December 20, 2015

【251】内的な会話を楽しむ。

12日から10日間、澪が外出しているので、だいたい家に一人でいる。僕はほとんど外出もせず、3日に1回ほどスーパーまで歩いて買い物に出て牛乳と玉子など必要最低限のものを買う。食事の時間も寝る時間も起きる時間も規則性を失って、太陽の動きと同期しない。人と会うこともないので、しゃべることもない。



やろうと思っていたこと。たとえば次のゼミの本を読んでレジュメを作るとか、そういうことは半分もできていない。起きている間の時間、外的に見える行動としては、パソコンでダラダラとネットを見ているか、ぼーっとしているか。

でも、じゃぁ、僕にとって、僕はこの期間、無為に過ごしているのかというと、そんな風には思っていない。なぜなら、内的には多くのことが起こっていて、僕はそれを眺め続けている。

こういう感覚は子供の頃からずっとあった。必ずしも一人でいることが好きというわけではなかったけれど、一人でいる時間は割と自覚的に在って、その時はだいたい今と同じような感じでいる。

頭のなかで、誰かに話しかけるような声がする。それを話しているのは紛れも無く僕なのだけど、それを特定の誰かに話しかけているというわけではない。でも確実に誰かに話しかけている口調ではある。誰かが雰囲気として対象化されている場合もあるけれど、それも現実の存在としてのその人というよりは、その人のある瞬間、ある側面といったようなもので、それも話しだして数瞬の後には薄れていって、誰に話しているのかは次第に曖昧になっていく。

声が話す内容は、過去に実際にあったことや過去に感じたこと、その過去は現在にとても近いものもあれば、遠いものもある。過去に実際に誰かが言った言葉についての反論やその時に自分が考えていたことなど止めどない。その声が聞こえるとそれに対してまたその言葉に対する反応として新たな声が続いていく。

声色というか、誰の声かといえば、どれも僕の声だと思うのだけど、僕はそれをすべて僕が喋っているという感じはしていなくて、喋り出しは僕である割合が大きいのだけど、しゃべり続けていくとそのうちそれは僕を離れていく。その声は、僕の意識のデータベースを探りながら、そこから言葉を汲み上げて綴っていく。だから、僕の意識の中にあることを話しているわけで、どう考えても僕の声でしかないのだけれど、その声の対話は、僕の意識の制御を超えて続く。

そういう声たちの対話を僕は聞いている。話されている内容は、当然のことだけど、僕にとって興味深い、気になる、あるいは致命的に突き刺さる内容で、聞くことをやめることは難しく、ただ聞き入っていく。

大学院の頃、初めて買ったパソコンはマッキントッシュで、それにネットで見つけた人工知能のパロディのプログラム、冗談で人工無能と言われていたけれど、それを入れて遊んでいた。あらかじめプログラムされた「人格」、例えば、バック・トゥ・ザ・フューチャーのドクみたいなマッドサイエンティストとか、べらんめぇ口調の江戸っ子オヤジとか、ペラペラの軽いおしゃべりな女子高生とか、そういうのを相手に何か言葉を入力すると、それに対して、その人格が話しそうな応えがチャットみたいに返ってきて、それにまた反応するというふうに仮想人格と会話ができる。

そのプログラムが優れていたのは、その会話の場に複数の人格を同時に居させることができるところで、女子高生の軽いノリにドクがまじめに返したり、オヤジが会話の流れと関係ないところにツッコミを入れたりする。僕が何も入力しなくても、それらの人格の会話は永遠に続いていくから、途中から僕は、自分では何も入力せずに、ただただその会話を眺めているようになった。

時折、くだらない会話の中に突然鋭く真理を見るような、そんな瞬間もあれば、上質のナンセンスな漫才を思わせるやり取りに思わず笑わせられるようなこともあった。けれど、ほとんどの時間はどうしようもない、緩衝材の発泡スチロール玉を詰め込むような会話が続いていた。

その仮想人格たちの会話から何かが得られるというようなことがないことは最初からわかっているし、そもそも、そんなに高度なプログラムでもなくて、もともと子供がおもちゃ代わりに使うような簡易なプログラム言語で、作者も遊びがてら作ったと思われる代物だ。あらかじめ用意された限られた言葉のデータベースをもとに、人格ごとに設定された文末表現や言い回しをただひたすら使い回すだけのものにしか過ぎない。

でも僕はそれを割りと長い期間、ただじっと見て楽しんでいた。なかなか飽きなかった理由は、それが、子供の頃から慣れ親しんだ僕の中での声たちの対話を、グロテスクに露骨に陳腐に具現化しているものだったからだ。自分の中で起こっていることのくだらなさを見せつけられていることに、不思議な快感があった。

僕が、考え事をしている、といった時に僕の中で起こっていることは、つまり、そういうことだ。ソフトでは仮想的な人格として設定されていたものは、僕自身の人格のある側面をその都度切り出したものとして、言葉のデータベースは僕自身の言葉のデータベースを使い、あることを言う時の、それを言おうとする意識は、僕のその瞬間までに生じた意識が使われる。だから、この僕の中の会話は、僕がこれまで生きてきた結果、生じた人格、言葉、意識のすべてを参照可能な状態として行われていく。その分、あの人工無能よりは、会話のバリエーションが増えているし、空虚感も少ないのだけど、結局のところは、より容量が増えただけである。

こういうことを今の僕は必ずしも否定的に捉えているわけではなくて、だからといって肯定的というのとも違って、たぶん必然だと思っている。そうとしか僕は在れないと。ネットをダラダラ見ている時も、それを見て何かプラスになることを得ようとしているのは最初の1、2ページでそのうち、ただ、この内的会話にやるエサを物色しているだけになる。

本を読んでいるときは、もう少し違っていて、その本の中に入ることができ、その時僕の視界はその本の中にしかないから、とても制限された空間にいて、その空間の中で次々に起こってくる出来事、その出来事は一文字とか一行単位で起こるのだけど、それへの対処に自分をすべて使わなくてはならない。そのため、内的会話が現れるような無重力な時間は消滅して、ただ出来事に追われていく。本を読んでいる時の時間の流れは、本の中にいる僕の体験の時間の流れとなる。それはあえて言えば、とても忙しいというか充実しているというか、そういう時間としてあって、こういう時に僕はどうやら、外的には集中している状態になり、体を維持する機能は限界まで下がっていて、お腹が減らなかったり、眠くならなかったりする。

この数日間、時々本を読んだりもしていて、その高密度な体験と、多くの時間を費やしている考え事の低密度な傍観とが僕に訪れている。

もしも、本を読んでいる時のような高密度で圧倒的な出来事の連続放出と同じような圧力が、考え事の会話世界への侵食が進むと、会話の声の人格がより際立った存在感を持ち、その声の主は一言毎に生まれ消えていくのではなく、継続的に意識存在として存在するようになるだろう。そうして、その内的な会話が僕にとって体験として定着するぐらいに輪郭を持てば、外的で物理的な、つまり、ごく普通の体験と、その内的で想像的な体験との境がなくなるはずだ。

その内的な会話世界に圧力を与えるのは、おそらく外的な現実の圧力で、たとえば仕事だったり人間関係だったりといったものへの悩みが恒常的に自分にのしかかって来るようなときに、それが内的世界を圧迫していくのだろう。

今の、ほとんど何も生み出さず、反面なんら制限がない生活スタイルを僕がとっているのは、その外的な圧力を取り除くためになんとか細い通路を辿った結果で、それによって、僕は内的会話が現実化することを防いでいるのではないかと思う。この自覚が、僕を否定的な気分でもなく、肯定的な気分でもなく、ただ必然的な気分にさせている正体だ。



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