May 17, 2017

【396】音がなくなるとき。

そう言えば最近夕日を見てない。いや見てる、と思うのだけど、あの夕日を見ていない。うちの庭からちょうど真正面に見えるあの夕日を見ているときのあの圧倒的な感じをしばらく感じていない。感じたという感じがそう言えばしばらくしていない。

あの感じを思い出す。あれはどうなっているのか。あのときの僕はどうなっているのか。

よく圧倒的な場面に遭遇したときに「言葉を失う」という慣用句を用いるし、実際何かをしゃべろうという感じ自体がないのだけれど、もう少し僕なりに言うと、あのとき僕は、音がない。

音が聞こえないのではなくて、音というものが最初からなかったかのように、音を聞くということそのものがない。このとき、見えているものが通常であれば必ず伴っているはずの、遠近も喪失している。

だから、あの夕日を見ている僕は、音がなく、なおかつ、見えているあの夕日との遠近がない。

これはあるいは逆なのかもしれない。あの夕日の圧倒が僕と夕日との遠近を消失させることで、音というものが消えているのかもしれない。あるいは遠近と音は同じものなのかもしれない。

いずれにせよ、あの夕日を見ているとき、僕はたぶん超越の扉を開けている。

超越というのは、この世界の外ということだけれど、僕にとって僕の世界の外に空間的に移動するということは、イメージとしてなかなか持ちにくい。でもこう考えるとわりとイメージしやすい。

超越というとき、そのとき僕の世界は、いつもの僕の世界とは、世界まるごと変質してしまう。概念的には、この時、僕だけが僕の世界から乖離しているわけだから、これをうまく言い得る言葉として、超越は、それほどは間違っていない。

ふいにもとに戻ると、途端に音でこの世界は満たされてしまう。あっという間に水位が上がって、地の底から空の上まで一気に音で満たされてしまう。水圧のような音の圧力を感じて、あぁ戻ってしまったという気になる。空気があるということを感じる。空気を通して振動が伝わってくる。

あの夕日を見ているときのあの感じとそういえば同じ感じだと思うのが、集中して書いているときだ。書けているときと言ったほうがいいかもしれない。

パソコンに向かってキーボードを叩いているときがずっとそうなのではなくて、そのうちの、ほんのすこし、断続的なその「とき」がある。声を翻訳するように文字にするのではなくて、声を経由せずにただ書かれたものが現れるような感覚がある。音がないから。このとき僕は、書いているものや書こうとしているものとの合一の一端に、ほんの一端だけど、触れているのだと思う。

宗教的合一あるいは信仰的合一と言っているのはつまりこういうことで、この程度のことで、これほどのことだ。

少なくとも僕にとってここに歴史や思想や意義や正しさや安らぎや伝統や古さや新しさや生や死が入りこむことはない。ただ僕が僕の世界から乖離している。



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