割と長い夢だった。その大半は思い出せないが、最後だけ鮮明に覚えている。
自宅近所、僕が通った小学校の前の府道を僕は歩いている。ちょうど小学校の前あたりを歩いていると、昔、文具店があったスペースが何か、教育関連の施設のようなところになっている。教育関連の施設という言い方をしたけれど、見た目は大衆食堂のような感じにテーブルが並べてあるだけで、教育関連だという感じは、その外観からというよりも、小学校のすぐ近くにあるということから僕の連想が来ているようだ。
そのテーブルのひとつに網野善彦が座っていて、向かいには施設の人が二人座っている。僕が歩いている歩道側からはガラスの引き戸ごしに網野さんがこちらを向いて座っているのが見えていて、施設の人は背中が見える。ガラス戸はあいている。ちょうど前を通りかかるときに、
「私もついに老人ホームに入ることになりまして」
という網野さんのぼそぼそした声が聞こえる。(現実の僕は、網野さんが「老人ホーム」に入っていたかどうかは知らない。)
それを聞いた僕は、あぁ、と思って、とても悲しくなって、その後小学校の敷地に入ると、前を歩いている友人に今見た出来事を話そうとして、泣き出す。その泣き方を見て友人が「まるで子供みたいに泣くなぁ」と言い、僕も自分が子供になった気分で両手の甲を目に当てて、わぁわぁと泣き続けた。
そして目が覚めた。目が覚めてもひどく悲しく網野さんの姿が思い出される。まぶたには涙がたまっている。
網野さんの姿は、両肩が胸のほうへ入り込んでいて、背中も丸くなって、着ているものもパジャマのような感じで、とても小さく見えていた。それは、僕の父親の晩年の姿に似ている。
父親に認知症の症状が出たとき、僕はとてもショックを受けた。進行していくその様子を見ていて、僕はなかなかその姿を父親だと認識できないというか、父親が変わってしまった姿として見ていたと思う。話をするときの話の内容の弱弱しさもとても父親が話していることとは思えなかった。
去年死んだときよりも、僕はそういう症状の父親のほうにショックがあって、今思えば、死んだことよりもそのことに悲しかった。死んだあと、父親のことを思い出すときは必ず若かったときの姿で、症状が出てからの姿をそれに接続することがしばらくできなかった。 死んでからしばらくしてようやく、あれも父親だったのだと思えるようになった。
夢に影響していると思うのは、夕べ寝る前に吉本隆明の講演のテキストを読んでいた。ネット上に上がっている「吉本隆明の183講演」の183番目で、その音声も昨日少し聞いていて、枯れた張りのない声だ。しかしこの講演は、すばらしい。
「つまり、偶然のように、ある人がある読者が、ある事を考え、偶然ある本を読み、そしたら、そこに書かれていることは、自分と同んなじようなことを考えてる人がいるんだなとを読者の人に思わせたとか、自分はこう思ったけれども、同じようなことを考えたんだけど、ここまでしか考えられなかったのに、この人は、もっとその奥を考えてるなということがわかったとか、そういう偶然と偶然の、それも、偶然と偶然との、しかも自己表現と自己表現のが、たまたま出会ったときしか、文学芸術の感銘っていうのは、ないわけなんですよ。それ以外の力っていうのは、あの、文学、芸術にはないわけですよ。」
自己表現と言っているけれど、これは自己表出と同じことで、つまりこれが、吉本の芸術言語学の根幹を成す。文学芸術と言っているけれど、これは講演の前半を聴けば、芸術全てに当てはまる。それをさらっと言ってのける。『言語にとって美とはなにか』と同じように、具体例をいくつも挙げながら、自分の仕事を明確に簡潔に、聞いた者(読んだ者)に鋭く 立ち上がる像を持って、話している。
「つまり、僕は、何十年かかって、その周辺のことを書いたり、しゃべったり、表現したりしてきましたけど、なんで、おまえそんなことを、そんな馬鹿らしいことになんか、生涯をもうすぐ費やすかもしんないですけど、」
そんな馬鹿らしいことに生涯をもうすぐ費やす。というところに、僕は打たれていたんだろう。そうして、父親が死んだときのことをもう一度思い出すと、認知症の症状が進んでいたけれど、身動きが取れなくなってもう死ぬというときのまさにその瞬間は、馬鹿らしいけどしょうがないからもう死のうと強く思って死んだ、と思える。