今年は、5月のパウンドケーキに引き続き開催を計画できてうれしいです。
アイスクリームの日のおにぎりのお米とおちのもち米は宇治産のものです。
なんでも宇治産とはいかないけど、近所のもの食べれるのなんか嬉しいです。
詳細は「みんなでつくってたべる」のサイトでも見てもらえます。
ご参加お待ちしてます。
アイスクリームの日のおにぎりのお米とおちのもち米は宇治産のものです。
なんでも宇治産とはいかないけど、近所のもの食べれるのなんか嬉しいです。
詳細は「みんなでつくってたべる」のサイトでも見てもらえます。
ご参加お待ちしてます。
庭に椅子を出して座布団を乗せる。その上にあぐらをかいて、久しぶりに瞑想する。
瞑想と言っているけれど、これが瞑想かどうかはわからない。
目を閉じる。開けていてもいいけれど、閉じることの方が多い。
あとは気になることを気にする。子供の声が気になればそれを気にする。風が吹いて肌に当たるのが気になればそれを気にする。バイクの音が遠くで聞こえたらそれを。草の匂いがすればそれを。鼻が痒い、背中に椅子の背があたる。いちいち気にする。
心の中で気になることが浮かべばそれを気にする。次々に気になることが出てくるから次々に気にする。
「心を無にする」みたいなことではなく、むしろ隙間が無いように埋めていく。これが瞑想なのかわからないが、他に当てはまりそうな言葉を知らない。
悪い雰囲気で色んな出来事や考え事が滞留している時に瞑想をする。
必ずしも嫌な出来事があったから悪い雰囲気になるわけではない。嬉しかったり楽しかったりすることでも悪い雰囲気になることがある。色んな出来事が複雑に絡んでいる。
滞留が必ずしも悪いわけでは無い。良い滞留もある。腐敗と発酵みたいに、複雑なプロセスのうちで、僕にとって、都合の良い雰囲気と悪い雰囲気があって、悪い時に瞑想する。
瞑想は常習しない。必要な時に必要なだけやる。毎日ルーティンでやるようなことでは無い。今よりもっと上手くやれるような工夫もしない。上手くできたり上手くできなかったりするということ自体がない。
目を開けてやることもある。気になるものが増えるのでちょっと忙しくなる。忙しかったら目を閉じる。
飽きるまで続ける。飽きたら終わる。
自分の制作について。今回やれたことを手がかりにして、次のことをやっていくことができれば、僕にとって制作は成功と言えるのだけど、今回は成功だった。次の絵本か何か、とても作りたくなっている。
制作には色んなフェーズがあって、新しいフェーズに入っていくこと自体とても楽しい。この数年は自分が漠然とやりたいと思っていることをどうにか形にしていくことに注力していた。今は、形にすることはなんとかなると思えてきたので、僕じゃない人の客観的な視点で講評がほしいなと思い始めている。ちょっと調べてみたい。
その前にちょっと一休み。今日の午前中はのんびりする。
芸術祭が近づいてきた。僕はわりとのんびりしている。
今回の僕の作品は絵本で、今は印刷製本されて出来上がるのを待っている。僕自身に出来ることはもうない。締切というか、何かの重大なことの直前に、僕はのんびりしたい派です。
こういう時に次は何しようかなとアレコレ考えるのがとても好きで、ノートに色々と幸せに書き付けている。
今の終わりと次のはじまりが、糊代のように重なっている。
新暦と旧暦のズレなんかも同じ感じで好きで、新暦の正月から旧暦の年末までの異なる制度が重なる感じが良い。
多分、何かを信じる力が僕には弱い。一つのことに留まれない。一つのことだけを信じきれない。複数の、束になっているのが良い。
小さくて素敵な出版社をやろう。
絵本、漫画、ポスター、ポストカード、シール、缶バッジ。後半は出版社というより雑貨屋みたいだけど、雑貨屋みたいな出版社です。
今年の芸術祭からオープンします。
継続的に作品を発表、発行していきます。少しずついつも変化していくことを心がけていきます。
大谷隆
54になってようやくわかることがあって、僕にとってカッコいい大人は、「いい年してそんなことを」とか思うようなことをやる人のことだった。子供といっしょにゲームをやって言い争いになったりするような大人気ない大人だ。
だから美緒と眸さんが漫画同人誌を作るぞ、コミティア目指すぞとか、言い出したのはかっこいい大人だなと思う。たぶん、20ぐらい年下の「先輩」たちに、そんなことも知らないの?とか、そのレベルで?とか思われながらやる。そういうのがカッコいい大人だ。
頑張ってほしい。
先日虎ちゃんが風邪で入院したのだけど、発熱して数日間、訪問医の先生に、今はギリギリ家にいられる状態と言われ、一度は回復したように見えたけれど結局ぶり返して、もう流石に入院をすすめると言われた時、日曜日でアラタも葉ちゃんも家にいた。
たまたま友人のハマコーが、家に来ていたので、無理やり二人を押し付けて僕と美緒で虎ちゃんを病院へ連れて行き、緊急入院させた。
その一週間後、予想していなかった、これまた祝日に、退院が決まり、またしても二人の子供が家にいるタイミング。その時、家に来ていた友人の眸さんに二人を任せて、僕と美緒で退院させた。
7歳と3歳。子育て経験者でもこのワンオペはきつい。ハマコーも眸さんも頑張ってくれた。二人がいなければ、その日の入退院は諦めていたかもしれない。
本当にありがたい。そして、もはや我が家の子育ては、僕たちだけではどうにもならない状況になっているのを再確認した。
ほぼ毎日、訪問看護師さん、ヘルパーさんに来てもらっている。多くの友人がちょくちょく来てくれている。それでようやくなんとかなっている。
こんな不安定でぬかるんだ暮らしを、たぶん、ほとんどの人は敬遠すると思う。僕も望んでやっているとは言えない。
でも、多くの人に迷惑や心配をかけながら、多くの人が日常的に出入りする暮らしが、僕はとても楽しくて幸せだ。こんなふうに生きていたいと、ずっと思っていた気がする。
僕たちのそばに居てくださる方に、本当に感謝しています。ありがとうございます。
虎ちゃんが家で暮らすようになって2カ月経った。
虎、初めて入院していた病院で診察。
待合室でご機嫌な顔をしていた。入院していた病室とは違うけどここを覚えているに違いない。まだ虎ちゃんにとっては人生の大半を過ごした場所でうちでの生活はたった2ヶ月。虎ちゃんが懐かしんでいると思うとなぜか感動的な気分になる。
虎ちゃんと言葉での相互のコミュニケーションをとれる可能性はほとんどないと思う。虎ちゃんに限らずだけど、その人が何かを言った以外の理由で、何を思っているか勝手に想像することが前より重要だと考えるしかなくなってきた。でも、結局言葉は重要な要素ではあるけど、誰かが思ってることは勝手に想像するしかないことは同じだったんだなと思う。
人の考えていることなんかわからないと思っているより、勝手に想像して間違ってても後に変更されるにしても一旦断定してしまう方がなんだか幸せに生きれる気がする。
アラタの小学校の離任式。春っぽい行事。なぜか僕のなかでは卒業式や入学式よりも春っぽさを感じる。
春は落ち着かなくて、30代くらいまで嫌いな季節だった。でも最近はそうでもなくて、それは多分、僕の暮らしが一年中イレギュラーだからだ。特に春じゃなくても落ち着いていないから、春の落ち着きのなさに戸惑わない。
離任式が春っぽいのは、春休みの中にあって、この日だけ特別に学校へ行かなくてはいけないことと、式自体は比較的短時間に終わって、さっさと帰ってきてしまうから、何か余計に落ち着かないからだと思う。
お世話になった人が離れるのももちろん落ち着かない。
最近、情報を得るルートとしての「紹介」が退屈だと感じるようになった。
と言っても、他人から教えられる未知の情報自体の魅力が減ったわけではない。誰かに何かを教えてもらう時のスタイルとしての「紹介」がダメで、読み続けたり聴き続けることが難しい。
紹介とそうでは無いルートの違いは何だろうと考えて、その情報をもたらす人の視野ではないかと思い当たった。
紹介者の視野は広い。
広く見渡した上で、これが優れていますよ、という「態度」を感じる。実際にその人の視野が広いかどうかというよりも、私は広い視野でこの情報をピックしましたという雰囲気に、さめてしまう。
一方で、僕がついつい興味を惹かれる発信者の視界は、大体、狭く歪だ。
オタク語りの顕微鏡を見るような狭さや常識を身につけていない子供語りの歪さ、そういう、度の強い歪みの大きな視界で見出される物や、その歪んだ視界そのものに惹きつけられる。
広い視野を持つこと自体は悪いことでは無いだろうけど。
僕も多分、残念ながら、視野が広くてクリアな方だ。だからせめて歪んだルートで話したい。
完全にやりたいことは多い方がいいと思っていた。いつも、常にいろいろ思いついて、いろいろやりたい、いろんな作品が作りたい、みたいな。
よくよく考えてみると、うち自身はやりたいことはあんまり多くない。自意識の問題として。あんまりいろいろ思いつかない。作りたい作品も多くない。ただ、やりたいことがないわけではない。それで何の問題もないし、あんまりないと感じていても全部できてるわけでもない。
なんかでも、いっぱいある、みたいな雰囲気は妙な憧れがあった気がする。でも、そう思ってることに気づいて、肩の荷がおりた気分になる。
絵本のような暮らしをしている、とある人に言われたことがある。え?と思った。
自分の暮らしのモデルとなるような何かが、僕には無いから、自分の暮らしやスタイルを何かに喩えられるとほぼ必ず戸惑う。そういうつもりでやっていないから、そう言われてもピンと来ない。
これまでに、エコですね、ロハスですね、ミニマリズムですね、などなど、様々に喩えられたけれど、要するに、その時々の流行のスタイルに喩えられていたということで、ある意味で褒められているとはわかるのだけど、僕自身にそういったスタイルへの思い入れはたいして無い。
でも、絵本のような暮らし。この言葉はたびたび思い返す。
絵本は概ねフィクションであり、ファンタジーであり、イマジナリーでメルヘンだ。要するに現実的では無い。
そんな暮らしが現実に成り立つはずはない。
でもだからこそ、確かに僕はそんな暮らしを標榜しているのかもしれない。こんな出来事が自分の生活に含まれていたらいいのだけど、ということをいつもやりたがっている自覚はある。
既存の現実的な特定の美しいスタイルを目指して行動する器用さや実用や執着が、僕たちになかった。何ものにもなれない暮らしをとても上手に肯定してもらった言葉だなと思う。
福音館の雑誌絵本「こどものとも」の購読を半年ほど前から始めたのだけど、今月で辞めることにした。
福音館の絵本はすごいし、「こどものとも」もすごい。今でも、そう思っている。だけど。
半年間送られてきた絵本は、絵本としての完成度は高かった。読み聞かせれば子供たちも面白そうにしている。
ただ、なんというか、総じて、昔話的というか。昔の絵本を読んでいる気分になる。2026年の新刊とは思えない。
これなら、古い名作を買いたい。まだまだ僕も子供たちも触れていない名作は山ほどある。多分、その多くは過去に福音館の「こどものとも」で発表されたものだろう。それを集めたい。
半年前に購読を始めるまでの僕の「こどものとも」に対する認識は、安く作って安く売ることができる製本で、安定的な定期購読者に支えられてもいる、だからこそ、若い作家やチャレンジングなアイデアをどんどん形にしていける。そんなふうに思っていた。大人が首を傾げても子供は大喜びするとか、これはさすがにチャレンジしすぎで失敗ではと思えるようなものでも、世に問うてくれる、そんな期待を勝手にしていた。
日曜日。はじめて虎ちゃんのお風呂を隆と2人でいれた。
2人で、というのは訪問看護さんやヘルパーさんの助けなしでということ。
病院でほぼ毎回沐浴の練習をして退院してきたので、沐浴は自分たちでするんだろうと思ってたけど、帰ってきたらほぼ訪問看護さんにやってもらっている。
人口呼吸器やもろもろ注意することがあるので、虎ちゃんの沐浴は2人がかり。休みの日で葉がいると、葉がちょっかいをかけないように見とく人が1人必要なため、私と隆と2人だけでは危険で沐浴できない。今まではだいたいそれで諦めて、体を拭いていた。
今日は父が来てくれたので葉を見てもらった。
虎ちゃんは沐浴は好きそうで、終わったあとのなんだかとてもスッキリした顔を見るのが私の楽しみだ。
虎ちゃんが退院して1ヶ月たった。恐ろしく長い1ヶ月だ。
2025年がもうすでに記憶の水平線に沈みそうになっている。2025年の6月3日に、ということは、夏より向こうに、虎ちゃんは生まれた。面会のために、梅雨の大雨を、灼熱の盛夏を、毎日鴨川の河原を、歩いていた記憶が、もうフィクションのように遠い。
時間がどんどん伸びている。まだ季節が一巡りしていない。というよりも、季節はそもそも巡ってなんかいない。同じことは一度も起こっていない。季節が巡ったり、日常が反復されたりしているように感じるのは、大雑把な近似を当てはめていられるからだ。
ここ数日、虎ちゃんの体調が微妙に悪い。それだけで、一日は反復されない。日々とは呼べない。
生きることの盤石さの上に、楽しさや面白さといったものが構築されるのではなくて。そんな形式と内容とが分離した人生なのではなくて。生きていることを無条件に無意識に前提するのではなくて。
毎日毎日、その都度、どうにか生きていられるような方策をとって、生きることを継続させていくような、あやうい生自体に楽しさや面白さがある。
健康は大事だけれど、健康の上に日常があるのではなくて、健康だったり不健康だったりしながら過ごしていくのが日常で、明日どうなるかわからない。
自分の暮らし、生活、仕事など、ざっくり自分が生きることの中に、どれぐらい不確定要素が含み込めるか。
アイスクリームに含み込まれる空気の割合をオーバーランと言って、オーバーランの多い少ないでなめらかさなどの舌触りがかわる。空気だから食べ物としての実体は無いとも言えるけど、空気がなかったらアイスクリームはカチンコチンで食べられない。それはアイスクリームではない。
そういう意味で自分というものにとって他人の存在は、たとえ空気のようだったとしても、大きい。
無意識というのはとても盤石で、意識化された途端に弱さが生じる。
虎ちゃんのように多種大量の薬と繊細な医療機械が生きることの条件として意識化されていると、とても脆弱だ。
SpO2の値なんか一生意識化しないで済む人間は強靭だけど、でも実はどんな人も何かの拍子に問題が出る。自分の生の条件が意識化される時が来る。
必ずしもそれは自分自身の状態だけではなく、親の介護とか、家族の病気とか、同僚の退職とかでも、突然起こりうる。平穏で無意識的な人生が、実は諸々の危うい複合的な条件の束で成り立っていたことに気づく。
だとしたら元々、今日のバイタルサインを見て、その都度やるべきことを変えていく虎ちゃんの生き方の方が動的な強さがあるのかもしれない。
いつも同じであることは、静的安定だが、動的には不安定かもしれない。
毎日やることが本当にたくさんある。この年齢になれば普通もう少し暇なのではと思うが、年々やることが増え続けている。
やらなければならないことも、やりたいことも、たくさんあって、増えていっている。
色々とトラブルもある。重たい決断も増えている。
意外に、不老不死って、こういう慌ただしい増殖の先にあるのかもしれない。ウグイスが鳴いている。
ご案内がギリギリになりましたが、今シーズンもまるネコ堂の味噌作りやります!
虎の入院中は開催決定に踏み切れずで遅くなってしまいました。少し生活してみて、やっぱりやりたいと思いました。
2月2日にとらちゃんが家に帰ってきた。
6月3日生まれだから約8ヶ月を目前に帰ってきた。
怒涛の日々だけど、楽しい。
2月2日がたった1週間前とは思えないほどいろいろあって、すごい人数の人がうちに来てくれた。
3日目の夜には酒盛りもしていた。一応断っておくとたいした酒量ではない。でも、誰か来てくれないとそういう気分にはならない。というか、「おいしいお酒が誰かと飲みたい」。そういう気分を持ち込んでもらった。
はじめての週末で今日は誰もこない。
来てくれるはずだった父は風邪を引いてしまったそうだ。そうでなくても思った以上に雪が降ったからやめといてと連絡したと思う。
虎ちゃんは毎日沐浴をしてるけど、私と隆と新と葉とで沐浴は難しそうだから、体を拭くだけにした。
人工呼吸器をつけての沐浴は現状2人がかりで、隆と私の手が塞がると葉を見てる人がいなくなってしまう。このメンバーでは葉が途中で人工呼吸器を勝手に触ったり、もろもろ危険。家での沐浴方法は訪問看護さんが開発してくれた。毎回のやってもらってるから、まだ自分たちだけでやったことはない。今後もほぼないような気もする。
病院では沐浴の練習もたくさんしたのでこんなにやらなくなるとは思ってもみなかった。できるけど任せるのと、できなくて任せるのは特にこの件に関しては全然違うなと思った。
生まれたばかりの頃は、病院以外で生きることができる人ではなかった。自分には虎ちゃんが生きる手伝いはできないと思った。1月には、元気そうだし、そろそろ病院で覚えることもなくなって、面会が前ほど新鮮ではなくなった。退院の時期ってそういうものなんかもしれない。帰ってきてよかった。
甘えると言うのは、良いことなんだと思う。
これは条件の話というよりは、つまり、甘えられるような環境というか、そう言うものがある方が良いと言う事ではなくて、もっと直接に、甘えることは良いことだ。
甘えているのの弱点は、視覚的に悪い。聴覚的にも微妙。触覚的に良い。だから甘えるのは夜、電気を消してからが良い。
あと、甘えるのは、最初に書いた、良いこと、と言うより、良いものと言った方が良かった。書き直す。
甘えると言うのは、良いものだ。ことじゃなくて、ものだ。
例によって、今1時34分。寝ていた僕が考えていた。まだ四時間寝れる。
というエントリーを公開しようか迷っているうちに今日は2026/01/29。一昨日、納車された。
自分の車を持つのは本当に久しぶりだ。この一年タイムズカーはよく使った。業務として運転している感じで新鮮だった。
自分の車は少しずつ変えていけるのが大きい。虎ちゃん用のポータブル電源やチャイルドシートを積んだ。座席裏に百均の金網をぶら下げて簡易的なPALSのパネルのようにする。カラビナで酸素ボンベや呼吸器、加湿器が積めるか、これからテスト。
このブログは最近何をやっているのかと言うと、散文詩かもしれない。散文詩って言葉を見たことがある気がして、入力したら候補に出てきたから、やっぱりあった。
そんなの語義矛盾ではと思うが、語義矛盾しながら存在してるんだ、散文詩。韻文詩は出てこなかった。こっちは当たり前すぎて言葉が無いんだな。
おやすみなさいって命令形だ。さようならは仮定法。ごめんなさいはなんだ。
来週、車が納車される。
購入の手配は車種や条件の検討まですべて隆がやってくれてた。買うのは中古車。
車屋さんは近所の知り合いに紹介してもらった。
そうか、知り合いの知り合いから車を買うのか。それは、ちょっと嬉しい。
やり取りも隆に任せていたが、入金前の確認時に車屋さんにうちも会えた。めっちゃオシャレなおじさんだった。
色がいいんですよとか、これがいいと思ったんですよとか、機能も含めて説明しながら見せてくれた。
人の車までこんなに楽しそうに探せるんだなと、びっくりした。うちは車好きじゃないからひとりでは楽しめない。色は濃い緑で、まるネコ堂の車の色としてはオシャレ過ぎるくらいだ。
なんか、一度でも会えていてよかった。この車とのかかわりが変わった気がする。
虎ちゃんの退院が近づいてきた。
入院生活(面会生活か?)も7ヶ月を超えているので、疲れていても何にしろこれはこれで日常になっている。
変化するとなると寂しさがないわけでもない。ちょくちょく顔を見ていた看護師さんたち、受付の人、ほとんど会わなくなるのか。鴨川の景色もたまにになるんかとか。
それでもうちは通ってた行ってただけだけど、ずっと住んでた虎ちゃんは何を思うんだろうなとか。まあ、でも虎ちゃんが家にいると思うのは嬉しい。
今日、面会の間、鴨川の河原で待っててくれたようちゃんが鴨川に落ちてきた。
面会中はスマホは機内モードなので、病室を出ると病院のロビーでみんな待っていた。頭まで水を被ったとか。ようちゃん、1月の鴨川に落ちる。いつもやることが豪快。
海とか空とか、なんとなく球面を感じさせるペタッとした広い平面が僕は好きだけど「なんでもおまんこ」という谷川俊太郎の詩を読むと、海とか空とかの平面がなんとなく柔らかい人肌に思えてきて、つまり海とか空とかが好きなわけの幾分かは性的なものなのかも。
柔らかさとか穏やかさとか、ざっくり柔軟性というようなものに、僕は嘘とか騙しとかあざむきが、スパイスのようにちょっと入ってる感覚があるのだけど、僕だけだろうか。
融通する、とか、同じ感じで、ちょっとグレイゾーン、今回だけ特別に、あなただけ、そういう異物を少し飲み込む柔軟性に性的な雰囲気が混じっているのか。
視覚的な外見はそうでは無いけど、手を伸ばして触ってみたら少しへっこんだ、みたいなのも近い。
視覚とは違う、触覚で構築する世界。昼ではなく夜の世界。グレイとダーク。
映像ではなく音声を編集するときの手探り感に、何かそういう領域に手を入れている感覚がある。
西村眸さんと大谷隆が喋っているラジオ(スタンドFM)「雑談係」の第7回を配信しました。
雑談係は、芸術、サブカル、文学、哲学など、表現に関わる様々な事柄について、楽しく雑談する配信で、まるネコ堂芸術祭のラジオのコーナーの一つとして月一回ぐらいのペースでやっています。
第7回は「穏やかな公私混同」。編集を終えて、眸さんに今回のタイトルを付けてもらって、意外に重要なのは「穏やか」かもと思いました。そもそも雑談係も「楽しく」雑談することが大事だと思ってやってきました。今回も楽しくなってます。
よろしければ聴いてみてください。
夜中に目が覚める。3時53分。僕はアクション映画が撮りたくなっている。
消しゴムマジックとかAI加工を駆使すれば、特撮とかスタントとかしなくても面白いのが作れるのでは?
悪い癖だ。多分ストレスだろう。心配事が多い。そういう時に僕はよくこういう事を思いついた。実行に移せばそれなりに楽しい事を僕は知ってる。
虎ちゃんが飛んだり跳ねたりする。葉ちゃんやアラタが追いかけたり追いかけられたりする。
僕は、僕がもうそんな事をしない事を知っているつもりだが、いつまでもやれる方策を練ってしまう事も知ってる。
最近、音声入力を使うようになった。紙にざっと書きたい事をメモしておいて、それを見ながら音声で入れる。
書く事の神秘的な力が失われるような寂しさと怖さとそれに見合う快適さがある。でもこのエントリーはフリックで入れた。
虎ちゃんの退院が近い。虎ちゃんと呼吸器との相性が、微妙に、良くないらしく、虎ちゃんが眠るとアラートが鳴り続ける。
バイタルに問題はない。原因を調査しているがよくわからない。アラートの設定を調整して鳴らなくする方向での対処になりそう。
虎ちゃんは機械に頼って生きている。
虎ちゃんだけじゃなくて、僕もそうだ。機械が無くなって生きていられる人類はとても少ない。
この間、鼻の吸引をしたら、全然吸わない。どうしたかなとカテーテルを引き抜いたら、巨大な、スライムみたいな、ネバネバの鼻水が、カテーテルの先に付いてズルズルと引き摺り出されてきた。
大人の人差し指くらいのが引っ張り出せて、気のせいか、いつもは嫌がって泣く鼻吸引なのに、すっきりした顔をしていた。
美緒が僕と結婚する前、いや、付き合う前だったか、僕と交換日記をしていた。その日やらなかった事を書く交換日記だ。美緒が持ちかけたか、僕が持ちかけたかした。
そのころ美緒の文体に僕が出会ったが、僕の今の文体を見て、僕はそれを思い出した。カナダから戻って間がなく、美緒は日本語が怪しかった。
今は僕は、この文体が楽だ。日本語が僕は好きだ。何でも受け入れてくれる母語だ。
隣で葉ちゃんが寝てる。僕の右眼の目元の所に目ヤニが付いてる。左眼も付いてる。指で取った。涙だった。
話したり聞いたり、つまり会話というものに、本来の姿とか、正しい話し方や聞き方とかがあるわけではない。いつも幾分かの間違いが入り込んでいる。言い間違い、聞き間違い。そもそも話す方も聞く方も、勘違いや思い込みがある。そういう不純物が混じり込んでいるのが会話だと思う。
ちょっと違う言い方をしてみると、話す方も聞く方も、伝達経路にも、ある程度の間違いが含まれているのが、正しい会話だと思う。正しさの中にもともと間違いが含まれているというのは、僕が自分で発見したものの中でも、かなり高いレベルのワクワクで、だから会話は驚いたりして面白い。
雑談を録音して編集していると、僕もそこに参加していた当事者のはずなのに、一体全体、なんでこういう話になっているんだろうこの人たちは、とワクワクする。たぶん、その迷走とワクワクは、「間違ってる成分」の混入度合いによる。それがいい具合になっていると面白い。
雑談は、のっぺりとした均質なものではなく、澄み切ったクリアなものでももちろんなく、粗挽きソーセージみたいに、つぶつぶ状に「間違ってる成分」がある。
あけましておめでとうございます。
年末はインフルエンザかと思うような高熱が出て、思いの外よくならなかったけど、ようやく復活しはじめた。虎ちゃんのこともあるのでインフルエンザ等の検査キットを買ったらどれも陰性だった。
1日目熱は39度前後から下がらなかったけど、独特のどうしても動けないようなしんどさはなかったのと2日目には36度台に一旦でも下りはしたので、違うかも?とは思ったけど今年はワクチンも打ってたので、その影響で楽なだけ?とか、考えたりしてた。
去年は作って食べる企画も3月以降できずで来てくれた人は減ったかもと思って隆のつけている来客記録を見たら、一昨年とあまり変わらない人数が来てくれていた。ありがたい。
平日でも人が来てくれてることが多かった気がする。
今年は虎ちゃんがやっと帰ってくるし、たくさんの人に来て欲しい。
今年もよろしくお願いします。
ようちゃんが冬休みに入った。
2-3日後、熱がでてしまった。
別館の和室に寝る。
体はしんどいはずなのにそんなの問題にならないくらい、休めることに安堵してしまっている。そのことにびっくりした。
うつしてしまったのではないかとか、隆が大変じゃないかとか、そもそも餅つきなんだけどとか、虎ちゃんに会いに行けないとか、もちろん色々考える。
でも、大してなにもできない状況にホッとしているところがある。
和室の襖を全部閉めたら旅館に来たような気分になって余計に贅沢な気分になった。
とにかく寝よう。
ホッとしてたのも1日程度で、まだ熱は下がらないが、すぐにやっぱり虎ちゃんに長いこと会いに行けなくて寂しいとか、一人で寝てるの寂しいとか思い始めた。
Instagramを見てると年末だから今年の総集編みたいなのを投稿してる人も多く、自分も回想すると悲しいわけでもないのに涙と鼻水が出てきた。
夏に平等院に行ったことを思い出した。
臨終の時、一番会いたい人が菩薩の姿になって現れるらしい。そして、お迎えしてくれるのは雲中供養菩薩も入った賑やかな菩薩さんたちだ。そんなことを博物館の動画で説明してくれてた(内容が間違ってたらすいません)。動画は何度も見てるはずなのに、その光景は救いやなと初めて思った。
なんで菩薩の姿なんやろと新と話した。
博物館を出たところは、天気も、風も、湿度も、気温もめっちゃ気持ちよくて新と葉ちゃんが遊び回っていた。これは絶対に気持ちいいから、みんな気持ちよさそに入り浸っていた。