得意か不得意かという分類は比較のなかにある。比較に晒されているのは、ある行為の成果であったり、作品であったりする。どういう状況を得意と言い表すのかを考えれば、「うまくできる」という感覚があるときで、そこで言う「うまく」というのは、多くの他者集団の中での偏差を示している。
自分の独自な状況において、得意不得意はどれほど問題になるのだろうか。自分しか知らないことにおいて得意か不得意かはどうやって判定するのだろうか。
「得意なことしかしない」「不得意なことにも挑戦しなければならない」と言った言説が予め組み込んでいるのは、或る比較基準の存在であり、その基準への依存である。そういう予め存在する基準からどのように離脱するのかが僕にとっての問題だ。
もう一度いうけれど「得意だからする」も「不得意だからする」も同じように、予め存在する基準線に対して向かった意識でしかない。何かをするときにそういう方向ではない意識でやることはできるのだろうか。できると僕は思っている。
そういう場所にもおそらく得意だと思ったり不得意だと思ったりする瞬間はあるのだろうけれど、その思惟が優位に来ないようにやることができると思う。得意だろうと不得意だろうと、それをやるのだ。