これまで2年間、まるネコ堂芸術祭をやってきて、どんなことを今考えているかを書いてみます。
漠然とした方向感でやっていく
僕自身も一人の出展者として作品作りをやってきました。それで得た最大のものが、「漠然とした方向感でやっていく」ということです。
作品を作る、となると、なにか明確な最終形、目的があって、それに向かってやるものだ。そういった最終地点が見えてくるまでは、作品作りはスタートしていないのだ、とそれまでの僕はどこかで思っていたように思います。
そうではなかったです。
一方で、反対側にある「何も決めずに、まったく即興的に、場当たり的にやる」というのでもありません。
僕はこれだと、一度目は良いのですが、二度目以降興味が急降下して、長続きしません。この方法で長くやれるパターンは、習慣化してしまうことですが、それだと「何も決めず」と自由度の高さを謳っていたはずが、意外にも狭い領域をぐるぐるまわるだけの、やりなれた習慣的領域で「手なりでやる」ことに閉じ込められていくような感覚になります。そして、あるレベルになると、やる前から結果がわかっていることをやっている感じがしてきて、楽しさも面白さもなくなってしまいます。
ということで、そのどちらでもないアプローチなのですが、それが、漠然とした方向感でやっていくということです。
視界を扇型に保って
漠然とした方向感は、視界を扇形を保って見え続けている感じです。視界の中の特定の目標物(オブジェクト)を目指すのではなく、背景として「視界に入ってくる」ものから、対象(オブジェクト)となりうる可能性をできるだけ「試していく」やり方です。
目的を目指すのではなく、背景的な景色に踏み入って無数の目的可能性自体を試していくという感じです。
なので、作品作りというのは、「なんとなくこっちの方が面白そうかも」という漠然とした方向へ扇形に視界を保ってできるだけ大きく可能性を保ちながら、そこから目的になるかもしれないものを試行していく、その連続そのものということになります。
大きく確保した可能性を、大量の試行によって、一つ一つ潰していくというプロセスが、作品作りそのものになっていきます。僕は、一つ一つの試行をノートに書き出していって、なぜそれでは「だめ」なのかを検証していくのですが、それが楽しくて面白いのです。それが楽しくて面白くなるような方向へと扇形そのものを舵取りしていきます。
検証の結果、試行が不採用になる理由は、例えば「予算が足りない」「そのための特定の能力が今はない」「時間が間に合わない」などです。逆に言えば、予算や能力や時間があればその方向は継続されます。
途絶える方角にも、実は先があり、条件が変われば、そちらへ進むことはできます。だから「今はできない」ということがネガティブではなく、ポジティブに捉えられます。結果的に不採用にはなるものの、試した分だけ、自分の地図が書き込まれていく感じがします。僕自身が変化していく感じがします。
プロセスもオブジェクトも
こういったやり方でやっていけばいいという実感と実践とが得られたのが、芸術祭を通して得たといえる一番大きなことです。以前の僕が、スタート地点と捉えていたものは、実はフェイズとしてはかなり終盤であり、しかも、いくつもある試行の「枝」にそれぞれあるものでした。
- スタートとエンド(殆どは失敗)は一つの作品作りの中で無数にある。
- 作品作り自体は、もっと前から始まっていた。
- 一つの展示物(オブジェクト)は、扇形の面的に広がっていた可能性の試行錯誤的な虱潰しプロセス全体が、一つの表現として結晶したり転写されたものだった。
といったようなことを自分で手に入れる幸せな2年でした。
何よりも嬉しいのは、こういった徒労的で、無駄の多いプロセスにもかかわらず、そのプロセスの内部はずっと楽しく面白く続けることができて、なおかつ、まだ見ぬどこかにも通じているのだという終点への興味も保ち続けられたことです。
これで僕はやりたいことをずっとやっていけると思えたのです。
2へ続きます。
【告知】第3回まるネコ堂芸術祭の出展者を募集しています。8月31日締め切りです。