まるネコ堂芸術祭をやってきて、今僕自身が考えていることを書いています。
1「漠然とした方向感で」の続きです。
「やりたいこと」の罠
やりたいことをやるのは意外に難しいという話をします。
前回は「どうやってやるのか」という作品作りについて僕なりに手に入れた経験を書きました。これは、その前段という感じです。
ここでいう「難しい」というのは、やりたいことに対してその実行に障害物があるから実現が難しい、というのとは全く別種の困難です。この障害物は「やりたいこと」の外側にありますが、「やりたいこと」に内包されている困難のことです。
一般に、やりたいことをやる、といったときに、直ちに生じるのが、「では、私は何がやりたいのか?」という問いで、これが実は難問です。
この問が立ってしまうと、「やりたい」が、「何」という対象に、すなわち「やりたいこと」という目的に、覆い隠されてしまいます。
「やりたい」は、まず背景として「ある」
少なくとも僕にとっての「やりたいことをやる」は、そうではなかったです。そう気がついてきました。この問いが立ってしまう時点で、もうすでに、別の道に踏み入れてしまっている感じです。
まだ生じていない目的を、すでにあるはずだと探すような順序の逆転が起こります。「やりたい」は、まだ、対象ではないのに、対象として探してしまうことで自動的に難問になります。探せば探すほど「やりたくなくなり」ます。やがて「私にはやりたいことはなにもない」か、「やりたいことがどこかからやってくるまで待つ」という結論に至ります。
そこで、少し巻き戻します。そもそも「やりたい」というのは、
- 対象そのものではなく、対象として見出される前の背景のようなもの。
- 背景を見ているうちに何かが見出されそうな予感のようなもの。
- 「やりたいこと」が出現する対象化プロセス自体を支えているもの。
例えば「なんかウズウズする」感じ、のような、「なんだかわからないけどワクワクする」とか、そういった理由や根拠が漠然としているにもかかわらず自分に生じていく現象が「やりたい」で、それが「何によってもたらされているか」というのは、むしろあとから生まれる。そう思ったほうが、実感と合う気がするのです。
「やりたいことをやる」というのはつまり、漠然としたぼんやりとした背景的にある「やりたい」という現象を継続しつつ、そこから何かを対象として見出したり、削り出したり、捏ね上げたりすることそのものを「やる」となります。
こうして、前回の「漠然とした方向感でやっていく」というアプローチにつながっていきます。
僕が実行委員の一人として何かしらの役目があるとしたら、こういったことが出展者に感じてもらえるような場所として芸術祭を進めていくということかなと今は思っています。
終わり
前回