うまくできないかもしれない。失敗するかもしれない。というのは、たしかに不安ではある。だから、失敗しないような対策を採ったり、失敗した原因を究明したりする。不安をこういう領域でとらえれば、どんな人も常に不安がある。
でも、そんなことよりも、失敗も何も、そもそも何も起こらないということのほうが遥かに怖い。こういう領域の不安は、前記の不安とは異なる領域にある。
前記の不安を避けることをし続けていると、ある時自分がいる場所が後記の不安の場所だと気がつく。慎重に不安を避けていたはずが、いつしか不安の真っ只中にいる。こっちの不安はさっきの不安よりもずっと性質が悪い。そこは失敗しようのない世界だ。そもそも何も起こらない。もちろん失敗を咎める人もいない。何事もない。何もできない。誰もいない。
この「誰もいなさ」は、例えば自分がなにか好きなことがあって、だけどそれは一般的ではなく、そんなものを好きな人は自分しかいない、自分しかやっていない、自分しかそんなことに意識を向けない、というような「誰もいなさ」とは違う。やらずにたどり着く「誰もいない」ところと、やった挙げ句にたどり着いた「誰もいない」ところは全く異なる。
後記の、自分がやりたいことを必死にやっていたら気がつくと誰もいないところにたどり着いた、というときの誰もいなさは、実は、全く異なる場所にいる他の誰かと通じていたりする。誰もいないけれど、誰かと会う。
芸術祭をやっていてよかったのは、こういうことが実際の出来事として引き起こすことができると思えるからだ。それぞれが何かをやっている。そのことに共通点はないかもしれない。しかし、それでも通じている。会う。そこでは何かが起こっている。
うまくできない、失敗するかもしれないという不安は、たしかにあるけれど、それは扉についた標示のようなもので、そういう不安があるからこそ、やってみると良いのだと思う。そういう不安があるということが、そのことに対して何かしらの意識や意欲の存在を示しているからだ。不安があるけどやってみたいということだ。入り口の扉だ。
「それ」をやろうと思う。そうすると、何が起こるかわからない何かが起こる。