近所の方が亡くなり、今日がお葬式だった。近所の方というのは、一般的にそれほど強い関係性を持たない。血縁でもなければ、仲間でもない。それでも僕にとってとても大切な人だった。一言で言えば面白い人だった。
その人の面白さを説明することができるエピソードは膨大にあって、それらを列記していくこともできるが、今はしないでおく。そういうエピソードとして語れる出来事がたくさんあったから面白い人なのだ、ということではうまく説明できないと感ずるからだ。
ただここにこうして文章を残す以上、最低限の説明はしておかなくてはとも思うから、なんとかして書いておくと、こんな具合だ。
その人がうちの庭にふらりと姿を見せるともうそれだけで僕はワクワクした。それほどだった。たとえ姿が見えなくても、僕が庭で何かをやっていれば、その何かをやっているという気配に誘われて姿を現すのではないかと思って、また僕はワクワクした。存在自体が面白いと言える面白さだ。
面白いということは、過去の成果を材料にして立ち上がるものではあるが、だからといって過去を参照しなくては意味をなさないものではないと思う。面白さというのは、未来へ開けているからだ。面白かったというだけではなく、面白そうだということも、面白さは持っている。
さて、その人が亡くなった。存在自体が面白い人がもう存在しない。このことにもちろん僕は強い喪失感を覚える。しかし同時に、これでもう何もかも面白いことが起こらないとは思えないともどこかで思っている。まだ、その人によって生じる面白いことが、あるんじゃないかとどこかで思っている。
だとしたら、まだ未来に未練とは違う何かがあるように思う。