January 14, 2017

【384】「日本国憲法をバカ丁寧に読む会」第4回の感想。

7回シリーズで行っている「日本国憲法をバカ丁寧に読む会」。

第2回の第一章天皇、第二章戦争の放棄の感想は、こちら
第3回の第三章国民の権利及び義務の感想は、こちら

第4回(2017年1月12日)は、第四章国会。

無味無臭の手続き感に裏返された思想性


第三章までは思想性とも言うべき、「良いこと」への方向感が濃厚にあった。例えば、

第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。
など。日本という国にとどまらず、世界、それも今はまだない理想の世界への夢想を思わせるような思想性は、第四章では、ところどころ落ち切らない汚れのようにこびりついて残っているだけに思えてくる。例えば、

第四十四条 (略)但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない。
と但書のレベルにまで劣化する。その分、前に出てきているのが「手続き」そのものである。

手続きの持つ無味無臭感の最たるものは、「バカ丁寧に読む会」参加者の多くが指摘したように「数字が目立つ」ことだ。数字の持つ客観性の強さがそれまでの「言葉」主体の主観性の強さに比べて、大きく異なった印象を与える。

さらに、具体的に数字が記されている箇所を見ていくと、この章で記載されている数字は、大きく二種類にわけられることがわかる。

一つは、期間、期限を表すもの。

第四十五条 衆議院議員の任期は、四年とする。
第四十六条 参議院議員の任期は、六年とし、三年ごとに議員の半数を改選する。
第五十四条 衆議院が解散されたときは、解散の日から四十日以内に、衆議院議員の総選挙を行い、その選挙の日から三十日以内に、国会を召集しなければならない。
第五十四条 (第三項)次の国会開会の後十日以内に、
第五十九条 (第四項)六十日以内に、
第六十条 (第二項)三十日以内に、

もう一つは、割合。

第五十三条 いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、
第五十五条 出席議員の三分の二以上の多数による議決を必要とする。
第五十六条 その総議員の三分の一以上の出席
同(第二項) 出席議員の過半数
など
ここで一つ疑問が出る。こうやって具体的な数字が上がっている条文がある一方で、いくつかの条文では「法律でこれを定める」と憲法そのものには具体的数字を挙げていない。

第四十三条 両議院の議員の定数は法律でこれを定める。
つまり議員定数を変えることは法律の変更で可能だが、第五十四条の「十日」を「十一日」にするには憲法改正が必要になる。

何を憲法に直接書き込み、何を法律で扱うことにするか、という問題は、憲法というものの存在に対して「致命的な」ことであるはずだ。国会が「唯一の立法機関」と憲法に書かれているように、国会という機関は超法的な存在の側面がある。「法律の定めるところ」というのは、極論すれば「国会の自由になる」ということで、そのために「国会の自由にならない」部分として、憲法に直接書き込まれた文言、特に数字が意味を持つ。

そういう意味で見た場合、本章に出てくる二種類の数字「期間・期限」と「割合」の持つ意味に何が込められているかが感じられてくる。

「割合」の方は、論理性というかある種の普遍性を表している。過半数、三分の一、五分の一、三分の二といったそれぞれの割合は、人類にとってある普遍的な割合として機能するのだというロジカルな意思を感じる。賛成反対のどちらの立場にたったとしても、「過半数という割合は人間として納得性がある数字だ」と言った具合に。

一方で「期間・期限」を示した数字は、そういった人類にとっての普遍性を標榜しているのだろうか。たしかに、人間の寿命は歴史的にそう大きくは変化しない。そこからの逆算として、国会議員という立場に立ちうる期間の一区切りが「四年」だったり「六年」だったりというのは、人間の寿命に対する割合として合理性がある、ということだろうか。もしそうだとすれば、任期が四年あるいは六年であったり、通常国会の開催が年一回であったり、予算が年一回策定されたりすることを根拠にして、相対的に「六十日」や「三十日」や「十日」という日数がロジカルに算出されているのだろうか。

おそらくそうではない。

この絶対値としての日数や年数の意味は、議決に必要な議員など「割合」の数字と根本的に異なっている。その鍵は、この章全体に漂う無味無臭な硬質な手続き性とも関連がある。

現実の国会議員がどのようかはともかくとして、この条文を読む限り、議員というものになることのメリット、魅力は全く感じられない。むしろ高いリスクを感じる。国会という場は「唯一の立法機関」であり、超法的な存在だからだ。

国会という場に立ったときに想定しうる最も危険な状況は、自分自身とそれに同調する人たちが法律から疎外されることだ。国会で多数派になった場合、少数派を根こそぎ「逮捕」できる法律すら作りうる。この時、少数派を守ってくれるものは何もない。

にも関わらず議員になろうとする人にとっては、「四年」や「六年」という期間が、「法律ではなく」「憲法の上で」確保されているというのは極めて重要なことだ。また、国会という場が開かれる日数が、「三十日」「六十日」と確保されているのも同様、これがなければ恐ろしてく議員になりようがない、という意思を感じる。それは憲法の意思と言ってもいいものだろう。

それが対立する緊張として現れるのが、議員の不逮捕特権で、

第五十条 両議院の議員は、法律の定める場合を除いては、国会の会期中逮捕されず、会期前に逮捕された議員は、その議院の要求があれば、会期中これを釈放しなければならない。
憲法が認める「特権」であることと、「法律の定める場合を除いては」という法の下への従属とがギリギリでバランスしている。

この緊張は、憲法と法との対立の緊張であり、理想と現実との対立の緊張である。「良いこと」へ向かおうという思想と、情況がギリギリまで押し込まれた妥協との対立の緊張である。

つまり、前文、第二章、第三章によって「近代民主主義によって目指された世界」があり、それが逆向きに縮退した民主主義の限界的状況として第四章国会はあるといえる。



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