July 28, 2016

【356】大学時代と今。

僕の大学時代の思い出はあまりいいものではない。

もちろん楽しいこともあったし、多くの人との出会いもあった。学んだこともあった。それでも記憶の中では、僕の大学は薄暗いところに沈んでいる。大学院も含めれば8年ほどそこにいて、結局は破綻した。そういう結末も大きく影響しているのかもしれない。

いずれにせよ、だから大学というところはダメなところなのだ、ということを言いたいのではなくて、僕のそこでの経験に対して、僕自身がずっと薄暗さを感じていて、そのことにずっと引っかかり続けていた。盛大に無駄な回り道をしてしまったのではないかと。

2年ほど前にまるネコ堂ゼミという名前で講読ゼミを始めたのは、僕の中の理想というか妄想として、僕自身はそういう体験ができなかったけれど、きっと他の人達は、特に文系の人たちは、集まってただただ真剣に全力で本に向かうという素敵な時間を大学で過ごしたに違いないという思い込みがあったからで、社会人学生として社会学の大学院に通う友達のむっきー(高向くん)に、うらやましいなあと伝えたら「いやいや、ゼミそんなんじゃないですよ。そんなゼミがあったら僕も行きたいです」と言われたことがきっかけだった。

まるネコ堂ゼミは21冊目にを迎えている。どの時間もとても面白く素敵で、どの本も僕の消化器官をゆっくりと通って僕自身に成っていっている。今は幾分勢いを抑えてゆったりと進めているけれど、講読ゼミのこの感じ、この雰囲気はもうしっかり僕の体にしみついていて、いつでも筋力として駆動できる。

1年半ほど前から、友達のなっちゃん(小林直子さん)をきっかけにして、けんちゃん(小林健司さん)とともに「読む・書く・残す探求ゼミ」というのをやっている。この探求ゼミは、毎回僕は僕の全部を使うことになって、恐ろしくスリリングで面白い。ただただ「読むということ」「書くということ」に向かう時間。今考えれば、よくまぁほんとにこんなことができたなぁと驚くばかりである。今年の6月には東京でやることもできた。さらに7月の参院選の「投票日に日本国憲法と改正草案をバカ丁寧に読む会」につながって翼を広げつつある。

まるネコ堂ゼミや「読む・書く・残す探求ゼミ」でしつこくやってきたことは、今年の4月1日に発刊した雑誌『言語』として、今まさにどうにか文字にしようと悪戦苦闘している。この雑誌『言語』もけんちゃんとともに作っている。『言語』は、けんちゃんは時々そうなのだけれど「行動そのものとしてのけんちゃん」がいなければ、なかったことだ。探求ゼミも『言語』の発行も、自分にとってもうこれ以上後退することができないギリギリのところで踏みとどまるようなことだ。

僕にとって大学とはこういうことができる場であってほしかった。そこになんとか踏みとどまって、自分の全部を使ってやるようなこと、膨大な量の自分の何かを使って、ホンの少しずつ進むこと、そういうことができる場所であってほしかった。現実に過ごした僕の大学の8年は、そういうことができなかった。やろうとしなかった。それが薄暗さとなった。後悔といえば後悔のようにも思えるけれど、ただその時は僕はそうとしかできなかったのだし、それが不幸だとは思っていない。

こうして書いてきた今、もはやそれが大学であるかどうかはどうでもいいと思っている。そうあってほしいという遠い場所ではなく、ただ、こうだという場所にいればいいと実感している。そこで一緒に読んだり書いたり話したり聞いたり居たり居なかったりするすべての人にただ感謝がある。

こういったことに隣で、何度も喧嘩をしながら一緒に歩いてくれたのがパートナーの澪で、澪がいなければ全ては違っていた。今こうであることを僕はとてもありがたいと思っている。



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