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January 23, 2026

車が来る。

来週、車が納車される。

購入の手配は車種や条件の検討まですべて隆がやってくれてた。買うのは中古車。

車屋さんは近所の知り合いに紹介してもらった。

そうか、知り合いの知り合いから車を買うのか。それは、ちょっと嬉しい。


やり取りも隆に任せていたが、入金前の確認時に車屋さんにうちも会えた。めっちゃオシャレなおじさんだった。

色がいいんですよとか、これがいいと思ったんですよとか、機能も含めて説明しながら見せてくれた。

人の車までこんなに楽しそうに探せるんだなと、びっくりした。うちは車好きじゃないからひとりでは楽しめない。色は濃い緑で、まるネコ堂の車の色としてはオシャレ過ぎるくらいだ。

なんか、一度でも会えていてよかった。この車とのかかわりが変わった気がする。

August 28, 2025

描いた絵の保管の問題。

 別館に置きっぱになっているもろもろを掃除していた。


以前描いた絵、処分しようかどうしようか考える。


そんなことをしていてなんとなくわかってきたけど、絵を描いたものでも本の形になってたりファイルにバインドしてあると置いておこうかなと思える。


一枚の画用紙に描いたようなものは、描いたときに力をかけているとかいないとか多少影響するけど、捨ててもいいんじゃないかという気分になる。むしろ捨てたらすっきりするけどなあ•••みたいな。

キャンバスでも同じで、一枚一枚と思ってしまうと、処分したくなってくる。


同じ大きさの紙が何枚かあってちゃんと本にしたり、ファイルしたり束ねてあると、残そうという気になる。

いろんな大きさの紙がデコボコとあって雑然と置いてると角が曲がってきたりするし、紙が大きいとそもそもどこにキレイに収納していいのかわからなくなって、嫌になってくる。収納能力がない。


ちなみに本になっていると多少大きさが違っても問題を感じない。



だったら、そもそも本になっているものに描けばいいじゃないかと考えてみたけど、描くのは一枚の紙に描きたくなってしまう。


スケッチブックやクロッキー帳は使ってみたけど、あまり上手くいかなくてそれはスケッチやクロッキーをしないからかもしれない。



最近、A3やA5のコピー用紙に書くようになって、沢山描くようになった。それをポンチで穴あけしてファイルに閉じる。

気が進むようになったのは、紙が好みとかそういうことだけでなく、残し方まで込みで成立しているからだったのかもしれない。


絵本を作ると残しておけるだろうし、たまには出して来て読むと思う。絵本棚にいつも置いとける。

April 9, 2025

3月末日~4月の頭くらい。

 bloggerの編集画面はpovoの低速でもつながるので外にいるときでもかけることに気づいた。

出産前に終わらせようと始めたちょっと大きな歯科治療。1週間前までは十分終わるつもりでいたのに今はどうなることかと思っている。
今回を入れてあと3回。車で送迎してもらった。

今年で解散するあらたの保育園の保護者会で会計をしている。年末のつわりから自分ではあまりなにもできなくなったが、会長をはじめいろいろ他の人がやってくれた。会計の締めも、ちょっと産前に無理だろうと思っていたら、いろいろ会長が考えてくれてうちでできる作業以外のことを動いてくれることになり持ち越さずに終えれそう。頼もしい。ありがたい。
会は持ち回り制だったのを、4年ほど前に解散の話が最初に出てから有志になり何人かで続けて来た。解散には責任も感じるが、私自身来年はもうできないと感じた。大したことは出来なかったが、ほんとにいろいろ勉強になった。知り合いもできた。

子どもを同じような染色体異常で亡くした方がたまたま知り合いにいた。うちはまだ確定はしてないけど。
聞く前からそうでないかと思っていたらそうだった。一緒にいれる時間を楽しんでとか、大事にとかそんなことをちらっと言っていた気がする。経験者の言葉はなんだか違うというか、そんなに経験至上主義にはなりたくないのだけど、そうやって近い終わりがあるかもしれないものとして捉えられる人はそうそうない。無事な誕生を願うこともそれはそれでそういう気持ちもあるけれど、多分現実的になんともなしにというのは難しい面もあるから、それだけ聞いてたり考えたりしても落ち着かない気持ちがいくらかあるんだと思う。 
胎動が弱い子だと前々からなんとなく思っていたけど羊水が多いせいらしい。エコーの画面で前の健診からほんとにぷかぷかと羊水に浮かんでるなぁという感じになっている。あらたやようの時はえらい狭いところにいるなと思いながら見ていた。

胎動を大きく感じる日があって、それを言うと「よくなったのかな」とあらたが言っていた。それは難しいと説明した。でもその日はうちも、ほんとは元気なんじゃないかなとやっぱり思ったりしていた。
確か3月27日、隆の発案で名前をつけた。あらたは考えていたらしく「とら」に決まった。
漢字だと言っていたけど「虎」なのか「寅」なのか、どっちかのはずだけどまだ聞けていない。

毎日手帳を見るのが習慣化しつつあったのに、際全然見れなくなった。予定の概念が変わってどうつかっていいのかわからない。以前のように使っても仕方ない。ちょっと考え方を変える良い機会だと思う。

March 29, 2025

2025年3月、5月の「みんなで作って食べる」中止のお知らせ。

お申込みいただいた方には先にご連絡いたしましたが、3月30日のうどん作り、5月18日のアイスクリーム作りをともに中止にいたします。

申込んでもらった方や検討くださって方には申し訳ないですが、連絡した方にはご理解いただきありがたく思いました。
また今回初めてボランティアで一緒にやってくださる方も来てくれる予定でしたが、急な中止にもかかわらずまた声をかけてと言ってもらいありがたかったです。

最近まで特に異常はないと聞いていた妊娠経過ですが、子どもにいろいろと異常が見つかり、おそらくその関係で羊水も増えていて張りを感じることが多くなってしまいました。
みんなで作って食べるは、準備や当日結構バタバタと体力仕事の一日になりますので(普段はそれを含めての楽しみですが・・・)ただでさえ子どもの状況がよくないのに破水や早産につながったり疲れをためてしまうことを不安に思い中止を決めました。またいろいろ不安に思うと最後の準備の手も止まってしまってしまうところもありました。

おそらく短期間で開催可能な状況になるとは思えませんので、5月開催を含めて中止といたしました。

最近ははじめてのうどん作りに向けて準備を重ねてきて、一緒に作れるのを楽しみにしてたので私自身も残念です。
また再開できるのを楽しみにしています。

March 28, 2025

受診の行き帰りの電車にて。

転院先の病院の初診があった。

胎児に異常がないと聞いていたけれど、いろいろ異常が見つかり今までの主治医の歯切れの悪さや自分の体調の感じが前の妊娠中と結構違う感覚からいくとものすごく驚く感じがなかった。
でも、そりゃ異常がない方がいいので違和感は「妊娠は毎回違う」という言葉に便乗して、個体差のせいにし、大したことがないことにしたかったんだと思う。

予期はしてたけど、悪くてこの辺だろうと思っていたより悪そうだというところは正直ある。
自分でも今こういう状態にある、とはっきり説明できるほどではない。とにかく、来週も検査がある。

ここまできても異常のない妊娠がうらやましいということは今のところなくて、まだ5か月ほどだけど一緒にいてくれてるこの子がすでに特別で比べても仕方ない。悲しかったり苦しかったりがないわけでもない。
どうやったら楽しくしていけるんだろうか。今後の人生や仕事のことを考える。


次の日午後、なんだかお腹の表面が一部痛くて、それが続くので再度受診にいく。
なんにもないかもしれないけど、そうだとしてそれがわかるだけで全然いい。

張り止めのウテメリンという薬が効いたのか昨日より歩くのが楽。
初診の日は、前の病院に紹介状を取りに行くところから始まり長い1日だった。しかも、内容に誤りがあったからと先日1度取りに行った紹介状の差し替えをとりに行き、わざわざ差し替えを取りに行ったのに新しい病院で内容を確認されたら予定日の記載が間違っていたり、入っていると聞いていたものが入ってなかったりで結局いろいろ問い合わせていた。なんだかがっくり。しんどいのでがっくりが大きい。

そんな諸々の疲れが出たのか張りまくっていた。


今日の診察。エコーで見て特に今どうこうという問題はなく、NSTという胎児のモニターをする。
妊娠7ヶ月でこれをするとは思わなかった。普通は臨月にやるモニター。医師が張っているのを確認。

入院してもいいくらいだけど、子宮頸管は十分あるので上のこどもたちもいるし帰りたいでしょうと医師に言われ帰っている。
でも入院の覚悟はしといた方がいいと思います、と医師。







January 31, 2025

出生前診断をすすめられて考えたこと。

出生前診断を進められて、結局受けないことにした。
今の状況だと育ってくれるならどのみち産むのだし、やったからといってなにかそれで必要な治療をやろうという話でもないらしい。だったら、今回初めて知ったけど羊水検査で10万円以上かかるのはちょっと高額すぎる。

ただ、主治医からも診断を実施しているクリニックの医師からもなんとなく感じたのは、産むにしても検査して診断がつくとしたらそれに越したことはことはないのになという雰囲気。あくまでも雰囲気でしかないので間違っているかもしれない。言葉にするのは「では確定しないままということですね」みたいなこととか、「産むにしてもわかっているなら、産む前に(親が)いろいろ準備ができるので参考にできます」みたいなことだった。

やっぱり参考にするには10万以上は高い。産まれてから対処しよう。今後異常が大きくなればそれはそれで対処しようとそんな感じに思った。

とはいえ、医者としてはわかっていると楽なんじゃないかと憶測はしてしまうし、もしそうだとしたら自分としてもわかっててその上で医者に出産を対応してもらえるならそれは安心だという気はする。
ただ、実際、医者として「わかってた方が安全なので可能性があるなら受けたほうがいいです」とはダイレクトに言っていた覚えはないし、現状問題は私たちが知りたいか、私たちがそれに備えたいかということにあって、異常がみつかって可能性がそれなりにあるのでそれがおすすめされたという感じに進んだ。だから憶測でしかない。

実際どうなんだろうか・・・というのは専門家ではないのでわからないけど、もし医師がなんらかの異常があったときにこの情報があったほうがいいと思うなら、今後保険適応くらいはあってもいいんじゃないのかと思った。

今のところ、妊娠・出産自体がほぼ保険が効かないので、まずはそもそもそれがどうなるかだけど。
妊娠健診は規定回数の受診券がもらえるので正常にいけば無料に近いけど、こうやって異常がでると健診そのものの回数が増えて実費になったり、予定日を過ぎると受診券が足りなくてそれも実費だったり、保険になるならそうなってほしい。
それでも、健診くらいだったら子どもの産まれることの大きさに比べたら、気にせず払う額だけどなかなか10万円は大きい。


お金。そういえば、幸い不妊治療なしで妊娠してきたけれど、もし必要になってたとしたら、子どもはいなかっただろうなということも今回初めて考えた。お金の問題だけじゃないとは思うけど、額的にお金の問題も大きい。








January 25, 2025

久々、夜のブロギング。

久々にあらたとようが寝た後に起き出してパソコンを開いている。つわりが始まってからはそんなこと、やりたくもならなかったし、できる気もしなかったので約三か月ぶりになるか。

できれば明日までに終えたいことを終わらしたいと思っているのにブログを書いていたり、まあダラダラしていて、こういうのも久しぶりで、まあそれはそれでいいかと思う。

今週は久々の妊婦健診にも行き、現状元気だそうでほっとする。
今お世話になっている産婦人科の先生はあらたの時からお世話になっている。その初診の時に隆はエコーの上手さを指摘していた。とはいえ、他の人のエコーをあまりちゃんと受けたことがなかったので自分ではよくわからなかったが、2回ほど出生前診断もしているクリニックに行ってエコーをしてもらうと、比べてみると確かにうまいなと思った。
見てるものが違うのかもしれないけど、今の主治医は自分の探しているものを見つけるのに苦労している感じがなくて、赤ちゃんの角度の問題で今は見えないものは見えないと深追いもしないし、しゃべりながらそんなことをやっている。

12月初旬の健診で、いくつか異常が見つかって、それから出生前診断をすすめられ、そのクリニックに行った。それから、毎回エコー前は緊張する。
その日、というのは改めて今週の健診のことだけど、見れるものは見終わったあと、とりあえずほっとした。幸い最初の異常が見つかって以降、だんだんと正常になってはいる。ただ、一度異常がでているので、まあどうなるかな・・・というのはある。

そんなこんなで、非常にどうしようもない気分になったときもあったけれど、そんな気分に四六時中とらわれているというのもわずか1-2日だったかなぁと思う。全く考えない日もそれはそれでない。

出生前診断のクリニックで「あまり心配ばかりしないように」と言われて、実はそんなことを言われるほどは心配していないかもしれないと思ったりした。つわりがしんどいとか、絵が描きたいとか、ようちゃんやあらちゃんや隆のことや、実際には結構いろんなことを考えている。いろいろ考えながら、「こんなことが自分に降りかからなければよかったのに」とは思わないものなんだなと思ったりして、そういう気分でいらるようになっているのはよかったと思った。

とはいえ大きな出来事で、またなにか考えたことは書くかもしれないし、まだ考えている気はする。


もうちょっとスマートにブログの終わりを結びたいんだけど・・・と思ったら書き終われなくなった。なんの見栄だと思う。べたつかずに終われたらいいんやけどと他人のブログを読みに行って戻ってきた。

March 11, 2024

アラタと夜散歩

アラタが夜の散歩に行きたいというので、二人でフレスコまで行く。コロッケを二つ買って食べながら帰るとうれしそうにしている。

そして、ぼそっと呟く。同じクラスの女の子が「給食の時、アラタと結婚するって言ってた」。

February 14, 2024

明けましておめでとうございます。

大谷美緒です。
数年前から旧正月をお祝いしています。

今年は大晦日から知り合いが泊で来てくれて賑やかなお正月を元気で迎えることができました。新暦のお正月と違い春めいてきているのがとても嬉しいけれど、インフルエンザなどの流行期ではあるので保育園児が二人いると元気なこと自体がとてもありがたく感じます。

正月にはお餅つきも。
様子はこちらで見てもらえます。


12月頃から考えてしばらくは、キャラペイスと絵を描くことを中心にやっていきたいと思いました。それまでは金継ぎや服づくりやと考えていたけど、それはちょっと今は置いとこうと思ってます。
それと、とにかくあらたとようがいて生活している。わかりやすい言葉で言えば子育てをしていることが自分の大きなことだと認識できたのがよかったです。

結局いわゆるやることを絞るみたいな風にはならないのですが、でもやってることの見え方はちょっと変わった気がします。

November 29, 2023

【869】ブログタイトルから「言葉の場所、」を取りました。

美緒が執筆に加わってくれるようになったこともあり、ブログタイトルを「言葉の場所、まるネコ堂」から「まるネコ堂」に変更しました。

ここ数年、まるネコ堂では、毎日、驚くほどの出来事が生成されているのですが、その多くは「言葉」というものでくくられてしまうことが、しっくり来ていなかったというのもあります。

たくさんの方に来堂いただいていて感謝です。

僕は僕で、相変わらず言葉を拠り所にしている気がします。言葉は自由で。

October 24, 2023

まるネコ堂ブログの執筆者に加わりました。

大谷美緒です。
まるネコ堂在住です。なんともう10年以上住んでいます。

ずっと大谷美緒のブログをやってましたが、こちらのブログを隆と共有して書いていくことにしました。

そもそも、「大谷美緒のブログ」も更新頻度は減っていて、自分一人のブログを持つ動機が減っていました。それに、そちらでまるネコ堂関連事業のお知らせをしたりしていることにちょっとややこしさは感じていたので、せっかくならまるネコ堂のお知らせはまるネコ堂のブログでして以前よりお知らせを見てもらえたらと思ってます。


子どもがいるとパソコンを開く億劫さは上がってしまったので、どうなっていくかと思ってますが、ぼちぼちとは更新出来たらいいなーと思ってます。

よろしくお願いします。

March 25, 2021

February 5, 2021

【779】勇気と蛮勇。

 何で読んだのか忘れてしまったが勇気と蛮勇を区別して論じている人がいて、そのときはあまりピンと来なかったが、その後も時々思い出してはどういうことだろうかと思って、思い出すたびに考えてきた。そうして今になってなんとなくこういうことなのではないかと思い当たる気がしてきている。

 それは、なにかに挑まなければならないようなとき、その先に待ち構えているだろうことに対して「目を開いている」かどうかの違いではないだろうか。

 勇気の場合は目を開いて見ている。これから起こるだろう困難な状況が予めわかっていて、それから目を背けずに進む。このとき必要とされるのが勇気だ。

 逆に、蛮勇は見ていない。「目をつぶって」やる状態だ。

 勇気は自覚的かつ持続的に困難に挑んでいくイメージだが、蛮勇は無自覚的かつ瞬間的な勢いの問題だということになる。

 勇気を持って事にあたり、その結果失敗した場合、それがどうして失敗したか、あるいはどのように失敗したか、ということを「目の当たり」にすることになる。これは厳しいことだが、もう一度同じような機会があった場合、状況がつかめている分、一回目よりはるかに失敗しにくい。

 一方で、蛮勇による行為で失敗しても、その状況は「見えていない」。おそらく「何が起こったのかわからないまま失敗していた」という感覚を持つだろう。この場合、もう一度同じことをやっても一回目と同様に失敗する可能性が高い。

 勇気を持って事に当たれば、結果がどうであれ、得られるものがある。蛮勇で事に当たれば、うまく行ったときにはその結果を享受できるが、失敗した場合は、得るものがない。

 勇気と蛮勇を区別していたのが誰だったか思い出せないが、たぶん、こういうことだと思う。

 ちなみに辞書(デジタル大辞泉)では、

勇気:いさましい意気。困難や危険を恐れない心。
蛮勇:事の理非や是非を考えずに発揮する勇気。向こう見ずの勇気。

 この「勇気」の定義では「蛮勇」を含んでいる。僕の印象も同じようなもので、そのあたりが最初にピンと来なかった理由だろうが、この「勇気」から「蛮勇」を除いたものを〈勇気〉として扱えば、〈蛮勇〉と区別して論じることができる。そして、そこから上記のような意義を見出せる、ということだと思う。

 だからなんだという感じではあるけれど、少なくとも、誰だか思い出せないその相手に対して、なんとなく借りを返せた気分はする。


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■近々開催のまるネコ堂の催し
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●リクエスト開催:文章筋トレ 
「やってみたい」というリクエストによって日程を決めていきます。
★2月8日、13日、26日開催決定
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_26.html

●スピノザ『エチカ』ゼミ(全24回)
2021年4月開始
https://marunekodosemi.blogspot.com/2021/02/35.html

●吉本隆明『言語にとって美とはなにか』ゼミ(全13回)
大谷美緒主催
https://marunekodosemi.blogspot.com/2020/07/34.html

●文章面談
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_20.html

●雑誌『言語』(5、6、7号、在庫僅か)
https://gengoweb.jimdofree.com/

November 22, 2020

【759】正でも反でも斜でもなく、横切りたい。

寄り添いたいわけではないし、寄り添われたいわけではない。

対決したいわけでもない。

斜に構えたいわけでもない。

ただ、横切りたいのだと思う。

そう思う理由は、横切ることがもっとも広く場所を生じさせるからだ。

正も反も斜も、短い時間において苛烈に効果を生じるけれど、そうそう長くは続かない。広くもならない。

きちんと横切ることだ。

影響や関係という言葉の持っている角度が違うのだ。

August 21, 2020

【737】不安は失くならない。

不安というのはカビのようなものだ。

有害なカビが繁殖したときに効果的な対処は、カビそのものの除去よりも、カビが繁殖しにくくなるような状況を作ることだ。風を通したり、日に当てたりする。そのためにそのあたりを少し掃除する。ものを動かしたりする。比較的小さな規模であればそれぐらいでいい。ずっと長く放置されていて、容易には手がつけられなくなっていたら、少しずつものを運び出して、大掃除をする。できれば、穏やかに少しずつやっていくのがいいが、場合によっては腕まくりをしたほうがいいかもしれない。

逆に取るべきでない対応は、カビの方から見て都合の良いことだ。何か他のもので蓋をして風通しや日当たりを悪くするようなことだ。あるいは、見て見ぬ振りをしてそのままにしておくことだ。カビはさらに大きくなっていく。他のもので蓋をすると、そこは立ち入ることができなくなる。見て見ぬ振りをするということは、そのあたりの視界を自ら塞ぐことになる。

それを続けているとどうなるか。思いっきり首を捻じ曲げてそっちを見ないようにして、あさっての方向を見ながら、あちこちにものが転がっているような場所を進む障害物競走を強いられていく。視野は狭く障害物がごろごろある。不安に駆られたときの行動や表出は、このいびつな視野と自己内立ち入り禁止区域の多さに由来するもので、およそどんなことでも起こりうる。頻出するパターンはあるにはあるが、それだけを補足していてもとらえきれない。外部で観測されるのは、どんなことでも起こりうる特殊な状況のなかから無理やりひねり出されたものだ。そういったものへの都度的な対応は破綻する。破綻し座礁した対応そのものにも、またカビは生える。カビは強靭だ。

ところで、カビは必ずしも有害とは限らない。有益なものもある。同じように、不安も、必ずしも有害とは限らない。不安は、有益とすら言える別のものでもある。

有害なカビが繁殖しないようにすることと、発酵食品を上手く育てることは、同じ領域にある、というよりも同じことだと言ってもいい。発酵食品というのは、いろいろ手をかけて、比較的長い時間、いろいろな段階を経ながらできあがっていくもののことだ。温度や湿度など周囲の状況も影響する。うまくいくこともあれば、失敗することもある。前回上手くいったからそのとおりにやったつもりでも、今度は失敗することもある。

発酵食品を作るように、自分にとって素敵なことをゆっくりと少しずつ変化させてなしていくことと、有害なカビが大きくなりすぎないように、自分にとって不安なことを小さくとどめていくことは、実は同じことだ。不安と素敵なことは同じ場所にあると言ってもいい。それらの胞子は空気中に常に漂っている。

不安を外部から取り除こうとする思想はだから、カビと一緒に発酵食品も取り除いてしまう。自分のカビの対処を他人に任せるのはおすすめしない。ゆっくりと自分で風を通して日に当てる。


August 19, 2020

【736】興味を失うということ。

 子供が絵本が好きで、毎日何度も読み聞かせをせがまれる。たぶん、多くの子供が絵本が好きだし、おそらく僕も絵本が好きだった。毎日何冊もあるいは同じ本を何度も読んだ。それが何年か続く。

 しかし不思議なことに、大人になってみると多くの人は絵本がそれほど好きではなくなっている。毎日読んだりしない。少なくとも子供が持っている絵本に対する強烈な情熱を保持していない。そういう人がほとんどだ。僕もそうだ。いつの時点でか、絵本から離れた。

 なぜ絵本から離れたのか。興味がなくなった。他のことに関心が移った。ということなのだけど、その「興味がなくなった」「関心が移った」ということは、一体どういうことなのだろう。絵本が嫌いになったわけではない。今でも絵本に対してある種の憧憬を持っている。子供の頃の絵本を読んだり読んでもらったりした経験そのものの記憶が劣化したり反転したりしているわけではない。だからたぶん、今でも「絵本は好き」なまま、「興味がなくなった」り「関心が移った」りしている。

 どんなに絵本が好きでもすべての絵本を読むことはできない。だから「絵本に興味を失う」という現象は、好きである絵本のすべてを経験する前に起こる。一体どうやって好きなものへの興味を失うのだろう。その時何が起こっているのだろうか。

 何か「興醒め」するような出来事が外部的に発生したということがまず考えられる。そういうこともあるだろう。しかし、この場合は「興味を失った」という「興醒め」のシーンを明確に思い起こせるはずだ。あるいは、それを忘却したとしても、なにかそういうある衝撃を持った出来事があったという痕跡ぐらいは残る。しかし、すべてがそれで説明がつくような気がしない。むしろ、なんとなくいつのまにか「興味を失う」ことのほうが多いように思える。

 ここまで「興味を失う」というフレーズを維持して話を進めてきた。「何かが起こることで興味を失う」という前提でその何かを見ようとしてきた。が、おそらくそうではなくて、どちらかというと「興味を維持する」ことのほうに何かがある。「なにかが起こることで興味が失われない」のではないか。

 興味というのは、一度生じればそのまま放置していても維持されるものではない。炎のようなもので、燃料や酸素が供給されなければ消える。「熱中」していたものが「冷める」。「興醒め」はもともとそういう言葉だ。

 なにかの外部的な要因で燃料や酸素の供給が途絶えることもあるが、燃料や酸素を使い尽くしてしまうということもある。それ以上にもっとありえるのが、燃料や酸素が、燃え盛っている炎に対して十分な供給量を確保できなくなりそうだ、このままだと近いうちになくなってしまうという予感や予想がたったときに、薪をくべたり、酸素を送ったりすることをやめてしまう。つまりそこにある薪や酸素の量の見込みが立ってしまったとき、興味を失う。こう考えれば、興味を失うのは、実はとても当たり前なことだと思う。やればやるほど興味を失いやすい。早く燃料が尽きる。

 むしろ特殊なのは、興味という炎がなぜ消えるかではなく、いつまでたっても炎が消えないことがあるということのほうだ。そんなことがなぜ起こるのか。どうやって起こっているのか。

 一つの筋道を考えることができる。薪の比喩で言えば、盛大にボイラーに木片をくべながら、同時に植林するようなことが起こっていることになる。これは消費から生産への立場の転換で、つまり、大人になっても絵本が好きで毎日絵本を読んでいる人のいくらかが当てはまるのだろうけれど、絵本作家や絵本を作る側に回ることだ。

これで解決されるかのように思える。

 が、しかし当然のことながら、絵本作りというものへの興味自体もまた何かしらによって維持されなければならないことになる。そうやって立場を変えていくこと、例えば職掌を大きくしていくことや、仕事の規模を大きくすることで、それは実現できるかもしれないけれど、根本的には同じことを反復している。あとは人間の寿命との兼ね合いの問題で、死ぬまで絶やさず燃やし続けられるかということになる。

 でも、と思う。そういうことなのだろうか。どこか釈然としないのは、たぶん比喩の限界に近づいているからで、炎や燃料の比喩ではこういう結末になってしまうということだと思う。

 だから、炎の比喩を棄却して、もう一度もとに戻る。

 一気に書けると思えないが、なるべく書くと、興味というのが起こるのは、それそのものに対するとらえ方が全体的に変化してしまうということなのではないか。そういうものだと思っていたことが、実はそうではないかもしれないというときに興味は起こる。この、それまで思っていたことが、どうやらそもそもそうではなかったという前提の喪失、遡及的な組み換えのようなことが、それ全体を再活性させる。

 絵本が好きでたくさん読む。ときどき、あれ?絵本って実はこういうものだったのか、いままで絵本だと思って読んでいたあの経験はいったいなんだったのか、ということが起こる。もちろん、こんなことがいつも起こるわけではない。しかし、時々起こる。時々で十分だ。

 だから差異の問題ではない。絵本Aと絵本Bの差異が興味を掻き立てるということではない。これだといずれ、いずれというのは、比較的短期間に、思った以上に早く、「燃え尽きる」。そうではなく、絵本Bを読んだら、それまで読んできた絵本Aが何か別の絵本やあるいは絵本じゃないものになってしまう。そういうようなことではないか。それそのものを暗黙に規定していた前提が変わってしまうようなことだ。この場合は、絵本Aと絵本Bの差異だけが焦点化されるわけではなく、絵本Bがその全体をもって、絵本というものの前提を変えてしまったかのような経験をするかどうかが問題となる。こういう経験が時々起これば、興味は失わない。

 そんなに大それたことなのかと思うが、それぐらい大それたことなのだと思う。それぐらい僕らは物事への興味を失う。興味を失わないでいることが難しい。失った興味を別の何かに新しく乗り移ることで補おうとする。そしてやがてまた失う。また乗り移る。また失う。そういう流れのなかにある。これを否定することはできない。その必要もない。たいがいはそうなのだし、それでいい。

 口癖のように「おもしろい」という言葉をよく僕は使う。人より多く使う分、その言葉に対して、何かしらのことを言わなくてはと思う勝手な自負がある。誰からも頼まれていない。幸いなことに僕はまだ書くことや読むことへの興味を失っていない。おもしろい。それらは時々、それら自身の前提を変えてみせる。今もそうだ。いつまでもそうなのかはわからない。そうでなくならないようにするには、今もそうするぐらいしか思い当たらない。読むことや書くことがおもしろいということが起こっている。幸いだ。

August 6, 2020

【730】想像以上に予想通り。

5月29日にこのエントリーを書いて以来、香港を取り巻く状況は「想像以上に予想通り」に進んだ。当時は、多少の紆余曲折も想定されると、日本語で思っていた。事実は最短距離を通っている。少しこのことを考える。5月29日は僕がこの記事を読んだ日だ。あれから二ヶ月と少し経った。

メモ
香港警察、海外の民主活動家6人を指名手配 国安法違反の疑い(bbc)

July 26, 2020

【725】グーグル翻訳で遊んでみる。

私はりんごが好きです。
I like apples

私はりんごも好きです。
I also like apples.

私もりんごが好きです。
I also like apples.

私もりんごは好きです。
I also like apples.

私もりんごも好きです。
I also like apples.

私はりんごもみかんも好きです。
I like apples and mandarin oranges.

私もりんごもみかんも好きです。
I also like apples and oranges.

私はりんごやみかんが好きです。
I like apples and mandarins.

私もリンゴやみかんが好きです。
I also like apples and oranges.

私はりんごが好きでもあります。
I also like apples.

私もりんごが好きでもあります。
I also like apples.

私はりんごも好きではありません。
I don't like apples either.

私はりんごは好きでもありません。
I don't like apples either.

(2020年7月26日現在)

June 9, 2020

【712】ほしくないものを受け取らないでいるのはとても力がいる。

ただでくれるのだからもらっておけばいい、とは思わないで済むようにはなった。気持ちだけ受け取るということが気持ちよくできればいい。これは精進すればいい。こういうたぐいの貰い物はたぶん大丈夫だ。なんとかなる。なんとかしていくことの方向にある。

問題は、ほしくないものがもたらす遅延した恩恵のことだ。変質する恩恵だ。あとになって、それ自体とは違う形に変化した結果、それはありがたかったのだと思うものの多くは、ほしくないものだ。

同様に、ほしくないものを受け取らないことがもたらす遅延した恩恵、あるいは変質する恩恵もある。

いずれにせよ、積もっている。



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■近々開催のまるネコ堂の催し
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●12月15日から21日:言葉の表出、冬合宿2020

●定期:文章筋トレ
隔週の水曜午前、月一土曜午後
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_26.html

●9月まで月一回:『中動態の世界』ゼミ(全9回)
https://marunekodosemi.blogspot.com/2019/12/32.html

●マンツーマンの文章面談
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_20.html

●定期:デッサン会
大谷美緒の企画です。
https://mio-aqui.blogspot.com/2020/04/blog-post_89.html

June 3, 2020

【711】海の向こうの遠い国。

少なくない人が海の向こうの遠い国のことを考え続けた。
常世国だ。ニライカナイだ。海の向こうの遠い国だ。
海の向こうの遠い国のことを考えても仕方がない。
そこで何が起こっていても自分と関係がない。

知りようのない場所だ。知らないのだ。関係がないのだ。
知らないということは関係がないということと関係がある。
知れば関係してしまう。
知らなくても関係できる。
関係すれば知ってしまう。
知らなかった場所に帰ることができる。


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