August 19, 2016

【359】能代

米代川(よねしろがわ)。
左のほう、もう少し行くと日本海。

秋田県能代(のしろ)市。
8月6日から二泊していました。

バスケットボール好きなら能代工業、
鉄道好きなら五能線で有名ですが、
それ以外の人にはほとんど知られていない街だと思います。
奥羽山脈から流れる米代川が日本海に注ぐ河口の小さな港です。

なぜこんなところに行ったかというと、
ここは僕が生まれたところだからで、
その時、第一子を出産するために母親が里帰りしていました。
今でも祖母や親戚が居ます。

秋田県といえば米どころ・農地の印象が強いですが、
もともと能代は秋田杉などの良質木材の集積地で、
多数の材木屋が栄えた木都でした。
北前船の寄港地でもあります。

港なので荷揚げ荷降ろしする人足もたくさんいたはずで、
人足を斡旋する手配師もいたでしょうし、
賭場も開かれ博徒もいたでしょう。

大坂などから買い付けに訪れる材木商も多く、
料亭が立ち並び、芸妓が呼ばれ、
材木屋との連夜の宴が繰り広げられました。

農民ではない海民、商人、漂泊民たちが活躍した街です。

僕の亡くなった曾祖母もそんな料亭の女将です。
材木屋として一旗揚げた男の妾でした。

8月のこの時期、能代では能代役七夕と言われる祭をやります。

かん高い悲鳴のような笛が流れ、地響きのような太鼓が鳴り、
「ちょーれーちょーれー、ちょごれごれごれん、ちょごれごれんれんれん」と
掛け声が聞こえ始めると城郭をかたどった大きな灯籠が引かれてきます。
灯籠の幅は道幅いっぱい、
高さは2階の屋根を超えるため、
電線をくぐる時には、上部のシャチを倒して進みます。
町ごとにいくつもつらなって進みます。


能代役七夕。
夕方から市内を回丁する。
曾祖母の息子で料亭を継いだ
僕の大おじにあたる人はこの七夕が大好きでした。
日頃の仕事も七夕の人脈をつくるためにやっていたのではないかと思います。
敵も多かったかもしれませんが、体が大きく、威圧感があって
七夕の灯籠に乗って提灯を上げ下げする姿はよく目立ちました。

能代役七夕の由来は諸説ありますが、
阿倍比羅夫、坂上田村麻呂が蝦夷征討の際に灯籠を使ったのが起源という説があります。
この説からすると、
それまでこの地にいた部族を征服した中央の側を称える祭なのですが、
単純にそうとも言い切れない何かを秘めているように感じます。

たしかに灯籠の城郭部分には宮廷の美人画や武将の武者絵が描かれていて、
雅な都の宮廷世界を思わせます。
しかし、その城郭の上には、
不釣り合いに巨大な二匹のシャチが乗っかっています。
目を見開き、歯をギラつかせ荒々しくそびえ立つシャチの姿は、
むしろ「反雅」です。
激しい太鼓、郷愁を誘う笛とあいまって、
祭は野蛮さと切なさをまとっています。

1日目、大きな交差点に集まり、太鼓。

「ノシロ」が歴史文書に登場するのは古く日本書紀で、
まさに、658年に阿倍比羅夫の蝦夷征討に降った「渟代(ヌシロ)」として登場します。
日本書紀によれば、「渟代」はこの時、比羅夫の軍船180隻を恐れ、戦わずして降伏しています。

ある日、征服された部族がいたとして、
その部族はその瞬間から征服した者と同じ帰属意識を持つわけではない。
征服者はその部族の上に、かろうじて支配という網をかぶせたに過ぎない。
その網の下では長く反抗の血が流れていたのではないか。
七夕はそういう祭なのではないか。

それでも、やがて血は交じり合っていく。
その事自体への反抗なのかもしれません。

2014年、日本創生会議は大潟村を除く秋田県全域を「消滅可能性都市」としました。
ここでいう「消滅」は、そこにいる人が消えるわけではなく
「自治体としての機能を失う」ことですが、
阿倍比羅夫から1300年を経て、
この場所は再び、
中央朝廷の力のおよばぬところに戻るのかもしれません。



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