父親は文系の学者らしく研究のための資料を大量にファイリングしていた。分野と年度別にタイトルが貼られたファイルがならんでいる。専門書も古本屋並みに積み上げられている。見る人が見れば貴重なものかもしれない。しばらくはどこかに必要としている人がいるかもしれないと、手がつけられなかった。
考え方が変わったのは最近で、もしも、この遺品に価値を見出す人がこの世のどこかにいるとすれば、それは誰よりもまず僕である。この遺産で何かを得ることができるとしたら、最も多く得るのは、僕である。
役に立つかどうかわからない膨大な資料類を贈られてありがたいと思う研究者が仮に居たとしても、その人が父の遺品から得る感謝より、僕がその人から得る感謝のほうが大きい。僕は僕の父親の仕事に今更新たな価値付けをしてくれる人を望んでいる。それを与えてくれる人に僕は感謝する。
だからもしも、そんな奇特な研究者がいたとして、僕はその人よりも恩恵を受ける。遺品から最大の価値が生じるとしたら、僕がその価値の最大値を決めることになる。僕自身が、その価値を最大化することができる。
そうわかってから、手を付けることができるようになった。この遺品類が何かしらの役に立つことがあるとしたら、まず何より僕の役に立つのだから。
そうして、僕は、僕のために父親の遺品をどうにかしようとしはじめる。
現状、足を踏み入れるのも躊躇するようなホコリまみれの空間をまずなんとかしたい。ホコリはすべてのファイル、すべての書籍にもれなく堆積している。書類は膨大にあるが、現在もたやすく入手可能なものも多い。それらを処分して、まずは作業スペースを確保する。
企業の組合活動の調査から父親の研究はスタートした。組合の分厚い年史(10年史など)が大量にある。これらは発行部数も多くないだろうし、古書店での扱いもなさそうだ。しかし、情報の集約度は高く史料的価値は高い、かもしれない。なので、この手の資料はまとめてアーカイブしておく。僕自身にとって直接価値があるものではなくても、それに価値を置く人にとっての価値の密度を上げておくことは、僕にとって間接的な価値がある。
企業の組合活動の年史類をまとめた本棚。まずは、これを作ろうと思う。仕事が一つ増えた。僕以外にやる人のない仕事があることは良いことだ。