覚えているつもりが忘れている。いや忘れていない。一度折ってから開いた折り紙を折り目に沿ってもう一度折るようなことだ。昨日の夜、今日やることを書いておいたのを見て、今日それをやるというのは。結局2回やる。いや、一度目はやっていない。シミュレーションなのだからやっていない。でも、やったような気になっていて、それをもう一度やらなければならないという面倒くささがある。昨日の夜に今日やることを予め想定しておいて、今日起きたらそれをやる。スムーズに始められるということと、一度やってしまったことももう一度やらされるつまらなさが同居している。物事をどうやってやるのかということ自体が、その物事を規定しているという当たり前のことを、また確認している。こういうやり方をしたときに、どういうことが起こるのか、その実践例を収集している。「すぐに取り掛かる。効率よくすすめる」ということと「一回しかできない」ということは並立しないのだろうか。一回しかできないということが、一度失敗すれば終わりということを必ずしも意味しないのだから、可能な気がするのだけれど。
「一回ということの独立性に、何回やっても毀損しない強度を与えれば良いのだ」
と千利休は違う言葉で言った。
「3ではなく1、1、1なのだ。10ではなく、1、1、1、1、1、1、1、1、1、1なのだ。」
なんとも気の遠くなる話だ。
「人の人生が保有する時間は有限である。しかし、その細分化スパンは無限に小さくできる。経済性を上回るほどの潤沢な1単位群を得ることができる。一回性が効率を凌駕する理屈だ。」
と千利休は続けた。
文章筋トレ 30分