約2年かけてスピノザの『エチカ』をゼミで読んできました。それが4月に最終回を迎えます。
とても面白かったのですが、スピノザという人がどんな人なのか、本を通して直接出会えた感じがします。それによって僕なりのスピノザ像ができたのですが、僕とは違う人がどんなふうにスピノザのことを思っているのかにも興味が出てきました。
そういうわけで國分功一郎さんの『スピノザ ーー読む人の肖像』を読み始めました。まだ第一章の途中しか読んでいないのですが、意外なところが、いや意外でもなんでもないのかもしれないけれど、面白くて、こちらもゼミで読みたいと思うようになりました。
ある哲学体系への批判は、ほとんどの場合、その哲学体系が言葉にしていない諸前提への拒絶反応に由来するものだ。逆に、ある哲学体系を信奉するとは、その体系によって自身を支配されてしまうことである。スピノザがここでやっているのはそのどちらでもない。スピノザは読んでいる。受け入れつつも支配されず、体系の難点に目をやりつつも体系の中に浸る。[42]
タイトルにもある「読む」ということを國分さんはこういうふうに捉えているというところです。 哲学書を読むとき、どうしても起こりがちなのが、拒絶か信奉かという二分法です。拒絶すれば、その本は、自分の外側に置きっぱなしで、ただ攻撃の的になるだけです。一方、信奉すれば、もうその本にピッタリと自分が一致して、支配されるだけです。
読むとはそのどちらでもなく、「受け売れつつも支配されず、体系の難点に目をやりつつも体系の中に浸る」。
僕が本を読む時、読むことを面白く楽しんでいるとき、そういえばこういう感じだなと思います。
本はそもそもは他人の言葉です。自分の外側にあるそれを、いったん自分のもとに置き直して、自分の言葉として言語世界を構築し、その中で自由に動く、そんなとき読書はとてもスリリングな体験そのものです。
「読む人」としてのスピノザは、そんなふうに生きたということだと思うのですが、先を読むのが楽しみです。ぜひゼミで皆さんと一緒にじっくりと読みたいと思います。