代返、ダブル聴講、レポート丸写し、試験カンニングで学部の3年間を過ごしたあと、4年になった年に不況が訪れて、僕には就職先がないとわかった。逃げるように大学院へ進学を希望した。成績表を見ながら「お前のようなやつが院へ行こうと言うのか」とあからさまに言う教授の顔をテレビドラマでも見るようにぼーっと眺めていたのを思い出す。
6月から勉強を始めた。アパートで一人、まっさらな教科書を開く。数学、物理、材料力学、機械力学、材料学、熱力学、流体力学・・・。頭から一行ずつ読み、演習問題を一問ずつ解いていった。一つの科目が終われば次の科目に移る。全科目を3周ほど終えたところで試験を受けた。9月だった。
主席という周囲が唖然とする好成績を取って、僕は壊れた。世界と時間が灰色になり、アパートで動けなくなった。テレビのリモコンを持ちあげ、テレビをつけ、チャンネルを次々に切り替えて、一周したら消して、リモコンを置く。数秒後にはまたリモコンを取り上げ同じことをする。これを一日繰り返したりしていた。
冬が来る前の頃だったか、ある日僕は立ち上がることすらできなくなった。腕に力が入らない。足にも力が入らない。寝返りも打てない。筋肉というものがなくなったか、あったとしてもその使い方がわからない。このままでは不随意筋すらも動かなくなるのではないか、と気がついてしまうと息が苦しくなり、鼓動がゆっくりになっていった。
たぶん死ぬ。と思った。こんなバカげた死に方があるのだろうかと思ったけれど、あるのかもしれない、膨大な数の命のうちで、少なくともたったひとつぐらいの命がこうやって消えていくということはあり得るだろうし、それが今の僕であることにある程度の必然性を感じた。僕がそう思ったのだからそれは起こり得る。やがてそう確信するようになった。僕は死ぬ。
もう一回心臓が脈打つかどうか、それすらも不確定になったとき、僕はようやく誰かに助けてほしいと思った。
「だれかたすけて」とかろうじて自分が聞き取れる声を出したとき、僕から死は急速に遠のいていった。
死はあらゆる可能性を持って待機している。
無条件に救いを求めることで人は救われる。
能力と評価は生きていくことの外にある。
その後、そういうこととして僕を形作るようになる最初の体験だった。
今日の秋の透明な空と風がそれを思い出させてくれる。20年以上経ったのに、まだあの時を感じことができる。ちょうどこんな乾いて透き通った肌触りだった。