「言葉にならない」という言葉をよく聞く。この言葉自体については、僕は、あぁそうだなぁと思う。言葉にならないと思うことは僕にもたくさんある。
でもこの「言葉にならない」という言葉から、「だから言葉には意味が無い」「だから言葉は重要でない」「だから言葉を信じてはいけない」というような思考に飛びつく人を見ると、僕は単純にがっかりする。
けんちゃんが鋭く指摘することだけど、「言葉にならない」という言葉で、「言葉にならない」という状況を表し、その「言葉にならない」という状況は伝わっているわけだから、言葉としては十分なのだ。「言葉にならない、ってそれ言葉にしてるじゃん!」ってやつだ。言葉というものを前提にしなければ「言葉にならない」とは言えないわけで、最初から「言葉」の深度の中にいる。
こういうふうに言葉について言葉で何かを表そうとすると、どこか詭弁じみた話になってくる。人によっては屁理屈だととるかもしれない。だからできるだけ上手く書こうと思うのだけど、なかなか上手く書けない。
これをとてもうまく説いているのが吉本隆明で「言葉の幹と根は沈黙である」という言葉で表している。言葉は外側に現れたもので、その言葉自体が現れるまでの幹と根がある。本来的な意味で言葉になっていない沈黙の領域を通ってきていると言ってもいい。その沈黙の領域を含めてしか「言葉」は言葉として現れない。だから、その沈黙の領域への入り口として「言葉」は現れていると見ればいい。
難しいのはこの沈黙の領域とは一体何か、そこでどういうことが起こっているのか、ということで、これについては人類はまだ「それほどうまくは言葉にできていない」のではないかと僕は思う。
この領域を通って言葉以外で何かしらをなそうという人もいて、例えば、絵だったり音楽だったりする。絵や音楽は言葉とは違う表現で、本当はそれらを「言葉以外」とひとくくりにできるものではなくて、絵も、音楽もそれ自体で一つの世界を作るものだから、他の何かに置き換えることはできない。並置すべきものでも対置すべきものでもない。独自にそういうものとしてある。
僕が滑稽だと思うのは、「言葉は重要ではない」という人がこの「言葉にならない」沈黙の領域について、別の「比喩」で言い換えて満足していることで、比喩である以上は言葉なのだから、一体何をやっているのだろうかと思ってしまう。言葉というものの底知れなさに怯えたからといって、目を閉じてやり過ごそうとするのではなく、ただそういうものとして見ればいい。
言葉というものがある面で理性的論理的なイメージをまとっていることから、「いわく言いがたい」という感覚から見た場合に、攻撃対象にしやすいということはあると思う。しかし、言葉というものを理性的論理的に捉えること自体が狭い捉え方で、言葉というのはもっとぞっとするほど厄介で、その厄介さを誕生から今まで保ち続けているところに僕は惹きつけられる。なんの言い換えも必要なく、言葉は僕の全身全霊に迫ってくる。