない。
前回の続き。

今という時の特徴は、無根拠、無目的が生身の人間に露骨に迫ってくることである。だから、ごくノーマルに今を生きようとしても「なぜ居るのか、なぜ生きるのか」あるいは「なぜ死なないのか」を自分自身から常に問われてしまう。

毎日、やらねばならないことが淡々と通り過ぎて行き、気が付くと死が目の前に迫っているという幸せな時代は、近代の成立とともにフェードアウトしていった。今、もし、そんなふうに過ごしているとしたら、局所的に前近代が成立している場所か、今という時から目を背けているかだ。

無根拠、無目的が突きつけられた状況で生きていくためには、身の回りにあふれた物事の一つ一つを一度分解してから、自分自身の「居場所」からの距離が最短になるように再構築していくことで、それこそが今という時に唯一面白いことであり、かろうじて生きていく糧になる。

考えすぎず生きるほうがいいという人は、僕には時代遅れに見える。無根拠、無目的という虚無を真正面に捉えて、一歩一歩それぞれの道を一人で歩いて行く人が今という時を生きる人であり、考え続ける人である。

人類はようやくここまでやってきた。

January 29, 2015

【065】現代における「新しい物」は少ない要素で成立する。反ブリコラージュ論。

革は厚みが違うだけで特性が大きくかわる。
「深さ」のある素材。
今や物だけでなく材料の種類もあふれている。必要な用途に合わせて「だったら、ここにあるこれを追加すればいい」とその都度都合よく要素を追加していくことは、機能としての物体を成立させるのに、ものすごく安易な方法で、そういう「寄せ集め」という意味で「ブリコラージュ」は好きになれない。

もう大概のことは手段さえ選ばなければ実現するのだから、実現すること自体に新しさはやせ細っている。少ない要素で振り絞るようにして現れるという必然性が、現代においては「新しい物」として見えてくる。

要素が少なければ少ないほど、その限られた要素一つ一つが持つ特性を引き出さなければ何かを成立させることはできない。その特性は、一つ一つの要素の「深さ」から見つけ出してくる。それだけの深さを持つ「要素」を選びとることこそが「新しさ」の断面になる。

要素が少ないからといってその意味を「物事を簡単に考える」とか「シンプルに考える」と捉えるのは間違いで、要素が少ないほど物事を見ることに対する解像度が求められる。要素を減らすために、普通なら考えなくても良いことまで考えなくてはならない。これを「考えすぎ」と片付けてしまう人にとって、現代はつまらない時代である。

January 28, 2015

【064】「かゆい空」と言葉はぷにょぷにょしたもので常に再構築され続けているネットワーク。

空の空き地、つまり空き空。
ある言葉単体は、水風船のようにふにゅふにゅとしていて、よく化粧水なんかのCMで、ぷるぷるした赤ちゃんのような肌に細胞がよみがえります、という説明で使われるイメージ図のような感じで、その言葉のイメージは触ると形を変える。

このふにゅふにゅぷるぷるしたの言葉単体を触っているのが気持ちよくて、いつまでも触っていてしまう。

「大谷」という実在する人をイメージさせる語のそばに持ってくる語として、「役に立つ」と「役に立たない」を比べると、当然「役に立つ」の方が置きやすいから、通常「大谷は役に立つ」というならびに落ちつきやすい。

しかし、人というものを「役に立つ」ものと捉えること自体に嫌な感じがあるから、むしろ「大谷は役立たず」という並びの方に、その並びの隙間からのぞける奥にあるものへの希望が生まれる。「大谷は役に立つ」という並びの奥にはどろりとしたものが見えそうになる。

こうやって言葉を遊んでいると、人にもし「大谷は役立たず」と言われた時にとても楽しくなるだろうと予想がついてきて、とういうことは僕も誰かに対して「役立たず」という言葉を使ってみたくなる。

言葉は単数ではなく、すでに言葉どうしのネットワークというもので、「空」という言葉を思い描くとその近くには「広い」「飛ぶ」「雲」「ふわふわ」といった言葉の群れが現れる。ふつう「かゆい」「ねじる」「金塊」「ちくちく」といった言葉は近くに来ない。

しかし、このネットワークは、固く結び合わされているわけではなく、ゴムのようにぶにょぶにょと伸びる素材でゆるく結ばれていて伸びる。それをびょーっと伸ばすと隙間ができて、そこにもう一つ新たな言葉が入ったりする。

いやもっとこう、卵の黄身をボールに落としていって、3つの黄身が並んでいるところに4つ目の黄身が入ると4つ目が3つを押しのけるようにして間にするりとはいって、3つは少しずつ位置を変えて4つがそれなりにおさまる。ボールを傾けたり、ゆすったりすると、それだけで位置関係が変わる。こんなふうにゆるゆるとお互いが触れ合っているような感じで言葉のネットワークはある。

だからきっと、何かの拍子に「空」のとなりに「かゆい」が来るかもしれなくて、それがしっくりくるような状況があるかもしれないと考えてみたりする。そうするとだんだんその並びが不自然でなく馴染んでいって、「かゆい空」とか「空がかゆい」とかそういう言葉が徐々にネットワークに組み込まれていく。

言い換えれば、ぷにょぷにょが並んでいるところに、今まではあんまり隣り合わなかったかもしれないような別のぷにょぷにょが、もともとあったぷにょぷにょが形を変えることで今まであった並びのどこかにゆるみができて、そこにつるんとおさまるようなことが、僕にとっての言語化である。

January 23, 2015

【063】持ち寄り食会における精神性。

空き地は不意に現れるけれど、
ずっと以前からそこにある。
持ち寄り食会とは、

まず、自分がほしい物を買うために自分がほしい物を知らねばならない。
他人のためにではない。
他人という自分の外にあるものを自分から引き剥がさねばならない。

しかし、自分というものをその瞬間決定付けるのは、自分の外である。
様々な外によってその時の自分が決定されるからである。
つまり、一度、外を引き剥がした自分が改めて外に触れるのである。

さらに、その外と触れていることによって生じている自分を改めて自分とし、その新たな自分の内に向かわなければ、自分がほしい物を知ることはできない。

そのためには、自らの欲をつかんでおかねばならない。欲を知らずに食を会わせることはできない。体の調子を整えておかねばならないのはそのためである。

その上で、その外と触れることによって生じている自分がほしい物が、他人の存在する場に落とされる時、その物を通して自分というもの全体が他人と出会うのである。

このように、自分の内と外とを行き来することによって、幾度と無く塗り替わる自分を見続け、その自分として他人と出会うのである。

January 22, 2015

【062】自分だけを使って戦う戦い方。

タイトルも写真も見事の一言。
けんちゃんのブログのこのエントリー、
「全力で太る努力をしたけど無理だった」
迫力がある。見事である。

何かうまく関連する話題で僕もブログを書いて引用しようと半日考えたけど、もう何も付け足すようなことがなかった。

「自分の容姿への不満足」「思い通りに行かないダイエット」という自分の投影や「直接本人でない人への攻撃」「世間の常識を使った攻撃」など、ありふれているけれどとても厄介な敵に対して、けんちゃんは自分だけを使って穏やかに戦っている。

【061】持ち寄り食会と名付ける。

将棋の対局に棋譜が残るように、
メニューを残してみている。
東山のアパートにぱーちゃん、高向くん、澪と僕の4人でいて、夜ご飯を食べようとなった。二条のイオンに行ってなんか買ってこようということで、店内についてから急遽、一人800円の「持ち寄り食会」をすることにした。

持ち寄り食会(しょっかい)というのは、以前「2000円忘年会」とか「1500円新年会」とか呼んでいたもので、小林けんちゃんのブログで「ほっぽられたものがない気持ちよさ」と紹介された、あの会のこと。高向くんが名づけた。

けんちゃんの「だれかとだれかの間に挟まれて、ほっぽっておかれるものが、存在しなくなる」というのはまさにそうで、どんなものであっても確かな手応えを持って場に現れる。

今回は、これまで会場にしてきた自宅(まるネコ堂)とは異なり、調理道具と呼べるものがカセットコンロとやかんしかない。この大きな制限事項があるため、果たしてどうなるかと思ったが、やはり恐ろしいほどにバラエティ豊かな食卓となった。

以下、レシートより記録。
ぱーちゃん
・チロルチョコミルクヌガー
・有楽クリスプサンダーWナッツ
・トップバリュ清酒カップ
・トップバリュチューハイ
・牛もつ鍋
・コロッケ2つ

高向くん
・トップバリューポテトチップスのりしお
・ピザパン
・じゃがバターコロッケ2つ
・白身魚のフライのあんかけ
・月桂冠エコカップ
・クリアアサヒ


・トップバリュハイボール
・トップバリュ極小粒納豆3パック
・焼き鳥、うずら卵フライ、白身魚フライ、春巻のセット
・鍋焼きラーメン
・さんま蒲焼缶詰

大谷
・トップバリュ粒入りコーンスープ8パック
・トップバリューカップうどん
・トップバリュ清酒カップ
・トップバリュバケット(フランスパン)
・エクストラバージンオリーブオイル
・トップバリュフィッシュソーセージ4本セット

ぱーちゃんのモツ鍋がよかった。

僕のトップバリュ頼みは通用しなかった。あとそんなに大量のセットを買う意味がないということもようやく学んだ。

一つ一つ、各自買おうとしたものに対する理由があり、買おうと思ったものけどやめたものへの理由もある。「このとなりにあったやつと迷った」「それ、僕も迷いました」という感想戦が面白い。

現在のところ、2000円から1500円、800円と予算を下げても必ず食べきれない量になるという現象が生じている。

January 21, 2015

【060】ついでにじゃなくてわざわざ来ました。

猫についでにはない。
わざわざ人が困ることをする。
ついでにができない。

トイレに行ったついでに飲み物を取ってくる。
東京に行ったついでに美術館に寄る。

と、飲み物は忘れ、展示はおもしろくない。

何かの用事で会う人に、ついでに別の話をしようと思っていたりすると、実際に話ができたとしてもろくな話にならずに後悔する。

どうしても話がしたい、むしろ話のほうが重要だと、そういう場合は、頭のなかで逆にすることにしている。最初の用事をついでにして、話の方をメインにする。こうすると用事は適当になるけれど話はできる。

もちろんほんとは、ついでになんかなしにして、わざわざすればいい。
わざわざ会いに行って、わざわざ話をすればいい。

ついでには、ついでにすればするほど、どんどんと自分が分かれていく。
僕はわざわざが好きだ。

January 20, 2015

【059】ブログがたのしい。

書いて一日が終わり、
しばらくすると書かれる一日が始まる。
夜、ブログを書く時間がとてもうれしい。
今日は何を書こうかと考えている時間もうれしいし、
書いている時間もうれしい。

だいたい、書いてすぐには公開せずに、
翌朝あたりにスケジューリングしておく。
そうするとなんとなく他人が書いたような気がしてくる。
そして、事実、それを読む頃には、僕はもう別人になっている。

昔書いたブログのエントリーを読むのもうれしくて、
思わず「そうそう!同意見」と膝を打ったりする。
自分なんだから当たり前だろうと以前は思っていたけれど、
今は過去の自分は別人だと思ったほうがしっくり来るから、
とても良く似た考えを持った他人のブログを読んでいるような気になる。

友達のブログを読むのもとてもたのしい。
僕のエントリーが引用されてたりすると、さらにうれしい。

もう、ブログに書き書かれるために生きている。
ほんと、みんなブログ書けばいいのに。

January 19, 2015

【058】読むことは書くことの逆過程ではない。

同時に同地点から同方向を見ていたとしても、
何を見ているかは異なる。視界の面白さ。
わかりにくいブログが続いてますが、書き残しておきたいと思うことなので、もうしばらく辛抱してくださいませ。


読むという行為は、書かれた言葉から書いた人の視界を得ることである。

書くというのは、自分の中に湧き出てきた霧のようなものをなるべくそのままの形で外に取り出すということで、霧と書くとあの白い霧を思い浮かべてしまうけれど、もっととらえどころのない無色透明の霧とでもいうようなものだ。

一度言葉によって、形を与えられてしまったものが再び無色透明の霧に戻ることはできないから、読むことは書くことの逆過程にはならない。戻れる範囲が限られていて、霧を言葉として現した瞬間までしか戻れない。

読む、つまり書かれたものから書いた人の視界を復元するためには、読む人の中に形成された「経験と言葉が連動する体系」を使う。この読む人の体系は書いた人の中にあった体系と厳密に重なるわけではないし、時に大きくズレが生じることもある。書いた人と読んだ人がズレた体系を用いれば、復元される視界は異なるものになる。

だから、優れた本は、この両者の体系のズレをできるだけ小さくするために反復的な調製プロセスを本の中にねりこんでいる。その調製プロセスに費やされる文字数が全体に対して占める割合は、書いた人の視界の特殊度や解像度に反比例して増えていく。特殊で解像度の高い視界ほど、調製プロセスに費やされる文字の割合が増え、100%に近づいていく。

読むという行為は、書かれた言葉から読む人の経験と言葉が連動する体系を、書いた人の体系に重ねあわせていくことで、書いた人の視界にできるだけ近い視界を得ることである。

January 18, 2015

【057】言葉というものは思っている以上にあやふやなのだと思う。

厳密に同時刻に同じ景色を見るというのも、
それだけで奇跡。視点の高さだって違う。
言語化するというと、何か不定形のものに確固たる形を与えたかのように思えるけれど、どうにかこうにか言葉として出してみたというだけで、現した人にとっても、それがうまく言い得ているかどうかは、その都度レベルが違って、これはうまく言えた、これはいまいちだったというような差が出る。

もちろん「うまく言えた」と思える瞬間は、言った人にとってはとても幸福で、それ以上は要らないと思ったりするけれど、そういう場合ですら、その「うまく言えた」言葉を聞く人が必ずしも言った人と同じ景色を見れるわけではなく、聞く人が見てきた景色の中で似ていると判断されたものからの合成写真でしかない。

言葉の「意味」が言葉で表される以上、どこまでいっても言葉を共通の体験として得ることはできない。辞書だって、ある言葉の意味を別の言葉で意味付けようとする以上、どこまでも循環しつづける。例えば「意味」という言葉の意味が言葉を使わずに、他者と共通の体験として得られるのであれば、それを元に言葉全体を他者と共通のものとして組み上げることができるかもしれないけれど、そういうわけにはいかない。

言葉という大きな体系全体が、それぞれの人の中でのそれまでの意思疎通体験のトライアンドエラーの集積としてしか成立しない。

過去において現在とは違う意味で使われていた言葉にまつわる他者との意思疎通は、その意思疎通そのものが、現在の言葉によって現在に人の間で行われる以上、まるで自分で綱を張り替えながら渡る綱渡りのように、そこまで行かなくても自分で綱を揺すりながら渡る綱渡りのように危険なものとならざるをえない。

言葉の意味にまつわる言葉の交換は、多重露光しながら多くの景色を重ねあわせるようにして交わされることでしか得られないのかもしれない。

January 17, 2015

【056】書くことほど身を切ることはない

久しぶりに空き地。
囲われた空き地は動物園の動物のよう。
自分の文章を読み返すのが大好きなんだけど、それでも時々どうしようもなく醜さが見えてきて、消えてしまえばいいのにと思ったりする。

書くこと、文字にすることは、その醜さを永遠のものとすることだから、この恐ろしさはいつまでたっても慣れることがない。

消えない、残るということは、強大な権力を築くこともできるけれど、強烈な恥を晒し続けることにもなる。

だいたい、書こうと思っていることがそのまま書けた試しがない。書こうと思っていることはいつも素晴らしいのに、いざ書かれるととても平凡。手っ取り早く奇をてらったり、その場しのぎの破天荒さに逃げたりしたくなる。

書こうと思っていることが書けたなら、死んでもいいと思うだろうな。

January 16, 2015

【055】ペンは2本。

道具は、使うのが好きなので、使えないと気分が悪い。
「大事にしまっておく」のはとても雑な扱いだと思う。
ペンは二本しか使わなくなった。

ブルーブラックのインクを入れたペリカン(緑縞)。
赤のインクを入れたラミーサファリ(黄色)。

ラミーサファリはカートリッジではなくコンバーターを入れて、ちゅーちゅーとインクを吸い上げる。ペリカンはお尻のところをくるくる回してこちらも、ちゅーちゅーとインクを吸い上げる。ハクキンカイロの時にも書いたけれど、この「使う分だけ液体そのものを補充する方式」が僕は好きだ。

万年筆を使い始めたきっかけは、僕の整理の悪さがある。

仕事柄赤ペンをよく使うのだけれど、以前、ボールペンを使っていた頃は、気が付くと胸ポケットに3本赤ペンが刺さっていたりした。無い無いと探しまわって机の引き出しを開けたら中から20本近くぞろぞろ出てきた時は、ホラー映画かと思った。虫や鳥が大量に湧いてくる映画があるんだからペンが湧いてきてもおかしくない。

万年筆に変えてから、筆記具というものが無尽蔵ではなく、唯一の物としての実感がわくようになって、とても気持ちが落ち着いた。他の筆記具と比べて万年筆の良いところはだから、物としての存在感が強いことだ。

僕にとってペンはこの世にこの2本しかない。
それが心地よい。

書き味ももちろん好きで、脳みそが液体になって腕を通ってペン先から紙に直接流れ出る感じがする。

January 15, 2015

【054】名刺入れを財布にしている。

小さく折ったお札で会話も広がる、
こともたまーにある。
薄い財布」が流行っているけれど、僕は名刺入れを財布にしている。3年ほど前、それまで使っていた財布がボロボロになったのをきっかけに手元にあったので移行してみたらとても使い勝手が良かったので、それ以来愛用。

入れているものは、
カード類4枚
 ・運転免許証
 ・銀行キャッシュカード
 ・クレジットカード
 ・ICOCA(ICカード乗車券)

お札は写真のように横長に4つに折って入れる。
 ・千円札4枚
 ・5千円札1枚
今日は割りと入っている方。普段は2000円ぐらい。

基本的にはこれぐらいしか入っていない。
電車に乗る時には、ここに行き帰りの回数券も加わることがある。

小銭は家から出るときには持たず、途中お釣りなどを受け取ったらジーパンのコインポケットに入れる。コインポケットをその名の通り使っている人はそんなにいないかもしれないけれど、結構な枚数を入れられるし、チャリチャリ音もしないし、大きめの500円硬貨もちゃんと入るし、実に優れもの。家に帰ってきたらコインポケットから小銭をためている金魚鉢にチャリンと入れてしまえば、小銭なし状態に戻る。

財布代わりになっている名刺入れ自体は、時々開催される鉄道忘れ物市に行けば250円ぐらいでそれなりのものが買える。

普通の財布から名刺入れ財布に移行する際のポイントは、カード類の枚数を減らすこと。使用頻度の低いキャッシュカード、クレジットカードは、口座ごと解約して使うものだけにした。

交通系ICカードは、以前は京阪のピタパカードを使っていたけれど、別途クレジットカード契約が必要なので解約して、JR西日本のICOCAにした。必要なときに現金でチャージして使っている。(このスマートじゃない)ICOCAは2000円(デポジット500円含む)出せばみどりの窓口や自動券売機でだれでも買える

お店のスタンプカード類は、パートナーの澪と共通で使うわずかなものだけを残して処分した。僕のような低消費者はスタンプが貯まることはまずない。

余談だけれど、名刺入れなのに名刺は入れていなくて、名刺代わりにCARAPACEのオープンお知らせハガキを持ち歩いていてそれを配ってます。

追記
その後、カードケースに移行。さらに薄くなってます。

さらに追記:
結局、クリップになりました。
【099】財布はクリップでいい。保険としてのお金。

January 14, 2015

【053】白湯を飲む。

美味しいとか不味いとか味がないとか栄養がとか、
そういうことと無関係な「純粋飲料」。
朝起きたら一杯の白湯を飲む。
朝だけじゃなくて、1日に2、3回ぐらい飲む。
白湯は「パイタン」ではなく「さゆ」と読みます。

白湯といえば思い出すのが吐山継彦さんのこのブログ。
http://d.hatena.ne.jp/thayama/20100326

これを読んでから白湯がどことなく恰好いい物に思えてきたのをよく覚えている。
「ブルースと白湯は合いますね」なんてホント、
吐山さんらしい気取り方でとても恰好いい。

やかんでお湯をちょうどいい分量だけ沸かして、厚めのマグカップに注ぐ。
マグカップが温まるのと白湯が冷めるのとが同時に進んでいって、
やがて持ってる手のひらが温まり、飲むと胃が温まる。
飲み終わる頃には体が動き出す感じがする。暖機運転のよう。

白湯は熱というものを純粋に抽出した飲み物。
まじりっけなしのあたたかい飲み物。

January 13, 2015

【052】気がついたら買ったものすべてトップバリュだった。

キャッチコピーは死んだ。
「こってり」とか「たっぷり」より安価な定番が勝つ時代。
昨日、澪と二人で東山のアパートに行ってゼミの本を読んで、近くを散策ついでに市民活動センターの予約をとったりしていたら、夕方になってお腹も減ってきたので、ちょっと何か買ってアパートの部屋で食べて帰ろうとなった。

二条通にイオンがあって、入り口はそうでもないのだけれど、このイオン、中に入ると広くて品揃えも豊富。特に酒コーナーがリカーマウンテン顔負けで、キングサイズ(1750ml)のアーリータイムズなんて売ってるスーパーを初めて見た。

ちょっとだけ飲めればいいやとワンカップのコーナーへ行くと、イオンのプライベートブランド「トップバリュ」のカップ酒があって、へーこんなのもプライベートブランドで作ってるのかと感心しつつ値段を見たら180mlで98円(税込)で、つきなみだけどジュースより安い。

ついでにアテにポテトチップス、小腹が空いたのでカップラーメン、家で食べるように袋入りのラーメンを買って、部屋に戻って広げたら写真の如く、すべてトップバリュだった。

何しろ値段が競合とくらべてダントツに安く設定されているので、よっぽど個別メーカーやブランドに思い入れが無い限り、トップバリュを買ってしまう。いやもう、無意識にどんなジャンルのものであっても、まずトップバリュを探す気がする。

なまじ商品内容で差別化する必要がないため、定番ど真ん中な味に作ってくると買う前から予想できるので安心感すらある。そのうちトップバリュの車とか家とか出るんじゃと思ったら、ほらもう、どんな車でどんな家かなんとなく想像がついてしまう。

カップ酒もポテトチップスもカップラーメンもインスタントラーメンも、メーカーが必死の思いで開発し、ライバルと戦い、商品ジャンルを形成し、確立してきたからこそ、こうやって「そういうモノ」として誰もが知るようになった。

格安のプライベートブランドはそういった歴史をまるごとかっさらっていくような感じがして応援したりされたいとは思わないけれど、東山のアパートで僕がやろうとしているような、できるだけ持たない「軽い暮らし」には、とても相性が良いのだと思う。なんともすっきりはしない。

とりあえず、できるだけ川端のフレスコで買おうとちょっぴり思った。

January 12, 2015

【051】フリースの攻防、ユニクロへ行く。

失われているからこそ懐かしいという感情が起こる、
というイメージ写真。
昨日のフリースを持ってユニクロへ行った。レジで回収お願いしますと言ったら、
「エスカレーター前に回収ボックスがあります」
と案内された。

昨日ほんのちょっと期待していた20年物のフリースについての会話は全くなかった。
いや、それどころか交わした言葉はフリースそのものについてではなく、回収ボックスについてのものだった。

まぁ、あの明るく整った店内できっちりした制服のスタッフに着古したフリースをしげしげ見られたら、確実に恥ずかしいから、この対応が最善だし、そもそもそういう「ドラマ」を期待するなら古着屋に行くべきだ。

だからこれは、僕の中にあるものに過ぎないのだけど、この短いやりとりとボックスに投げ入れる瞬間に生じた物悲しさこそが、僕が修理が好きだったり、長く使いたいリュックを作ったりする意志の源泉なんだろう。それは確認できた。

January 11, 2015

【050】ずっと着続けてきた赤いフリースの攻防

全体にくたびれ感はある。
やや鈍い赤色は気に入っていた。
冬場、制服のようにひたすら着続けてきたユニクロの赤いフリースがある。大学の頃買ったもので、ユニクロがフリースを大量に売りだした頃の物だからもう20年弱になる。特別気に入っているというわけではないけれど、着やすいという理由で冬場は毎年ずーっと着続けてきた。

もうフリース独特のふんわりした感じはなくなって、かなり薄手のぺったんこな生地になってしまったけれど、縫製はしっかりしていてどこにもほつれはない。遠目には20年物の古着には見えないはず。

その赤いフリース、実はこの冬、ほとんど着ていない。自分でも驚いている。服装の趣味が変化したというわけではないが、なぜか着ない。この時期まで着ていないのだから、たぶん春まで着ない。この冬着なければ、来年も着ない。

ユニクロでは全品回収しているというので、早速持って行くことにする。

「これは貴重な初期型ですね」
「プラボタンをプチンプチンと外すのがいいんですよね」

なんて会話があったら面白いけど、ないだろうな。

【048】音の世界と文字の世界

想像以上にもっちゃリしたしゃべり方で
とてもうれしい。
これはすごいことだなぁと思う。
『吉本隆明の183講演 フリーアーカイブ計画』

言いよどみ、言い直し、無言を含んだ声の記録。
文字と音はとても大きな隔たりがあって、
それは実は世界を二分する戦いなんじゃないかと思ったりする。

僕はどちらかというと文字の陣営に属していて、
でも、対岸の音の陣営に憧れを持っている。

文字の世界に音の残り香を残すようなこと、
音の世界に文字の永遠を持ち込むようなこと。

それはどちらもはっとするような出来事だから。

January 10, 2015

【047】だらだらできる場所

能の「くつろぐ」は、演者が観客に背を向けた状態で、
その場にいないことになるらしい。
うちにはだらだら出来る場所がないと唐突に澪が言い出した。こたつがあってテレビがあって、だらだらできるような場所。そう言われるとない。うちは2階建てで、1階は半ばオープンな場所として、プライベートを感じさせる物はなるべく排除している。

2階は、3部屋あって、4畳半の和室と4畳半の元フローリングで今は畳を3枚入れた部屋と8畳程度のフローリング。最初の和室は寝室として、布団とファンヒーターだけおいてある。元フローリングの4畳半は、澪がもらってきたキャンバスがそのうち絵を描かれるためにただ立てかけてあって、それ以外には何もない。最後のフローリングは事務スペースとして、机が2つあって、パソコン作業などをする。服などの私物はこの事務の部屋に入れてある。

自分の家の中なのに、私物とそうでない物がある時点でちょっと変なのだけれど、そういうわけで、だらだらできる場所といえるところはない。強いて言えば最近借りた東山のアパートがそうなんだけど、ここはそれこそ僕達以外のメンバーがいつ来るかわからないという意味で、オープンな場所。

とりあえず、2階の事務所兼プライベートスペースが一番閉鎖的なので、だらだらしたい時はここでするのが良さそうということに落ち着いた。

でもまぁ、僕の場合は、だらだらしている時としていない時の違いがあまりないので、そもそもそういう場所を欲していないのかもしれない。

だらだらできる場所って昔からあったのだろうか、とふと思う。これも近代というものが産みだした代物かもしれない。個室とか居間とかそういう概念はいつ頃どのように形成されたんだろうか。なんとなくワイシャツとかシーツとかと同時期の気がする。そしてそのころに恋愛結婚なんかが出てきてつまり、「部屋とYシャツと私」だったりして。

January 9, 2015

【046】ハクキンカイロにベンジンを注ぐのが楽しい

ポケットの中、
小さな「火」を持ち歩く。
冬場、何が困るかというと、指が冷えるのが困っていた。特にパソコン作業をすると指が冷えてしもやけになる。それだけのために部屋全体を温めるような暖房を導入する気になれなくて、結局我慢していた。そんな中、パートナーの澪がいいものを発見した。

ハクキンカイロ。

存在は知っていた。昔、父親が使っていたという話を母親から聞いたことがあった。カイロ本体を見た記憶はないけれど、中に入れるベンジンの瓶は長く実家の洗面所の棚に放置されていた。今でも新品を売っているとは思ってなかった。

澪と2つ購入。届いたので早速使ってみる。

まずベンジンを注油、と言ってもベンジンを燃やすわけではなく、触媒作用で二酸化酸素と水に分解される際の酸化熱を取り出す仕組みで、その原料となるベンジンを注いで入れるのだけど、あぁ、これはいいなと思った。万年筆にインクを吸い上げるのと似ていて、僕の好きな作業。もしハクキンカイロが、燃料を直接入れるのではなくて、カートリッジタイプだとしたら、きっと買わなかったと思う。

ある一定分の「何か」を補充して使う物には、その一定分の自由を手に入れる感じがあって、それがカートリッジになってしまうと、そのカートリッジという規格に縛られて自由が減る。家庭に引かれている電気やガス、水道といった「パイプ」で接続されているタイプの物はさらに強固に縛り付けられている感じがする。「インフラ」とはこの「パイプ」のことで、だからインフラは常に束縛を伴う。テレビやネットといった無線インフラは、物理的には緩和されてはいるけれど、「圧力を伴って注ぎ込む」機能は、パイプと同じで心理的には束縛を受ける。

それはさておき、ハクキンカイロは、満タンにすると24時間保つ。毎日、決まった時間にベンジンを入れるのが冬場の暮らしの作業の一つになると思うと楽しい。

今もはんてんのポケットに入れて、時々指を温めている。

January 8, 2015

【045】たこ焼き鉄板を手放すかどうかの攻防

鉄の調理具は基本的には好きで、
それだけで評価が上がる。
街角でたこ焼き屋を見つけて、あ、食べたいなと思うことがあっても、つい、家で作ったほうが美味しいからと我慢してしまっていた。

実際、家で作ったほうが美味しい。そのための鉄板も結構気に入ってはいる。しかし、最近あまり使わなくなってきていた。

使わないなら持っていなくても良い。そうやってこれまで多くのものを手放してきて、そのたびに心地よい開放感があった。そこでたこ焼き用の鉄板、さらにたこ焼きを焼くときに突く針のようなもの2本、手放せるかどうかを検証するために、急遽今夜たこ焼きを焼くことにした。

何度も書くけれど、家で作るたこ焼きは美味しい。それは間違いない。問題は、美味しいからといって果たしてある一定以上の頻度で作り続けるかどうか。

これまでのうちの食事メニューの傾向から考えると、頻度がある程度あるためにはなるべくシンプルなレシピで定番化する必要がある。いつもなら作った天カスとネギを入れるのだけど、今日はなしにして、出汁と卵と小麦粉で作ることにした。油は米油とガーリックオイルを試す。ガーリックオイルは、芽が出てきてそのままでは処分しなくてはならなくなりそうだったにんにくを保存のためにオリーブオイルにつけておいたもの。いつもあるわけではないけれど、特別美味しく食べられる用途が見つかれば作り置きしておくのは楽だし、ガーリックたこ焼きが特別美味しければそれも有りだろうと思って。

早速たこ焼きを作ってパートナーの澪と二人で美味しい美味しいと言いながら食べて、じゃぁ鉄板は残しておいて今後は頻度を上げようかという結論がでかかった。

が、結局、手放すことにした。

理由は、食べ終わる頃には飽きたから。

というわけで、たこ焼き鉄板と突くやつ2本、手放します。

今後は街角でたこ焼きを食べたくなったら躊躇なく買い食いできる。

January 7, 2015

【044】東山のアパートで軽く飲む

お茶やコーヒーがなければ、
水かお湯を飲む。
東山茶室へ午後出向く。
部屋に入って大家さんからもらったガスストーブをつけているとT氏がやってくる。

それからT氏と話し込む。
カセットコンロでお湯を沸かして二人してお湯を飲みつつ話をする。

内容はここでしかできない話かと言われるとそんなことはないと思うけれど、
話ができた事自体は今日ここで会ったからで、
そんなことのためにこの場所はあるのかなと思う。

夕方一旦、部屋を出て、散歩していたら寒くて、
酒でも飲もうということになり、
スーパーで日本酒と軽めのアテを買って、
部屋に戻って飲む。

またしばらく話して家に戻る。

【043】誰か一人が「そこにいる」とその場は成り立つ

「こんな計画ーー有るものをそれである有るものにしておこうというーーは、
あの無関心ということと正反対のことなのですから。」ハイデガー
昨日書いた「1500円新年会」は、どことなくゼミと似ているなぁと思っていた。
何が似ているんだろうと考えていて、思い当たったのは、ゼミの本の選び方だった。

まるネコ堂ゼミでこれまで読んできた本は、
パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』
保坂和志『考える練習』
椹木野衣『日本・現代・美術』
ミヒャエル・エンデ『モモ』

今後読む予定の本は、
網野善彦『増補 無縁・公界・楽』
マルセル・モース『贈与論』

児童書から小説、美術、教育、歴史など、ジャンルも分野も違って、脈絡はほぼない。

選ぶ基準は、参加者が「自分が読みたい本」。
一部の本を除き、基本的に、他の参加者が、その本に興味があるかどうかは問わずに選定してきた。興味どころか、タイトルも著者も全く知らないという場合も多い。

これは1500円新年会と全く同じだ。

どんな食べ物であっても、その人が「それがほしい」と思ったものを買う。

食べ物であれ、本であれ、誰か一人でも「それだ」という意思を持てば、成立する。
他の参加者は、その一人の意思によって成立する場で様々に振る舞える。

これは以前、まるネコ堂で円坐をした時に、守人をしてくれた小林けんちゃんの言葉にも通じる。正確ではないけれど、けんちゃんは「この場にいる人が話すことを、僕はただきく。その一点によってこの場は成立する」というようなことを最初の口上として述べたはずだ。

誰か一人が「いる」と、その場は成り立つ。

January 6, 2015

【042】自分勝手たちによる最高の「1500円新年会」

品目を披露し合った直後のテーブル。
まとまりというものを拒絶する強い意志を感じる。
すでにパートナーの澪がブログに書いているけれど、僕も書く。

5日の夜に新年会をやった。
「1500円新年会」。
参加者は友人のぱーちゃん、澪、僕。

ルールは「予算1500円程度で、自分が食べたい、飲みたいものを買ってくる」。
料理の素材あり、酒あり、加工品あり、お菓子あり、なんでもOK。
他人のことは一切考える必要なく、自分が欲しいものを買う。

こうすると、少なくとも「誰かがほしいと思ったもの」しか集まらない。
誰も文句を言わないけれど特段食べたいとも思わないような物は、1500円新年会には一切登場しない。メニューをどうしようかとか、分量をどうしようかとか、そういうことに全く気を使わないですむ。

今回は時間の都合上、買う店がある程度限定されてしまったけれど、それでも、恐ろしく変化に富んだ食卓になった。

メニューを紹介しよう。

ぱーちゃん、
・ドイツビール(エルディンガー)、瓶1本。
・カクテル(ピナコラーダ)、瓶1本。
・ボイルホタテ、夜は食べきれず翌日の昼食でバター焼きに。
・すしあげ2個、火鉢で焼いて醤油とわさびで。
・生サンマ1匹、七輪で焼いて。
・アルフォート、ブラック。
・りんご、1個。
・餃子、フライパンで焼いて1パックは夜に、もう1パックは翌日の昼食に。

澪、
・ウォッシュチーズ、そのままで。
・ぶりのアラ、あら煮に。
・ういろう、そのままで。
・ギネスビール、瓶1本。

僕、
・鶏肝、時雨煮に。
・田舎豆腐1丁、塩と胡麻油で冷奴に。
・鯛の切り身、刺し身に。
・紹興酒1本、安くて回る。

3人の合意は最初のルールだけ。
集まったのは全く脈絡のないメニューだけど、一つ一つ意味があって、
一手一手勝負している感じがある。
茶会って、実はこういう「一手」を繰り出し合う感じなんじゃないかな。

適当に酒を飲みつつ、各自調理が必要なものを調理しながら、
出来上がり次第、みんなでつついて、なくなってきたらまた調理したり。
集まって一緒につくろうとか、まとまろうとか、もてなそうとか、そういうことは一切なくて、ほんとに自分勝手で、面白くて、美味しくて、安いのでまたやりたい。

【041】東山の茶室

立派な契約書。
保証人も必要。
昨日、フル装備と書いたけれど、さらに装備というか「何か」が増えた。

以前、「茶室を持つ(かも)」と書いた東山のアパートを借りた。
京阪三条から徒歩10分ほどの、僕からしたら大都会の真ん中。
借り主は僕で契約しているけれど、僕を含む4人の仲間で家賃などを負担する。

江戸間の六畳間と、押入れと流しがある京間の二畳の二部屋。
本当はこれでも広すぎるので、同じ階の一部屋の部屋があいたらそちらに移る予定。

4人がそれぞれがどんな使い方をするかは自由。
この場所にどんな名前をつけるかすら自由。
勝手に出入りするから、部屋に行くと誰か居るかもしれないし、いないかもしれない。
他の人に入ってきてほしくない時は、事前にメールする。

出来る限り備品は少なく、現時点で置いているものは、
お茶を飲むための
・カセットコンロ
・やかん
・コップ3個
・手ぬぐい
・お盆

一応宿泊できるように
・寝袋3個

共同トイレだけど紙は個人持ちなので
・トイレットペーパー

冬場の暖房器具をどうしようかと悩んでいたら、大家さんがくれた
・ガスストーブ

物を増やす場合は4人で協議する。

それぞれが自分なりの暮らしの中でこの場所をどう位置づけていくのか、
それを考えながら実行していく。
さて、どんな感じになっていくのか。

とりあえず、近所を散歩してみたいとは思っている。

January 5, 2015

【040】フル装備の生活

リフォーム直後の二階の部屋は
今でもほぼこのままで持て余している。
家にあるものをできるだけ減らしたい。この2年ほどそんなことを考えて、かなりの物を処分してきた。個数で言えば2000点ぐらいか。

その結果、普通の家にはあるだろうけれど、うちにはないという物も出てきた。テレビ、掃除機、炊飯器あたりの家電など。

しかし、一方で普通の家にはないだろうけれど、うちにはあるという物もある。七輪、火鉢、多種のスパイスもそうかもしれない。

こういった自分の身の回りの物にまつわることを考えたり実行したりするのが楽しくて、いつも大体、次は何を減らそうか、と考えながら家の中をうろついたりしてきた。

家にある物のアンバランスさから「ストーリー先行型ではなくシーン先行型」の暮らしだとか、そういうことを考えたりもした。

そしてふと、思った。

うちにある物を使えば、自分たちが食べたいものはだいたい作れる。リュックを作る工房もあるし、道具も揃っている。やりたいと思っていた講読ゼミもできたし、ワークショップも自宅でできた。円座だって。庭で七輪を使ってホルモンや魚も焼いているし、ダッチオーブンでインドカレーも作れる。猫だって3匹もいる。

今や僕とパートナーの澪がやりたいと思っていることをほぼすべて叶えてくれるだけの物が揃っているのではないか。これまで減らしてきたのは「必要のない物」だったわけで、今やもう必要な物しか残っていない。今はまだ無いけれど今後必要だから欲しいと思うものも、もうほとんど思いつかない。

これは暮らしのゴールと呼べる状態なのではないか。
今ある物は僕達の暮らしのフル装備なのではないか。
ひょっとしてこれがあの有名な「足るを知る」というやつなのではないか。

だとしたら、本当はここから冒険が始まるのかもしれない。
このフル装備状態から減らすには、何かを諦めないといけない。
身を切らねばならない。

考えてみれば、暮らしについて諦めるということを本気でやるのは初めての経験かもしれない。それはそれで面白そうだ。

January 4, 2015

【039】思いつきではなく、ずっと昔からそこにあった

雪が積もると
足跡を見るのはたやすい。
思いつくのが楽しくなくなってきた。

僕は、思いつくという快楽にとらわれていた時期が長かった。
誰も考えたことがないようなことを思いつく、そんなことに憧れがあった。

思いつきは、祭りの馬鹿騒ぎのようで、その瞬間の体温の上昇はあとで後悔とともに下降する。酒を飲んだ翌朝のように。

そんなことよりも、いつからそこにあったのかわからないけれど、気が付くとそばにあって、どうしてもそれに囚われてしまうのだけれど、それをうまく表に出すことができないようなものに興味を持つようになってきた。

ありふれていて、つかみ所のないもの。
見て見ぬふりをし続けてきたもの。

それをどうやって、取り扱うのか。
そのためにはまず、どうやって見るのか。

それが見えたとき、晴れやかで穏やかな気分になる。

January 2, 2015

【038】「死去されているので削除」

生きている間は何年も放置されたはずなのに、
死んでから半年で処理しなければと思うのはなぜか。
今日、実家のポストを覗くと年賀状の束があった。予想はしていたけれど、父が死んだことを知らない人がまだたくさんいる。どことなく申し訳無く感じる。

そんなことを思いながら束を見ていたら、住所の最後に「死去されているので削除」と書いてあるものを一枚見つけた。

あとでデータを削除しようとしたのだけれど、削除しそこねて出してしまったのだろう。思わず笑ってしまったが、その上でこの言い回しに興味が湧いた。

本来は届いた側の人の目に触れるはずがない作業上の目印のための文言に過ぎないわけだから、効率から考えると「死去のため削除」もしくは単に「削除」でいい。もっと言えば何かしらの記号でも良いはずなのに、11文字も使っている。

データを削除するという行為、その人はもういないということを記すという自らの手の動きのなかで、こういった言い回しを選んだということに、その人の死者への敬意を感じる。

本来であれば届くことはなかった敬意の痕跡。

January 1, 2015

【037】『モモ』ゼミを終えて

パッケージまで含めて『モモ』という舞台、
とエンデは考えているに違いない。
夜が明けて、年が明けて。

記念日だとか時間的な区切りというのを、もともとそんなに気にする方ではないのだけれど、昨年末から、リュック屋さんをオープンしたり、『モモ』のゼミが楽しかったりしたり、東山にアパートを借りるかもしれないといったことがいろいろと重なったので、ちょっと「今年は」みたいな気分になっている。

そのついでに、このブログもこれまで以上に書く頻度を上げてみようと思ったりしている。そのためには書き方も少し変えないといけなくて、僕の場合は、こういう口語体に近い文体にすると書きやすくなるので、文体を変えてみる。

『モモ』ゼミは本当に面白かった。やるまでは、それまでやってきたゼミとは少し違って、例えば、合宿で一気にやるとか、読む本もいわゆる専門書が多かったけれど児童書で、メンバーも初めての人が入ってとか、どうなるだろうかと不安に思ったりもしたけれど、それが、いざやってみるとそれまでのゼミの質感を残したまま、いつもとは違う感じの展開にもなり、とても刺激的で、やってよかった。

こういう感じのこと、読む、話す、聞く、書くを僕はやっていきたいのだと見えてきて、これから少しずついろんなことを試していきたい、そんな気分。