【558】第2回山本明日香レクチャー・コンサートの様子。
明日香が音楽について語るとき、言葉遣いが魅力的だと思う。
「ベートーヴェンは、休符が訴えかけてくる。」
休符は音が休んでいるのだから、音が無い。無いものがどうやって訴えかけてくるのか、と一瞬戸惑うが、もちろん僕たちはこの訴えをよく知っている。話し始めて突然黙ってしまったり、言いよどんだりするとき、僕たちはその沈黙に強く訴えかけられている。沈黙はたんなる「休み」以上に機能する場合がある。
明日香が言うように、そして明日香が演奏するように、言われてみればピアノ・ソナタ第五番第一楽章の一小節目、最初の和音の直後にある16分休符は、「ハッ」と一瞬息を飲むような緊張をもたらしているし、これを「訴えかけてくる」と表現するのはとても正確な言い方だと思う。
「ここからピアニッシモの世界に入ります。」
僕たちがそれまで知っていた「ピアニッシモ」は、あくまでも音の強弱を示す記号であったはずだ。それがまるで別世界への扉のように思えてくる。「pp」。ガリバー旅行記の「小人の国」のような、あるいは「ここでは大きな音は彼女に見つかってしまうから、ささやくように話さなければなりません」と大魔法使いがどこかで見張っているような国だろうか。
強弱記号を世界として見ていくというのはとても魅力的で、それだけを追っても楽譜が楽しめる。楽譜が物語に見えてくる。
「二拍子は、落ち着く場所がない。どんどん急き立てられていく。」
同じ音の並びでも四拍子と二拍子では違うという話なのだけれど、ここまで明確にイメージを示されると、実際の演奏を聞いたときにたしかに「落ち着かず」「急き立てられて」いく。
僕たちは人を急き立てようとしているとき、二拍子的に「タンタン」と心の中で手を叩いて話しているのかもしれない。逆に、他人に急き立てられていると感じるときは、自分が「タンタンタンタン」と四拍子的に話せば落ち着くのかもしれない。たぶんそう。
このレクチャー・コンサート、毎回ものすごく勉強になるし、新たな発見をする。それはもちろん音楽についてでもあるけれど、同時に言葉についてでもあって、ほんとに油断できない。
そして今回、とても不思議なのだけれど、楽譜が読めないはずの僕が、レクチャーを聴いたあとの演奏では、なんとなくこのへんだろうと楽譜を目で追うことができるようになっていた。同じく読めないはずの澪もそれができたと言っていたから、気のせいとか、偶然とかではない。
もちろん、一つ一つの音がどの音なのかとかはわからないけれど、だいたい今ここ、とわかる。たぶん次はもっと読めるようになる。聴いてるだけで楽譜が読めるようになるというわけだから、これはさすがに自分でも信じがたいことだけれど、楽譜と言語になにかしらの共通点があるのだとすれば、読めて当たり前のことだろうとどこかで納得している。
次回は7月15日、その次は11月24日。
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