December 23, 2015

【252】集団での会話が苦手なのは、集団との対話が難しいだけ。

僕にはある程度、社会不適合な傾向があると思います。

たとえば、人前でしゃべることが苦手で、社交的な場で自体にあまり行きたいと思いません。行っても良いことはほとんどないと思ってしまいます。常識をわきまえないようなところも多分にあります。



こういう場合、現在の日本社会ではだいたい「コミュニケーション能力」の不足と判断されます。

なぜコミュニケーション能力が求められるのか?
芦田宏直 @jai_an 氏の「なぜ、人物重視にまつわるコミュニケーション能力必要論が声高に叫ばれるのか?」
とか、
「コミュニケーション能力」とはどうやって測るのか?
渡邊芳之先生「学士力,社会人基礎力,コミュニケーション力」講演会記録
といった議論もあって「そもそもコミュニケーション能力ってなんなのか」という話をしないといけない気もするのですが、ひとまずこの文章においては、「コミュニケーション能力」という言葉がある一定社会で流通し、それが必要だ、あるいは不要だ、そんなものは無い、といったようなことを表現することで何かしらを言おうとする人がいる、という意味で、「コミュニケーション能力」というものが「言語として存在する」ということを前提に、今は話を進めます。

僕は、悲観的か楽観的かはともかく、少なくとも「社会」という方向から見た場合には、「コミュニケーション能力」が一般的なレベルよりも不足していると見られるのだろうなぁと思っていました。「コミュニケーション能力」が不足しているから、社会において、人前で話すのがうまくできなかったり、社交的な場で何をしていいのかわからなくなるのだ、と解釈されるのだと。

でも、ほんとうにそうなのかな、と思うのです。

実は僕は、一対一の対話は好きです。気の合う人とだけではなく、初対面の人でも話をすること自体は好きです。多少の時間が必要というか、間合いの詰め方はゆっくりなんですが、それでも普通に出会って会話するぐらいの時間があれば、特に苦手意識もなく話ができます。そういう風にして、機会としては少ない回数でとても親しくなるということは、珍しくありません。

むしろ、初対面の人と一対一で話をしてその人とどれぐらい親しくなるかという「度合い」では「社会平均(そんなものが測れるのかどうかわかりませんが)」を上回っているのじゃないかとすら思います。

じゃあなんで?となるのですが、これまで僕が苦手と感じた状況を思い浮かべると共通するものがあることがわかります。

個人相手であればいいのだけど、集団になっていると途端に苦手意識がでる。のです。

具体的には「〇〇(集団や組織)の誰々です」という言われ方をすると、警戒心が出ます。この理由は、その人が所属している集団に存在するだろう考え方、前提、話法といった、集団として共通化されているものを僕が共有していないことから来るのだと思います。

すぐに思いつくのは「集団としてのタブー」を知らないということですが、逆に、その集団では良いとされているものを知らない、ということのほうが実際には苦手意識に作用することが多い気がします。

あるいは、話法。これは言い方、言い回しといったようなものですが、その言い回しをする理由がわからない場合も結構あります。その言葉の意味自体は理解できても、そういう言い回しが理解できないというパターンです。まず僕は「この人達は特殊な言い方をするなぁ」と感じて、意味としては同意できても、言い方に同意できるだけの材料がなくて、結果、その言い方ではもちろん、僕自身の言い方でも話をすることが難しくなります。

こういった前提情報の欠如は対個人でもあるのですが、一対一の対話の場合は、そういった前提情報の欠如は、僕と相手で対象に存在します。僕も相手も、お互いの前提が違うことを認めながら話をせざるを得ません。この場合は、多少時間がかかっても、僕と相手との様々な違いが存在することを踏まえたうえで会話ができます。前提がお互いに相対化されます。それが集団に対する場合は、非対称なものとして存在し、かつ絶対的な存在であるかのような気分になります。

ということを考えた結果、僕は意識的に、状況的に可能であれば以下の様なやり方をするようになりました。

基本的には、集団に対してのアプローチをやめて、個人として応じます。集団と出会うのではなくて、個人と出会って、その人がたまたま何かに所属している、という感じになります。この場合、集団で共有されているだろう前提は、その一対一の対話において、外部的な情報として取り扱うことになります。集団に存在する前提を共有する努力を僕が勝手に負担するのではなくて、僕にとって単に未知の情報として取り扱います。

ここで集団というのは二人以上の人の集まりを指していて、最小単位で言えば、例えば「夫婦」で、しかも同じ場に同時にその二人が居たとしても、僕は別々に出会い、対話するようにしています。

集団として出会っていないので、その人以外のその集団の人とは、たとえ集団の構成員としてその存在を知っていても、まだ出会っていないということになり、改めて個人として出会わなければなりません。非効率といえば非効率ですが、他者との出会いや対話に効率を持ち込む必要を感じないので、それでいいんじゃないかと思います。

他者との出会いに効率を求めないということは、そもそも「社交的な場」といった「場」そのものへの見方が変わります。単に、知らない人がたくさんいるだけで、もしもその中の誰かと出会うこと、つまり一対一での対話ができたのであれば、それは幸運なことで、だれとも出会わなくてもたいした不都合はありません。

「社交」を目的としないような一般的な「場」も、この文脈では「集団」と同じように扱えます。その瞬間に構成されている仮想的な集団というような取り扱いです。お互いに知らない人ばかりの場というような場合、前提されるのは「一般常識」になるのですが、ここでいう「常識」は、そこで話されていることそのものによって生成し変化していくもので、かならずしも最初から固定的な強さを持ったものではなく、またそのプロセス自体が隠されていないので、落とし穴にハマる可能性は低くなります。

僕はこんなふうに他者と一対一で出会い対話することだけをやるようになってから、初めての場でもそれほど困らなくなりました。

一対一の対話自体をうまくやるコツ?は、その対話がたとえ不調に終わったとしても、それはその二人の対話が不調に終わっただけで、必ずしも一方の「能力不足」には還元できない、と、強気で思ってしまうことです。ただ話が合わなかったと。それぐらいの強度で、自分が話したい、あるいは聞きたいことについてだけ対話する、というようなことで僕は十分だと思っています。

この時の話の内容は「コミュニケーション」のうまさとは無関係で、ただ、自分自身に対する深さを持った視点があれば、非常識な内容、話法でもどうにかなります。うまくいえない感じは常につきまといますが、「伝わるように」と改変しようとする前に、自分としてなるべく「近い」表現、自分の深さに潜ったままで言語を探す方に注力します。探している間の沈黙の回避もやりません。沈黙も一つの話法であり言語の一部だと思っています。

長々と書いてみて思うのは、こんなのは人として、「コミュニケーション」として、当たり前のことで、考えてやるようなことじゃないという気がしてきました。それをわざわざ「考えて」やらないといけないところに、僕の不適合の根源がある気がします。が、それはもうどうしようもないことかも・・・。


Share: