無事公演も終わったようで、少し書いてみる。
「月と太陽ともぐら」プロデュースユニットSHIPPO
暗い話である。
この暗さはどこから来るのか。ジョージ・オーウェルの『1984年』を髣髴とさせるけれど、根本的に違っているのは、3人の登場人物は自らの置かれている立場そのものに対して、なんら反逆するわけでもなく、それを企てることすらできない。
主人公たちを殴り、蹴り、閉じ込め、働かせる側にいるだろう何かは、この舞台ではそれ自体として登場しない。ただ、殴られ、蹴られ、閉じ込められ、働かされた主人公たちのリアクションからその存在を伺うのみだ。
この「存在」は、具体的に「もぐら」を殴りつける「誰か」を指しているのではなく、そういった「誰か」がそういった行為をすることが当然であるという認識世界のことで、「構造」と言い換えてもいい。一貫して主人公たちは、その構造に対して従属し続ける。
物語として描き出されているのは、その構造への従属の中で、わずかな光としてうごめく友情や愛情といったものなのだけれど、もう少し、この「構造」を見てみる。
管理社会というディストピアを描いた『1984年』では、それ自体が何であるかは不明だとしても、「ビッグブラザー」という象徴としては明確な〈対象〉があった。
しかし「もぐら」ではその〈対象〉すら見いだせない。〈管理〉の本体すらも遠くにかすんでいる。構造そのものが可視化できないぐらい圧倒的な空気として世界に充満している。
これが「〈現代〉の日本」を表象している、と言ってしまえれば話は早いのだけれど、それでは早計だ、と僕は思う。
なぜなら、この暗い圧倒的な抑圧状況が、その〈現代〉の日本において、週末に1500円で飲み物片手に観れてしまうからだ。逆に言えば、脚本家はこの暗黒世界をファンタジックな装いまでまとわせて現出させることができたからだ。
構造の中に居てはできないことである。
それを描かれた物語として観る僕も、この暗さを相対化し得た位置にいる。つまり、そこは明るい。
戦争と事故と災害が繰り返され、そこから生じる社会への打撃が局所的に無数の悲劇を生み続ける。その悲劇に立ち上がる若い力は、日々の生活に摩滅していく。そういったことが白昼堂々と行われている。それらすべてが世界に流通してしまう。そういった明るさだ。特定の光源を持たない、ただ明るいとしか言い得ない茫漠とした中に世界が陳列されているコンビニの店内のような。
光源を持たない明るさは、地面に影を生じることができない。行き場のなくなった影は、必然的に人そのものの内部に生じるしかない。〈現代〉はそういう場所だと僕は思う。
この作品は、閉ざされた人間内部の闇そのものを劇中の圧倒的な抑圧として〈構造〉に結実している。反逆の企てすら起こりえないのは、この構造が人間そのものを指しているからだ。どうしようもなく絶対的なモノを求めた結果、完全に閉じた悲劇的な設定でしかそれを見いだせないという〈現代〉の人間の置かれている状況を表している。その絶対的な構造の闇の中での夢想的な人間関係を微細に描き出す。
主人公の「もぐら」が命を助けてくれた男とわずかな友情を通わし初めての酒を飲む時の小さな「はにかみ」、少女と出逢いその頭をなでてやるしぐさ、そこから結果として、どうしようもなく明るい〈外部〉にへも、何かを届かせようとしている。