statement#0「芸術は不要不急なのだろうか」

この文章は、「第0回、まるネコ堂芸術祭」(2020年5月2日、3日)のプログラムの一つとして実施した「芸術は不要不急なのだろうか」(大谷隆)をテキスト化し再構成したものです。

0.1 考えるという場所

まずタイトルの話をします。「芸術は不要不急なのだろうか」というタイトルにしました。もともと僕は、この芸術祭をやるにあたってのステイトメント、こういう芸術祭にしたいという宣言を実行委員の一人として書きたいと思っていました。その宣言を事前に芸術祭のサイトに載せようと思っていました。しかし、新型コロナウイルスの影響があり、日々状況が変わっていって、そもそも芸術祭が出来るのか出来ないのかすらわからないようなことになっていった時に、なかなか書くことができませんでした。もし書くとしたら今起こっていることを含めて書かなければいけない。でなかったら宣言にならないと思いました。

ずっと、今、芸術祭をやるということがどういうことなのかを考え続けてきました。この瞬間も考え続けています。そこで、これまで考えてきたことを現時点でなんとか言葉にして、それを文字に起こして事後的にステイトメントにする方法を採ることにしました。僕の力では他の方法ではできそうになかったからです。

そういう意味で、とりあえずつけているタイトルです。話をしてみないとどうなるかはわかりません。ただ、一応、こういうタイトルにはしないでおこうという線引きはありました。ほとんど同じ意味に思われるかもしれませんが「芸術は不要不急なのか」あるいは「芸術は不要不急か」というタイトルにはしませんでした。「なのだろうか」という部分が重要だと思っています。タイトルの影響で今話しているこの話自体が変わっていってしまうことを考慮して、この部分を予めタイトルに入れました。

もし「芸術は不要不急か」「芸術は不要不急なのか」という問にしてしまうと、その答えであるイエスかノーかということが焦点になってしまいます。芸術は不要不急かという問に対して、イエスと答えるかノーと答えるかという状態は、問と答えがものすごく密着してしまうように僕には感じたので、それはちょっと困ると思いました。

そういう問にしてしまうと、僕は芸術祭の実行委員として今、芸術祭をやっているので「不要不急です」と言ってしまうと話が終わってしまうし「いやそうじゃないです」という話になるに決まっています。しかし、そんな話をしたいとは思っていません。僕の考えるということはそういうことではないと思っています。それで「なのだろうか」としました。

「なのだろうか」という言葉によって、場所を設定したイメージを僕はもっています。芸術が不要不急かどうかっていうこと自体を、考えていく場所を設定するという意味で「なのだろうか」と、問と答えの間を引き伸ばしています。間を取っています。僕が「考える」ときに何をやっているのかというのは、このように、問と答えを短絡してしまわないで「可能性としての場所」あるいは「営みとしての場所」を持つことをイメージしています。

答えが出るかどうかやその答えが正しいのかどうかは、考えるということの中のごく一部です。そういうことももちろんあります。ただし、考えるということの要点は、ある場所をつくってそこで色々やっていく、それを保っていくということです。そういう状態でずっと保っていて、今でも保ち続けています。その上で、考えていることを喋るというのは、その場所で起こった出来事を「イメージとして立ち上がらせる」ということだと思っています。

タイトルの中には他にも要素があります。「不要不急」という言葉は、最近、新型コロナウイルス関連でよく聞くようになりましたが、元々ある言葉です。とても特徴的だな、印象的だなと僕は思ったのでこのタイトルに入れました。意味としては簡単で「不要」つまり、要不要、要るか要らないか、と、不急、急ぐか急がないか。それらが問題とされているということです。簡単な言葉で言うと「それ、今要る?」ということです。

最後にもう一つタイトルの中で重要な要素は「芸術」です。これが最大の問題です。今、芸術祭をやるにあたって芸術というものをどうイメージするかという問題です。この話は、考えるという場所で起こることを言語化することで芸術というもののイメージを立ち上がらせたいと企図しています。そのために「不要不急」という言葉を、僕は素材として選んだということです。

0.2 スタート地点の様子


まず、この話のスタート地点がどういう場所かを見ていきます。今、素直に考えて、芸術が置かれている立場、美術が置かれている立場を象徴しているものとして、美術館などが軒並み閉館しているという事実が思い浮かびます。僕の印象からすると他の業種よりも早い段階で休館を決定していった印象があります。屈辱的というか、つらい話ではあります。重要な展示会もあったと思います。東京国立近代美術館のピーター・ドイグ展も見れません。芸術の置かれた現状の認識として美術館の休館ということがあります。

僕は、こういった或る種の厳しい状況において芸術とはどうあるのかを考える時に、思い出す光景があって、それは東北の震災です。あの時にも同じようなことを考えたんですけど、ネットで震災、芸術などで検索をしてみました。すると例えば次のようなツイートがヒットします。

アートと被災地、難しいところ
「人々はアートの非日常的世界に引かれるところがあり、アート活動は衣食住の日常が保障されて成立する。被災地は日常が消えた場になっており、アートを持ち込む人は甚だ迷惑だった」(@Awajiartcircus

「甚だ迷惑だった」。

また、「10+1(テンプラスワン)」というウェブマガジンの2012年の6月号に以下の書き出しから始まる文章が掲載されています。

改めて確認するまでもなく、音楽はカタストロフにおいて直接には何の役にも立たない。また、多くの人々が「震災直後は音楽を聴く気分にまったくなれなかった」と証言するように、個人の衝撃を「癒す」役割も限定されたものでしかなく、しばしば逆効果すらもたらす。(「「今、音楽に何ができるか」という修辞に答える──震災時代の芸術作品」増田聡

書き出しなので最後まで読めば違う話になっていくんですけどこれも厳しい認識です。

厳しい例を選んだので当然厳しい話になるのですが、もちろん一方で、別の場所では、癒しになった、良かったよ、求めていたよっていうケースもあります。例えば水害でバスが水没して屋根ギリギリまで水が来ている。その屋根の上に乗客が避難した。でもなかなか救けが来ない。そういう時に、みんなで肩を寄せ合ってというか手を繋ぎあって、歌を歌った。歌を歌って37人全員の命が助かったという出来事もあります(『バス水没事故 幸せをくれた10時間』中島明子)。探せば他にもおそらくいっぱい出てきます。

ただ、だからといって、そういう事例をもって、災害だったり、「カタストロフ」、異常事態、非常時、緊急事態において、芸術は意味がある、役割があると言い切ってしまうのは、僕はちょっと自分の首を締める気がしています。そういうことももちろんあったけれど、やっぱり、総合的な意味において厳しい。芸術が置かれている立場は普通に考えてやっぱり厳しいと思います。

だからこそ僕自身がこの芸術祭を実際に、こういう形でやるにしても、非常に苦しかった。色々考えたし、困りました。今、本当にこんなことをやっていていいのだろうかということを考えました。そのことの意味は正面に捉えないといけない。良い面もあるんだからといって、そっちに行ってしまうとどんどん狭くなっていってしまう。聖域(サンクチュアリ)を作って、自分でそちらへ行って、やがて保護される対象になって、滅んでいく、そういうイメージが見えるので、やはり違う、と思います。

こういうカタストロフというか厳しい状況と、芸術というものがまつわる問題系の中で、有名な言葉があります。アドルノというユダヤ系のドイツ人の哲学者の言葉です。

アウシュビッツの後に詩を書くことは野蛮である。(テオドール・アドルノ)

アドルノが書いた本の中に出てくる一節なんですけど、やっぱり非常に厳しく突きつけられていることだと僕は思います。ただ残念なことに僕はアドルノやアウシュビッツに関して話ができるだけの力がありません。だから今回はアドルノの話はしないのですが、ただ同じ問題系にはあると思います。

以上のようなことから総合的に見てというか、一般的に言って、少なくとも災害や緊急事態と芸術は相性が悪いです。これを、僕はまずスタート地点を置きます。

つまり、芸術は今、要らない。

これが僕のこの話のスタート地点です。ここから、あと40分くらいで話を展開していきます。このスタート地点は、非常にきついです。非常にきつい状態です、僕は今。うまく話が進められなかったら、大変なことになります。とりあえずまず、このスタート地点で窒息してしまう前に、少し空気穴を開けます。そのために、もう少しこの場所を詳しく見ていきます。

最初に言った「美術館は今、軒並み閉まってます」という話です。あれは実は、ちょっと突けば空気穴くらいは開けることができます。そもそもの美術館の目的を考えてみます。ウィキペディアにも載ってますが、もとは独立行政法人国立美術館法という法律として美術館の目的として規定されています。国立の美術館についての法律ですが、民間の美術館もほぼ同じだと言っていいと思います。

第三条 独立行政法人国立美術館(以下「国立美術館」という。)は、美術館を設置して、美術(映画を含む。以下同じ。)に関する作品その他の資料を収集し、保管して公衆の観覧に供するとともに、これに関連する調査及び研究並びに教育及び普及の事業等を行うことにより、芸術その他の文化の振興を図ることを目的とする。(独立行政法人国立美術館法

美術館の目的は、まず大きく3つあります。作品を収集すること、保管すること、公衆の閲覧に供することです。そこに付け加えるとすれば調査・研究・教育・普及です。「美術館が閉まってます」という事態はこのうち「公衆の観覧に供する」という展示に当たる部分の閉鎖を意味しています。ほかはどうでしょうか。収集はどうか。僕は美術館の業務にそれほど詳しくありませんが、この今の世界的な状況では収集も難しいかもしれません。休んでいるかもしれません。

でも、確実に言えることとして、保管はしているはずです。「コロナで休んでいたので、絵にカビが生えました」ということは無いでしょう。教育や普及については、ネットを通じて新たに実施されたりして、従来以上に活発だと言えるかもしれません。つまり美術館は「休館」はしていますが、完全に停止しているわけではありません。生きています。これでちょっと空気穴を開けることができます。少し息をつけます。ここまでが前半部分です。

0.3 乾いた場所からぬかるんだ場所へ

後半を始めます。僕はもうひとつ、印象的に記憶していることがあります。東北大震災の年の4月。つまり3.11の一ヶ月後ぐらいのことです。ただ、これは記憶の中だけで、今回資料を見つけることができませんでした。今は、僕の記憶だけで話します。

或る著名な美術批評家の方が芸術大学の大学院長をやっておられて、その入学式でお話をされました。そこで言われていたのが「震災直後の今は、芸術にできることはない。ただ、もう少し時間が経てば、大事な役割がある」という言い方だったと記憶しています。記憶に曖昧なところがあるのでお名前は出しません。当時僕がその話を聞いて感じたことは「誠実な態度」だということでした。当時の状況で「いや、今こそ芸術にはやることあるんだ!」という話であれば勢いだけで不誠実だと感じたと思います。震災直後の雰囲気のなか、だからといって「何も出来ない」では済ませないギリギリの誠実さです。

ただ、これは、安定した議論だなと、今なら僕は思います。乾いた場所で、乾いたもの、乾いた粘土細工を使って議論した結果、そうなるという印象を受けます。それは前半で話した、美術館の展示が閉まっていることや、アドルノの言葉、被災地ではアートは迷惑なんだということなど、全部含めてですが、乾いた感じがします。乾いたというのは、感情的でないという意味とはちょっと違っていて、もう出来上がっている、もう形が変わらなくなっている、そういうものをどう組み合わせるかという議論の印象を受けます。そこで、ここからの話はぬかるませていきます。考えるという場所をぬかるんだ場所にしていきます。

前半は、芸術の側、アートの側から僕は喋っていました。芸術の側から災害や緊急事態に対して見ていきました。芸術というのは災害において何ができるのか、という順番です。芸術というスコープから災害を見るとどうなるか、といったことです。今度は、芸術というスコープを外して、災害のときになにかが起こっているところに立って、そこから逆に芸術の方を見ていこうと思います。

印象に残っていることが、いくつか浮かびます。今回の新型コロナウイルス関連でいうと、イタリアの看護師連盟が作った2分間の動画が印象的でした。YouTubeにあります

この動画自体はイタリア語なので内容の理解はできなかったのですが(文章化の際に探したところ英語版がありました)、それを報道したニュースを読んでイタリアの状況を知りました。本当にこういう状態なんだとを思いました。概要欄に動画の説明があって、グーグル翻訳をかければ読めます。

もう時間はない。患者が入院できるベッドはもうありません。私たちは職場で個人用保護具を使用することを余儀なくされています。それらは希少であり、多くの状況で利用可能なものは適切ではないためです。私たちは常に危険な状況にあります。毎日ウイルスに感染する可能性があることを意識し、ウイルスを自宅に持ち込むことを常に恐れています。長く疲れるシフト作業が終了するまで、泣く時間がありません。尊厳のない死を観察します。(略)病院や医療専門家が必要です。今、明日じゃない。…
とてもショックを受けました。2020年という現代において、こういう状況になったんだと思いました。この動画のニュースから僕は今回の新型コロナウイルスの感染についての色々な判断を変えていったと思います。

もうひとつ、災害で思い浮かぶ事例があります。東日本大震災の時に、常磐道の水戸インターチェンジから那珂インターチェンジのあたりで約150メートルにわたって崩落した区間があったのですが、わずか6日で元通りになったというニュースです。それが世界のメディアにニュースで流れ、すごく驚かれた。この修復に関してのインタビューが「Car Watch」というウェブサイトに取材記事としてまとめられています(「【特別企画】東日本大震災から1年 世界が驚愕した日本の高速道路」)。

実は僕は、この「道路が直った」という出来事を、自衛隊が特殊な重機を使って修復したのだと思っていました。今回、上記の記事を読んではじめて知ったのですが、実は普通にNEXCO東日本と施工業者が修復しています。震災の6日後、絶望的な情報ばかりが流れていたあの時期に「道路直せました」というニュースが入ってきて、僕自身、勇気づけられたのを覚えています。

これらの事例から芸術へと向かってみようと思います。まず、なぜ僕はこの2つの事例が気になったんだろうか。考えてみると、端的に心を動かされたからだと思います。イタリアの看護師の仕事ぶりや道路工事の人達の仕事ぶりに心を動かされました。それが何よりあると思っています。ただここから直接、看護師や工事業者が、芸術を成したのだと言ってしまうと、これは乱暴です。ただ、人の心を動かすような何かは発生したのは確かです。そして、それがどこかで芸術と通じる面があるのではないかとは推測できます。

次に、このことと芸術家の芸術っていうものは、どういう風に関係してるんだろうかと考えました。前半で扱っていた芸術、美術館にある芸術作品が芸術である、というイメージ自体が、元々さっきも言ったように、乾燥した場所というか、安定した場所での芸術のイメージですが、ぬかるんだ場所では、もう少し芸術って違う様相を見せるのではないかと思っています。

ここで、一つ補助線を引きます。僕が問題にしているのは、平常時と災害時、あるいは平常時と異常時という2つの状態を問題にしています。そうすると看護師や道路工事の人たちがやってることがもう少し見えてきます。

彼らの平常時の仕事の多くは「いちいち考えなくても手が動く」ことによって構成されています。看護師が採血する時に「私は一体なぜ看護師になったのだろうか」とか「そもそも看護とはなにか」とか「私がやっている行為にどんな意味があるのか」といったことは考えないと思います。考えるとミスが出るので、優秀な人であればあるほど、そんなことは考えずに手が勝手に動く。そういう風に普段は仕事をされているはずです。可能な限り考えずに体が動くように訓練している。

もちろん「考えなくてもできる職業」ではありません。「考えなくてもできる領域で作業をしつつ、考えなくてはならないこともやっている」ということです。考えなくてもよい職業と考えなくてはいけない職業に二分できるわけではありません。

見るべきポイントは、「考えなくていい」というのが一体何を考えなくていいのかということです。つまり、平常時には自らの仕事の前提を問わなくていいということです。平常時は、ある前提の上で作業、仕事が構築されている。その前提というのは、理念的には、看護や道路工事という仕事そのものに「外的な存在理由」が与えられていることであり、実務的には、十分なマスクの数があるとか、ベッドに空きがあるとか、ちゃんと土が運び込まれるとか、そういう当たり前の土台のことです。そのことは「問われない」ことによって前提たり得ています。

異常事態になるとその前提、土台が欠けたり崩れたりします。「なぜこの仕事をこの危険な難しい状況でやらねばならないのか」といった平常時であれば意識することがなかった、前提への疑問が立ち上がってきます。その状態で彼らは仕事をしなければいけなくなります。「考えなくても体が動く」というだけでは仕事が止まってしまう。「考えなくても体が動く」ためには土台がなくてはならないからです。

具体的には、なぜ看護という仕事がこの世にあるのか、なぜそれを私がしなければいけないのか、危険にさらされても私がしようと思うのか、なぜ道路を24時間体制で直さなければいけないのか、通常は作業手順を決めて書類が作られ、その書類に則って仕事をしていたのが、現場に担当者が集まって現場で検討してあとから書類を作るという手順を逆転させてまでしてどうしてやるのか、そんなことをしてまで、といった疑問が立ち上がる場所です。この場所は、職業全体としてもあるし、個人としてもあると思います。

例えば、看護師になろうと決めた時などにそういう領域に触れていると思います。その職業の本質的な領域、その仕事をやりたいと思う自分の本質的な領域です。新人が、仕事を始めた当初、覚えなきゃいけないことが沢山あってなかなかうまく出来ない。考えずに体が動くという状態ではない。考えながらやっていかないといけないけど、うまくできない。失敗してしまう。そういう時にも、自分がなぜこれをやっているのかという領域に頻繁に触れます。そういうことを繰り返しながら、そのうちできるようになっていく。それが習熟していくっていうことだと思います。

もちろん、そもそもの自分の思いとか職業の原点みたいなものに、全く触れなくなるかというとそんなことはなくて、ベテランの方でも、何かの折に、そういうことは考えると思います。ただ、その頻度は、それほど高くない。「自分はなんでこんなことをやっているんだ」といった問に日々さらされるというようなことはありません。

ここから考えてみると、僕が心を動かされたのは、前提を問い問われながら仕事を遂行しているという状態に対してではないかと推測できます。言葉を変えれば、その仕事に対する矜持や使命感、心意気、そういった類の何かが強く作用しながら仕事するという状況です。

前提を厳しく問い、前提を捉え直しつつ自らの仕事をすることが、結果として、その仕事を目の当たりにした側に、世界がそれまでとは違って見えるようなことを生じさせた。亀裂が入った前提から新しい世界のあり方が垣間見えたことに僕は心を動かされたと言えると思います。

さて、この前提や土台という観点から芸術を見ていきます。

人々の心を動かすという事象がある。それがどこに起因するのか。その一つの類推として、平常時には意識されない、考えなくてもよい領域に埋められている、前提、土台に厳しく直面しつつ、前提や土台を組み替えていくことで何かが成される、そういったことが要素として挙げられるのではないか。

「こんなことをして何になるのか」という疑問は、芸術を成そうとする現場で必ず出てくる問題だと思います。「音楽ってそもそもなんなのか」といった「そもそも論」に頻繁にさらされると思います。これは、どんな芸術分野でもそうだと思います。もちろん、他の仕事はそういうことはないわけではなくて、他の仕事にも「そもそも論」は、当然あるし、そこに度々還っていくのだけれど、芸術との違いを言うとしたら、濃度の高さです。

芸術では、しょっちゅうある。芸術では、とても頻繁に「こんなことをして何になるのか」という問が浮かんでしまう。自分が自分に対して、問い問われます。

芸術においてこの問いの答えは、外的には与えられにくいものです。芸術はこういうものだ、芸術をやることにはこんな意味があるのだということを、外的に与えてもらいにくい。自分でなんとかしなければならない。「こんなことをして何になるのか」「これは一体何なんだろうか」「こんなことに意味があるのか」「なにかの役に立つのか」「やってていいのか」「間違ってないか」といったことを常々、自分でひたすら問うていくという側面が、芸術にはあると思います。

確かさが外的に与えられない。前提が希薄である。頼れるものがない。寄る辺がない。

これはすごくぬかるんでいる場所の特徴というか、「ぬかるんでいる」という言葉の意味そのものだと思います。芸術はぬかるんだ場所で成される。

0.4 改めて、芸術は不要不急か

ここから、この話の最初にぐるぐるぐるっと巻き戻ります。

最初に設定したタイトル「芸術は不要不急なのだろうか」です。不要不急かどうかというのは簡単に言えば「それ今、要る?」です。要るのか要らないのか、しかも、それ今? という問いです。ぬかるんだ場所としての芸術をイメージした上で、僕が今この問いに答えるとしたらこうなります。

「要るか要らないかというのは、もっともな疑問だが、その問は、今に限らず、ずっと自分から自分に問い問われ続けている」と。

むしろ日常的に「要るか要らないか」という問いを問い続け、問われ続けてきた、そのこと自体の専門としての側面が芸術にはある。

ここまで話をしてたどり着いた芸術というのは、最初に見た美術館で展示されてる芸術とはちょっと違ったイメージをもっています。正確に言うと美術館に展示されてる芸術は、ものすごく長いプロセスを経た、最後の、もう作家の手から離れた作品が展示されているわけです。そういった「美術館の作品がすなわち芸術である」とする視点は、乾いた場所に居る(例えば鑑賞者の)視点としては成立しますが、作家やピアニスト、画家が、作品を生み出そうと日々自分の前提を問い続けているぬかるんだ場所の視点が抜け落ちています。

このぬかるんだ場所では、必ずしも芸術家だけが芸術を成すわけではありません。災害時や異常事態や緊急事態においては、平常時は前提を問う必要性が低い仕事でも、前提を問わざるを得ない状況、ぬかるんだ場所に置かれます。ぬかるんだ場所での仕事、それを芸術的と呼ぶならば「芸術的なもの」はむしろ、緊急時の今、溢れているとも言えます。

大谷 隆
2020年5月7日公開

(テキスト化協力 山本明日香)