「8月16日 終戦記念日の翌日に玉音放送をバカ丁寧に聞き読む会」が終了した。
「バカ丁寧に」というのは、関連する歴史的事実やそれに対する歴史観、イデオロギーなどはなるべく脇において、ただ文章を読んでみるという意味で、今回も玉音放送にこれまで持っていた散発的で周辺的なイメージが変わっていったり、それまでなかった実感が立ち上がったりということが起き、とても面白かった。
最初に正午の時報から始まる当日(1945年8月15日)のラジオ放送の音源を聞く。アナウンサーの「只今より重大なる放送があります。全国の聴取者の皆様御起立願います」からすでに現在ではなかなか無い感じの雰囲気。君が代に続いて、肝心の詔書のレコードが再生され、再び君が代。その後アナウンサーによる「奉読」と続く。
詔書部分は文体のせいもあるが、一度聞くだけでは理解し難い。なので、詔書のみの比較的音質の良い音源をもう一度聞く。それから、僕自身で音読してみる。参加者の一人も音読。その後30分ほど黙読する時間を取って、それぞれが思ったことを共有する。こういう流れでやってみた。
自分の声で音読するというのは、なかなか緊張感のある独特な体験だった。僕にとって音読というのが、僕自身にかなり強い作用を及ぼすことはすでに知っていて、今回も憑依感に近いような感覚を持った。
特に最後「爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ」という命令文は、意味としては「あなたたち臣民はこの私の意図するところをよく理解して行動するように」というようなことだと思うけれど「朕カ意ヲ體セヨ」というのは、そういった理解や行動というレベルではなく、「私と一体であれ」という感じがする。僕がこれまでまず体験したことのない感じだ。これほど一方的な立場、絶対的な立場から何かを言うという体験がまずないのだと実感した。
その後の、30分間黙読していくなかで、文体から感じたのは、天皇は「臣民のこと」だけをずっと考えている、あるいは思っている、ということだった。ここでいう「臣民のこと」というのは、すなわち国であり、そのすべてを一体化したものを「國體」というのではないか。天皇によって思い、思われるものの統合として「國體」が存在する。
権力者や支配者というものに対する僕のこれまでのイメージとは違っている。絶対的な立場でありつつ、その立場からどこまでも民のことを考え続けている。支配欲や権力欲、さらに広く、私欲と言えそうなものは全く感じられない。
ここでいう支配欲や権力欲というのは、悪い意味の側面だけではなく指導欲といったような意味も含んでいるし、私欲といった場合も必ずしも「私腹を肥やす」ような意味ではなくて、人としてどうしても持ってしまうある方向性のようなことなのだけど、そういったことの主体がこの玉音放送からはほとんど感じられない。
この主体の感じられなさは、「私と一体であれ」という強力で一方的なメッセージに対して意味的には矛盾している気もするが、だからこそ言えるのだ、という気もする。たとえて言えば、聖書の「汝の隣人を愛せよ」というようなメッセージに似ているのかもしれない。強い絶対的な命令としての言葉が、どの「汝」とも違う立場から「汝」のことを考え続ける、ということそのものによって発せられるというような。
つまり僕は、天皇制の「宗教」としての側面というものに直接触れる体験をしたのだと思う。
天皇が持っている支配のうち、強力な権力機構によって人々を主従的に支配する側面ではなく、この地に住む人々のことをただずっと思う「眼差し」的存在として神聖的に支配する側面が宗教的な側面で、この側面によって、天皇制はこれまで幾度もの危機を生き延びたのだろうと思わせる。
この辺まできてようやく、僕自身が天皇という立場をどう思うのかということが言える気がする。
僕は、「私と一体なのだ」という僕自身の存在のあり方に対する侵入を許容できないが、「民のことを思っている」というあたたかな眼差しに対して拒絶するのは難しい。
この点で、2016年8月8日、今上天皇による「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」は、71年前の玉音放送とは文体として大きく変化している。
「爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ」に該当する部分は、「国民の理解を得られることを,切に願っています。」となり、「私と一体なのだ」という位相は鳴りを潜めている。同時に「民のことを思っている」というあたたかな眼差しは、「天皇として大切な,国民を思い,国民のために祈るという務めを,人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは,幸せなことでした。」としてさらに強く僕達の身近に接近している。
僕にとって、許容できない部分が鳴りを潜め、拒絶できない部分が拡大している。僕だけでなく、天皇制に対して保守と革新との間の中間的なイデオロギーを持つ多くの現在のこの国の民にとって、これは当てはまるだろう。
天皇とはまさに、多くの民にとって心地よく望ましい自らの位置を考え続けてきた。天皇のもつ神聖王としての側面の〈原点〉は、神話的な無限遠点にあるが、天皇のもつ神聖王としての側面の〈現在〉は、民のことを思い続ける〈あたたかな眼差し〉によって常に更新され続けている。
もしも将来、この国の民が天皇制を廃すという決断を下す時が来るのだとしたら、最後に残るのは、この神話的無限遠点から照射される〈あたたかな眼差し〉そのものだろう。断裂的で暴力的な拒絶によるのか、静かに息を引き取るような消滅になるのかはわからないが。