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March 10, 2023

【868】國分功一郎『スピノザ ーー読む人の肖像』ゼミを5月からはじめます。

まるネコ堂ゼミのお知らせです。

約2年かけてスピノザの『エチカ』をゼミで読んできました。それが4月に最終回を迎えます。

とても面白かったのですが、スピノザという人がどんな人なのか、本を通して直接出会えた感じがします。それによって僕なりのスピノザ像ができたのですが、僕とは違う人がどんなふうにスピノザのことを思っているのかにも興味が出てきました。

そういうわけで國分功一郎さんの『スピノザ ーー読む人の肖像』を読み始めました。まだ第一章の途中しか読んでいないのですが、意外なところが、いや意外でもなんでもないのかもしれないけれど、面白くて、こちらもゼミで読みたいと思うようになりました。

ある哲学体系への批判は、ほとんどの場合、その哲学体系が言葉にしていない諸前提への拒絶反応に由来するものだ。逆に、ある哲学体系を信奉するとは、その体系によって自身を支配されてしまうことである。スピノザがここでやっているのはそのどちらでもない。スピノザは読んでいる。受け入れつつも支配されず、体系の難点に目をやりつつも体系の中に浸る。[42]


タイトルにもある「読む」ということを國分さんはこういうふうに捉えているというところです。 哲学書を読むとき、どうしても起こりがちなのが、拒絶か信奉かという二分法です。拒絶すれば、その本は、自分の外側に置きっぱなしで、ただ攻撃の的になるだけです。一方、信奉すれば、もうその本にピッタリと自分が一致して、支配されるだけです。

読むとはそのどちらでもなく、「受け売れつつも支配されず、体系の難点に目をやりつつも体系の中に浸る」。

僕が本を読む時、読むことを面白く楽しんでいるとき、そういえばこういう感じだなと思います。

本はそもそもは他人の言葉です。自分の外側にあるそれを、いったん自分のもとに置き直して、自分の言葉として言語世界を構築し、その中で自由に動く、そんなとき読書はとてもスリリングな体験そのものです。

「読む人」としてのスピノザは、そんなふうに生きたということだと思うのですが、先を読むのが楽しみです。ぜひゼミで皆さんと一緒にじっくりと読みたいと思います。

まるネコ堂ゼミ 國分功一郎『スピノザ ーー読む人の肖像』


June 1, 2022

【832】本を読む前に面白いとわかる現象の説明。

 まるネコ堂ゼミでメルロ・ポンティの『知覚の現象学』を読んでいるのですが、面白いです。まだ第一部の半ばなのですが、この本を読んで、本好きならおそらく思い当たるであろう現象が少し説明できるのではないかと思ったので、やってみます。

 本屋さんで本棚を見ていると、著者もタイトルも初見にも関わらず、この本は絶対に面白いと思えることがあります。そして、その本を買って帰って読むと、必ず面白い。

 「本に呼ばれる」「本が自分から手の中に飛び込んでくる」「その本だけ浮かび上がって見える」といったような言われ方も聞いたことがあります。

 オカルトめいた話ですが、これを「知覚するとはそもそもどういうことか」について論じたメルロ・ポンティをヒントにすると、こんなふうに説明できるのではないかと思います。

 まず、オカルトめいて聞こえる理由を改めて記述します。

 該当する「その本」という対象に関する情報がタイトルと著者名しかない。強いて言えば、ブックデザイン、表紙デザインといったものも入れても良いかもしれませんが、いずれにせよ、極めて少ない情報から、本の内容を予め読み取っているかのように聞こえるからだと思います。

 しかし、実は、この状況そのものの捉え方自体に「見落とし」があります。

 現象としてもう少し詳しくこの状況を記述すると、

  1. その本屋にいる。
  2. その棚の前にいる。
  3. その棚の他の本が見える。

と、こうやってすでに該当本に辿り着く前に多くのものを得ています。例えば、

  1. その本屋がどのような品揃えの傾向なのかをある程度知っている。
  2. その棚がどのようなジャンルの棚か知っている。
  3. その棚に並んだ本のうちいくつかは読んだことがあるか、内容を知っている。

 こうして「その本」にたどり着きます。そして何らかの意識の契機によって、それまで漠然としていた本の並び、棚の配置などが「背景」となり、「その本」が「対象」となります。

 この「対象」と「背景」の構造自体をその時に「僕」が作り出します。

 言い換えれば、このときに「僕」に起こっている現象は、対象である「その本」に関する諸情報の入手だけではなく、その背景としての、店、棚、他の本などの多くの情報と、さらに僕自身の過去の読書歴とが交錯した大きな雲のような「本に関するネットワーク」のようなものがうごめいているものを含んだ、対象と背景を含んだ構造自体を作り出しているということになるからです。

 「見落とし」がちな点は「背景」というものそのものです。この背景は、対象である「その本」ほど意識的に見ているわけではなく、それこそ、絵の背景のように「目に入って」いるだけだったり、無意識的な探査を向けられる記憶でしかありません。そのため、背景は意識上には明瞭に捉えられていません。僕の意識はただ、「その本」がその他から区別された特別さを持って現れたかのように捉えます。意識や背景とは、そもそもそのようなものだからです。

 簡単に言えば、対象となる本のタイトルと著者名といった僅かな情報から内容を得ているわけではなく、実は、僕の読書歴、読書傾向や好みといった大きな意味での読書経験の大半とその本が置かれた店や棚の状況すべてから、その本を「僕が意識に切り出して」きています。たとえ僅かな情報であろうとも、それがその本屋のその棚のその並びにあることを顧みれば、十分に「僕にとっての面白さ」の判断が可能になるというわけです。

 これで、だいたい説明できる気がします。

 しかし、それでもまだ説明し足りない領域があって、それはもう少し原理的なものです。

 そもそも僕がどういうことを「面白い」と思うか、ということ自体の「可変性」のようなものを説明しなくてはいけないはずです。

 簡単にいえば、僕にとっての「その本の面白さ」というのは、「その本」を読む前の僕が完全に規定できるものではなく、「その本」を読むことで変化してしまった僕によって事後的に「面白かった」と振り返られるものであるような気がするからです。この辺はもう少しうまく書けるようになったら、書いてみたいと思います。

 いずれにしても、メルロ・ポンティの『知覚の現象学』の範疇のように僕は思っています。


ーーー

まるネコ堂ゼミ

現在、以下のゼミが進行中です。途中参加可能です。

・メルロ・ポンティ『知覚の現象学』

・スピノザ『エチカ』

September 16, 2021

【816】メルロ・ポンティ『知覚の現象学』のゼミを始めます。

 ちょくちょく目にしていて、読んでみたいなと思っていたけれど、手に取るまでに至っていなかったメルロ・ポンティの講読ゼミのリクエストを頂いたので読んでいこうと思います。

 分厚い本です。とても楽しみです。

 少しずつじっくりやっていこうと思っています。読み終わるのがいつになるのかわからないですが、それも楽しみです。

 10月からです。興味のある方はぜひ。

https://marunekodosemi.blogspot.com/2021/09/36.html

July 19, 2021

【813】「言語にとって美とはなにか」ゼミ動画、6月25日開催分

言語美ゼミのダイジェスト動画です。

第Ⅴ章「構成論」の中の第Ⅱ部「物語」。その前は「詩」でした。詩と散文との違いを構成論として吉本隆明は書いています。




今回は、ダイジェスト動画に入り切らなかった「こぼれ話」も動画にしました。


まだまだ見にくかったり聞き取りにくかったりするところもあるかと思いますが、動画の方も少しずつグレードアップさせていきます。ご意見ご感想があればぜひコメントお願いします。

July 2, 2021

【810】「エチカ」ゼミの動画アップしました。

講読ゼミはほんとに面白くて、毎回楽しんでいます。難しそうなことを言ってるように聞こえるかもしれませんが、全然そんなことはないです。興味ある方ぜひ一度どうぞ。

▼「エチカ」ゼミ第1回 前半


▼「エチカ」ゼミ第1回 後半


動画編集は大谷美緒です。


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■近々開催のまるネコ堂の催し
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●第2回まるネコ堂芸術祭・出展者募集
https://www.notion.so/f9ec7fa68c5445899a319a7afe09c6a0

●リクエスト開催:文章筋トレ 
「やってみたい」というリクエストによって日程を決めていきます。
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_26.html

●スピノザ『エチカ』ゼミ(全24回)
https://marunekodosemi.blogspot.com/2021/02/35.html

●吉本隆明『言語にとって美とはなにか』ゼミ(全13回)
大谷美緒主催
https://marunekodosemi.blogspot.com/2020/07/34.html

●文章面談
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_20.html


●雑誌『言語』(5、6、7号、在庫僅か)
https://gengoweb.jimdofree.com/

June 10, 2021

【808】言語美ゼミの動画公開しました。

まるネコ堂ゼミ、本当に面白いと思ってやっているのですが、なかなか雰囲気が伝わらないので、大谷美緒が動画を作ってくれました。感謝です。動画は、吉本隆明「言語にとって美とはなにか」ゼミです。


面白いと思ってくださった方はぜひ一度ご参加くださいませ。
現在開催中のゼミは、
です。

April 10, 2021

【800】講読ゼミ(まるネコ堂ゼミ)の面白さを伝えようとする文章。その一。

ハードルが高いと言われがちな講読ゼミ


 4月6日にスピノザ「エチカ」の講読ゼミが始まった。全24回、毎月1回開催で二年間だ。僕がやってきたゼミの中では一番長い。とても楽しみだ。せっかくなのでゼミそのものと並行してなにかやってみたいなと思う。何がいいか。

 これまでゼミはたくさんやってきた。30タイトル以上になる。ゼミそのものは、力いっぱいやってきたが、一方であまり力を入れてこなかったことがある。

 ゼミの面白さを一般的な言葉で伝えようとしてこなかった。自分が自分でゼミを面白がるということに関しては、できる限りのことをしてきたけれど、他人にその面白さがわかるようにするようなことは、ほとんどしてこなかった。怠惰だった。

 だからそれをやってみようと思う。「エチカ」ゼミをやりながら、ゼミの面白さを表現していく。一体、何が面白いのか。何を面白がっているのか。ハードルが高く見られがちなゼミだが、興味さえあれば誰でも楽しめるということをどうにか伝えてみたい。

面白さを表現するとさらに面白いことが起きる

 さて、ゼミは一体「何が面白いのか」。

 こうやって具体的な問いになると、答えは問いそのものに内包されていることがわかる。

 つまり「何が面白いかを表現するのが面白い」ということだ。「本を読んで自分が面白いと思ったその面白さを表に出すことが面白い」のだと思う。

 本を読んで面白かった、というのが第一の面白さだとしたら、その面白さを表現することが第二の面白さを生み出す。さらに、新しく生まれた第二の面白さによって第一の面白さが再活性される。そうやって面白さが連鎖的に広く深くなっていく。

 これが面白くないわけがないと思うが、どうなんだろう。伝わるだろうか。少なくとも本を読んで面白いと思った経験がある人には、講読ゼミは試す価値がある。その面白さがさらなる面白さを生むのだから。

 ただ、自分が面白いと思っていることを表出するのは、ある種の露出趣味だと思う。

 自分が面白いと思うそのことを他人に見せるというのは、本当のところ、裸を見られるよりも恥ずかしいことだ。そして、同時に裸を見られるよりも楽しいことなのだ。だから一種の露出狂だと思う。

 逆に、秘密趣味というものを成り立つ。自分が面白いと思うことを徹底的に隠すことにもある種の面白さはある気がする。そちらにはそちらの愉しみがあり、こちらにはこちらの愉しみがある。

 そんなわけで、僕はこちらの露出狂の流儀で、ゼミの面白さをこんな感じの文章としてこれからもできるだけ書いていこうと思う。面白さを書くことはさらなる面白さを生むのだから、こうやって書いていくこともなにかの面白さを生み出すと期待して。

 続く。つもりです。


これまでのゼミの記録。提出されたレジュメも掲載してあります。


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■近々開催のまるネコ堂の催し
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●リクエスト開催:文章筋トレ 
「やってみたい」というリクエストによって日程を決めていきます。
★5月14日開催
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●スピノザ『エチカ』ゼミ(全24回)
2021年4月開始
https://marunekodosemi.blogspot.com/2021/02/35.html

●吉本隆明『言語にとって美とはなにか』ゼミ(全13回)
大谷美緒主催
https://marunekodosemi.blogspot.com/2020/07/34.html

●言葉の表出、夏合宿2021
https://mio-aqui.blogspot.com/2021/03/2021.html

●文章面談
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_20.html

●雑誌『言語』(5、6、7号、在庫僅か)
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March 2, 2021

【784】最初から飽きている。

 「飽きる」ためには少なくともそれ以前の一時期に「熱中している」というような時期があるはずだ。熱中しているときは自分が飽きるとは思っていない。そういうことが入り込む余地がないような状態を言うのだと思う。

 でもどうなんだろう。ネットサービスなど特にそうなのだけれど、最初からどこかもう「飽きている」ような感じがする。熱中するということ自体の水位が最初から低く、予め飽きて去る準備をしている。

 何かが飽和している。何もかもかもしれない。

 飽和した世界において経験できることは人間の一生を超えてしまっている。どんな本好きであっても、すべての本を読むことはもうできない。重要だとされる古典を網羅することだって大変だ。

 一つのことに長い時間をかけるということだけでもう、時代に逆行していると取られる。時代の流れに乗ることを欲したとしたら何も困らない。そこら中に溢れている。何もかもが似たようなもので飽和している。スクロールさせれば次々に出てくる。

 だからこそ、あるいは、しかしながら。

 僕は、一つのことにじっくりやってみると良いと思う。今となってはなかなか味わえない時間や空間の雰囲気を味わうことができる。長い時間で生きることができる。長い時間を生きることができる。数百年後、世界はどうなっているかなんて考えることが楽しい。自分で確かめることはできないが、最大限に考えられる。

 四月からはじめて二年間続ける「エチカ」ゼミに対して、そんなことを考えている。

 少しずつ申し込みが増えて、今の参加者は四人。気になっている方はぜひ。

 一度はじまってしまうと終わるのは二年後の2023年です。

https://marunekodosemi.blogspot.com/2021/02/35.html


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「やってみたい」というリクエストによって日程を決めていきます。
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●スピノザ『エチカ』ゼミ(全24回)
2021年4月開始
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大谷美緒主催
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February 1, 2021

【778】スピノザ「エチカ」ゼミ、やります。

 スピノザの「エチカ」の講読ゼミをやる。毎月1回、少しずつ読み進める。一回あたりどれぐらい進めばいいのか。

 「エチカ」という題は略称で、もとの題は日本語では「幾何学的秩序に従って論証されたエチカ」である。「幾何学的秩序」というのはまずその書き方に現れていて、第一部の「神について」は定義一、二、三、四、五、六、七、八と始まり、次に公理が一から七まであって、続いて定理一、定理二と三六まである。数学のようだ。

 条文が並んだ文章はそれだけである種の世界を作っている。

 これまでゼミでやってきた本の中には同じようなものはなくて、だいたい長くまとまったひとつづきで、「定義」や「公理」「定理」といったような文章そのものがすでにあるルールで分類されているようなものとは違って、そういうルールにとらわれていないいわゆる普通の散文だ。

 普通の散文はだいたいの分量に重量が比例するようなところがある。書き手によってその比重は多少異なるが、同じ書き手であれば千文字は千文字分の重量があり、二千文字になればだいたい二倍の重みになる。だから、ゼミで読む場合、一回あたりにどれぐらい進めればよいかという目安は、文字数で決めてしまえば、そんなに内容的な重量に偏りは生じない。

 その点「エチカ」のような箇条書きは、散文よりも詩に近い。第一部の冒頭、定義一は「自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられないもの、と解する。」という短い文章だが、この文章を読むということの重量感は、散文とは異なった感覚がある。だから一回あたりでどれぐらい読むのがいいのか、単純な分量は測りにくい。

 たぶん各部の最初に出てくるいくつかの定義は重要なはずだ。この定義を読むのに何をどれだけかけたかが、その後に出てくる数十の「定理」を読むことを大きく左右する。

 そんなわけで、一回でどれぐらい読むのか、その結果、全部で何回になるのか、それぞれの回の重みはどうなるのか、そんなことをイメージしながら、回数の区切りを入れていく。まだ一度も通読していない本だけれど、おそらくこのへんはこれぐらいしか進めないだろう、このあたりは少し多めにしても大丈夫だろうと、勝手に調整していく。この作業が意外にも面白い。上下巻の文庫本二冊を開いて、行ったり来たりしながら、分量の感覚を掴んでいく。

 中身の文章を読んでいるわけではないが、それでもこの行為は「本を読む」ということの一部だ。小説を読んでいるときに、あとどれぐらい残っているのか、と残ったページの分厚さを気にすることが時々ある。「あんまりおもしろくないんだけど、あとどれぐらい読まなければならないのか」と思ってすることもあるし、「とてもおもしろいんだけど、あとどれぐらいで終わってしまうのか」と思ってやることもある。あるいは、「あとこれぐらいの厚みしかページが残ってないのに、こんな展開になって、これで本当に終わるのか」とか。こういうことを考えるのも読むことの一部だ。

 ほとんど読んでいない「エチカ」の分量的な全体像を予測しているのだが、こういう予測は良い本であればあるほど、裏切られる。まさかこんな本だったとは、とあとから思う。「エチカ」はおそらくそういう本だ。そう思いたい。

 今、知っている範囲で僕が思い描いている「エチカ」は、選ばれなかった未来の地図だ。選ばれたのはデカルトだった。僕たちが今いるこの世界はデカルトが示した未来だ。「思う」ことが「できる」という自由意志を持った個人である「我」が、「在る」ということを起点にした世界観だ。スピノザはそれとは違う可能性を示していた。違う地図を描いた。だが、僕たちはそうはならなかった。僕がスピノザに興味を持ったのは國分功一郎の「中動態の世界」で、だから、この「選ばれなかった未来図」は國分の「エチカ」像だが、自分で読んで、見れば、この像自体が変化していくのかもしれない。ともかく、「選ばれなかった未来」というイメージはとても魅力的な世界だ。

 夏目漱石は自分や自分の周囲の作家が書いている「小説」に対して、その総体としてのあり方の必然性を疑っていたところがある、らしい。日本の小説は、自分が書いているこんな感じのものとは全く異なった方向に進むこともできたはずだ、と思っていたらしい。僕たちが今、知っている日本の小説は、どんなジャンルであれ、大きく「小説」という言葉でイメージされるある総体を持っている。「小説を読む」といえば、だいたいどういうタイプの文章を読んで、どういう体験をするのかが、決まっている。漱石は、そういう「小説」体験の全体像が、今そうであるのとは違うようになる未来もあり得たと、思っていた。選ばれなかった日本語の小説の未来があった。

 「エチカ」のゼミは今の概算では24回でやる。月一回で二年だ。二年で一つの、その後の世界はそうはならなかった、というその総体がつかめるのだとしたら、僕はワクワクする。そのあと僕はどうなってしまうのか。世界はどうなるのか。

 上下巻二冊の文庫本を携えて、文庫本の中へ旅へ出る気分だ。漱石もつれていくか。ついてくるか。



 ゼミの詳細はまるネコ堂ゼミ、スピノザ「エチカ」を御覧ください。


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「やってみたい」というリクエストによって日程を決めていきます。
★2月8日、13日、26日開催決定
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●雑誌『言語』(5、6、7号、在庫僅か)
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January 23, 2021

【775】そろそろ「エチカ」ゼミ。

 今日は「言語にとって美とはなにか」のゼミ3回目。毎回面白く読んでいるのだが、今回読んでみて思うのは、僕はとても深いレベルで吉本の影響を受けてしまっているということだ。何度も読んだ本だから、影響を受けているのは当然なのだけれど、自分でも気が付かないぐらいの深度に浸透している。

 吉本はこんなことを書いていたのか、と改めて思うことが多い。そして、それが、以前から僕自身が言葉にならないままで、あるいは拙い言葉でどうにか言っていたことを、それなのに、吉本がそのものずばり書いていた、というふうに見出していく。

 だから、いまだに「僕がずっと考えてきたことを吉本も考えたんだ!」などと単純に喜んでしまうのだけど、よく考えれば、吉本の影響下で考えたからそうなっているだけだ。いや、「だけ」ではないだろうけれど、もうそれぐらい読んでしまっているというのは事実だ。

 そろそろ吉本に食って掛かりたいがどうなるか。

 まあともかく、これはこれで、あと10回ぐらいゼミはあるけれど、楽しくやっていけそうだという目処のようなものは立ってきた。

 というタイミングで僕も次のゼミをやりたいなと思っていて、スピノザの「エチカ」だ。

スピノザの「エチカ」は「幾何学的な」アプローチというか「定義1、2・・・」「公理1、・・・」「証明」などと箇条書きにされているような文章で、とっつきが悪い。こういうのはゼミでやるのに良いと思う。

ということで、春分くらいから毎月少しずつの予定です。

日程詳細、これから検討しますので、興味のある方はご連絡ください。

▼関連エントリー
【766】「エチカ」をゆっくり進める。
【764】スピノザ「エチカ」に取り掛かる。



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★1月29日、2月13日開催決定
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December 28, 2020

【770】ヘーゲルの「美学」


買ってしまった。こんな本、新本で買うとは思わなかった。


吉本隆明が「芸術と疎外」という講演でこの本のことを話している。正確にはこの本ではなくヘーゲルの『美学』として発行されている本だけど。

そもそもヘーゲルは「美学」という本は書いていなくて、講義として「美学」をやっていて、その受講者の筆記録をもとに何冊も「美学」はつくられている。この『美学講義』はその中でも初期の講義の筆記録をもとにしているものらしく、特徴としては編者の「歪曲」が少ないらしい。

ともかく、吉本が講演でも話している「自己疎外」について書かれている、はず。

これは芸術の場合で言うと、「自己疎外」という概念を最初に編み出したのはヘーゲルだと思うんですが、ヘーゲルは要するに、人間のある精神の作用があると、人間が精神の作用を行うと途端に、その精神の作用自体の中に、精神の作用をする人間を取り除けてしまう、枠から外してしまうという要素が必ず出てくるというような意味で、「自己疎外」という概念を使っています。(ほぼ日刊イトイ新聞、吉本隆明の183の講演「芸術と疎外」) 

人間が何かをしたとき、その途端、その何かがその人間を取り除けてしまう。人間が何かを表現したとき、その表現をした途端、その表現自体が表現をした人間を取り除けてしまう。こういう問題について書かれている。

今、ゼミで読んでいる吉本の『言語にとって美とはなにか』ももちろん、この自己疎外の問題は関連している。吉本は自己疎外に対して、自己表出を見出している。

『美学講義』分厚い本で、読むのが楽しみ。


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November 29, 2020

【763】「『中動態の世界』ゼミその後」の会

 9月に終了した『中動態の世界』ゼミのメッセンジャーグループで、その後もぽつりぽつりと投稿があって、ゼミをきっかけにして新たな本を読み始めたり、新しいことを考えたり、そういうことが起こっているので、参加メンバーでそれぞれ「ゼミのその後」のことを話す会をやってみた。

 僕自身、この本はゼミをやる前に思っていたよりもずっと僕自身の場所に重なっているところがあると、ゼミが終わったあとに思うようになった。それは吉本隆明の自己表出の問題で、このことは意外だった。僕以外の人はおそらくそう思わないかもしれないが、僕には中動態は自己表出と大きく関わりがあるように感じる。

 その後の会のために、ゼミのときのようにレジュメを準備した。以下に掲載する。


『中動態の世界』ゼミその後

2020年11月29日 大谷

中動態


 中動態的に世界を捉え、感じ、考えるようになった。という文章の最初の「中動態的」という言葉が僕の言葉として僕にイメージを与えるというだけで、ことの重大性はわかる。中動態とはどういうものかと訊かれれば、僕のイメージに一番しっくりくる説明は、やはり、バンヴェニストだ。(引用は『中動態の世界』)

能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の內部にある
 「主語」や「動詞」といった西洋語由来の文法語を使わないとすれば、細江の、

動作が行為者をさらずその影響は何らかの形式において行為者自身に反照する性質のもの
でもいい。どちらにせよ僕にはこれは、自己疎外への抵抗として、有意義だ。

自己疎外

 自分が言ったこと、考えたこと、生み出したものが、自分を取り除けてしまい、自分と対立していくというヘーゲルの自己疎外の問題は大きく、僕の考える責任や自由といったものとも関係している。安易に社会批判をする人はだいたいその社会から自分を取り除けてあたかも自分はその社会に対してなんら加担していないかのように振る舞う。むしろ自己の責任を回避するための批判にすら見える。

 吉本はヘーゲルの自己疎外が社会制度として行き着いた資本主義に、マルクスのいう「社会からの疎外」が該当すると読む。そこでは、労働者が作ったものは最初から資本家のものであり、労働者のものではない。労働者は自分がつくったものを、自分でお金を出して手に入れなければならない。そういった疎外に対して、その状況そのものを「疎外し返す」こととして、吉本は自己表出を見出した。

自己表出

 自分がつくったものに自分の現実のかけらを、そのままのかたちではなく見えない構造として、入れていく。その構造が自己表出だ。自己表出のない創造は、自己疎外にしかならないし、現代においては、社会からの疎外を生む。僕がライターとして文章を書き続けられなかったのは結局の所、頼まれ仕事として文章を書いていたことに端を発し、自己疎外および社会からの疎外の状況に入ってしまったからだ。無責任な社会批判として、僕の文章から僕が取り除けられていくことに、僕自身が耐えきれなくなったのだろう。だからこそ吉本の言葉に強く打たれた。

 ところで、この自己表出の構造はまさに中動態的だ。自分が作ったものに自分の現実のかけらを、そのものとしてではなく、構造として、入れ込んでいくその構造が自己表出だとしたら、その構造を特徴づけるのは、「主語がその座となるような」「その影響は何らかの形式において行為者自身に反照する性質」と驚くほど一致する。「何らかの形式において」という細江の繊細な言葉遣いに改めて驚く。「ホームレスについて書いたから、自分はホームレス問題の解決に寄与しているのだ」などという短絡的な話ではない。むしろそれが疎外そのものだ。

契機

 吉本は自己表出の問題にもう一つ重要な観点を提供してくれる。〈契機〉だ。社会からの疎外の情況を疎外し返すためには、「あえて世界の進むべくして進む方向に従わないという思想のイメージ」[吉本隆明講演「芸術と疎外」]が必要で、これはほおっておくとそうなっていくその流れに従わず「〈契機〉をつかむ」ことと同義だ。そしてこれも『中動態の世界』の言葉で言えば「仕方なく」で済まさないということに通じる。

倫理

 ここまで書いてきて深いところにあるものとして倫理という言葉を感じる。僕にとって倫理というのは、こういった、言ってみれば、中動態的で自己表出の構造を支える、ある〈明るさ〉だ。正義や善といった言葉の一般的意味と倫理は異なっている感じがある。僕の楽観主義的な面の源泉はこの倫理としての〈明るさ〉だと思う。この〈明るさ〉は特定の光源を持たない。空間自体が明るい。

 倫理という共通項でスピノザについて、ここからなにか書けるだろうか。『中動態の世界』でスピノザを知った以降、「スピノザはいいな」と僕は何度となく思った。今なら何がどういいのかを説明できるだろうか。

神こそが唯一存在している「実体」であり、これがさまざまな仕方で「変状」することによって諸々の個物が現れる。[『中動態の世界』239]

 この神は西洋的には異端だ。ブッダも悪魔も毛虫の糞も人間もなにもかも神だという哲学に西洋的一神教の信仰は耐えきれない。というよりも、宗教的信仰というものが耐えきれないのかもしれない。人が信じ仰ぎ見るための崇高さのようなものを拒絶している。このあたりからしてもう僕は「スピノザ、いいな」と思い始めている。

 信仰をなにか「甘い、スイートな」ものとして捉えるというのが僕には嘘くさく思えてくるからかもしれない。「伝統的な日本」というものに対して「スイートな」思いを寄りかからせる「信仰的」思考も好きではない。どんな社会であれ、スイートなものがあるならビターなものもあるし、糞や憎悪や理不尽もあるとどうしても思えてくるから、「伝統的な日本」という取り上げ方の恣意性にうんざりするのだと思う。話が逸れた。ともかく、スピノザの神は宗教や信仰ではなく、あえて一般的に理解可能な範囲でジャンル分けするとすればやはり哲学だ。

 西洋的一神教は、僕がどうしてもうまく捉えることができないもののうちの一つだ。要するに僕が非西洋なのだということだろう。非西洋を東洋と名指しすれば、僕の疑問は東洋を代表しているとも言えるのではないかと思う。

 西洋的一神教の何が捉えられないかというと、その神が世界には存在せず、世界の「外」にあるということだ。別の言葉では「超越」的な存在だということになる。唯一絶対、世界を超越している。これが僕には難しい。

 僕にとって世界はすべてだ。その世界の外側にあって、世界と対置できるものというのが、まずイメージできない。そして、つまり、「イメージする」ということ自体が、神そのものを捉えることから離れてしまうということでもある。あるいは人間ごときに神を捉えることなどできない、ということかもしれない。どちらにせよ、僕にはどうにもならないということを予め定義づけられている気分になる。

 この一神教的神に対してスピノザの神は違う。神がすなわち世界なのだ。超越ではなく内在だ。どちらかというと世界のほうが無い。つまり、僕も毛虫の糞もブッダも神なのだ。こっちのほうがずっとイメージしやすいし、この「全て」という感じも「全」感があっていい。西洋の一神教は「全知全能」と言いながら「全」感があまりない。どころか、むしろ恣意的で選択的に思える。このあたりも、スピノザ、いいなと思うのだ。

 そしてスピノザの言う、毛虫の糞も異教の教祖も僕もあなたも神なんだということに僕は〈明るさ〉を感じ、そのことを指し示した本のタイトルが「倫理」を意味するというのも納得がいく。慈悲も無慈悲も、理不尽も幸福も、あなたもわたしも、神なのだという〈明るさ〉で考えたとき、全ては中動態的に、自らを座として、自分を含んで、いると思える。とてもいい。「エチカ」をきちんと読むのが楽しみだし、どうやって読もうか今から少しずつ企んでいる。「エチカ」とともに過ごしたい。

和紙

 和紙は僕のイメージとしてずっとある。吉本が言語を織物で喩えるように僕はたぶん言語を、思考を、感覚を、生活を、組織を、現実を、表現を、和紙のイメージで見る。短かったり長かったり太かったり細かったりするバラバラの繊維がバラバラの方向を向きながら在ることで一枚の紙が漉き上がる。一つの繊維に着目すれば、それは海をゆく船の航跡でもある。一つの方向や二つの方向に揃っているわけではなく、バラバラの方向にあることで在る在り方だ。僕は僕の中に様々なバラバラのものをバラバラのまま置いてきた。揃えないでおくことをなにかの使命のようにすら感じていた気がする。それらのバラバラの繊維がようやく、バラバラなままで様々な点で接触することで、柔軟に機能し始めてきている実感がある。これは本当にいい。

以上


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October 6, 2020

【751】言語美という母港。

言語美ゼミに向けて読み始める。何度読んだかわからないぐらい読んでいる本だ。もう、最初の「文庫版まえがき」ぐらいはさっと通り過ぎることができるだろうと思ったら、やっぱり発見があった。

なるほどこれはこういう意味だったのか。吉本はこういうことを言わんとしていたのか。ということを新しく読む。

書かれていることは初見のときから一文字たりとも変わっていない。にもかかわらずこうして今でも変化を続けている。変化をしているのは僕だからだ。前回読んだときからの僕の変化が言語美から読み取れる。

『言語にとって美とはなにか』は僕にとって、むしろ母港なのかもしれない。戻ってくる度にその景色は違って見える。今回のゼミも面白くなりそうだ。


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October 3, 2020

【750】言語美ゼミに参加を申し込む。


大谷美緒が主催する『言語にとって美とはなにか』ゼミに参加を申し込んだ。講読ゼミは30ほどやってきたが今回がたぶん「初参加」だ。主催者は参加(参り加わること)できない。なんとも感慨深い。

今の時点ではゼミを通じて吉本隆明という人の全体像を自分のなかに浮かび上がらせることができたらいいなと思っている。漠然とではなくできるだけ具体的に。

長旅だ。補給と修理をしながらゆこう。


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September 28, 2020

【746】『中動態の世界』ゼミ、終了。

 9月26日土曜日。國分功一郎著『中動態の世界』の講読ゼミが終了した。全9回。毎月1章ずつ読んで9ヶ月かかった。参加者は4人。それぞれに何かが生じたのではと思う。

 今回のゼミをやるにあたって、僕は、僕なりの目標を持っていた。

 「レジュメを文章として面白く読めるようにする」というものだ。最終回に成ってようやく、それなりに面白くかけたと言い得るぐらいにはなった(よろしければぜひお読みください)。他の参加者にもおもしろいと思ってもらえたのはとてもうれしい(山野カエル「最後のゼミへ向かう夜に」)。

 自分なりの負荷を掛けたことで、読むことにも影響があった。いつもより本に対して揺さぶりを掛けて読んだ感じがする。そのぶん、危うい読解をしたと思う。誤読もあるだろう。それがレジュメに出てしまっているかもしれない。でも、危険を犯しただけのことはあって、読むことがまた広がった。とてもスリリングだった。

 最終回の第9章は本当に面白く読めた。すでに書かれてしまっているはずの文章が少しほどけて、その間を魚のように縫って泳ぐ感じがあった。すでに書かれてしまっている文章なのに、読んでいるまさにその瞬間に新しく書かれていくかのような感覚だった。この本は何度か通読はしていて、どんなことが書かれていたかは、すでに知っている。それなのに、今まさに新たに書かれ直していくように読めた。読むことで書かれていく。得難い経験だった。

 読み終えた今は、別の本になってしまったかのような重厚さを感じる。

 ゼミはそれなりに疲れる。月一回、一章分読むだけ。なのに疲れる。ゆっくり読むことは、長い時間その本に付き合うことだ。ささっと読んで生じるイメージは間違っているわけではないが、ゆっくり読んでいくとイメージが重層化していく。

 良い本は玄米のようなものだ。玄米はよく噛んで食べると味が変わるし、消化にも良い。それと似ている。白米は噛まずに飲み込んでもそれなりに消化できるし、食味もわかりやすいが、その分予め失われているものがある。玄米を飲み込むように食べることもできるが消化できなかった部分がそのまま出てくる。そこで諦めずにもう一度よく咀嚼して食べるとより深く消化できると続けたかったが、この比喩ではやめておいたほうが良さそうだ。



 参加者全員のレジュメをまるネコ堂ゼミのサイトで公開しています。
 まるネコ堂ゼミ:國分功一郎『中動態の世界』

 山根美緒主催の『言語にとって美とはなにか』ゼミ、10月からはじまります。参加者募集中です。よろしければ。




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June 28, 2020

【719】「言葉にならない」が言葉を支える。

6月27日の『中動態の世界』第6章意志と選択のゼミ用に書いたレジュメの一部。
この本を読むと吉本隆明の自己表出について考えが及ぶことが多い。

▼言葉と思考。心の動きと出来事の描写。自己表出。
 言葉として存在しないことが、直ちに存在しないとは言えないのは当然のように思えるが、これは、言葉の無能さ・限界を指し示すと同時に、言葉というものの存在原理でもある。

 僕たちが何かを体験した。その体験は素晴らしいもの、あるいは、ひどいもの、あるいはまた平凡なものだった。しかし、どのようなものであったか「言葉にすることが出来ない」「筆舌に尽くしがたい」「言葉にするとどこか違ってしまう」と思うことはよくある。ここで終われば、文字通り「言葉にならなかった」となる。多くの場合はこのようにして言葉というものの限界点を示して、その体験の痕跡に留まる。しかし、一部の例外的な場合、それでもなんとか表出しようとして、歩を進める。その手段は、ともかく自分が体験した出来事を述べることになる。出来事の描写である。そして、その述べたてたところの言葉を別の人間が受け取って、その体験を再現することで、「言葉にすることが出来なかった」はずのその「何か」を体験したと感じることができる場合がある。出来事の描写しか言葉になっていないにも関わらず、曰く言い難い感情や感覚や思考や、いわゆる心の動きのような、話し手の内部に生じたそれらの渾然一体と成った何かが、受け手にも発生する場合がある。言葉自体が「出来事の描写」しかなされていないからといって、そういった「言葉にならない」ものが存在しなかった、ということにはならない、という言ってみれば当たり前のことがここにある。

 この「言葉にならない」もの、何かを指し示すことができないもの、であるにも関わらず、書き手にただならぬ何かを引き起こし、読み手にも感取されたそれそのものを吉本隆明は自己表出と呼んだ※。言葉というのは、その自己表出性が、ともかく何かを指し示すということそのものである指示表出性と交差し折り合うことで「言葉になる」。「言葉にできない」という沈黙は、多くの人たちにとっては言葉の限界であるが、別の人には言葉の可能性である。言葉の側から記述すれば「言葉にならない言葉にできない」その「ならなさ、できなさ」の抵抗的事態そのものが、言葉というものの支持体であり、言葉を存在させ変動させてきたと吉本は見ていた。

※語のレベル(文法レベル)で言えば、助詞などの、指示性が低くても、何かを引き起こすことができるものは自己表出性が高い語となる。


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May 23, 2020

【701】『中動態の世界』ゼミ第5回。

前回まで「言語は思考の可能性の条件」といった一見するとわかりにくい場所をどうにかしてみようとしてきた。「失われたパースペクティヴ」を取り戻すといった難しい話をしてきた。

それが突如「意志なんて無い」といった刺激に満ちた話になる。中動態の例として「カツアゲ」が出てくる。「脅されて仕方なく自分で金を渡す」のが中動態なのだという。わかりやすい。その分、これまで積み上げてきた微細な雰囲気との乖離に戸惑う。

本の内容に応じてゼミ自体も刺激的な展開だった。おかげで僕は著者のいる場所、みようとしている場所のイメージが濃くなった。おそらくこういう展開に今後向かうのだろうというような像も浮かんできつつある。

あと4回。

レジュメはまるネコ堂ゼミのサイトで公開しています。



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April 26, 2020

【674】『中動態の世界』ゼミ第4回。


第4回、第4章「言語と思考」。20ページほどの比較的短めの章だけど、ここは前半の山場。ひょっとするとこの本全体の山場かもしれない。

「言語は思考の可能性の条件」というバンヴェニストの主張に対するデリダらしいトリッキーな絡みをリングアナウンサーよろしく國分氏が盛り上げてくれる。

バンヴェニストもデリダも僕は好きで、だからとても見応えがある。

「言語は思考を規定する」のではなく「言語は思考の可能性を規定する」。前者には存在しない「場」が後者では要請される。この「場」の出現のさせ方は、吉本隆明が「千里の径庭」という言い方で「想定」した自己表出と同様、ここを短絡してしまうと元も子もない。

ちょうど同じタイミングで今、三浦つとむの『日本語はどういう言語か』を改めて読み進めている。三浦と時枝誠記が言語過程説を主張するのだけど、それは「言語を心的状態そのものとしてみる言語実体観」に対する批判で、言語実体観(これは言語道具説へと進む)では、個人が対象から自由に認識して成立した思想が無視されているとしている。

三浦や時枝もまた、バンヴェニストや國分が見た「場」、吉本隆明が想定した「千里の径庭」と同様、短絡し直結することで、とても重要なものを押しつぶしてしまっている思想に抵抗している。

これまで読んできたいろいろな本が、僕の中で接点を持っていく。そういう本たちが自由に存在しつつ、それぞれに接し合うような空間を読書空間として僕も想定したい。僕の読書空間は他者の読書空間とどのように重なるのだろうか。

ゼミ参加者のカエルさんが感想をアップしています。


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March 30, 2020

【648】「中動態の世界」ゼミ第3回。

3月28日に國分功一郎『中動態の世界』ゼミの3回目を実施した。

新型コロナウイルスで世界中が大変なことになっているときに哲学書なんか読んでどうする、という気分には全くならず、ゼミをやっていて本当によかったと思う内容だった。

以前、アラタの皮膚炎(アトピー)が大変だったときにデリダの『グラマトロジーについて』のゼミを半ば死にものぐるいでやったのだけど、そのときのことを思い出した。

【547】デリダゼミを決行する。

あのときよりはずっと緊張度は低いけれど、あのときデリダゼミができたことはやはり大きな出来事だったのだと思う。

今回の中動態ゼミの参加者は3人。レジュメが4つ。参加者よりレジュメのほうが多いのは、参加しなかったカエルさんがレジュメを提出していたため。第1回のときもそうだったのだけれど、こんな風にもゼミに参加いただけるのはありがたい。(レジュメはゼミサイトに掲載。)

『中動態の世界』ゼミは全9回。9ヶ月に渡る。この長期間、一冊の本を複数の人がそれぞれに読んで、その体験を定期的に持ち寄る。長くてゆっくりとした出来事だ。この出来事に対する関与のスタンスもそれぞれで「当日は別の場所にいるけれど便りは出すよ」というのはとても粋だなと思う。(カエルさんの「レジュメを書いた日のこと」参照)

ゼミ当日の様子は、ゆうきさんも書いてくれている(「もう日常ではない、ある一日のこと」)。

今回は『中動態の世界』第3章「中動態の意味論」。この章は失われたパースペクティヴとその復元について丁寧に書かれている。「パースペクティヴ」というものを体験できる良い文章だ。この文章は現在地も照射してくれる。

たとえば、今のような危機的な雰囲気にあると、日常のシーンではなんとなくぼやけていた人それぞれのパースペクティヴの違いが可視化される。職業の違い、年齢の違い、家族構成の違い、地域の違い。切迫度が全く異なる人が隣同士に座る。普段ならそれほど問題にならないことが、とても厳しい断裂となる。

「分断」と言われればそうだが、もう少し深いところで言えば、これは、立場や視点が違うとどれほど世界が異なって経験されるかというパースペクティヴの問題だ。このことを落ち着いてイメージできるようになると、危機は単なる「分断」という悲劇ではなく、なにかの「契機」となりうる。

こういう時期だからこそ優れた哲学書はとても良い仕事をする。そう思う。


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March 21, 2020

【639】合宿二日目。僕は『中動態の世界』ゼミのレジュメを仕上げる。


言葉の表出、春合宿2020の二日目。合宿中に何か一本書きたいのだけど、色々と滞っているので一つずつやっていく。

まずは、3月28日の『中動態の世界』ゼミのレジュメ作成。先週、該当の第3章を読んでメモをとっていたので、それをまとめる。

いつもレジュメは、元の本がもっと面白くなるようにと思ってつくっている。僕自身が該当箇所を読んで、面白いと思ったところに焦点を当てる。僕が面白いと思った面白さが表現できていれば良いレジュメで、できていなければ失敗。一応毎回、及第点は取っているつもりで仕上げているのだけど、本に書いてあることを書き写しているだけと言われれば、そのとおり。でも、それで元の本がより面白く読めるようになるなら良いと思う。

レジュメはすべて公開している。
できたてほやほやの僕のレジュメはこちら

ゼミはなかなかハードルが高く見えると思うのだけど、興味ある方はぜひ一度参加してみてください。レジュメ書かなくてもOKです。レジュメ書くと参加費割引です。

まるネコ堂ゼミ『中動態の世界』



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●3月29日(日):山本明日香レクチャー・コンサート
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