February 1, 2021

【778】スピノザ「エチカ」ゼミ、やります。

 スピノザの「エチカ」の講読ゼミをやる。毎月1回、少しずつ読み進める。一回あたりどれぐらい進めばいいのか。

 「エチカ」という題は略称で、もとの題は日本語では「幾何学的秩序に従って論証されたエチカ」である。「幾何学的秩序」というのはまずその書き方に現れていて、第一部の「神について」は定義一、二、三、四、五、六、七、八と始まり、次に公理が一から七まであって、続いて定理一、定理二と三六まである。数学のようだ。

 条文が並んだ文章はそれだけである種の世界を作っている。

 これまでゼミでやってきた本の中には同じようなものはなくて、だいたい長くまとまったひとつづきで、「定義」や「公理」「定理」といったような文章そのものがすでにあるルールで分類されているようなものとは違って、そういうルールにとらわれていないいわゆる普通の散文だ。

 普通の散文はだいたいの分量に重量が比例するようなところがある。書き手によってその比重は多少異なるが、同じ書き手であれば千文字は千文字分の重量があり、二千文字になればだいたい二倍の重みになる。だから、ゼミで読む場合、一回あたりにどれぐらい進めればよいかという目安は、文字数で決めてしまえば、そんなに内容的な重量に偏りは生じない。

 その点「エチカ」のような箇条書きは、散文よりも詩に近い。第一部の冒頭、定義一は「自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられないもの、と解する。」という短い文章だが、この文章を読むということの重量感は、散文とは異なった感覚がある。だから一回あたりでどれぐらい読むのがいいのか、単純な分量は測りにくい。

 たぶん各部の最初に出てくるいくつかの定義は重要なはずだ。この定義を読むのに何をどれだけかけたかが、その後に出てくる数十の「定理」を読むことを大きく左右する。

 そんなわけで、一回でどれぐらい読むのか、その結果、全部で何回になるのか、それぞれの回の重みはどうなるのか、そんなことをイメージしながら、回数の区切りを入れていく。まだ一度も通読していない本だけれど、おそらくこのへんはこれぐらいしか進めないだろう、このあたりは少し多めにしても大丈夫だろうと、勝手に調整していく。この作業が意外にも面白い。上下巻の文庫本二冊を開いて、行ったり来たりしながら、分量の感覚を掴んでいく。

 中身の文章を読んでいるわけではないが、それでもこの行為は「本を読む」ということの一部だ。小説を読んでいるときに、あとどれぐらい残っているのか、と残ったページの分厚さを気にすることが時々ある。「あんまりおもしろくないんだけど、あとどれぐらい読まなければならないのか」と思ってすることもあるし、「とてもおもしろいんだけど、あとどれぐらいで終わってしまうのか」と思ってやることもある。あるいは、「あとこれぐらいの厚みしかページが残ってないのに、こんな展開になって、これで本当に終わるのか」とか。こういうことを考えるのも読むことの一部だ。

 ほとんど読んでいない「エチカ」の分量的な全体像を予測しているのだが、こういう予測は良い本であればあるほど、裏切られる。まさかこんな本だったとは、とあとから思う。「エチカ」はおそらくそういう本だ。そう思いたい。

 今、知っている範囲で僕が思い描いている「エチカ」は、選ばれなかった未来の地図だ。選ばれたのはデカルトだった。僕たちが今いるこの世界はデカルトが示した未来だ。「思う」ことが「できる」という自由意志を持った個人である「我」が、「在る」ということを起点にした世界観だ。スピノザはそれとは違う可能性を示していた。違う地図を描いた。だが、僕たちはそうはならなかった。僕がスピノザに興味を持ったのは國分功一郎の「中動態の世界」で、だから、この「選ばれなかった未来図」は國分の「エチカ」像だが、自分で読んで、見れば、この像自体が変化していくのかもしれない。ともかく、「選ばれなかった未来」というイメージはとても魅力的な世界だ。

 夏目漱石は自分や自分の周囲の作家が書いている「小説」に対して、その総体としてのあり方の必然性を疑っていたところがある、らしい。日本の小説は、自分が書いているこんな感じのものとは全く異なった方向に進むこともできたはずだ、と思っていたらしい。僕たちが今、知っている日本の小説は、どんなジャンルであれ、大きく「小説」という言葉でイメージされるある総体を持っている。「小説を読む」といえば、だいたいどういうタイプの文章を読んで、どういう体験をするのかが、決まっている。漱石は、そういう「小説」体験の全体像が、今そうであるのとは違うようになる未来もあり得たと、思っていた。選ばれなかった日本語の小説の未来があった。

 「エチカ」のゼミは今の概算では24回でやる。月一回で二年だ。二年で一つの、その後の世界はそうはならなかった、というその総体がつかめるのだとしたら、僕はワクワクする。そのあと僕はどうなってしまうのか。世界はどうなるのか。

 上下巻二冊の文庫本を携えて、文庫本の中へ旅へ出る気分だ。漱石もつれていくか。ついてくるか。



 ゼミの詳細はまるネコ堂ゼミ、スピノザ「エチカ」を御覧ください。


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