November 9, 2019

【599】踏みとどまるための自分なりの何かしらのウォームなワード。

生きていくことにはいろいろと嫌なことがある。うまくいかないこともある。そういうときにちょっと踏みとどまるようなことができるようにしておくといいと僕は思っている。

ちょっと踏みとどまってみて、立ち去ったほうがいいか、そこでなんとかしたほうがいいかを判断すればいい。そのためには、この僅かな停滞、踏みとどまりの状況を、自分なりの何かしらのポジティブなワードで表されるような時間として持てるかどうかが問題になる。

嫌なことやうまくいかないことに対して、動物的に反射的に逃避を繰り返してしまっても、おそらく「生存」は可能だ。だから、この踏みとどまり、停滞は、非動物的で、非本能的なものである。逆の言い方をすれば、そういう停滞や踏みとどまりは、命に関わる重大な事態に、ごくまれに結びつきうる。

だから、僕はここで、原理的には危険なことを推奨している。

「危険を察知すれば直ちに(どこでもいいどこかへ)逃げよ」ではなく「少しだけ踏みとどまり、状況を受け入れるものとして受け入れつつ、積極的に周囲への探索を行い、その上でステイかゴーかを判断せよ」と言っている。

この「少しだけ」が本当に命を分けるのだとすれば、僕は死ぬタイプだ。しかしほとんどの場合はそんなにシビアではない。

実際的に日々起こっているのは、この「少しだけ」をあっという間に意識できないレベルで漫然と経過させ、その後をただ仕方なく成り行きにまかせているという状況だ。それを「自然に逆らわず」と言い換えて自己肯定することは、「自然」を後出しで自己都合的に定義することである。「自己都合的に定義された自然」ほど人工的なものはない。

自然が僕を死に至らしめることを、人工的でなく回避する方法があるのだろうか。自然に死ぬような状況を、自然に回避できるのだろうか。自然は複数存在するのか。というわけで、自然だの人工だののことはこのレベルで考えなくてもいい。

要するに、大抵の物事はこの「少しだけ」の踏みとどまりによって、その後大きく変化する、ということが重要だ。その後大きく変化することを見逃して、何も変化しないと嘆いていても、何も変化しない。

この「少しだけ」の踏みとどまりの時間で自分を発揮するために、最も効果的なことが、その状況をポジティブにとらえることだ。ポジティブというより「ウォーム(温かい)」かもしれない。自分の平熱の温かさを意識するようなことだ。「今がそうだ」という状況に対する粘弾性が生まれる程度のじわりとした熱のことだ。平時は固形であっても、この少しの熱を意識することで、物事への関与の柔らかさを取り戻すそういう熱のことだ。柔らくなれば動くことができる。動けばさらに温度が上がる。

たとえば、僕ならこの平熱を意識することは、「面白い」というワードで照らされる領域の「始まり」にあたるのだけど、僕以外の人であれば別のワードがあたるのかもしれない。自分なりの何かしらのウォームなワードがあればいい。

自分の人生は特段ひどいものではないが「本当はもっと」と思う人に、参考になるかもしれない。


Share: