吉本隆明についての講座を、それも『言語にとって美とはなにか』をもとにして、やってやろうという、大胆なことを企画しています。僕たちが、言語が面白くてしかたない、と思うようになったのは、この『言語にとって美とはなにか』をゼミで読んだからです。おかげで僕たちは毎日毎日、言語で遊び惚けるようになりました。寝ても覚めても。他のことがろくに手に付かない。他のことと思っていてもどこか言語に結びついている。それどころか、それって言語そのものじゃないの、とすら思ったりするようになりました。言語という場所は、広い場所です。そこで僕たちはいつも思いっきり遊んでいます。面白いことが次々と起こり、それまで面白いと思っていたことが、実はもっと面白かったのだと気づきます。やればやるほど広くなる場所。やればやるほど、もともと広かった場所。この場所で、とことんやるのは幸せです。そんな場所へもし誰かを連れて来れるとしたら、僕たちとともに勝手に遊んでくれる人が増えるとしたら、いったいどんなことになるんだろう。そう思いついて、この企画をやってやろうと思っています。僕たちなりに吉本隆明で思いっきり遊びます。上手にとか正しくとか、そういうことはさほど気にせず。あわよくば、吉本隆明が遊び得なかった遊びをしてやりたいとも思っています。吉本さんも、とともに勝手に遊んでくれるはず。===吉本隆明『言語にとって美とはなにか』を読む講座、合宿で。日時▼2017年6月10日(土)、11日(日) 導 入:10日11時から12時 第1回:10日13時半から15時半 第2回:10日16時から18時 第3回:11日10時から12時 第4回:11日13時半から15時半 第5回:11日16時から18時 懇親会:両日夜。ごはんを食べながら。場 所▼まるネコ堂講 師▼小林健司・大谷隆内 容▼講師のガイドと参加者との質疑などを通して吉本隆明『言語にとって美とはなにか』を読みます。定 員▼8人持ち物▼『言語にとって美とはなにかⅠ・Ⅱ』受講費▼2万円宿 泊▼会場(まるネコ堂)で宿泊。「通い」も可ですが、宿泊をおすすめします。※猫がいます。講座中は会場には入れませんがアレルギーの方は相談ください。講師紹介▼●小林健司(こばやしけんじ)愛知県春日井市出身。大阪教育大学在学中に教育関係のNPOの起ち上げに関わり、卒業後も含めて約十年勤務する。その後、東日本大震災の復興に関連したソーシャルビジネスの創業支援等をする...
May 21, 2017
May 17, 2017
【396】音がなくなるとき。
そう言えば最近夕日を見てない。いや見てる、と思うのだけど、あの夕日を見ていない。うちの庭からちょうど真正面に見えるあの夕日を見ているときのあの圧倒的な感じをしばらく感じていない。感じたという感じがそう言えばしばらくしていない。あの感じを思い出す。あれはどうなっているのか。あのときの僕はどうなっているのか。よく圧倒的な場面に遭遇したときに「言葉を失う」という慣用句を用いるし、実際何かをしゃべろうという感じ自体がないのだけれど、もう少し僕なりに言うと、あのとき僕は、音がない。音が聞こえないのではなくて、音というものが最初からなかったかのように、音を聞くということそのものがない。このとき、見えているものが通常であれば必ず伴っているはずの、遠近も喪失している。だから、あの夕日を見ている僕は、音がなく、なおかつ、見えているあの夕日との遠近がない。これはあるいは逆なのかもしれない。あの夕日の圧倒が僕と夕日との遠近を消失させることで、音というものが消えているのかもしれない。あるいは遠近と音は同じものなのかもしれない。いずれにせよ、あの夕日を見ているとき、僕はたぶん超越の扉を開けている。超越というのは、この世界の外ということだけれど、僕にとって僕の世界の外に空間的に移動するということは、イメージとしてなかなか持ちにくい。でもこう考えるとわりとイメージしやすい。超越というとき、そのとき僕の世界は、いつもの僕の世界とは、世界まるごと変質してしまう。概念的には、この時、僕だけが僕の世界から乖離しているわけだから、これをうまく言い得る言葉として、超越は、それほどは間違っていない。ふいにもとに戻ると、途端に音でこの世界は満たされてしまう。あっという間に水位が上がって、地の底から空の上まで一気に音で満たされてしまう。水圧のような音の圧力を感じて、あぁ戻ってしまったという気になる。空気があるということを感じる。空気を通して振動が伝わってくる。あの夕日を見ているときのあの感じとそういえば同じ感じだと思うのが、集中して書いているときだ。書けているときと言ったほうがいいかもしれない。パソコンに向かってキーボードを叩いているときがずっとそうなのではなくて、そのうちの、ほんのすこし、断続的なその「とき」がある。声を翻訳するように文字にするのではなくて、声を経由せずにただ書かれたものが現れるような感覚がある。音がないから。このとき僕は、書いているものや書こうとしているものとの合一の一端に、ほんの一端だけど、触れているのだと思う。宗教的合一あるいは信仰的合一と言っているのはつまりこういうことで、この程度のことで、これほどのことだ。少なくとも僕にとってここに歴史や思想や意義や正しさや安らぎや伝統や古さや新しさや生や死が入りこむことはない。ただ僕が僕の世界から乖離している。...